高句麗百濟の衣服の制度は、それを得ることも考査することもできず、現在はただ中国のにおける歴代史書から記録が見られるだけである。 北史が伝える。「高句麗人は皆頭に折風を着、形は弁のようで、加えて士人は二つの鳥羽を挿し、貴いものはその冠を蘇骨といい、多くの紫羅を用いてこれを作り、金銀で装飾し、服は大袖衫大口袴素皮帶黃革履、婦人は裙襦に襈を加える。」 新唐書は伝える。「高句麗王の服は五采、白羅によって冠を製作し、革帶はどれも金釦、大臣は靑い羅冠、次は絳羅、耳飾りは兩鳥羽、金銀の雜釦、衫筩褎、袴は大口、白の韋帯、黄の革履、庶人の衣服は褐色、弁を戴せ、女子は首に巾幗を身につける。」 冊府元龜が伝える。「高句麗、その公会では皆が錦繡を身につけ、金銀で自ら飾り、大加主簿は皆が幘を身につけ、冠幘のようであるが後ろはなく、その小加は折風を身につけ、形は弁のようである。 北史が伝える。「百濟の衣服は高麗とほぼ同じであるが、朝拜の祭祀については、その冠は両側の廂(つば)に翅を加え、戦時になればそれをつけず、奈率以下、冠に銀花を飾り、將德は紫帯、施德は皂帯、固德は赤帯、季德は靑帯、對德文督はどれも黃帯、武督より剋虞に至るまでどれも白帯。 隋書が伝える。「百濟は佐平から將德まで、服は紫帯、施德は皂帯、固德は赤帯、季德は靑帯、對德以下は皆が黃帯、文督から剋虞まで皆が白帯、冠の制度は並んで同じ、ただ奈率以上だけは、銀花で装飾する。」 唐書は伝える。百濟、その王服は大袖、紫の袍、靑の錦袴、烏羅の冠、金花で装飾し、素の皮帯、烏革の履(くつ)、官人は緋糸を尽くして衣服をつくり、銀花で冠を飾り、庶人は緋紫の衣服を着用してはならない。 |
≪白文≫ 高句麗百濟衣服之制、不可得而考、今但記見於中國歷代史書者。 北史云、高句麗人皆頭着折風、形如弁、士人加揷二鳥羽、貴者其冠曰蘇骨、多用紫羅爲之、飾以金銀、服大袖衫大口袴素皮帶黃革履、婦人裙襦加襈。 新唐書云、高句麗王服五采、以白羅製冠、革帶皆金釦、大臣靑羅冠、次絳羅、珥兩鳥羽、金銀雜釦、衫筩褎、袴大口、白韋帶、黃革履、庶人衣褐、戴弁、女子首巾幗。 冊府元龜云、高句麗、其公會皆錦繡、金銀以自飾、大加主簿皆着幘、如冠幘而無後、其小加着折風、形如弁。 北史云、百濟衣服與高麗略同、若朝拜祭祀、其冠兩廂加翅、戎事則不、奈率已下、冠飾銀花、將德紫帶、施德皂帶、固德赤帶、季德靑帶、對德文督皆黃帶、自武督至剋虞皆白帶。 隋書云、百濟自佐平至將德、服紫帶、施德皂帶、固德赤帶、季德靑帶、對德以下皆黃帶、自文督至剋虞皆白帶、冠制並同、唯奈率以上、飾以銀花。 唐書云、百濟其王服大袖紫袍靑錦袴烏羅冠、金花爲飾、素皮帶、烏革履、官人盡緋爲衣、銀花飾冠、庶人不得衣緋紫。 通典云、百濟其衣服、男子略同於高麗、婦人衣似袍而袖微大。
高句麗百濟の衣服の制、得て考うる可からず、今は但だ中國歷代史書に見ゆる者を記すのみ。 北史に云く、高句麗人は皆頭に折風を着き、形は弁の如し、士人は加えて二(ふたつ)の鳥羽を揷し、貴者は其の冠を蘇骨と曰ひ、多く紫羅を用いて之れを爲(つく)り、飾るに金銀を以てし、服は大袖衫大口袴素皮帶黃革履、婦人の裙襦は襈を加ゆ。 新唐書に云く、高句麗の王は五采を服(き)、白羅を以て冠を製(つく)り、革帶は皆金釦、大臣は靑羅冠、次は絳羅、珥(みみかざり)は兩鳥羽、金銀雜釦、衫筩褎、袴は大口、白の韋帶、黃の革履、庶人は褐を衣(き)、弁を戴(の)せ、女子は首に巾幗。 冊府元龜に云く、高句麗、其の公會は皆錦繡、金銀以て自ら飾り、大加主簿皆幘を着、冠幘の如くして後無し、其の小加は折風を着、形は弁の如し。 北史に云く、百濟の衣服は高麗與(と)略(おほむね)同じ、朝拜の祭祀の若(ごと)きは、其の冠は兩廂(つば)に翅を加え、戎事(いくさ)ならば則ち不(あらず)、奈率已下、冠は銀花を飾り、將德は紫帶、施德は皂帶、固德は赤帶、季德は靑帶、對德文督は皆黃帶、武督より剋虞に至るまで皆白帶。 隋書に云く、百濟、佐平より將德に至るまで、服は紫帶、施德は皂帶、固德は赤帶、季德は靑帶、對德以下は皆黃帶、文督より剋虞に至るまで皆白帶、冠の制は並びに同じ、唯だ奈率以上のみ、飾るに銀花を以てす。 唐書に云く、百濟其の王服は大袖紫袍靑錦袴烏羅冠、金花は飾と爲り、素の皮帶、烏革の履、官人は緋を盡くして衣を爲(つく)り、銀花は冠を飾り、庶人は緋紫を衣(き)るを得ず。 通典に云く、百濟、其の衣服、男子は略(おおむね)高麗に同じ、婦人の衣は袍に似たりて袖は微かに大なり。 |