金庾信 下

 麟德元年甲子三月、百濟の余衆がまたしても泗沘城に集まって叛乱を起こし、熊州都督が管轄している兵士を放ってそちらを攻めたが、日を重ねるとともに霧が起こって視界を塞ぎ、人と物を弁別することもできなくなったので、戦うことができなくなった。それを伯山に報告に来させると、これに金庾信が陰謀を授け、それによって勝利した。

 麟德二年、高宗は梁冬碧、任智高等を遣使して聘(たずね)に来させた。同時に金庾信を奉常正卿平壤郡開國公、食邑二千戶に冊封した。乾封元年、皇帝が勑を下して金庾信の長子の大阿飡の三光を召し、左武衛翊府中郞將とし、これによって宿衛させた。

 摠章元年戊辰(つちのえたつ)、唐の高宗皇帝、英國公の李勣を派遣し、軍隊を興して高句麗を討伐させて、遂に兵を我が国から徵発した。文武大王は、兵を出してそれに応じようとし、そこで欽純、仁問に命じて将軍とした。欽純は王に告げた。「もし金庾信と一緒に同行しなければ、恐らく後悔することになるでしょう。」王は言った。「諸君等の三臣は、国家の宝である。もし全員が敵地に向かって、一緒に不慮の事でもあって帰国ができなければ、この国はどうすればいいのだ。だから金庾信を留めて国を守らせれば、隠然たる長城のようなものであるから憂いなく終えることができようぞ。」金欽純は金庾信の弟、金仁問は金庾信の外甥であり、ゆえに彼を尊んで仕え、反抗しようとはしなかった。ここに至って、金庾信に「我々に才覚はなく、今回大王に従って不測の地に就くことになりますが、これを為し遂げるにはどうすればいいのでしょうか。願わくば、ご指南戴きたく思います。」と告げると、「ふむ。将たる者とは、国家の干城、主君の爪牙となる者である。勝敗を矢石の間で決するのは、必ずや上に天道を得、下に地理を得、中に人心を得、その後に成功を得ることができる。今の我が国は忠信によって存立し、百濟は慠慢によって滅亡し、高句麗は驕慢によって危機に陥っている。現在の我が国は、直によってかの曲を擊つようにすることで志を得るがよかろう。ましてや大国の明天子の威稜にお頼りしているのだ。さあ、往け。懸命にやれば、失敗なく無事に終わるだろう。」と答えた。二公は拜礼し、「ご命令に奉るのですから、失敗をしようとは思いません。」と言った。文武大王が英公と一緒に平壤を破った後のこと、帰国して南漢州に到着すると群臣に言った。「かつて百濟の明襛王は古利山に在り、策謀をめぐらせて我が国を侵略したが、金庾信の祖の武力角干が将となってこれを逆擊し、勝ちに乗じてその王と宰相四人と士卒を捕虜とし、その切っ先をへし折った。今度は彼の父の舒玄は、良州摠管となって頻繁に百濟と戦い、その鋭気を挫き、国境を犯させなかった。だからこそ辺境の人民は農桑の業に安じ、君臣は夜明け前に食事をとって戦争に出かけるような憂患が払拭された。今回の金庾信は、祖考の業を継承し、社稷の臣となって将から始まり相となり、功績は多大である。もし公の一門に頼ることがなければ、国の興亡はどうなるかわからなかった。その職賞についてどうすればよいだろうか。」群臣は言った。「誠に王のおっしゃるとおりでございます。」ここにおいて、職として太大舒發翰、食邑に五百戶を授けた。さらに輿杖を賜ひ、上殿不趨の特権を受け、彼の諸察寮佐にも、それぞれに位一級を賜わった。

 摠章元年、唐皇帝は英公の功を策した後、そのまま遣使して慰撫を宣べ、軍隊を渡らせて戦を援助し、同時に金帛を賜わった。また詔書を金庾信に授けることで彼に褒奬し、しかも入朝するように説諭したが、行くことが果たされることはなかった。その詔書は家に伝わっていたが、五世孫に至って失われた。

 咸寧咸亨四年癸酉(みずのととり)、これは文武大王十三年である。春、妖星が地震に現れ、これを大王は憂いだ。金庾信は進言した。「今回の変異の厄は老臣(わたし)にございます。国家の災ではありません。王よ、憂うことのないようになされ。」大王は「そうであるならば、なおさら寡人(わたし)の憂うことだ!」と言い、有司に命じて彼に祈禳した。

