浿江鎭典

 頭上大監一人、宣德王三年、置き始め大谷城頭上、位は級湌から四重阿湌までがこれに就き、大監七人、位は大守と同じ。頭上弟監一人、位は舍知から大奈麻までがこれに就いた。弟監一人、位は幢から奈麻までがこれに就いた。步監一人、位は縣令と同じ。少監六人、位は先沮知から大舍までがこれに就いた。

 外位、文武王十四年、六徒の眞骨が(王京から)出て五京九州に居住するようになると、官名を別称することになり、その位は京位と見なす。嶽干は一吉湌と見なし、述干は沙湌と見なし、高干は級湌と見なし、貴干は大奈麻と見なし、選干(一説には撰干と表記する)は奈麻と見なし、上干は大舍と見なし、干は舍知と見なし、一伐は吉次と見なし、一方では小烏と見なすと言われ、阿尺は先沮知と見なす。

 高句麗人の位、神文王元年に高句麗人へ京官を授け、もともとの国の官品を量ってそれを授けた。一吉湌はもともと主簿、沙湌はもともと大相、級湌はもともとの位頭大兄從大相、奈麻はもともと小相狄相、大舍はもともと小兄、舍知はもともと諸兄、吉次はもともと先人、烏知はもともと早位である。

 百濟人の位、文武王十三年に百濟の来人に內外の官を授け、その位はもともとの国にあった官銜を参照して受け継いだ。京官、大奈麻はもともと達率、奈麻はもともと恩率、大舍はもともと德率、舍知はもともと扞率、幢はもともと奈率、大烏はもともと將德。外官、貴干はもともと達率、選干はもともと恩率、上干はもともと德率、干はもともと扞率、一伐はもともと奈率、一尺はもともと將德である。

 これらの官銜は雜伝記において見られるものである。しかしながら、その官を設けた始まりと位の高下についてはよくわからないため、これより後に書くことにする。

 葛文王檢校尙書左僕射上柱國知元鳳省事興文監卿太子侍書學士元鳳省待詔記室郎瑞書郎孔子廟堂大舍錄事參軍右衛大將軍功德司節度使安撫諸軍事州都令佐丞上舍人下舍人中事省南邊第一。

 高句麗と百濟の職官、年代は久しく遠し。文墨は晦昧、そのため詳細を述べることはできないので、今回はその古記と中国の史書に著されたものによって、これを志とすることにする。

 隋書には、「高句麗の官に太大兄、次は大兄、次は小兄、次は對盧、次は意侯奢、次は烏拙、次は太大使者、次は大使者、次は小使者、次は褥奢、次は翳屬、次は仙人、凡そ十二等を有し、重複して內評、外評、五部褥薩を有する。」とある。

 新唐書には、「高句麗の官は凡そ十二級、大對盧、あるいは吐捽、鬱折、主圖簿者、太大使者、皂衣頭大兄。皂衣というのは、仙人のことである。国政を執れば、三年に一度交代となるが、職務を善くすればその限りではない。一般に交代の日では、不服があれば互いを攻撃し合い、王は宮廷を閉ざして守り、それを聴いて勝者は行なう。大使者、大兄、上位使者、諸兄、小使者、過節、先人、古鄒大加、また、莫離支、大莫離支、中裏小兄、中裏大兄とも云う。」とある。

 冊府元龜には、「高句麗は、後漢の時にその国に官を置き、相には追加があった。對盧、沛者、古鄒大加(古鄒大加は、高句麗の賓客の官を掌握し、大鴻臚のようなものである)、主簿、優(一説には台于と表記する)使者、皂衣、仙人、一說には、大官に大對盧があり、次いで太大兄、大兄、小兄、意俟奢、烏猝、太大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人、幷褥薩と続き、凡そ十三等、重複して內評、外評があり、内政と外交の政事を分掌する。」とある。

 右は中国の歷代史を見たものである。

 左輔、右輔、大主簿、國相、力使者、中畏大夫。

 右は本国の古記を見たものである。

 廣評省、匡治奈(今の侍中)、徐事(今の侍郞)、外書(今員外郞)、兵部、大龍部(謂倉部)、壽春部(今の禮部)、奉賓部(今の禮賓省)、義刑臺(今の刑部)、納貨部(今の大府寺)、調位府(今の三司)、內奉省(今の都省)、禁書省(今の秘書省)、南廂壇(今の將作監)、水壇(今の水部)、元鳳省(今の翰林院)、飛龍省(今の大僕寺)、物藏省(今の少府監)、史臺(諸譯語の習を掌握する)、植貨府(菓樹の栽植を掌握する)、障繕府(城隍の修理を掌握する)、珠淘省(器物の造成を掌握する)、正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹。

