地理(高句麗)

 思うに、通典には、「朱蒙は漢の建昭二年をもって北扶餘から東南に行き、普述水を渡り、紇升骨城まで辿り着いてそこに居し、句麗と號するとともに、高を氏とした。」と伝わり、古記には、「朱蒙はから難を逃れて扶餘から卒本まで辿り着いた。」と伝わることから、紇升骨城と卒本は一つの場所を指してるのではないかと類推できる。漢書の志には、「遼東郡は洛陽から三千六百里の距離にあり、属縣もいくつかあることから、周禮に記録された北鎭の醫巫閭山である。大遼はその下(ふもと)に醫州を置き、玄菟郡は洛陽から東北四千里の距離にあり、三つの縣を属し、高句麗はその一つであろうことから、所謂(いわゆる)朱蒙が都したとされる紇升骨城卒本とは、漢玄菟郡の境界、大遼國東京の西、漢志のいう玄菟の属縣の高句麗に違いない。昔大遼がまだ滅亡する前、遼帝は燕京にいて、そのため我々のうち朝聘した者も、東京を通過して遼水を涉り、一日か二日ほど行って醫州まで辿り着き、これによって燕薊に向かっていたことから、それが正しいことを知っている。朱蒙が紇升骨城に都を立てて以来、四十年を経て、孺留王二十二年に都を國內城(あるいは尉那巖城と伝わり、あるいは不而城とも伝わる)に移した。

 漢書を考査してみると、「樂浪郡の屬縣に不而がある。」とある。また、總章二年の英國公の李勣の奉勑には、「高句麗の諸城は都督府と州縣を置いている。」としている。目錄には、「鴨綠の北以降の城は十一ヵ所。その一つが國內城であり、平壤からここまで十七駅。」と伝わり、つまりこの城も北朝の境内にあるということだ。ただし、それがどこであるかはわからない。國內を都とし、四百二十五年を経た長壽王十五年には、都を平壤に遷し、一百五十六年を経た平原王二十八年には、長安城に都を移し、八十三年を経た寶臧王二十七年にして滅亡した(古人の記錄によれば、始祖朱蒙王から寶臧王[に至るまで]に経た年月を丁寧に精査すればこのようになる。しかし、あるいは「故國原王十三年に平壤東の黃城に居を移し、城は現在の西京東木覓山中にあるとも伝わり、これが正しいか否かを知ることはできない)。平壤城は現在の西京のようである。それと浿水は大同江のことである。どのような根拠があってそれがわかるのか。唐書には、「平壤城は、漢の樂浪郡である。山の曲がりくねりに隨って城郭を築き、南は浿水に望んでいる」と伝わる。また志には「登州の東北の海を行き、南は海壖に沿って浿江口の椒島を通過すると、新羅の西北に行くことができる」と伝わる。また隋煬帝の東征の詔には、「滄海道軍の舟艫は千里に亘り、高く掲げられた帆は電撃の如く突き進み、巨艦は雲のように飛び進み、浿江を横切り、遥か平壤に至る」と伝わる。これを根拠として論じれば、今や大同江が浿水であることは明らかだ。それに西京が平壤であることも、知ることができる。唐書には、「平壤城も長安を謂う」と伝わっている。しかし、古記には「平壤から長安に移った。」とあることから、二城が同じものか異なるものか、遠いのか近いのか、もはや知ることはできない。高句麗は中国の北地に在居することから始まり、少しずつ東に広がり、浿水の側まで遷った。渤海人の武藝は「昔の高麗が盛況であった時期、士三十萬が唐に抗って敵となった。」といった。つまり、地勢にすぐれ、兵は精強であったと考えられる。終末に至り、君臣は混迷と暴虐にして道を失い、大唐が再び軍師を出し、新羅も授助して討伐し、これを平定した。その国土には多くの渤海靺鞨が入り込むとともに、新羅もその南部地域を獲得し、それによって漢州、朔州、溟州の三州とその郡縣を置くことで、九州が備わった。