 夏六月、軍服を着用して武器を持った者が数十人現れ、金庾信の邸宅から泣いて去ると、すぐに姿を消したと目撃したものが複数人いた。それを聞いた金庾信は、「それは間違いなく私を守護する陰兵であり、私の福が尽きたのを見て、これによって去ったのであろう。私も死ぬのだろうな。」後に旬(十日)余りが過ぎ、疾病に寢(ふ)した。大王は親(みずか)ら慰問に臨んだが、金庾信は言った。「臣(わたし)は股肱として力を竭(つ)くすことで元首に奉ることを願いましたが、犬馬の疾病がここで発症しました。今日の後、もう二度と龍顔に御見えすることもありません。」大王は泣きながら、「寡人(わたし)に卿がいることは、魚に水があるも同然だ。もし避けられないこと(死)があれば、人民はどうすればいい? 社稷はどうすればいい?」金庾信は、「臣は愚にして不肖ではありましたが、もし国家に利益があったとすれば、幸いなことです。明上は、私を用うるに疑いを持たず、私を任ずるに貳(ふたごころ)を持ちませんでした。だから王の明哲におすがりすることができ、尺寸(わずか)ばかりの功績を成し、三韓を一家とし、百姓に二心をなからしめることができたのです。まだ太平に至ったわけではありませんが、小康と謂うことはできましょう。臣(わたし)は古から継体の君を観てきましたが、初めがないことはなく、よく終りを迎えられることもほとんどありません。代を重ねて功績が積まれても、一朝にして棄損されることは、甚だ痛ましきことでございます。伏して願いまする、殿下。成功は簡単ではないと知り、守成も同様に困難であることを念頭に置き、小人と疏遠になり、君子と親近し、朝廷を上に置いて融和させ、民物を下に置いて安らげ、禍乱が起こらないようにして基業が窮まることがなければ、臣(わたし)は死んだとしても遺憾に思いませんよ。」と答えると、王は泣きながらそれを受け、秋七月一日に至り、私邸の正寢にて死去した。享年七十九歳である。大王は訃を聞き震えながら慟し、彩帛一千匹、租二千石を贈賻して葬儀に供え、軍楽の鼓吹一百人を給い、金山原まで出葬すると、有司に命じて碑を立てさせることで功名を紀(しる)した。また民戸を内部に定めることで墓守をさせた。

 妻の智炤夫人は、太宗大王の第三女である。子を五人生み、長男は三光伊飡、次男は元述蘇判、三男は元貞海干、四男は長耳大阿飡、五男は元望大阿飡である。女子は四人、また庶子の軍勝阿飡は、その母の姓氏を失した。後に智炤夫人は、髮を切り落して褐衣を着用し、比丘尼となった。この時に大王は夫人に言った。「今や国内も国外も平安、君臣は枕を高くして憂いなし、これは太大角干の賜物である。ご夫人について考えてみれば、自らの室家をよくし、相互に戒め合って成立し、陰功は多大である。寡人(わたし)はその徳に報いたいと思い、いまだかつて一日たりとも心から忘れたことはない。」そこで南城に租を毎年一千石ほど贈るようになった。後に興德大王は公を封じて興武大王とした。それ以前のことである。法敏王は高句麗の叛乱した衆勢を納め、同時に百濟の故地を拠点とすることがあった。唐の高宗は大いに怒り、軍隊を派遣して討伐に来た。唐軍と靺鞨は、石門の野に軍営を立てた。王は将軍の義福、春長等を派遣してこれを防御し、帶方の野に軍営を立てた。この時、長槍幢は単独で別の軍営を立てていたところ、唐兵三千人余りと遭遇し、捕縛して大將軍の軍営に送致した。ここで、諸幢は共に言い合った。「長槍の軍営は単独で拠点を立てることで成功した。厚く恩賞を得たに違いない。我らが集まって駐屯しているのは、いたずらに自らを疲弊されるだけでよろしくない。」こうしてそれぞれが別々に軍を分散させた。唐兵と靺鞨は、その陣が立てられていないところに乗じてこれを擊ち、彼我もなく大いに敗れ、行軍の曉川、義文等はここで死んだ。金庾信の子の元述は、裨將となって同じく戦死しようとしたが、その佐の淡凌は、これを止め、「偉丈夫よ、死ぬのは難しいことではありませぬ。死ぬべき場所を探すのが難しいのです。もし死して成功できないなら、生にして後に手柄を立てる方がいいです。」と言うと、「男児が生を惜しむようでは、これからどんな顔をして我が父にお会いすればよいのか!」と答えた。そのまま馬を鞭で打って走ろうとしたが、淡凌が轡をつかんで離さず、そのまま死ぬことはできず、上將軍に隨って蕪荑嶺を出たが、追撃してきた唐兵に追いつかれてしまった。居烈州大監の阿珍含一吉干は、上將軍に言った。「諸君等は速やかに去るように努力せよ。我が年はすでに七十歳、どれほどの時を活きることができるだろうか。この時こそが我が死すべき日であるぞ!」そのまま戟を構えて陣に突撃して死に、彼の子も一緒に隨って死んだ。大將軍等は行軍し、入京する者は少なかった。これを聞いた大王は、金庾信に「このように軍が敗れたのはどういうことだ!?」と質問すると、「唐人の謀略は予測できません。どうか将卒それぞれに地勢の厳しい場所を守らせてください。ただし、元述は王命を辱めることを顧みず、しかも家訓を負っておりました。斬ってください。」大王は言った。「元述は裨將であろう。単独で重刑を施すことはできん。」こうして彼を赦した。元述は慙(は)じて恐懼を懐き、父に面会しようとはせず、隠遁して田園に逃げ込み、父が死去した後になって、母氏に面会を求めた。母氏は言った。「婦人には三従の義があります。今となっては寡婦でございますから、子に従うべきでしょうけれど、元述なる者のごときは、既に先君の子ではありませんので、私がどうして彼の母となることができますか。」こうして彼と面会しなかった。元述は慟哭して胸を手で打ちながら地団駄し、立ち去ることはなかったが、最後まで夫人は面会しなかった。元述は嘆いて、「淡凌にさせられた誤りは、ここに極まる!」と言い、そのまま大伯山(太伯山)に入った。