 右は弓裔の制定した官號である。

 北史には、「百濟の官には十六品あり、佐平五人一品、達率三十人二品、恩率三品、德率四品、扞率五品、奈率六品、將德七品、施德八品、固德九品、季德十品、對德十一品、文督十二品、武督十三品、佐軍十四品、振武十五品、剋虞十六品。自恩率以下の官に常員はなく、それぞれに部司を有し、衆務を分掌する。內官には前內部、穀內部、內▩部、外▩部、馬部、刀部、功德部、藥部、木部、法部、後宮部があり、外官には司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、外舍部、綢部、日官部、市部がある。長吏は三年に一度交代し、都下に方を有し、それぞれ五部を為し、上部、前部、中部、下部、後部といい、部には五巷を有し、士庶はそこに居住し、部の統率する兵は五百人、五方にそれぞれ方鎭を一人有し、達率がこれに就き、方佐はこれに従属し、方は十郡を有し、郡は将三人を有し、德率がこれに就き、統率する兵は一千一百人以下七百人以上。」とある。

 隋書には、「百濟の官には十六品あり、長は左平といい、次は大率、次は恩率、次は德率、次は扞率、次は奈率、次は將德、次は施德、次は固德、次は季德、次は對德、次は文督、次は武督、次は佐軍、次は振武、次は剋虞、五方各に方領には二人を有し、方佐はこれに従属し、方に十郡を有し、郡には将を有する。」とある。

 唐書には、「百濟が置く內官は、內臣佐平が宣納の事を掌握し、內頭佐平が庫藏の事を掌握し、內法佐平が禮儀の事を掌握し、衛士佐平が宿衛の兵事を掌握し、朝廷佐平が刑獄の事を掌握し、兵官佐平、外兵馬事を掌握する。」とある。

 右は中国の歷代史を見たものである。

 左輔、右輔、左將、上佐平、北門頭。

 右は本国の古記を見たものである。

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≪白文≫
 頭上大監一人、宣德王三年、始置大谷城頭上、位自級湌至四重阿湌爲之、大監七人、位與大守同、頭上弟監一人、位自舍知至大奈麻爲之、弟監一人、位自幢至奈麻爲之、步監一人、位與縣令同、少監六人、位自先沮知至大舍爲之。

 外位、文武王十四年、以六徒眞骨出居於五京九州、別稱官名、其位視京位、嶽干視一吉湌、述干視沙湌、高干視級湌、貴干視大奈麻、選干(一作撰干)視奈麻、上干視大舍、干視舍知、一伐視吉次、彼曰視小烏、阿尺視先沮知。

 高句麗人位、神文王元年以高句麗人授京官、量本國官品授之、一吉湌本主簿、沙湌本大相、級湌本位頭大兄從大相、奈麻本小相狄相、大舍本小兄、舍知本諸兄、吉次本先人、烏知本早位。

 百濟人位、文武王十三年以百濟來人授內外官、其位次視在本國官銜、京官、大奈麻本達率、奈麻本恩率、大舍本德率、舍知本扞率、幢本奈率、大烏本將德、外官、貴干本達率、選干本恩率、上干本德率、干本扞率、一伐本奈率、一尺本將德。

 其官銜見於雜傳記、而未詳其設官之始及位之高下者、書之於後。

 葛文王檢校尙書左僕射上柱國知元鳳省事興文監卿太子侍書學士元鳳省待詔記室郎瑞書郎孔子廟堂大舍錄事參軍右衛大將軍功德司節度使安撫諸軍事州都令佐丞上舍人下舍人中事省南邊第一。

 高句麗百濟職官、年代久遠、文墨晦昧、是故不得詳悉、今但以其著於古記及中國史書者、爲之志。

 隋書云、高句麗官有太大兄、次大兄、次小兄、次對盧、次意侯奢、次烏拙、次太大使者、次大使者、次小使者、次褥奢、次翳屬、次仙人、凡十二等、復有內評、外評、五部褥薩。

 新唐書云、高句麗官凡十二級、曰大對盧、或曰吐捽、曰鬱折、主圖簿者、曰太大使者、曰皂衣頭大兄、所謂皂衣者、仙人也、秉國政三歲一易、善職則否、凡代日、有不服則相攻、王爲閉宮守、勝者聽爲之、曰大使者、曰大兄、曰上位使者、曰諸兄、曰小使者、曰過節、曰先人、曰古鄒大加、又云、莫離支、大莫離支、中裏小兄、中裏大兄。

 冊府元龜云、高句麗、後漢時其國置官、有相加、對盧、沛者、古鄒大加(古鄒大加、高句麗掌賓客之官、如大鴻臚也)、主簿、優(一作台于)使者、皂衣、仙人、一說、大官有大對盧、次有太大兄、大兄、小兄、意俟奢、烏猝、太大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人、幷褥薩、凡十三等、復有內評、外評、分掌內外事焉。

