金庾信は王京の人である。十二代ほど遡っての先祖の首露は、何許の人かわからない。漢建武十八年壬寅より以後、龜峯に登って駕洛の九村を望み、遂にその地に辿り着いて国を開き、號して加耶、後に改めて金官國となり、その子孫が相続し、九世孫の仇充(あるいは仇次休と伝わる)に至ると、庾信にとっての曾祖父となる。新羅人は自ら「少昊金天氏の後裔であり、故に姓は金である」と言っている。金庾信の碑にも「軒轅の裔、少昊の胤」とある。つまり、南加耶の始祖の首露と新羅は、姓が同じなのだ。祖父の武力は、新州道行軍摠管となり、かつては兵を領導して百濟王とその将四人を獲え、斬首すること一萬級余り。父の舒玄は、官位は蘇判大梁州都督まで至り、大梁州の諸軍事を安撫した。金庾信の碑を考査すると、「考は蘇判の金逍衍である」とある。舒玄からの改名があったのかもしれないし、あるいは逍衍とは字(あざな)のことかもしれない。疑問が残るので両論併記する。 さて、金舒玄は葛文王立宗の子の肅訖宗の娘、萬明を道中で目にすると、心悦び目は彼女を追い、媒妁(なかうど)を待たずして交わった。金舒玄は萬弩郡太守となったので、(彼女と)一緒に行こうとしたが、この時はじめて肅訖宗が娘と金舒玄が野合していたことを知り、それを疾(にく)んで別々の屋敷に囚縛し、人をやって監視をさせた。忽然と雷が屋敷の門を震わせ、監視役が驚いて混乱しているところで、萬明は潜り戸から脱出し、遂に舒玄と一緒に萬弩郡に赴いた。金舒玄は庚辰(かのえたつ)の夜、熒惑と鎭の二つの星が自身に降りかかる夢を見、萬明も同じく辛丑(かのとうし)の夜に、金の甲(かぶと)を身につけた童子と出会い、雲に乗って堂の中に入る夢を見て、次いで妊娠し、二十ヶ月後に金庾信を生んだ。これは眞平王建福十七年、隋文帝開皇十五年乙卯(きのとう)のことである。名を定めようとした際に、夫人に言った。「私は庚辰(かのえたつ)の夜の吉夢をもって、この童児を得たのだから、名に用いようではないか。しかしながら、禮に従えば日月を名としてはならない。現在は、庚と庾の字は互いに似ているし、辰と信の声音は互いに似通っている。ましてや古の賢人に庾信と名付けられたこともある。これを命名してはどうだろうか。」こうして庾信と名付けられた。(萬弩郡は現在の鎭州である。かつて庾信が懐胎され、それを高山に隠したことから、現在に至ってそれを胎靈山と呼ぶようになった。)公年十五歲に花郞となると当時の人は一様に服従し、龍華香徒と號された。 眞平王建福三十三年辛未(かのとひつじ)、公の年齢は十七歲、高句麗、百濟、靺鞨が国境を侵軼するのを見て慷慨し、寇賊を平げんとする志を懐き、独り中嶽石崛まで行って中に入ると、齋戒(ものいみ)をして天に告げ、誓いを立てて言った。「敵国の無道は豺(やまいぬ)や虎そのもの、我が国の封領を騒擾するせいで、ほとんど安寧なる年はない。僕はたかだか一介の取るに足らぬ臣下に過ぎず、才覚も能力も十分ではないが、禍乱を清めたく思う。どうか天よ。ご加護を御降しになり、私から手をお借りなさらんことを。」四日ほど居ると、忽然と粗末な衣服を着た老人が現れ、「ここは毒蟲や猛獣が多い畏るべき地であるぞ。そなたのような少年がこのように来て独りでいるのはどうしてだろうか。」と言ったので、「あなた様はどこから来られたのですか。ご尊名をお聞きしてもよろしいでしょうか。」と答えると、老人は「私は住むところもなく、行き先も緣(えにし)に隨(したが)うのみ。名は難勝である。」と言った。それを聞いた公は、非常の人であると気づき、再び拜礼をして進み、「僕は新羅の人です。国の讐(あだ)を見、心を痛めて首謀者を疾悪し、故にここまで来て、ちょうど今は冀望をしているところでした。伏してあなた様にお願いしたく思います。我が精誠を憫(あわ)れみ、方術を授けて下さらないでしょうか。」と言ったが、老人は黙ったまま何も言わなかった。公は涙を流して倦まず懇請したまま、六七ばかりの時間が流れた。老人はそこで口を開いた。「お前さんは幼いくせに三国を併合したいと心しているとは、なんとも壮健なものだ。」こうして秘法を授けて言った。「慎むがよい。妄りに伝えてはならぬぞ。これを不義に用いるようなことがあれば、逆にその咎殃(とが)を受けることになるからな。」言い終えると辞去した。二里ほどを行ったところで、彼を追いかけて望見しようとしたが姿は見えず、山の上に五色の光が爛然と輝くばかりであった。 