 乙亥(きのとい)の年になると、唐兵が買蘇川城を攻めに来た。これを聞いた元述は、そこで死ぬことで以前の恥を雪ごうとし、遂に力戦して功賞があったが、それによっても父母に受け入れられず、憤怒と怨恨によって仕えることなくその身を終えた。嫡孫の允中は、聖德大王に仕え、大阿飡となって頻繁に恩顧を承け、王の親属は彼に強く嫉妬した。この時の仲秋の望に臨んで、王は月城の岑頭に登って眺望し、そこで侍從官と一緒に酒を置いて楽しんでいる中、允中を召喚するように命じると、それを諌める者があった。「今は宗室にも戚里にも、好ましい人はいません。それなのに疎遠の臣下を独り召すとなれば、これは所謂『親に親しむ』ような者ではなくなってしまいませんか。」王は言った。「今の寡人と卿等が無事に泰平で安らいでいるのは、允中の祖の徳であるぞ。もし公の言の通りに彼を忘却して打ち棄てれば、善の善たらず、子孫の義にも反するであろう。」こうして允中に密坐を賜い、彼の祖について平生から言及し、晩年に引退を告げると絶影山の馬一匹を下賜し、群臣は不満にも羨望するばかりであった。

 開元二十一年、大唐遣使敎翰から説諭によれば、「靺鞨、渤海、外には蕃翰を称しているものの、内には狡猾を懷(いだ)いているから、今から出兵して罪を問おうとしており、卿も同じく兵を発し、互いに掎角となろうではないか。旧将の金庾信の孫の允中がいるという話と聞き、その人を差して将としてはどうか?」とのことで、そこで允中に金帛の若干を賜わった。ここで大王は允中と弟の允文等の四将軍に命じ、兵を率いて唐兵に合流させ、渤海を伐たせた。允中の庶孫の巖は、性は聡明かつ俊敏、方術を習うことを好み、少壮にして伊飡、入唐宿衛となり、その間に師に就いて陰陽家の法を学び、一隅を聞けば、その反応に三隅をもってし、自ら遁甲の立成の法を述べ、自らの師に披露すると、師は憮然として「お前の明達は図り知れぬが、これはその至りである。」と言い、それ以降は弟子として扱おうとはしなくなった。大曆中に帰国すると、司天大博士となって良康漢の三州の大守太守を歴任し、また執事侍郞、浿江鎭頭上となった。どこにあっても心を尽くして思いやりを持って人に当たり、三務の余暇には、彼らに六陣の兵法を教え、人は皆がこれに頼った。かつて蝗蟲が発生し、西から浿江の国境内に入り、蠢然として野を蔽い、百姓は憂い懼れた。巖は山頂に登って香を焚いて天に祈ると、突如として風雨大いに起こり、蝗蟲の尽くが死んだ。

 大曆十四年己未(つちのとひつじ)、命を受け日本國を聘(たず)ねた。その国王は、その賢明さに気付き、彼に抑留を強いようとした。ちょうどその時、大唐使臣の高鶴林が来たので、相見えることを甚だ懽れた。倭人は巖が大国に知られていることを認め、そのために留めようとはせず、すぐに帰国させた。

 夏四月、土を掘り返すほどの旋風が起こり、金庾信の墓から始祖大王の陵までもが塵霧の中の暗闇に塞がれ、人と物を弁別できないほどになり、守陵の人はその中で哭泣する悲嘆の声のようなものを聞いた。これを聞いた惠恭大王は恐懼し、大臣の金敬信を派遣して祭を致して過失を詫び、そこで鷲仙寺から田を三十結ほど納めることで冥福に資した。この寺は、金庾信が高句麗と百済の二国を平定するにあたり、軍営を立てた場所である。金庾信の玄孫の新羅執事郞の長淸は、行錄十卷を作成し、世間に向けて刊行したが、非常に言辞の誇張が多く、故にそれを削ぎ落として、その書くべき部分を取り出して、これを伝とした。

 本件について論じよう。唐の李絳は憲宗に答えた。「邪侫を遠ざけ、忠直に進み、大臣の言に与し、敬いながら信頼しましょう。小人に参与をさせてはなりませぬ。賢者と遊び、親みながら礼を尽くしましょう。不肖の者に預からせてはなりませぬ。」なんと誠実な言葉だ、この言葉は。実に君主としての要道を指し示している。だから書経には、「賢者を任用するには二心を持ってはならぬ。邪を去るには疑問を持ってはならぬ。」とあるのだ。さて、新羅の金庾信への待遇を観れば、親近にして隙間なく、委任して二心を懐かず、行業を謀るにあたって意見を聴き、怨ませるようなことをしなかったからこそ、六五の童蒙の吉を得たと考えるべきであろう。だから金庾信は自らの志を行うことができたので、上国と協謀し、三国の領土を併合して一家とし、功名をもって最期を迎えることができた。乙支文德の智略や張保皋の義勇であろうとも、中国の書物には決して多くはなく、滅亡とともに評判を失われたが、金庾信のごとき者であれば、郷人も彼を讚美頌揚し、現在に至るまで亡ぶことはない。士大夫が彼を知るのは当然であるが、蒭童牧豎までもが同様に彼について知ることができれば、その為人(ひととなり)は、必ず他の人より異才を有することになるであろう。