 右見中國歷代史

 左輔、右輔、大主簿、國相、力使者、中畏大夫。

 右見本國古記

 廣評省、匡治奈(今侍中)、徐事(今侍郞)、外書(今員外郞)、兵部、大龍部(謂倉部)、壽春部(今禮部)、奉賓部(今禮賓省)、義刑臺(今刑部)、納貨部(今大府寺)、調位府(今三司)、內奉省(今都省)、禁書省(今秘書省)、南廂壇(今將作監)、水壇(今水部)、元鳳省(今翰林院)、飛龍省(今大僕寺)、物藏省(今少府監)、史臺(掌習諸譯語)、植貨府(掌栽植菓樹)、障繕府(掌修理城隍)、珠淘省(掌造成器物)、正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹。

 右弓裔所制官號

 北史云、百濟官有十六品、佐平五人一品、達率三十人二品、恩率三品、德率四品、扞率五品、奈率六品、將德七品、施德八品、固德九品、季德十品、對德十一品、文督十二品、武督十三品、佐軍十四品、振武十五品、剋虞十六品、自恩率以下、官無常員、各有部司、分掌衆務、內官有前內部、穀內部、內▩部、外▩部、馬部、刀部、功德部、藥部、木部、法部、後宮部、外官有司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、外舍部、綢部、日官部、市部、長吏三年一交代、都下有方、各爲五部、曰上部、前部、中部、下部、後部、部有五巷、士庶居焉、部統兵五百人、五方各有方鎭一人、以達率爲之、方佐貳之、方有十郡、郡有將三人、以德率爲之、統兵一千一百人以下七百人以上。

 隋書云、百濟官有十六品、長曰左平、次大率、次恩率、次德率、次扞率、次奈率、次將德、次施德、次固德、次季德、次對德、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、五方各有方領二人、方佐貳之、方有十郡、郡有將。

 唐書云、百濟所置內官曰、內臣佐平、掌宣納事、內頭佐平、掌庫藏事、內法佐平、掌禮儀事、衛士佐平、掌宿衛兵事、朝廷佐平、掌刑獄事、兵官佐平、掌外兵馬事。

 右見中國歷代史

 左輔、右輔、左將、上佐平、北門頭。

 右見本國古記。



≪書き下し文≫
 頭上大監一人、宣德王三年、始めて置き大谷城頭上、位は級湌より四重阿湌に至るまで之れを爲し、大監七人、位は大守と同じ。頭上弟監一人、位は舍知より大奈麻に至るまで之れを爲す。弟監一人、位は幢より奈麻に至るまで之れを爲す。步監一人、位は縣令と同じ。少監六人、位は先沮知より大舍に至るまで之れを爲す。

 外位、文武王十四年、六徒の眞骨の出でて五京九州に居するを以、官名を別稱し、其の位は京位を視、嶽干は一吉湌を視、述干は沙湌を視、高干は級湌を視、貴干は大奈麻を視、選干(一に撰干と作す)は奈麻を視、上干は大舍を視、干は舍知を視、一伐は吉次を視、彼は小烏を視ゆと曰ひ、阿尺は先沮知を視ゆ。

 高句麗人の位、神文王元年に高句麗人を以て京官を授け、本國の官品を量りて之れを授く。一吉湌は本(もともと)主簿、沙湌は本(もともと)大相、級湌は本(もともと)の位頭大兄從大相、奈麻は本(もともと)小相狄相、大舍は本(もともと)小兄、舍知は本(もともと)諸兄、吉次は本(もともと)先人、烏知は本(もともと)早位。

 百濟人の位、文武王十三年に百濟の來人を以て內外の官を授け、其の位は本國に在りし官銜を視て次げり。京官、大奈麻は本(もともと)達率、奈麻は本(もともと)恩率、大舍は本(もともと)德率、舍知は本(もともと)扞率、幢は本(もともと)奈率、大烏は本(もともと)將德。外官、貴干は本(もともと)達率、選干は本(もともと)恩率、上干は本(もともと)德率、干は本(もともと)扞率、一伐は本(もともと)奈率、一尺は本(もともと)將德。

 其の官銜は雜傳記に於いて見られ、而れども其の設官の始め及び位の高下の者は未詳たるに、之れより後に書す。

 葛文王檢校尙書左僕射上柱國知元鳳省事興文監卿太子侍書學士元鳳省待詔記室郎瑞書郎孔子廟堂大舍錄事參軍右衛大將軍功德司節度使安撫諸軍事州都令佐丞上舍人下舍人中事省南邊第一。