建福三十四年、隣国の賊は転々と迫り、公はいよいよ壮心を激しくし、独り宝劒を携えて咽薄山の深壑の中に入り、焼香して天に告げ、あたかも中嶽に在るがごとく祈祝し、辞(ことば)によって誓いを立て、禱(いの)りを捧げていると、天官は光を垂らし、靈を宝劒に降した。三日の夜には、虛角の二星から光芒が赫然と垂らされ、劒は動搖するかのようであった。 建福五十一年、己丑(つちのとうし)秋八月、王は伊飡の任末里、波珍飡の龍春、白龍、蘇判大因、舒玄等を派遣し、兵を統率させて高句麗の娘臂城を攻撃させた。これに高句麗人は兵を出して逆擊し、我が国は利を失し、死んだ者は数多く、衆勢の心は挫けてしまい、闘争心を取り戻せなかった。この時中幢幢主であった金庾信は、父の前に進んで甲冑を脱いで「我が軍が敗北しようとも、私は平生、忠孝をもって自ら期して参りました。戦に臨めば勇でないことなどあってはなりませぬ。けだし聞いております。「しわくちゃのコートも襟を振ればピンと張るし、綱も提げればピンと張る」と。これを我が綱領としましょう!」と告げると、そのまま馬に跨り劒を抜いて坑(あな)を跳び越え、賊軍の陣地に出入りしては将軍を斬り、その首を提げて来た。これを見た我が軍は、勝ちに乗じて奮擊し、斬殺すること五千級余り、生け捕りにすること一千人、城中は懼れ戸惑って抵抗しようとする者はいなくなり、全員が出てきて降伏した。 善德大王十一年壬寅(みずのえとら)、百濟が大梁州を敗り、春秋公の娘の古陁炤娘と従夫の品釋がここで死んだ。これを恨んだ金春秋は、高句麗に兵を要請することで百濟の怨みに報いようとし、これを王は許可した。これから行こうとする時、金庾信に言った。「私と公とは身体を同じくする国家の股肱となった。今回、もし私があちらに入って害されるようなことがあれば、そのまま公はそのことを心から拭い去れるだろうか。」庾信は言った。「公がもし往きて還らざれば、すぐに僕の馬跡は、必ずや高句麗と百済の両王の庭を踏もうではないか。そのようにしなければ、これからどんな顔を国民に向ければよかろうか。」春秋は感悦し、公と一緒に互いの手指を齧り、血をすすって盟を結んで言った。「私は日を六旬ほど計って還ることにするが、もしそれを過ぎても帰来しなければ、もう二度と会えるとは期待しないでくれ。」こうして互いに別れた。後に金庾信は押梁州軍主となった。金春秋と訓信沙干は、高句麗を聘(たず)ね、代買縣まで辿り着くと、縣人の豆斯支沙干が靑布三百步を贈った。かの国の境内に入った後、高句麗王は太大對盧の盖金を派遣して彼を館に滞留させ、酒宴に加えてもてなした。ある人が麗王に告げた。「新羅の使者は、只者ではありませぬ。今回来たのは、おおかた我が国の形勢を調査しようとしてのことでしょう。」そのことから王は、後患をなからしめようと図った。王は道理に合わぬおかしな質問をすることで、彼に返答できなくさせて辱めようとして、「もともと麻木峴と竹嶺は、我が国の領地である。もし我の国への返還がなければ、帰国させてやらんぞ。」と言うと、金春秋は答えた。「国家の土地のことは、臣子の身分で欲しいままにできることではありません。臣(わたし)は命を聞くつもりはございません。」怒った王は彼を収容し、戮殺しようとしたが、それ以前から金春秋は、既に靑布三百步を密かに王の寵臣の先道解に贈っていた。道解は食べ物や飲み物を渡しに来ると、互いに酒酣を飲みながら冗談を言い合って、「お前さんもカメとウサギの説話を聞いたことがあるのか。昔、東海の龍女が心臓を病み、医者は「ウサギの肝の合薬があれば、すぐに療(いや)すことができるのに、海中にウサギはいないので、さてはてどうしたものか。」と言っていたが、一匹の白龍王というカメが、「私ならそれを手に入れられます。」と言った。こうして陸に登ってウサギを見て、「海中にはこんな島がある。泉が清くて石は白く、林は茂り木の実はよく実り、寒いことも暑いこともなく、鷹や隼が来ることもない。お前さんよ、もし行くことができれば、なにも心配事はなくゆっくりと暮らしていけようぞ。」と言った。このようにしてウサギを背上に背負い、游行すること二、三里あまり。カメはウサギを振り返って言った。「今、龍の娘が病を患い、ウサギの肝を薬にせねばならんのだ。だから苦労を憚りもせず、お前さんを背負って来たのだよ。」ウサギは言った。「そうかい。