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≪白文≫
 麟德元年甲子三月、百濟餘衆、又聚泗沘城反叛、熊州都督、發所管兵士攻之、累日霧塞、不辨人物、是故、不能戰、使伯山來告之、庾信授之陰謀、以克之。

 麟德二年、高宗遣使梁冬碧、任智高等來聘。兼冊庾信奉常正卿平壤郡開國公、食邑二千戶。乾封元年、皇帝勑召庾信長子大阿飡三光、為左武衛翊府中郞將、仍令宿衛。

 摠章元年戊辰、唐高宗皇帝、遣英國公李勣、興師伐高句麗、遂徵兵於我。文武大王、欲出兵應之、遂命欽純、仁問為將軍。欽純告王曰、若不與庾信同行、恐有後悔。王曰、公等三臣、國之寶也。若摠向敵場、儻有不虞之事、而不得歸、則其如國何。故欲留庾信守國、則隱然若長城、終無憂矣。欽純、庾信之弟、仁問、庾信之外甥、故尊事之、不敢抗。至是、告庾信曰、吾等不材、今從大王、就不測之地、為之奈何、願有所指誨。答曰、夫為將者、作國之干城、君之爪牙。決勝否於矢石之間、必上得天道、下得地理、中得人心、然後可得成功。今我國以忠信而存、百濟以慠慢而亡、高句麗以驕滿而殆、今若以我之直、擊彼之曲、可以得志。況憑大國明天子之威稜哉。往矣勉焉、無墮乃事。二公拜曰、奉以周旋、不敢失墮。文武大王旣與英公、破平壤、還到南漢州、謂群臣曰、昔者、百濟明襛王在古利山、謀侵我國、庾信之祖武力角干、為將逆擊之、乘勝俘其王及宰相四人與士卒、以折其衝。又其父舒玄、為良州摠管、屢與百濟戰、挫其銳、使不得犯境。故邊民安農桑之業、君臣無宵旰之憂。今、庾信承祖考之業、為社稷之臣、出將入相、功績茂焉。若不倚賴公之一門、國之興亡、未可知也、其於職賞、宜如何也。群臣曰、誠如王旨。於是、授太大舒發翰之職、食邑五百戶。仍賜輿杖、上殿不趨、其諸察寮佐、各賜位一級。

 摠章元年、唐皇帝、旣策英公之功、遂遣使宣慰、濟師助戰、兼賜金帛。亦授詔書於庾信、以褒奬之、且諭入朝、而不果行。其詔書傳於家、至五世孫失焉。

 咸寧咸亨四年癸酉、是文武大王十三年。春、妖星見地震、大王憂之。庾信進曰、今之變異、厄在老臣、非國家之災也、王請勿憂。大王曰、若此則寡人所甚憂也。命有司祈禳之。夏六月、人或見戎服持兵器數十人、自庾信宅泣而去、俄而不見。庾信聞之曰、此必陰兵護我者、見我福盡、是以去、吾其死矣。後、旬有餘日、寢疾、大王親臨慰問、庾信曰、臣願竭股肱之力、以奉元首、而犬馬之疾至此、今日之後、不復再見龍顔矣。大王泣曰、寡人之有卿、如魚有水、若有不可諱、其如人民何、其如社稷何。庾信對曰、臣愚不肖、豈能有益於國家、所幸者、明上、用之不疑、任之勿貳、故得攀附王明、成尺寸功、三韓為一家、百姓無二心、雖未至太平、亦可謂小康。臣觀自古繼體之君、靡不有初、鮮克有終、累世功績、一朝隳廢、甚可痛也。伏願殿下、知成功之不易、念守成之亦難、疏遠小人、親近君子、使朝廷和於上、民物安於下、禍亂不作、基業無窮、則臣死且無憾。王泣而受之。至秋七月一日、薨于私第之正寢、享年七十有九。大王聞訃震慟、贈賻彩帛一千匹、租二千石、以供喪事、給軍樂鼓吹一百人、出葬于金山原、命有司立碑、以紀功名、又定入民戶、以守墓焉。妻智炤夫人、太宗大王第三女也。生子五人、長曰三光伊飡、次元述蘇判、次元貞海干、次長耳大阿飡、次元望大阿飡。女子四人、又庶子軍勝阿飡、失其母姓氏。後、智炤夫人、落髮衣褐、為比丘尼、時、大王謂夫人曰、今、中外平安、君臣高枕而無憂者、是太大角干之賜也、惟夫人宜其室家、儆誡相成、陰功茂焉、寡人欲報之德、未嘗一日忘于心。其餽南城租每年一千石。後、興德大王封公為興武大王。初、法敏王、納高句麗叛衆、又據百濟故地有之。唐高宗大怒、遣師來討、唐軍與靺鞨、營於石門之野。王遣將軍義福、春長等禦之、營於帶方之野。時、長槍幢獨別營、遇唐兵三千餘人、捉送大將軍之營。於是、諸幢共言、長槍營獨處成功、必得厚賞、吾等不宜屯聚、徒自勞耳。遂各別兵分散。唐兵與靺鞨、乘其未陣擊之、吾人大敗、將軍曉川、義文等死之。庾信子元述、為裨將、亦欲戰死、其佐淡凌、止之曰、大丈夫、非死之難、處死之為難也。若死而無成、不若生而圖後效。答田曰、男兒不苟生、將何面目以見吾父乎。便欲策馬而走、淡凌攬轡不放、遂不能死、隨上將軍出蕪荑嶺、唐兵追及之。居烈州大監阿珍含一吉干、謂上將軍曰、公等努力速去。吾年已七十、能得幾時活也。此時是吾死日也。便橫戟突陣而死、其子亦隨而死。大將軍等、微行入京。大王聞之、問庾信曰、軍敗如此、奈何。對曰、唐人之謀、不可測也。宜使將卒各守要害。但元述不惟辱王命、而亦負家訓、可斬也。大王曰、元述裨將、不可獨施重刑。乃赦之。元述慙懼、不敢見父、隱道遁於田園、至父薨後、求見母氏。母氏曰、婦人有三從之義、今旣寡矣、宜從於子。若元述者、旣不得為子於先君、吾焉得為其母乎。遂不見之。元述慟哭擗踴而不能去、夫人終不見焉。元述嘆曰、為淡凌所誤、至於此極。乃入大伯山太伯山。