 漢山州、國原城(一説には未乙省と伝わる、一説には託長城と伝わる)、南川縣(一説には南買と伝わる)、駒城(一説には滅烏と伝わる)、仍斤內郡、述川郡(一説には省知買と伝わる)、骨乃斤縣、楊根縣(一説には去、斯斬と伝わる)、今勿內郡(一説には萬弩と伝わる)、道西縣(一説には都盆と伝わる)、仍忽、皆次山郡、奴音竹縣、奈兮忽、沙伏忽、蛇山縣、買忽(一説には水城と伝わる)、唐城郡、上忽(一説には車忽と伝わる)、釜山縣(一説には松村活達と伝わる)、栗木郡(一説には冬斯肹と伝わる)、仍伐奴縣、齊次巴衣縣、買召忽縣(一説には彌鄒忽と伝わる)、獐項口縣(一説には古斯也忽次と伝わる)、主夫吐郡、首尒忽、黔浦縣、童子忽縣(一説には仇斯波衣と伝わる)、平淮押縣(一説には別史波衣と伝わり、淮は一説には唯と表記する)、北漢山郡(一説には坪壤と伝わる)、骨衣內縣、王逢縣(一説には皆伯と伝わる。漢氏の美女が安臧王を迎えた地であり、ゆえに王逢と名付けられた)、買省郡(一説には馬忽と伝わる)、七重縣(一説には難隱別と伝わる)、波害乎史縣(一説には頟と伝わる)、泉井口縣(一説には於乙買串と伝わる)、述尒忽縣(一説には首泥忽と伝わる)、達乙省縣(漢氏の美女が高山の頭頂で烽火を立て、安臧王を迎えた場所なので、後に高烽と名付けられた)、臂城郡(一説には馬忽と伝わる)、內乙買(一説には內尒米と伝わる)、鐵圓郡(一説には毛乙冬非と伝わる)、梁骨縣、僧梁縣(一説には非勿と伝わる)、功木達(一説には熊閃山と伝わる)、夫如郡、於斯內縣(一説には斧壤と伝わる)、烏斯含達、阿珍押縣(一説には窮嶽と伝わる)、所邑豆縣、伊珍買縣、牛岑郡(一説には牛嶺と伝わり、一説には首知衣と伝わる)、獐項縣(一説には古斯也忽次と伝わる)、長淺城縣(一説には耶耶と伝わり、一説には夜牙と伝わる)、麻田淺縣(一説には泥沙波忽と伝わる)、扶蘇岬、若只頭耻縣(一説には朔頭と伝わり、一説には衣頭と伝わる)、屈於岬(一説には紅西と伝わる)、冬比忽、德勿縣、津臨城縣(一説には烏阿忽と伝わる)、穴口郡(一説には甲比古次と伝わる)、冬音奈縣(一説には休陰と伝わる)、高木根縣(一説には達乙斬と伝わる)、首知縣(一説には新知と伝わる)、大谷郡(一説には多知忽と伝わる)、水谷城縣(一説には買旦忽と伝わる)、十谷縣(一説には德頓忽と伝わる)、冬音忽(一説には豉鹽城と伝わる)、刀臘縣(一説には雉嶽城と伝わる)、五谷郡(一説には弓次云忽と伝わる)、內米忽(一説には池城と伝わり、一説には長池と伝わる)、漢城郡(一説には漢忽と伝わり、一説には息城と伝わり、一説には乃忽と伝わる)、鵂鶹城(一説には租波衣と伝わり、一説には鵂巖郡と伝わる)、獐塞縣(一説には古所於と伝わる)、冬忽(一説には于冬於忽と伝わる)