オレは神サマの後裔だぞ。五臓を取り出すこともできるし、それを洗って身体に納めることもできるのさ。さっき、ちょっとばかし第六感が働いて心がザワついたから、そのまま肝臓と心臓を取り出して、それを洗って暫し巖石の底に置いてきたんだ。あんたの甘言徑來を聞いた時にも、肝臓はまだそちらに置きっぱなし。心臓と肝臓を取りに引き返さなくていいのかい? そうすりゃ、あんたは欲しいものが得られるし、どのみちオレは肝をなくしたって生きることはできる。二人のどちらにとってもいいことじゃあないか。」これを信じてカメは還り、やっとのことで岸に上がると、ウサギは飛び出して草の中に入り、請うてカメに言った。「あんたもマヌケだね。心臓や肝臓がなくなって生きていけるヤツなんているもんか。」カメは悲しみに黙りこくってその場を離れた。」その言葉を聞いた金春秋は、その意を理解し、文書を王に移した。「二つの嶺は、もともと大国の地でございます。分けて臣(わたし)を帰国させていただければ、その返還を我が王に要請致します。私のことを信じられないかもしれませんが、穢れなき日輪のごとく潔白にございます。」そこで王は悦んだ。金春秋は高句麗に入ってから六旬を過ぎてもまだ還らなかったので。金庾信は国内の勇士三千人を選抜して獲得し、互いに語り合った。「私はこのように聞いたことがある。「危険に遇えば命を賭け、困難に臨めば身を忘れることが、烈士の志である」とな。さて、一人が死を賭けて百人に当たり、百人が死を賭けて千人に当たり、千人が死を賭けて萬人に当たれば、これによって天下に横行することもできよう。現在は国家の賢相が他国の拘留されてしまっている。これで困難を犯さないことを畏れてよいものだろうか!」ここで衆人は言った。一生のうちに萬死が出ようとも、将軍の令に従わないことはありません!」こうして王に要請して行軍の期日を定めた。この時、高句麗の諜者(スパイ)であった浮の屠德昌は、使者をやって王に報告した。王の前に金春秋の盟辞を聞いており、しかも諜者(スパイ)の言を聞いたことで、再度の拘留をしようとはせず、厚く礼遇して彼を帰した。国境から出たところで、送別者に言ったことは、「私は百濟からの憾みを晴らそうとして軍隊を要請しに来国したのだ。それを大王は許さず、それなのに土地を求めて帰国させたが、そんなことは臣の專らとできることではござらぬ。先ほど大王にお渡しした文書は、死を免れようと図っただけのことだ。」(これと本言は眞平王十一と善德王十一年に書かれており、一つの事件であり差異も小さいことから、どちらも古記によって伝えられていることもあり、両論を併記することにすることにするが)金庾信は押梁州軍主となり、十三年に蘇判となった。 秋九月、王は上將軍に任命し、兵を統領させて百濟の加兮城、省熱城、同火城等の七城を討伐させ、ここで大いに勝利することで、加兮の津を開いた。乙巳(きのとみ)の正月、帰国してまだ王と会わないうちから、国境の守衛から、百濟の大軍が我が国の買利浦城を侵攻しに来たと急報があった。王は再度拜して金庾信を上州將軍とし、これを防戦させた。金庾信は命を聞いてすぐに馬にまたがり、妻子にも会うことなく百濟軍を逆擊して敗走させ、斬首すること二千級。三月、王宮で王と意見を交わし、まだ家に帰っていないうちから、またしても百濟が出兵し、その国の国境に駐屯し、まさに大いに兵を挙げて我が国を侵略しようとしているとこ急告があり、王は再度金庾信に告げた。「あなたに要請します。苦労を憚らず速やかに行軍師、まだ奴らが辿り着く前からそれに備えなさい。」今度も金庾信は家にも入らず、軍を練り兵を繕い、西に向かって行軍した。この時、彼の家の人々は皆で門の外に出て帰宅を待っていた。金庾信は門の前を通り過ぎたが、振り返りもせず行軍し、五十步あまりのところに辿り着くと、駐馬して漿水を自宅から撮らせ、それを啜って言った。「我が家の水は、昔のまんまだな。」そこで軍の衆勢の皆が言った。「大将軍でさえもこのようにされておられるのだ。我らが肉親との離別を恨みとすることができようか!」国境に辿り着くと、百濟人は我が国の兵衛を望み見て、迫ろうともせず、すぐに撤退した。これを聞いた大王甚だ喜び、爵賞を加えた。 十六年丁未(かのとひつじ)、これは善德王の末年であり、眞德王元年である。女の君主は善理に能わないと考えた大臣の毗曇、廉宗は、兵を挙げて彼女を廃そうとし、王は内からこれを防ごうとした。