 至乙亥年、唐兵來、攻買蘇川城、元述聞之、欲死之、以雪前恥、遂力戰有功賞、以不容於父母、憤恨不仕、以終其身。嫡孫允中、仕聖德大王、為大阿飡、屢承恩顧、王之親屬、頗嫉妬之。時、屬仲秋之望、王登月城岑頭眺望、乃與侍從官、置酒以娛、命喚允中、有諫者曰、今、宗室戚里、豈無好人、而獨召疎遠之臣、豈所謂親親者乎。王曰、今、寡人與卿等、安平無事者、允中祖之德也、若如公言、忘棄之、則非善善及子孫之義也。遂賜允中密坐、言及其祖平生、日晚告退、賜絶影山馬一匹、群臣觖望而已。

 開元二十一年、大唐遣使敎翰諭曰、靺鞨、渤海、外稱蕃翰、內懷狡猾、今欲出兵問罪、卿亦發兵、相為掎角、聞有舊將金庾信孫允中在、須差此人為將。仍賜允中金帛若干。於是、大王命允中、弟允文等四將軍、率兵會唐兵、伐渤海。允中庶孫巖、性聰敏、好習方術、少壯為伊飡、入唐宿衛、間就師、學陰陽家法、聞一隅、則反之以三隅、自述遁甲立成之法、呈於其師、師撫憮然曰、不圖吾子之明達、至於此也。從是而後、不敢以弟子待之。大曆中還國、為司天大博士、歷良、康、漢三州大守太守、復為執事侍郞、浿江鎭頭上。所至盡心撫字、三務之餘、敎之以六陣兵法、人皆便之。嘗有蝗蟲、自西入浿江之界、蠢然蔽野、百姓憂懼。巖登山頂、焚香析祈天、忽風雨大作、蝗蟲盡死。

 大曆十四年己未、受命聘日本國。其國王、知其賢、欲勒留之。會、大唐使臣高鶴林來、相見甚懽。倭人認巖為大國所知、故不敢留乃還。夏四月、旋風坌起、自庾信墓、至始祖大王之陵、塵霧暗冥、不辨人物、守陵人聞其中若有哭泣悲嘆之聲。惠恭大王、聞之恐懼、遣大臣金敬信、致祭謝過、仍於鷲仙寺、納田三十結、以資冥福。是寺、庾信平麗、濟二國、所營立也。庾信玄孫新羅執事郞長淸、作行錄十卷、行於世。頗多釀辭、故刪落之、取其可書者、為之傳。

 論曰、唐李絳對憲宗曰、遠邪侫、進忠直、與大臣言、敬而信、無使小人參焉、與賢者遊、親而禮、無使不肖預焉。誠哉、斯言也、實為君之要道也。故書曰、任賢勿貳、去邪勿疑。觀夫新羅之待庾信也、親近而無間、委任而不貳、謀行言聽、不使怨乎不以、可謂得六五童蒙之吉。故庾信得以行其志、與上國協謀、合三土為一家、能以功名終焉。雖有乙支文德之智略、張保皋之義勇、微中國之書、則泯滅而無聞、若庾信、則鄕人稱頌之、至今不亡。士大夫知之、可也、至於蒭童牧豎、亦能知之、則其為人也、必有以異於人矣。