、今達(一説には薪達と伝わり、一説には息達と伝わる)、仇乙峴(一説には屈遷と伝わる)、今豐州、闕口、今儒州、栗口(一説には栗川と伝わる)、今殷栗縣、長淵、今因之、麻耕伊、今靑松縣、楊岳、今安嶽郡、板麻串、今嘉禾縣、熊閑伊、今水寧縣、甕遷、今甕津縣、付珍伊、今永康縣、鵠島、今白嶺鎭、升山、今信州、加火押、夫斯波衣縣(一説には仇史峴と伝わる)、牛首州(首は一説には頭と表記し、一説には首次若と伝わり、一説には烏根乃と伝わる)、伐力川縣、橫川縣(一説には於斯買と伝わる)、砥峴縣、平原郡(北原)、奈吐郡(一説には大提と伝わる)、沙熱伊縣、赤山縣、斤平郡(一説には並平と伝わる)、深川縣(一説には伏斯買と伝わる)、楊口郡(一説には要隱忽次と伝わる)、猪足縣(一説には烏斯逈と伝わる)、玉妓縣(一説には皆次丁と伝わる)、三峴縣(一説には密波兮と伝わる)、狌川郡(一説には也尸買と伝わる)、大楊管郡(一説には馬斤押と伝わる)、買谷縣、古斯馬縣、及伐山郡、伊伐支縣(一説には自伐支と伝わる)、藪狌川縣(一説には藪川と伝わる)、文峴縣(一説には斤尸波兮と伝わる)、母城郡(一説には也次忽と伝わる)、冬斯忽、水入縣(一説には買伊縣)、客連郡(客は一説には各と表記し、一説には加兮牙と伝わる)、赤木縣(一説には沙非斤乙と伝わる)、管述縣、猪闌峴縣(一説には烏生波衣と伝わり、一説には猪守と伝わる)、淺城郡(一説には比烈忽と伝わる)、𢈴谷縣(一説には首乙呑と伝わる)、菁達縣(一説には昔達と伝わる)、薩寒縣、加支達縣、於支呑(一説には翼谷と伝わる)、買尸達、泉井郡(一説には於乙買と伝わる)、夫斯達縣、東墟縣(一説には加知斤と伝わる)、奈生郡、乙阿且縣、于烏縣(一説には郁烏と伝わる)、酒淵縣、何瑟羅州(一説には河西良と伝わり、一説には河西と伝わる)、乃買縣、東吐縣、支山縣、穴山縣、䢘城郡(一説には加阿忽と伝わる)、僧山縣(一説には所勿達と伝わる)、翼峴縣(一説には伊文縣と伝わる)、達忽、猪䢘穴縣(一説には烏斯押と伝わる)、平珍峴縣(一説には平珍波衣と伝わる)、道臨縣(一説には助、乙浦と伝わる)、休壤郡(一説には金惱と伝わる)、習比谷(一説には呑と表記すると伝わる)、吐上縣、岐淵縣、鵠浦縣(一説には古衣浦と伝わる)、竹峴縣(一説には奈、生於と伝わる)、滿若縣(一説には沔兮と伝わる)、波利縣、于珍也郡、波且縣(一説には波豐と伝わる)、也尸忽郡、助攬郡(一説には才攬と伝わる)、靑已縣、屈火縣、伊火兮縣、于尸郡、阿兮縣、悉直郡(一説には史直と伝わる)、羽谷縣。

 右の高句麗の州郡縣は、共に一百六十四、これらは新羅によって名が改められ、現在の名称に及んだ。新羅の志を見よ。

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≪白文≫
 按通典云、朱蒙以漢建昭二年、自北扶餘東南行、渡普述水、至紇升骨城居焉、號曰句麗、以高爲氏、古記云、朱蒙自扶餘逃難至卒本、則紇升骨城卒本似一處也漢書 志云、遼東郡距洛陽三千六百里、屬縣有無慮、則周禮北鎭醫巫閭山也、大遼於其下置醫州、玄菟郡距洛陽東北四千里、所屬三縣、高句麗是其一焉、則所謂朱蒙所都紇升骨城卒本者、蓋漢玄菟郡之界、大遼國東京之西、漢志所謂玄菟屬縣高句麗是歟、昔大遼未亡時、遼帝在燕京、則吾人朝聘者、過東京涉遼水、一兩日行至醫州、以向燕薊、故知其然也、自朱蒙立都紇升骨城、歷四十年、孺留王二十二年、移都國內城(或云尉那巖城、或云不而城)。