毗曇等は明活城に駐屯し、王の軍隊は月城に軍営を立て、十日ほど攻防戦を演じたが解放されなかった。丙(かのえ)の夜、大星が月城に落ちた。毗曇等は士卒に言った。私は聞いたことがある。「落星下らば、必ず流血あり」と。これはおそらく女の君主の敗北の兆(きざし)である。」士卒は叫び、吼える声は天地を震わせた。これを聞いた大王は、恐懼してすべきことがわからなくなってしまった。金庾信が王に会って言った。「吉凶に常はありません。召されし所の人によるものです。だから紂王は赤雀が飛来したのに滅亡し、魯は麟を獲たのに衰退し、高宗は雉雊があっても興隆し、鄭公は龍闘にあっても隆昌しました。つまり徳が妖に勝れば、星辰は変異する。これを知っておけば、畏れることはありません。王よ、憂うことのないように。」そこで偶人抱火を造り、これを風鳶(たこ)に載せて颺(あ)げると、天に上がるかのようであった。翌日、人をやって路上で「昨夜、落星が上に還った。」と伝えさせ、賊軍を疑わせた。また、白馬を刑殺し、落星の地に祭って呪言した。「天道は陽は剛にして陰は柔、人道は君は尊く臣は卑し。もしあるいはこれを易えるようなことがあれば、すぐさま大乱が起ころうぞ。今、毗曇等は臣下にありながら君主を謀り、下から上を犯そうとしている。これは所謂(いはゆる)乱臣賊子、人神の同(とも)に疾(にく)む所、天地の容れざる所なるぞ。今、天が仮にここで意なければ、星の怪異を王城に反見することになろう。これは臣下の疑惑する所であり、喩らざることである。思うに天の威は、人の希望に従い、善と善として悪を悪とするもので、神の羞恥を起こしてはならぬ。」ここで諸将卒を督し、これを奮擊すれば、毗曇等は敗走した。これを追撃して斬り、九族を皆殺し、連坐する者は三十人にのぼった。 冬十月、百濟兵が来て、茂山、甘勿、桐岑等の三城を包囲し、王は金庾信を派遣し、步騎一萬を率いてこれに抗戦した。苦戦して気力が尽きたが、金庾信は丕寧子に言った。「今日の事は急である。あなたでなければ、誰が衆人の心を激することができようか。」丕寧子は拜して「敢えて命に従いましょうぞ。」と言い、遂に敵に赴いた。これに子の擧眞と家奴の合節も之れに随伴し、劒戟を突いて力戦し、ここで戦死した。これを望み見た軍士は、感動して争って進み、大いに賊兵を敗って斬首すること三千級余りにのぼった。 眞德王大和元年戊申(みずのとさる)、金春秋は高句麗に要請が上手くいかなかったことから、遂に唐に入って軍隊を乞うた。太宗皇帝が「爾の国の金庾信の名を聞いた。その為人(ひととなり)はどうであろうか。」と言ったので、「金庾信は若いですが不籍天威のごとき才智があります。隣国の患を変易、排除しないことがありましょうか。」と答えると、帝は言った。「誠に君子の国であるな。」そこで許可を詔(みことのり)として下し、将軍の蘇定方に勅命し、二十萬の軍隊をもって百濟を征伐させることにした。この時、金庾信は押梁州軍主となっていたが、軍事に意(こころ)することがないかのように、酒を飲んでは音楽を作り、いくらかの月日を経た。州人は金庾信を凡庸な将と思い、これを譏謗して言った。「衆人は久しく安居して余力もあるのだから一戦することなどたやすいというのに、将軍は怠け者ときたものだ。これをどうしたらよいものか。」これを聞いて人民の用いることができると金庾信は察知し、大王に報告した。「民心を観れば、今こそ有事とすべき時です。百濟を討伐することで、大梁州の役に報復したく思います。」王は「小をもって大にぶつけるのは、危将であるがどうか?」と言ったので、「兵の勝否とは大小にはありません。その人心を顧みて判断することです。故に紂王は億兆人を有するも、心も徳も離していしまい、周家の十人の乱臣が心と徳を同じくしていたことに勝ることはありませんでした。今、我らの一意は死生を共にして同じくできます。かの百濟の者どもなど、畏るるに足りません。」と答えた。王はすぐにこれを許可した。こうして州兵を選抜して練兵し、敵地に赴いた。大梁城の外まで辿り着くと、百濟はこれに抵抗した。敗北するふりをして勝たず、玉門谷まで辿り着いた。百濟はこれを軽んじ、大いに衆勢を率いて来たので、伏兵を発してその前後を擊ち、大いにこれを敗り、百濟の将軍八人を捕獲し、斬殺あるいは捕虜とすること一千級。ここで使者をやって百濟の将軍に報告した。