≪書き下し文≫
 麟德元年甲子三月、百濟の餘衆、又た泗沘城に聚(つど)ひて反叛し、熊州都督、管する所の兵士を發して之れを攻め、日を累(かさ)ねて霧塞(きりふた)がり、人物を辨ぜず、是れ故に、戰ふこと能はず、伯山をして之れを告ぎに來さしめ、庾信之れに陰謀を授け、以て之れに克つ。

 麟德二年、高宗は梁冬碧、任智高等を遣使して聘(たずね)に來たり。兼ねて庾信を奉常正卿平壤郡開國公、食邑二千戶に冊す。乾封元年、皇帝勑して庾信の長子の大阿飡の三光を召し、左武衛翊府中郞將と為し、仍りて宿衛せしむ。

 摠章元年戊辰(つちのえたつ)、唐の高宗皇帝、英國公の李勣を遣り、師を興して高句麗を伐せしめ、遂に兵を我より徵す。文武大王、兵を出して之れに應じむと欲し、遂に欽純、仁問に命じて將軍と為す。欽純は王に告げて曰く、若し庾信と與に同行せざれば、恐らく後悔有らむ、と。王曰く、公等の三臣、國の寶なり。若し摠(すべ)て敵場に向かひ、儻(とも)に不虞の事有り、而りて歸するを得ざれば、則ち其れ國は如何せむ。故に庾信を留めて國を守らむと欲し、則ち隱然として長城の若くし、無憂に終えむ、と。欽純は、庾信の弟、仁問、庾信の外甥、故に尊びて之れに事え、抗はむと敢えてせざり。是に至り、庾信に告げて曰く、吾等は材にあらず、今は大王に從ひ、不測の地に就くも、之れを為すは奈何、願はくば指誨する所有らむことを、と。答へて曰く、夫れ將と為る者、國の干城、君の爪牙を作(おこ)さむ。勝否を矢石の間に於いて決するは、必ず上に天道を得、下に地理を得、中に人心を得、然る後に成功を得る可し。今の我が國は忠信を以てして存し、百濟は慠慢を以てして亡び、高句麗は驕滿を以てして殆(あやふ)く、今の我の直を以て彼の曲を擊つが若くして、以て志を得る可し。況してや大國の明天子の威稜に憑ける哉。往かむかな焉れに勉むれば、無墮乃事、と。二公拜して曰く、周旋に奉らば、失墮を敢えてせず、と。文武大王旣に英公と與に平壤を破り、還りて南漢州に到らば、群臣に謂ひて曰く、昔者(かつて)、百濟の明襛王は古利山に在り、謀りて我が國を侵し、庾信の祖の武力角干は、將と為りて之れを逆擊し、勝ちに乘じて其の王及び宰相四人と士卒を俘(とりこ)にし、以て其の衝を折る。又た其の父の舒玄は、良州摠管と為り、屢(しばしば)百濟と戰ひ、其の銳を挫き、境を犯すを得ざらせしむ。故に邊民は農桑の業に安じ、君臣は宵旰の憂を無からしむ。今、庾信は祖考の業を承け、社稷の臣と為り、將に出て相に入り、功績茂らむ。若し公の一門に倚賴(たよ)らざれば、國の興亡、未だ知る可からざるなり。其れ職賞に於いて、宜しく如何とすべきなりや。群臣曰く、誠に王の旨の如し、と。是に於いて、太大舒發翰の職、食邑に五百戶を授く。仍ち輿杖を賜ひ、上殿不趨、其の諸察寮佐、各(それぞれ)に位一級を賜へり。

 摠章元年、唐皇帝、旣に英公の功を策し、遂に遣使して慰を宣(の)べ、師を濟(わた)して戰を助け、兼ねて金帛を賜ふ。亦た詔書を庾信に授けて以て之れを褒奬し、且つ入朝を諭するも、而るに行を果たさず。其の詔書は家に傳はり、五世孫に至りて失せり。

 咸寧咸亨四年癸酉(みずのととり)、是れ文武大王十三年。春、妖星、地震に見(あらは)れ、大王之れを憂へむ。庾信進みて曰く、今の變異、厄は老臣に在り、國家の災に非ざるなり。王よ、憂ふこと勿からむを請はむ、と。大王曰く、此れ若きならば則ち寡人の甚だ憂ふ所なり、と。有司に命じて之れを祈禳す。