 按漢書、樂浪郡屬縣有不而、又總章二年、英國公李勣奉勑、以高句麗諸城置都督府及州縣、目錄云、鴨綠北已降城十一、其一國內城、從平壤至此十七驛、則此城亦在北朝境內、但不知其何所耳、都國內、歷四百二十五年、長壽王十五年、移都平壤、歷一百五十六年、平原王二十八年、移都長安城、歷八十三年、寶臧王二十七年而滅(古人記錄、自始祖朱蒙王[至]寶臧王歷年、丁寧纖悉若此、而或云、故國原王十三年、移居平壤東黃城、城在今西京東木覓山中、不可知然否)、平壤城似今西京、而浿水則大同江是也、何以知之唐書云、平壤城、漢樂浪郡也、隨山屈繚爲郛、南涯浿水、又志云、登州東北海行、南傍海壖、過浿江口椒島、得新羅西北、又隋煬帝東征詔曰、滄海道軍、舟艫千里、高帆電逝、巨艦雲飛、橫絶浿江、遙造平壤、以此言之、今大同江爲浿水明矣、則西京之爲平壤、亦可知矣唐書云、平壤城亦謂長安、而古記云、自平壤移長安、則二城同異遠近、則不可知矣、高句麗始居中國北地、則漸東遷于浿水之側、渤海人武藝曰、昔高麗盛時、士三十萬、抗唐爲敵、則可謂地勝而兵强、至于季末、君臣昏虐失道、大唐再出師、新羅授助、討平之、其地多入渤海靺鞨、新羅亦得其南境、以置漢朔溟三州及其郡縣以備九州焉。

 漢山州、國原城(一云未乙省、一云託長城)、南川縣(一云南買)、駒城(一云滅烏)、仍斤內郡、述川郡(一云省知買)、骨乃斤縣、楊根縣(一云去、斯斬)、今勿內郡(一云萬弩)、道西縣(一云都盆)、仍忽、皆次山郡、奴音竹縣、奈兮忽、沙伏忽、蛇山縣、買忽(一云水城)、唐城郡、上忽(一云車忽)、釜山縣(一云松村活達)、栗木郡(一云冬斯肹)、仍伐奴縣、齊次巴衣縣、買召忽縣(一云彌鄒忽)、獐項口縣(一云古斯也忽次)、主夫吐郡、首尒忽、黔浦縣、童子忽縣(一云仇斯波衣)、平淮押縣(一云別史波衣、淮一作唯)、北漢山郡(一云坪壤)、骨衣內縣、王逢縣(一云皆伯、漢氏美女迎安臧王之地、故名王逢)、買省郡(一云馬忽)、七重縣(一云難隱別)、波害乎史縣(一云頟)、泉井口縣(一云於乙買串)、述尒忽縣(一云首泥忽)、達乙省縣(漢氏美女於高山頭點烽火迎安臧王之處、故後名高烽)、臂城郡(一云馬忽)、內乙買(一云內尒米)、鐵圓郡(一云毛乙冬非)、梁骨縣、僧梁縣(一云非勿)、功木達(一云熊閃山)、夫如郡、於斯內縣(一云斧壤)、烏斯含達、阿珍押縣(一云窮嶽)、所邑豆縣、伊珍買縣、牛岑郡(一云牛嶺、一云首知衣)、獐項縣(一云古斯也忽次)、長淺城縣(一云耶耶、一云夜牙)、麻田淺縣(一云泥沙波忽)、扶蘇岬、若只頭耻縣(一云朔頭、一云衣頭)、屈於岬(一云紅西)、冬比忽、德勿縣、津臨城縣(一云烏阿忽)、穴口郡(一云甲比古次)、冬音奈縣(一云休陰)、高木根縣(一云達乙斬)、首知縣(一云新知)、大谷郡(一云多知忽)、水谷城縣(一云買旦忽)、十谷縣(一云德頓忽)、冬音忽(一云豉鹽城)、刀臘縣(一云雉嶽城)、五谷郡(一云弓次云忽)、內米忽(一云池城、一云長池)、漢城郡