「我が軍主の品釋とその妻の金氏の骨は、お前の国の獄中に埋まっている。今はお前の裨将八人、我が国に囚われ、はいつくばって命乞いをしている。我が国は狐豹首丘山の意によって、まだこれを殺すのを忍びなく思っているが、今ここでお前が死者二人の骨を送致すれば、生者八人と交換しよう。できるだろうか。」百濟の仲常(一説には忠常と表記する。)佐平は王に進言した。「新羅人の骸骨なんぞを留めておいても無益です。よって、こんなものは送るべきです。もし新羅人が信を失して我が国の八人を返還しなければ、不正はあちらにあり、正義は我が国にあります。なぜこんなことを患うことがありましょうか。」そのまま品釋夫妻の骨を掘り、これを櫝(はこ)に入れて送った。金庾信は「一葉が落ちようとも、林の茂るを損うことなく、一塵が集まろうとも、大山が増すことはない。」と言い、八人を許して生還させた。こうして勝ちに乗じて百濟の国境に入り、嶽城等十二城を攻めて抜き、斬首すること二萬級余り、生きたまま捕虜とした者は九千人。論功にて秩を伊飡に増し、上州行軍大摠管とした。再び賊の国境内に入り、進禮等の九城を屠り、斬首すること九千級余り、捕虜を得ること六百人。金春秋は唐に入り、兵を要請して二十萬を来させることができ、金庾信と顔を合わせると「死生に命あり、故に生還することができた。また公と相まみえることができたことは、どんな幸運にも勝るぞ。」と言い、金庾信も「下臣(わたし)は国の威靈に仗(たの)んで、再び百濟と大いに戦い、城二十を抜いて斬獲すること三萬人余り。また品釋公とその夫人の骨を鄕里に帰すことができました。これもすべて天の致す幸でございます。どこに私の力がありますか。」と答えた。
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≪白文≫
初め、舒玄は葛文王立宗の子の肅訖宗の女(むすめ)の萬明と路(みち)に見(まみ)え、心悅びて目は之れに挑(せま)り、媒妁を待たずして合(まじ)る。舒玄は萬弩郡太守と為り、將に與俱(とも)に行かむとするも、肅訖宗は始め女子と玄の野合するを知り、之れを疾(にく)みて別の第(やしき)に囚へ、人を使(し)て之れを守る。忽として雷は屋門を震はし、守る者は驚き亂れ、萬明は竇に從(よ)りて出で、遂に舒玄と與(とも)に萬弩郡に赴く。舒玄は庚辰(かのえたつ)の夜、熒惑と鎭の二星の己に降るを夢(ゆめみ)、萬明も亦た辛丑(かのとうし)の夜を以て、童子の金の甲(かぶと)を衣(き)ると見(まみ)え、雲に乘りて堂の中に入るを夢(ゆめみ)、尋ぎて娠むこと有り、二十月にして庾信を生じ、是れ眞平王建福十七年、隋文帝開皇十五年乙卯(きのとう)なり。名を定めむと欲するに及び、夫人に謂ひて曰く、吾は庚辰(かのえたつ)の夜の吉夢を以て、此の兒を得たり。宜しく以て名と為すべし。然れども禮に日月を以て名と為すことあらじ。今は庚と庾の字は相ひ似たり。辰と信の聲は相ひ近し。況や古の賢人に庾信を名づくること有り。盍(なん)ぞ之れを以て命ぜむか、と。遂に庾信と焉れ名づけり。(萬弩郡は、今の鎭州、初め庾信の胎(はら)みて、之れ高山に藏(かく)るを以て、今に至り之れを胎靈山と謂ふ。)公年十五歲に花郞と為れば、時の人は洽然として服從し、龍華香徒と號す。 眞平王建福三十三年辛未(かのとひつじ)、公年十七歲、高句麗、百濟、靺鞨の國疆を侵軼するを見、慷慨して寇賊を平げむとするの志を有(も)ち、獨り行きて中嶽石崛に入り、齋戒(ものいみ)して天に告げて盟誓して曰く、敵國の無道、豺(やまいぬ)と虎と為り、以て我が封埸を擾(みだ)し、略(ほぼ)寧歲無し。僕是れ一介微臣にして、材力に量(ちから)あらざるも、禍亂を淸むるを志さむ。惟れ天よ、監を降し、我より手を假らむことを、と。居すること四日、忽として一(ひとり)の老人有り、褐を被りて來たりて曰く、此の處、毒蟲猛獸は多く、畏る可きの地、貴少年の爰(ここ)に來たりて獨り處(お)るのは、何ぞや、と。答へて曰く、長者は何許(いずこ)從(よ)り來たる。尊名聞を得る可きか、と。老人曰く、吾は住む所無し、行止(ゆきさき)は緣(えにし)に隨(したが)ひ、名は則ち難勝なり、と。公之れを聞き、非常の人と知り、再び拜して進みて曰く、僕は新羅の人なり。國の讐(あだ)を見、心を痛めて首を疾み、故に此に來たり。冀(こひねが)ひたるに遇ふ所有るのみ。