 夏六月、人に見る或(あ)り、戎服して兵器を持する數十人、庾信の宅より泣きて去り、俄かにして見えず。庾信之れを聞きて曰く、此れ必ず陰兵の我を護る者、我の福の盡くるに見え、是れ以てり去、吾の其れ死せむ。後に旬に餘日有り、疾(やまひ)に寢(ふ)し、大王親(みずか)ら慰問に臨むれば、庾信曰く、臣は、股肱の力を竭(つ)くし、以て元首に奉らむと願ふも、而して犬馬の疾(やまひ)此に至れり。今日の後、再び龍顔に見ゆることを復せざらむ、と。大王泣きて曰く、寡人の卿有るは、魚に水有るが如し。若し諱(さ)する可からざること有らば、其れ人民は如何せむ、其れ社稷は如何せむ、と。庾信對へて曰く、臣は愚にして不肖、豈に能く國家に有益せるは幸とする所の者、明上よ、之れを用ふるに疑はず、之れを任ずるに貳(ふたごころ)すること勿りき。故に王明に攀附せるを得、尺寸の功を成し、三韓を一家と為らしめ、百姓に二心を無からしむ。未だ太平に至らじと雖も、亦た小康と謂ふ可し。臣は古より繼體の君を觀ゆるも、初め有らざること靡(な)く、克く終り有ること鮮し。世を累(かさ)ね功績まるるも、一朝にして隳廢せらること、甚だ痛む可きなり。伏して願はくば殿下、成功の不易なるを知り、守成の亦た難きを念ひ、小人を疏み遠ざけ、君子に親しみ近づき、朝廷をして上に和さしめ、民物をして下に安ぜしめ、禍亂をして作(おこ)ることをなからしめ、基業に窮むること無かりければ、則ち臣は死して且ほ憾み無し、と。王泣きて之れを受く。秋七月一日に至り、私第の正寢に薨ず。享年七十有九なり。大王は訃を聞き震慟し、彩帛一千匹、租二千石を贈賻し、以て喪事に供し、軍樂鼓吹一百人を給ひ、金山原に出葬し、有司に命じて碑を立たせしめ、以て功名を紀(しる)す。又た民戶を定入し、以て墓を守らせしめむ。妻の智炤夫人、太宗大王の第三女なり。子を五人生み、長は曰く三光伊飡、次は元述蘇判、次は元貞海干、次は長耳大阿飡、次は元望大阿飡なり。女子は四人、又た庶子の軍勝阿飡は、其の母の姓氏を失す。後に智炤夫人、髮を落して褐を衣(き)、比丘尼と為り、時に大王は夫人に謂ひて曰く、今や中外は平安、君臣は枕を高くして憂ひ無き者、是れ太大角干の賜なり。夫人を惟みれば、其の室家を宜しくし、儆誡すること相ひ成り、陰功は茂れり。寡人は之の德に報ゆるを欲し、未だ嘗て一日も心に忘るることなし、と。其れ南城に租を每年一千石餽(おく)る。後に興德大王は公を封じて興武大王と為す。初め、法敏王は高句麗の叛衆を納め、又た百濟の故地に據ること之れ有り。唐高宗大いに怒り、師を遣りて討ちに來、唐軍と靺鞨、石門の野に營す。王は將軍の義福、春長等を遣りて之れを禦(ふせ)ぎ、帶方の野に營せり。時に長槍幢は獨り別に營し、唐兵三千餘人と遇ひ、捉えて大將軍の營に送る。是に於いて、諸幢共に言(まふ)せるは、長槍營は獨處のみ成功し、必ず厚く賞を得、吾等の屯聚するは宜しからず、徒(いたずら)に自ら勞せしむのみならむ、と。遂に各(おのおの)別に兵は分散す。唐兵と靺鞨、其の未だ陣ならざるに乘じて之れを擊ち、吾人大いに敗り、將軍の曉川、義文等は之れに死す。庾信の子の元述、裨將と為り、亦た戰死を欲せるも、其の佐の淡凌、之れを止めて曰く、大丈夫、死の難きに非じ、死の為す處は難きなり。若し死して成無からば、生にして後效を圖するに若かず、と。答(田)へて曰く、男兒の生を苟(おろそか)にざれば、將に何の面目をして以て吾の父に見えむか、と。便りて馬を策(むちう)ちて走らむことを欲せるも、淡凌は轡を攬(つか)みて放さず、遂に死せること能はず、上將軍に隨ひて蕪荑嶺を出ずるも、唐兵追ひて之れに及ぶ。居烈州大監の阿珍含一吉干、上將軍に謂ひて曰く、公等は努力して速く去るべし。吾の年は已に七十、幾の時の活くるを得るに能ふや。此の時ぞ、是れ吾の死の日ぞや。便りて戟を橫たえ陣に突して死し、其の子も亦た隨ひて死す。大將軍等、行きて入京すること微(すく)なし。大王は之れを聞き、庾信に問ひて曰く、軍敗るること此の如きなるは奈何、と。對へて曰く、唐人の謀(はかりごと)、測る可からざるなり。宜しく將卒をして各(おのおの)要害を守らしむるべし。但し元述は王命を辱むるを惟ふことなく、而るに亦た家訓を負ひ、斬る可きなり、と。大王曰く、元述は裨將なり。獨り重刑を施す可からず、と。乃ち之れを赦す。元述は慙(は)じ懼れ、父に見えむことを敢てせず、隱道して田園に遁(のが)れ、父の薨ずるに至る後、母氏に見ゆるを求む。母氏曰く、婦人に三從の義有り。今は旣に寡なり。宜しく子に從ふべし。元述なる者の若きは、旣に先君に子と為るを得ず、吾は焉ぞ其の母と為るを得むや、と。遂に之れに見えず。元述は慟哭して擗踴して去ること能はず、夫人終に焉れに見ゆるなし。元述嘆きて曰く、淡凌の誤まらせらるる所と為らむこと、此の極に於いて至れり、と。乃ち大伯山(太伯山)に入る。