(一云漢忽、一云息城、一云乃忽)、鵂鶹城(一云租波衣、一云鵂巖郡)、獐塞縣(一云古所於)、冬忽(一云于冬於忽)、今達(一云薪達、一云息達)、仇乙峴(一云屈遷)、今豐州、闕口、今儒州、栗口(一云栗川)、今殷栗縣、長淵、今因之、麻耕伊、今靑松縣、楊岳、今安嶽郡、板麻串、今嘉禾縣、熊閑伊、今水寧縣、甕遷、今甕津縣、付珍伊、今永康縣、鵠島、今白嶺鎭、升山、今信州、加火押、夫斯波衣縣(一云仇史峴)、牛首州(首一作頭、一云首次若、一云烏根乃)、伐力川縣、橫川縣(一云於斯買)、砥峴縣、平原郡(北原)、奈吐郡(一云大提)、沙熱伊縣、赤山縣、斤平郡(一云並平)、深川縣(一云伏斯買)、楊口郡(一云要隱忽次)、猪足縣(一云烏斯逈)、玉妓縣(一云皆次丁)、三峴縣(一云密波兮)、狌川郡(一云也尸買)、大楊管郡(一云馬斤押)、買谷縣、古斯馬縣、及伐山郡、伊伐支縣(一云自伐支)、藪狌川縣(一云藪川)、文峴縣(一云斤尸波兮)、母城郡(一云也次忽)、冬斯忽、水入縣(一云買伊縣)、客連郡(客一作各、一云加兮牙)、赤木縣(一云沙非斤乙)、管述縣、猪闌峴縣(一云烏生波衣、一云猪守)、淺城郡(一云比烈忽)、𢈴谷縣(一云首乙呑)、菁達縣(一云昔達)、薩寒縣、加支達縣、於支呑(一云翼谷)、買尸達、泉井郡(一云於乙買)、夫斯達縣、東墟縣(一云加知斤)、奈生郡、乙阿且縣、于烏縣(一云郁烏)、酒淵縣、何瑟羅州(一云河西良、一云河西)、乃買縣、東吐縣、支山縣、穴山縣、䢘城郡(一云加阿忽)、僧山縣(一云所勿達)、翼峴縣(一云伊文縣)、達忽、猪䢘穴縣(一云烏斯押)、平珍峴縣(一云平珍波衣)、道臨縣(一云助、乙浦)、休壤郡(一云金惱)、習比谷(一作呑)、吐上縣、岐淵縣、鵠浦縣(一云古衣浦)、竹峴縣(一云奈、生於)、滿若縣(一云沔兮)、波利縣、于珍也郡、波且縣(一云波豐)、也尸忽郡、助攬郡(一云才攬)、靑已縣、屈火縣、伊火兮縣、于尸郡、阿兮縣、悉直郡(一云史直)、羽谷縣。

 右高句麗州郡縣、共一百六十四、其新羅改名及今名、見新羅志。



≪書き下し文≫
 按ずれば、通典に云(いは)く、朱蒙は漢の建昭二年を以て、北扶餘より東南に行き、普述水を渡り、紇升骨城まで至りて焉れに居(すま)ひ、號して句麗と曰ひ、高を以て氏と爲す、と。古記に云く、朱蒙は扶餘より難を逃れて卒本まで至る、と。則ち紇升骨城と卒本は一つの處(ところ)の似(ごと)きたるなり。漢書の志に云く、遼東郡は洛陽を距(はな)るること三千六百里、屬縣に無慮有り、則ち周禮の北鎭の醫巫閭山なり。大遼は其の下に醫州を置き、玄菟郡は洛陽を距(はな)るること東北に四千里、屬する所の三縣、高句麗是れ其れ一ならむれば、則ち所謂(いはゆる)朱蒙の都(みやこ)する所の紇升骨城卒本なる者は、蓋し漢玄菟郡の界(さかひ)、大遼國東京の西、漢志の謂ふ所の玄菟の屬縣の高句麗是れならむか。昔大遼未だ亡びざる時、遼帝は燕京に在り、則ち吾人の朝聘する者、東京を過ぎて遼水を涉り、一兩日行き醫州に至らむこと、以て燕薊に向かひ、故に其の然りを知るなり。朱蒙の都を紇升骨城に立つるより、四十年を歷(へ)、孺留王二十二年、移して國內城(或いは尉那巖城と云ひ、或いは不而城と云ふ)に都(みやこ)せり。