伏して長者に乞ふ、我が精誠を憫(あは)れみ、之れに方術を授けむことを、と。老人は默然として言(ことば)無し。公は涕淚して懇請して倦まず、六七に至る。老人乃ち言(まふ)せるに曰く、子幼にして三國を幷せむとするの心有るは、亦た壯ならずや、と。乃ち授くるに秘法を以てして曰く、愼みて妄傳すること勿れ。若し之れを不義に用ゆれば、反りて其の殃(つみ)を受く、と。言ひ訖へて辭し、二里許を行かば、追ひて之れを望まむとするも、見えず、唯だ山の上に光有り、爛然として五色の若くならむ。 建福三十四年、隣賊は轉じて迫り、公愈(いよいよ)壯心を激しくし、獨り寶劒を携え、咽薄山の深壑の中に入り、燒香して天に告げ、祈祝すること中嶽に在るが若くし、辭(ことば)に誓ひて仍りて禱(いの)らば、天官は光を垂らし、靈を寶劒に降す。三日の夜、虛角の二星、光芒赫然として下垂し、劒は動搖するが若くすること然り。 建福五十一年、己丑(つちのとうし)秋八月、王は伊飡の任末里、波珍飡の龍春、白龍、蘇判大因、舒玄等を遣り、兵を率いせしめて高句麗の娘臂城を攻む。麗人は兵を出して之れを逆擊し、吾人は利を失し、死せる者衆多(かずおおし)、衆(ひと)の心は折衄(くじ)け、鬪ふ心を復すること無し。庾信は時に中幢幢主と為り、父の前に進み、胄(よろひ)を脫ぎて告げて曰く、我が兵は敗北するも、吾は平生、忠孝を以て自ら期し、戰に臨めば勇にあらざる可からず。盖し聞けり、領を振りては裘も正し、綱を提げては網も張らむ、と。吾は其れ綱領と為さむ、と。迺(すなは)ち馬に跨り劒を拔き坑を跳び、賊の陣に出入りし、將軍を斬り、其の首を提げて來たり。我が軍は之れを見、勝ちに乘じて奮擊し、斬殺すること五千餘級、生け擒りにすること一千人。城中は兇懼して敢へて抗ふこと無からむ。皆出でて降らむ。 善德大王十一年壬寅(みずのえとら)、百濟、大梁州を敗り、春秋公の女子の古陁炤娘、從夫の品釋は焉れに死せり。春秋は之れを恨み、高句麗に兵を請ひ、以て百濟の怨に報ひむと欲し、王之れを許す。將に行かむとして、庾信に謂ひて曰く、吾と公は體を同じくし、國の股肱と為らむ。今我の若し彼に入りて害さるれども、則ち公其れ心を無からむや、と。庾信曰く、公若し往きて還らざれば、則ち僕の馬跡、必ずや麗濟の兩王の庭を踐まん。苟に此の如くなかりければ、將に何の面目して以て國人に見えむや、と。春秋感悅し、公と與に互ひに手指を噬(かじ)り、血を歃りて以て盟して曰く、吾は日を計るに六旬をして乃ち還るも、若し此れを過ぎて來らざれば、則ち再見の期無からむや、と。遂に相ひ別る。後に庾信は押梁州軍主と為る。春秋と訓信沙干、高句麗を聘(たず)ね、行きて代買縣に至らば、縣人の豆斯支沙干、靑布三百步を贈る。旣に彼の境(さかひ)に入り、麗王は太大對盧盖金を遣りて之れを館せしめ、燕饗に加ふる有り。或(あるひと)麗王に告げて曰く、新羅の使者、庸(なみ)の人に非ざるなり。今來たるは、殆(おほかた)我の形勢を觀むことを欲せむとしてなり、と。王其れ之れを圖り、後患を無から俾(し)めむとす。王は橫問せむと欲し、因りて其の對(こたへ)を難くして之れを辱めむとす。謂ひて曰く、麻木峴と竹嶺、本(もともと)我が國の地、若し我の還あらざれば、則ち歸することを得ざらむか、と。春秋對へて曰く、國家の土地、臣子の專とする所に非ず、臣は命を聞くことを敢へてせず。王怒りて之れを囚へ、戮せむと欲するも未だ果たせず。春秋は靑布三百步を以て、密かに王の寵臣の先道解に贈る。道解は饌を以て具へ來たり、相ひ酒酣を飲み、戱れて語りて曰く、子も亦た嘗て龜兎の說を聞けるか。昔、東海の龍女は心を病み、醫の言(まふ)せるに、兎の肝の合藥を得れば、則ち療(いや)す可きなり、と。然れども海中に兎は無く、之れを奈何せむ、と。一(ひとり)の龜有り白龍王と言ひ、吾能く之れを得。遂に陸に登り兎を見て言ひ、海中に一(ひとつ)の島有り、泉は淸く石は白く、林は茂り菓(きのみ)は佳(みのり)、寒暑到るに能はず、鷹隼侵すに能はず。爾若し至るを得れば、以て安居無患す可し。因りて兎を背上に負ひ、游行すること二三里許。龜顧みて兎に謂ひて曰く、今龍の女(むすめ)は病を被り、須く兎の肝を藥と為すべし。故に勞を憚らず、爾を負ひて來たるのみ、と。兎曰く、噫(ああ)、吾は神明の後(しりへ)、能く五藏を出し、洗ひて之れを納む。日者(さきごろ)小覺心煩、遂に肝心を出して之れを洗ひ、暫し巖石の底に置き、爾の甘言徑來を聞き、肝は尚ほ彼に在り。