 乙亥(きのとい)の年に至り、唐兵來たり、買蘇川城を攻め、元述之れを聞き、之れに死し、以て前恥を雪がむと欲し、遂に力戰して功賞有り、以て父母に容られざり、憤恨して仕えず、以て其の身を終ゆ。嫡孫の允中、聖德大王に仕え、大阿飡と為り、屢(しばしば)恩顧を承け、王の親屬、頗る之れに嫉妬せり。時に仲秋の望に屬し、王は月城の岑頭に登り眺望すれば、乃ち侍從官と與に、酒を置きて以て娛(たの)しみ、允中を喚ばむと命ずれば、諫むる者有りて曰く、今は宗室戚里、豈に好人無し、而るに獨り疎遠の臣を召さば、豈に所謂親に親しむ者ならむや、と。王曰く、今の寡人と卿等、安平にして無事なるは、允中の祖の德なり。若し公の言の如く、之れを忘れ棄つれば、則ち善の善なる及び子孫の義に非ざるなり、と。遂に允中に密坐を賜ひ、其の祖を平生に言及し、日晚にして退を告ぐれば、絶影山の馬一匹を賜へるも、群臣は觖望するのみ。

 開元二十一年、大唐遣使敎翰の諭して曰く、靺鞨、渤海、外に蕃翰を稱するも、內に狡猾を懷(いだ)けるに、今出兵して罪を問はむと欲し、卿も亦た兵を發し、相ひ掎角と為らむとす。舊將の金庾信の孫の允中の在る有らむと聞き、須らく此の人を差して將為(た)らしむるべし、と。仍りて允中に金帛を若干賜へる。是に於いて、大王は允中と弟允の文等四將軍に命じ、兵を率いて唐兵に會せしめ、渤海を伐つ。允中の庶孫の巖、性は聰敏、方術を習ふことを好み、少壯にして伊飡、入唐宿衛と為り、間(ま)に師に就き、陰陽家の法を學び、一隅を聞かば、則ち之れに反るに三隅を以てし、自ら遁甲の立成の法を述べ、其の師に呈すれば、師撫(憮)然として曰く、吾子の明達を圖らず、此に於いて至るなり、と。是れに從りて後、弟子を以て之れを待することを敢てせず。大曆中に國へ還り、司天大博士と為り、良康漢の三州の大守太守を歷(へ)、復た執事侍郞と、浿江鎭頭上と為れり。至る所に心を盡して撫し字(はぐく)み、三務の餘、之れに敎ゆるに六陣の兵法を以てし、人皆之れに便る。嘗て蝗蟲有り、西より浿江の界(さかひ)に入り、蠢然として野を蔽ひ、百姓憂ひ懼る。巖は山頂に登り、香を焚きて天に析(祈)らば、忽として風雨大いに作(おこ)り、蝗蟲盡く死す。

 大曆十四年己未(つちのとひつじ)、命を受け日本國を聘(たず)ぬ。其の國王、其の賢を知り、之れを留めむと勒(し)いむと欲せり。會(たまたま)、大唐使臣の高鶴林來たり、相ひ見え甚だ懽る。倭人は巖を認めて大國の知らるる所と為り、故に留むること敢てせず乃ち還せり。

 夏四月、旋風坌起し、庾信の墓より始祖大王の陵に至るまで、塵霧暗冥、人物を辨ぜず、守陵の人は其の中に哭泣せる悲嘆の聲有るが若きを聞けり。惠恭大王、之れを聞きて恐懼し、大臣の金敬信を遣り、祭を致して過ちを謝すれば、仍ち鷲仙寺に於いて、田三十結を納め、以て冥福に資す。是の寺、庾信の麗濟二國を平ぐに、營立する所なり。庾信の玄孫の新羅執事郞の長淸、行錄十卷を作(おこ)し、世に於いて行ふ。頗る釀辭すること多く、故に之れを刪落し、其の書する可き者を取り、之れを傳と為せり。

 論じて曰く、唐の李絳は憲宗に對へて曰く、邪侫を遠ざけ、忠直に進み、大臣の言に與(くみ)し、敬ひて信あり、小人をして參らせしむこと無からむ。賢者と遊び、親みて禮あり、不肖をして預らせしむること無からむ。誠なる哉、斯の言や、實に君の要道を為せるなり。故に書に曰く、賢に任ずるに貳する勿れ、邪を去るに疑う勿れ、と。夫れ新羅の庾信を待するを觀るや、親近にして間無し、委任して貳(ふたごころ)なし、行を謀りて言聽き、怨ませしめざらむこと以てせざるは、六五の童蒙の吉を得ると謂ふ可し。故に庾信は以て其の志を行ふを得、上國と協謀し、三土を合はせて一家と為し、功名を以て終ゆるに能へり。乙支文德の智略、張保皋の義勇有ると雖も、中國の書に微(な)かりければ、則ち泯滅にして聞無く、庾信の若くなれば、則ち鄕人之れを稱頌し、今に至りて亡ぶことあらじ。士大夫之れを知るは、可なり。蒭童牧豎に至るは、亦た能く之れを知らば、則ち其の為人(ひととなり)や、必ず以て人より異(すぐ)るる有らむ、と。