 漢書を按ずるに、樂浪郡の屬縣に不而有り。又た總章二年、英國公の李勣の奉勑、以て高句麗の諸城は都督府及び州縣を置くとす。目錄に云く、鴨綠の北已降城十一、其の一つに國內城、平壤從(よ)り此れに至るまで十七驛、と。則ち此の城も亦た北朝の境內に在る。但し其れ何所かを知らざるのみ。國內に都し、四百二十五年を歷(へ)、長壽王十五年、移して平壤に都し、一百五十六年を歷(へ)、平原王二十八年、移して長安城に都し、八十三年を歷(へ)、寶臧王二十七年にして滅び(古人の記錄には、始祖朱蒙王より寶臧王[に至るまで]の歷年、丁寧纖悉すること此の若し、而れども或いは云く、故國原王十三年、移して平壤東の黃城に居し、城は今の西京東木覓山中に在り、と。然るか否かを知る可からず)、平壤城は今西京の似(ごと)し。而りて浿水は則ち大同江是れなり。何以て之れを知るか。唐書に云く、平壤城、漢の樂浪郡なり。山の屈繚に隨(したが)ひ郛を爲(つく)り、南に浿水を涯(はて)とす、と。又た志に云く、登州の東北の海行き、南は海壖に傍(ちか)づき、浿江口の椒島を過ぐれば、新羅の西北を得、と。又た隋煬帝の東征の詔に曰く、滄海道軍、舟艫は千里、高帆は電逝し、巨艦は雲飛し、橫に浿江を絶ち、遙か平壤に造(いたる)る、と。此れを以て之れを言へば、今や大同江の浿水爲(た)るは明らかならむ。則ち西京之れ平壤爲(た)るも、亦た知る可きかな。唐書に云く、平壤城も亦た長安を謂ふ、と。而して古記に云はく、平壤より長安に移る、と。則ち二城の同異遠近、則ち知る可からざるかな。高句麗は始め中國の北地に居し、則ち東に漸くして浿水の側に遷る。渤海人の武藝曰く、昔高麗の盛なる時、士三十萬は唐に抗ひ敵と爲る、と。則ち地は勝りて兵强しと謂ふ可し。季末に至り、君臣は昏虐して道を失ひ、大唐再び師(いくさ)を出し、新羅も授助し、討ちて之れを平ぐ。其の地は多く渤海靺鞨入り、新羅も亦た其の南境を得、以て漢朔溟の三州及び其の郡縣を置き、以て九州を備はらむ。

 漢山州、國原城(一に云く未乙省、一に云く託長城)、南川縣(一に云く南買)、駒城(一に云く滅烏)、仍斤內郡、述川郡(一に云く省知買)、骨乃斤縣、楊根縣(一に云く去、斯斬)、今勿內郡(一に云く萬弩)、道西縣(一に云く都盆)、仍忽、皆次山郡、奴音竹縣、奈兮忽、沙伏忽、蛇山縣、買忽(一に云く水城)、唐城郡、上忽(一に云く車忽)、釜山縣(一に云く松村活達)、栗木郡(一に云く冬斯肹)、仍伐奴縣、齊次巴衣縣、買召忽縣(一に云く彌鄒忽)、獐項口縣(一に云く古斯也忽次)、主夫吐郡、首尒忽、黔浦縣、童子忽縣(一に云く仇斯波衣)、平淮押縣(一に云く別史波衣、淮は一に唯と作(おこ)す)、北漢山郡(一に云く坪壤)、骨衣內縣、王逢縣(一に云く皆伯。