何ぞ肝を取りに廻歸せざらむ。則ち汝の求むる所を得、吾は肝を無くすと雖も尚ほ活く。豈に兩(いずれ)も相ひ宜べならざらむ。龜之れを信じて還り、纔(やっと)岸に上れば、兎脫して草の中に入り、請ひて龜に謂ひて曰く、愚なるかな、汝や、豈に肝無くして生くる者有りや、と。龜憫默して退けり、と。春秋は其の言を聞き、其の意を喩(さと)る。書を王に移して曰く、二つの嶺、本(もともと)大國の地たり。分けて臣を令(し)て國に歸らしむれば、吾が王に請ひて之れを還らせしむ。予の信(まこと)あらず謂へども、皦日の如く有らむ、と。王迺ち悅べり。春秋は高句麗に入り、六旬を過ぐるも未だ還らず。庾信は揀(えら)びて國內の勇士三千人を得、相ひ語りて曰く、吾、危を見れば命を致し、難に臨めば身を忘るるは、烈士の志なりとと聞けり。夫れ一人の死を致して百人に當たり、百人の死を致して千人に當たり、千人の死を致して萬人に當たらば、則ち以て天下に橫行す可し。今は國の賢相、他國の拘執を被り、其れ難を犯さざるを畏る可けむや、と。是に於いて衆人曰く、萬死一生の中に出ずると雖も、敢へて將軍の令に從はざらむや、と。遂に王に請ひて以て行期を定む。時に、高句麗の諜者の浮屠德昌、使して王に告がしむる。王は前に春秋に盟辭を聞き、又た諜者の言を聞き、留を復たすること敢へてせず、禮を厚くして之れを歸す。境(さかひ)を出ずるに及び、送る者に謂ひて曰く、吾の百濟よりの憾みを釋(はら)さむと欲し、故に師を請ひに來たり。大王之れを許さず、而れども土地を求めて反るとは、此れ臣の專らを得る所に非ざりき。嚮(さき)に、大王に與(あた)うる書する者、死を逭(のが)るるを圖するのみ。(此れと本言は眞平王十一と善德王十一年に書する所、一事にして小異、以て皆古記の傳ふる所、故に兩(いずれ)も之れを存す。) 庾信は押梁州軍主と為り、十三年に蘇判と為る。秋九月、王命じて上將軍と為し、使して兵を領(おさ)めせしめて百濟の加兮城、省熱城、同火城等の七城を伐たせしめ、大いに之れに克ち、因りて加兮の津を開く。乙巳(きのとみ)の正月、歸して未だ王に見えず、封人が急報するに、百濟の大軍來たり、我の買利浦城を攻む、と。王又た拜して庾信を上州將軍と為し、令して之れを拒ませしむ。庾信は命を聞き卽ち駕し、妻子に見えず、百濟軍を逆擊して之れを走らせしめ、斬首すること二千級。三月、王宮に還命し、未だ家に歸らず、又た百濟の兵出で、其の國界に屯し、將に大いに兵を擧げて我を侵さむとすると急告す。王復た庾信に告げて曰く、公に請ふ。勞を憚らず遄(すみやか)に行き、其の未だ至るに及ばざるに之れに備ふるべし、と。庾信又た家に入らず、軍を練り兵を繕ひ、西に向かひて行く。時に于(お)いて、其の家の人は皆門の外に出でて來たるを待つ。庾信は門を過ぐるも、顧ずして行けり、五十步許に至り、馬を駐(と)め、漿水を宅(いえ)に於いて取らせしめ、之れを啜りて曰く、吾家の水、尚ほ舊(かつ)ての味のごとく有らむ、と。是に於いて、軍の衆(ひとびと)は皆が云へるに、大將軍猶ほ此の如し、我輩豈に骨肉を離別するを以て恨と為さむや、と。疆埸に至るに及び、百濟人は我の兵衛を望めば、迫らむと敢へてせず、乃ち退けり。大王之れを聞き甚だ喜び、爵賞を加ゆ。 十六年丁未(かのとひつじ)、是れ善德王の末年、眞德王元年なり。大臣の毗曇、廉宗、女の主を善理に能はずと謂(おも)ひ、兵を擧げて之れを廢さむと欲し、王は內より之れを禦す。毗曇等は明活城に屯(たむろ)し、王の師は月城に營し、十日を攻守するも解かず。丙(かのえ)の夜、大星は月城に落つ。毗曇等は士卒に謂ひて曰く、吾は落星の下るは、必ず流血有るを聞けり。此れ殆(おそらく)女の主の敗衄の兆なり、と。士卒は呼(さけ)び、吼える聲は天地を振ふ。大王之れを聞き、恐懼して次を失す。庾信、王に見えて曰く、吉凶に常無し、召す所の人を惟ゆ。故に紂は赤雀を以て亡び、魯は獲麟を以て衰へ、高宗は雉雊を以て興り、鄭公は龍鬪を以て昌(さか)ゆ。故に德の妖に勝らば、則ち星辰は變異せるを知らば、畏るるに足らざるなり。王よ、憂ふこと勿らむことを請ふ、と。乃ち偶人抱火を造り、風鳶に載せて之れを颺(あ)げ、天に上るが若く然れり。翌日、人をして言(ことば)を路に於いて傳へせしむるに、昨夜、落星は上に還れり、と曰ひ、賊軍をして疑はせしむ。