 高句麗と百濟の職官、年代は久しく遠し。文墨は晦昧、是れ故に詳悉を得ず、今は但だ其の古記及び中國史書より著さるる者を以て、之れを志と爲さむ。

 隋書に云く、高句麗の官に太大兄、次大兄、次小兄、次對盧、次意侯奢、次烏拙、次太大使者、次大使者、次小使者、次褥奢、次翳屬、次仙人、凡そ十二等有り、復た內評、外評、五部褥薩有り。

 新唐書に云く、高句麗の官は凡そ十二級、曰く大對盧、或は曰く吐捽、曰く鬱折、主圖簿者、曰く太大使者、曰く皂衣頭大兄、皂衣と謂ふ所の者、仙人なり、國政を秉らば三歲に一易なるも、善く職すれば則ち否たり、凡そ代る日、不服有らば則ち相ひ攻め、王は閉宮の守と爲り、勝つる者は聽きて之れを爲す。曰く大使者、曰く大兄、曰く上位使者、曰く諸兄、曰く小使者、曰く過節、曰く先人、曰く古鄒大加、又た云はく、莫離支、大莫離支、中裏小兄、中裏大兄。

 冊府元龜に云はく、高句麗、後漢の時に其の國に官を置き、相ふ加うる有り、對盧、沛者、古鄒大加(古鄒大加、高句麗の賓客の官を掌(つかさど)り、大鴻臚の如きなり)、主簿、優(一に台于と作す)使者、皂衣、仙人、一說、大官に大對盧有り、次に太大兄、大兄、小兄、意俟奢、烏猝、太大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人、幷褥薩有り、凡そ十三等、復た內評、外評有り、內外の事を分掌せり。

 右は中國の歷代史を見ゆ。

 左輔、右輔、大主簿、國相、力使者、中畏大夫。

 右は本國の古記を見ゆ。

 廣評省、匡治奈(今の侍中)、徐事(今の侍郞)、外書(今員外郞)、兵部、大龍部(謂倉部)、壽春部(今の禮部)、奉賓部(今の禮賓省)、義刑臺(今の刑部)、納貨部(今の大府寺)、調位府(今の三司)、內奉省(今の都省)、禁書省(今の秘書省)、南廂壇(今の將作監)、水壇(今の水部)、元鳳省(今の翰林院)、飛龍省(今の大僕寺)、物藏省(今の少府監)、史臺(諸譯語の習を掌(つかさど)る)、植貨府(菓樹の栽植を掌(つかさど)る)、障繕府(城隍の修理を掌(つかさど)る)、珠淘省(器物の造成を掌(つかさど)る)、正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹。

 右は弓裔の制する所の官號たり。

 北史に云はく、百濟の官に十六品有り、佐平五人一品、達率三十人二品、恩率三品、德率四品、扞率五品、奈率六品、將德七品、施德八品、固德九品、季德十品、對德十一品、文督十二品、武督十三品、佐軍十四品、振武十五品、剋虞十六品、自恩率以下、官に常員無し、各に部司有り、衆務を分掌し、內官に前內部、穀內部、內▩部、外▩部、馬部、刀部、功德部、藥部、木部、法部、後宮部有り、外官に司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、外舍部、綢部、日官部、市部有り、長吏は三年に一(ひとたび)交代し、都下に方有り、各五部を爲し、曰く上部、前部、中部、下部、後部、部に五巷有り、士庶は焉れに居し、部の統ぶる兵は五百人、五方に各方鎭一人有り、達率を以て之れを爲し、方佐は之れに貳(したが)ひ、方に十郡有り、郡に將三人有り、德率を以て之れを爲し、統ぶる兵は一千一百人以下七百人以上。

 隋書に云はく、百濟官に十六品有り、長は左平と曰ひ、次いで大率、次いで恩率、次いで德率、次いで扞率、次いで奈率、次いで將德、次いで施德、次いで固德、次いで季德、次いで對德、次いで文督、次いで武督、次いで佐軍、次いで振武、次いで剋虞、五方各に方領二人有り、方佐は之れに貳(したが)ひ、方に十郡有り、郡に將有り。

 唐書に云はく、百濟の置く所の內官に曰く、內臣佐平、宣納の事を掌(つかさど)り、內頭佐平、庫藏の事を掌(つかさど)り、內法佐平、禮儀の事を掌(つかさど)り、衛士佐平、宿衛の兵事を掌(つかさど)り、朝廷佐平、刑獄の事を掌(つかさど)り、兵官佐平、外兵馬事を掌(つかさど)る。

 右は中國の歷代史を見ゆ。

 左輔、右輔、左將、上佐平、北門頭。

 右は本國の古記を見ゆ。