漢氏の美女は安臧王の地に迎え、故に王逢と名づく)、買省郡(一に云く馬忽)、七重縣(一に云く難隱別)、波害乎史縣(一に云く頟)、泉井口縣(一に云く於乙買串)、述尒忽縣(一に云く首泥忽)、達乙省縣(漢氏の美女は高山の頭に於いて烽火を點(つ)け、安臧王を迎えしの處、故に後に高烽と名づく)、臂城郡(一に云く馬忽)、內乙買(一に云く內尒米)、鐵圓郡(一に云く毛乙冬非)、梁骨縣、僧梁縣(一に云く非勿)、功木達(一に云く熊閃山)、夫如郡、於斯內縣(一に云く斧壤)、烏斯含達、阿珍押縣(一に云く窮嶽)、所邑豆縣、伊珍買縣、牛岑郡(一に云く牛嶺、一に云く首知衣)、獐項縣(一に云く古斯也忽次)、長淺城縣(一に云く耶耶、一に云く夜牙)、麻田淺縣(一に云く泥沙波忽)、扶蘇岬、若只頭耻縣(一に云く朔頭、一に云く衣頭)、屈於岬(一に云く紅西)、冬比忽、德勿縣、津臨城縣(一に云く烏阿忽)、穴口郡(一に云く甲比古次)、冬音奈縣(一に云く休陰)、高木根縣(一に云く達乙斬)、首知縣(一に云く新知)、大谷郡(一に云く多知忽)、水谷城縣(一に云く買旦忽)、十谷縣(一に云く德頓忽)、冬音忽(一に云く豉鹽城)、刀臘縣(一に云く雉嶽城)、五谷郡(一に云く弓次云忽)、內米忽(一に云く池城、一に云く長池)、漢城郡(一に云く漢忽、一に云く息城、一に云く乃忽)、鵂鶹城(一に云く租波衣、一に云く鵂巖郡)、獐塞縣(一に云く古所於)、冬忽(一に云く于冬於忽)、今達(一に云く薪達、一に云く息達)、仇乙峴(一に云く屈遷)、今豐州、闕口、今儒州、栗口(一に云く栗川)、今殷栗縣、長淵、今因之、麻耕伊、今靑松縣、楊岳、今安嶽郡、板麻串、今嘉禾縣、熊閑伊、今水寧縣、甕遷、今甕津縣、付珍伊、今永康縣、鵠島、今白嶺鎭、升山、今信州、加火押、夫斯波衣縣(一に云く仇史峴)、牛首州(首は一に頭と作(おこ)し、一に云く首次若、一に云く烏根乃)、伐力川縣、橫川縣(一に云く於斯買)、砥峴縣、平原郡(北原)、奈吐郡(一に云く大提)、沙熱伊縣、赤山縣、斤平郡(一に云く並平)、深川縣(一に云く伏斯買)、楊口郡(一に云く要隱忽次)、猪足縣(一に云く烏斯逈)、玉妓縣(一に云く皆次丁)、三峴縣(一に云く密波兮)、狌川郡(一に云く也尸買)、大楊管郡(一に云く馬斤押)、買谷縣、古斯馬縣、及伐山郡、伊伐支縣(一に云く自伐支)、藪狌川縣(一に云く藪川)、文峴縣(一に云く斤尸波兮)、母城郡(一に云く也次忽)、冬斯忽、水入縣(一に云く買伊縣)、客連郡(客一に各と作(おこ)し、一に云く加兮牙)、赤木縣(一に云く沙非斤乙)、管述縣、猪闌峴縣(一に云く烏生波衣、一に云く猪守)、淺城郡(一に云く比烈忽)、𢈴谷縣(一に云く首乙呑)、菁達縣(一に云く昔達)、薩寒縣、加支達縣、於支呑(一に云く翼谷)、買尸達、泉井郡(一に云く於乙買)、夫斯達縣、東墟縣(一に云く加知斤)、奈生郡、乙阿且縣、于烏縣(一に云く郁烏)、酒淵縣、何瑟羅州(一に云く河西良、一に云く河西)、乃買縣、東吐縣、支山縣、穴山縣、䢘城郡(一に云く加阿忽)、僧山縣(一に云く所勿達)、翼峴縣(一に云く伊文縣)、達忽、猪䢘穴縣(一に云く烏斯押)、平珍峴縣(一に云く平珍波衣)、道臨縣(一に云く助、乙浦)、休壤郡(一に云く金惱)、習比谷(一に呑と作(おこ)す)、吐上縣、岐淵縣、鵠浦縣(一に云く古衣浦)、竹峴縣(一に云く奈、生於)、滿若縣(一に云く沔兮)、波利縣、于珍也郡、波且縣(一に云く波豐)、也尸忽郡、助攬郡(一に云く才攬)、靑已縣、屈火縣、伊火兮縣、于尸郡、阿兮縣、悉直郡(一に云く史直)、羽谷縣。

 右の高句麗の州郡縣、共に一百六十四、其れ新羅名を改め今の名に及ぶ。新羅の志を見よ。