又た白馬を刑し、落星の地に祭り、呪ひて曰く、天道は則ち陽剛にして陰柔、人道は則ち君尊(たか)くして臣卑(ひく)し。苟も或は之れを易うれば、卽ち大亂を為さむ。今、毗曇等は臣を以てして君を謀り、下よりにして上を犯さむ。此れ所謂(いはゆる)亂臣賊子、人神の同じく疾(にく)む所、天地の容れざる所たり。今、天若し此に意無くば、而りて星怪を王城に反り見、此れ臣の疑惑する所にして喩らざる者なり。惟みるに天の威、人の欲に從ひ、善と善として惡を惡とし、神の羞(はぢ)を作(な)すこと無からむ、と。是に於いて、諸將卒を督して之れを奮擊すれば、毗曇等は敗走す。追ひて之れを斬り、九族を夷(みなごろし)にし、連坐する者三十人。 冬十月、百濟兵來たり、茂山、甘勿、桐岑等三城を圍み、王は庾信を遣り、步騎一萬を率いて之れを拒む。苦戰して氣は竭(つ)くも、庾信は丕寧子に謂ひて曰く、今日の事は急たらむ。子に非ざれば、誰か能く衆(ひと)の心を激せむか、と。丕寧子拜して曰く、敢へて惟命の從をせざらむ、と。遂に敵に赴く。子の擧眞及び家奴の合節は之れに隨ひ、劒戟を突き、力戰して之れに死せり。軍士は之れを望み、感勵して爭ひて進み、大いに賊兵を敗り、斬首すること三千餘級。 眞德王大和元年戊申(みずのとさる)、春秋は以て高句麗に請ひを得ず、遂に唐に入りて師を乞へり。太宗皇帝曰く、爾の國の庾信の名を聞く。其の為人(ひととなり)や如何、と。對へて曰く、庾信は少(わかき)と雖も才智有り、不籍天威なるが若(ごと)し。豈に隣患を易え除かむか、と。帝曰く、誠に君子の國なり、と。乃ち許を詔(みことのり)し、將軍の蘇定方に勑し、師二十萬を以て、百濟を徂征(う)たせしめむとす。時に、庾信は押梁州軍主と為るも、軍事に意(こころ)すること無きが若くし、酒を飲み樂を作(な)し、屢(しばしば)旬月を經る。州人は庾信を以て庸(なみ)の將と為し、之れを譏謗(そし)りて曰く、衆人(ひとびと)は居に安じて日は久し、力に餘有り、以て一戰す可し。而れども將軍は慵惰(なまけ)、之れを如何せむ、と。庾信之れを聞き、民の用ゆ可きを知り、大王に告げて曰く、今民心を觀れば、以て有事とす可し。百濟を伐ち、以て大梁州の役に報ひむことを請はむ、と。王曰く、小を以て大を觸するは、危將なるが奈何、と。對へて曰く、兵の勝否、大小に在らず、其の人心を顧みて何如とするのみ。故に紂は億兆人を有するも、心を離し德を離し、周家の十亂の同心同德に如かず。今、吾人の一意、死生を與に同じくす可し。彼の百濟の者、畏るるに足らざるなり、と。王乃ち之れを許し。遂に州兵を簡び練り敵に赴く。大梁城の外に至り、百濟は之れに逆ひ拒む。北する佯(ふり)をして勝たず、玉門谷に至る。百濟之れを輕じ、大いに衆を率いて來たらば、伏發して其の前後を擊ち、大いに之れを敗り、百濟の將軍八人を獲へ、斬獲すること一千級。是に於いて、使して百濟の將軍に告げて曰く、我が軍主の品釋及び其の妻の金氏の骨、爾の國の獄中に埋めむ。今、爾の裨將八人、我に於いて捉はれ、匍匐して命を請へり。我は狐豹首丘山の意を以て、未だ之れを殺すに忍びず。今、爾は死せる二人の骨を送らば、生くる八人に易ゆ、可なるかな、と。百濟の仲常(一に忠常と作す。)佐平は王に言(まふ)して曰く、羅人の骸骨、之れを留むるは無益たり。以て之れを送る可し。若し羅人信を失し、我が八人を還さざれば、則ち曲(よこしま)は彼に在り、直は我に在り、何の之れを患ふこと有らむ。乃ち品釋夫妻の骨を掘り、櫝(はこ)にして之れを送る。庾信曰く、一葉落つれども、林の茂るに損ふ所無し、一塵集れども、大山に增す所無し、と。八人を許して生還せしむ。遂に勝ちに乘じて百濟の境に入り、攻めて嶽城等十二城を拔き、斬首すること二萬餘級、生きて獲ふるは九千人。功を論(てら)へば、秩を伊飡を增し、上州行軍大摠管と為す。又た賊の境に入り、進禮等九城を屠り、斬首すること九千餘級、虜得ること六百人。春秋は唐に入り、請ひて兵二十萬の來たるを得、庾信に見えて曰く、死生に命有り、故に生還を得、復た公と與に相ひ見え、何をか幸に如かむや、と。庾信對へて曰く、下臣は國の威靈に仗(たの)み、再び百濟と大いに戰ひ、城二十を拔き、斬獲すること三萬餘人、又た品釋公及び其の夫人の骨をして、鄕里に反るを得さしむ。此れ皆天の致す所の幸なり。吾何の力ならむ、と。
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