居柒夫

居柒夫

 居柒夫(あるいは荒宗とも伝わる)の姓は金氏、奈勿王の五世孫、祖は仍宿角干、父は勿力伊飡、居柒夫は若いころから気ままであったが、遠志を心に抱いていた。
 髮を短く切り僧となって四方を遊観し、高句麗の様子を探ろうとして、その国境に入ると、法師の惠亮が堂を開いて經を説いていると聞き、そのまま經を講義を聴こうと詣でた。
 ある日中、惠亮は質問した。
「そなたは遥々なんのためにここに来たのか。」
 答えて言った。
「某(それがし)は新羅人です。」
 その夕べ、法師が招来したので相まみえると、握手して密言した。
「私は多くの人を見てきたが、そなたの容貌を見れば、常人を外れた流れに定まっておられながら、そのほとんどが浮気心で占められておる。
 答えて言った。
「某(それがし)は偏方に生まれたので、まだ道理を聞いたことがありませんでした。師の徳の誉れを聞いて、平伏して風下に走らせていただきました。願わくば師よ、私を拒むことなく、最期まで蒙昧なる私を解き放っていただきたい。」
 師曰く、
「老僧は不敏であり、あなた様のことに気付くことはできなかったが、この国は小さいとはいえ、人のことを察知する者がいないとは思えぬ。あなた様は捕えられることを恐れ、このことを密かにお告げ致そう。どうか急いで帰られよ。」
 居柒夫が帰国しようとすると、師はまた語った。
「そなたと相まみえてみれば雄大な志を持ちながら鷹のように鋭い目つきをしておられる。将来は必ず将帥となることだろう。もし兵をもって行軍するなら、私を害さないでいただきたいものだ。」
 居柒夫は言った。
「もし師の言の通りであれば、師とその友好な者には、白日の如く相対しましょう。」
 こうして帰国すると、自らの本分に立ち返り、仕官して従事し、職位は大阿飡にまで出世した。
 眞興大王六年乙丑、諸文士を集めて国史を修撰せよとの朝旨を承り、更に官位に波珍飡が加えられた。
 十二年辛未、王が居柒夫と仇珍大角飡、比台角飡、耽知迊飡、非西迊飡、奴夫波珍飡、西力夫波珍飡、比次夫大阿飡、未珍夫阿飡らの八将軍に、百濟と共同で、高句麗に侵攻せよと命じた。
 百濟人が先攻して平壤を攻撃すると、居柒夫たちは勝ちに乗じて竹嶺以外、高峴以內の十郡を略取した。
 そこに惠亮法師が自らの徒衆を集めて、路上に脱出していた。居柒夫は下馬し、軍禮をもって拝揖し、前に進んでいった。
「昔、遊学の日、法師の恩を蒙り、性命を保つことができました。今回、邂逅相遇しましたが、何をもって恩に報いればよいかわかりません。」
 答えて言った。
「現在、我が国の政治は乱れ、もはや滅亡まで日がないであろう。貴殿の領地に送致して下さらないだろうか。」
 こうして居柒夫と同乗して帰り、これを王に会見させると、王は僧統に任命し、初めて百座講會と八關の法を設置することになった。
 眞智王元年丙申、居柒夫は上大等となることで軍国事務を自らに任じることになったが、老いたため、自宅で死去した。享年七十八。

 

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 居柒夫、或云荒宗、姓金氏、奈勿王五世孫、祖仍宿角干、父勿力伊飡、居柒夫少跅弛有遠志。
 祝髮為僧、遊觀四方、便欲覘高句麗、入其境、聞法師惠亮開堂說經、遂詣聽講經。
 一日、惠亮問曰、
 汝彌從何來。
 對曰、某新羅人也。
 其夕、法師招來相見、握手密言曰、
 吾閱人多矣、見汝容貌、定非常流、其殆有異心乎。
 答曰、
 某生於偏方、未聞道理、聞師之德譽、來伏趨下風、願師不拒、以卒發蒙。
 師曰、
 老僧不敏、亦能識子、此國雖小、不可謂無知人者、恐子見執、故密告之、宜疾其歸。
 居柒夫欲還、師又語曰、
 相汝鷰頷鷹視、將來必為將帥。
 若以兵行、無貽我害。
 居柒夫曰、
 若如師言、所不與師相好者、有如皦日。
 遂還國返本從仕、職至大阿飡。
 眞興大王六年乙丑、承朝旨、集諸文士、修撰國史、加官波珍飡。
 十二年辛未、王命居柒夫及仇珍大角飡、比台角飡、耽知迊飡、非西迊飡、奴夫波珍飡、西力夫波珍飡、比次夫大阿飡、未珍夫阿飡等八將軍、與百濟侵高句麗。
 百濟人先攻破平壤、居柒夫等、乘勝取竹嶺以外、高峴以內十郡。
 至是、惠亮法師、領其徒、出路上、居柒夫下馬、以軍禮揖拜、進曰、
 昔、遊學之日、蒙法師之恩、得保性命、今、邂逅相遇、不知何以為報。
 對曰、
 今、我國政亂、滅亡無日、願致之貴域。
 於是、居柒夫同載以歸、見之於王、王以為僧統、始置百座講會及八關之法。
 眞智王元年丙申、居柒夫為上大等、以軍國事務自任、至老終於家、享年七十八。

 居柒夫、或(あるいは)荒宗と云ふ、姓は金氏、奈勿王の五世孫、祖は仍宿角干、父は勿力伊飡、居柒夫は少くして跅弛、遠志に有り。
 祝髮して僧と為り、四方を遊觀し、便りて高句麗を覘はむと欲し、其の境に入り、法師の惠亮の堂を開き經を說くを聞き、遂に經を講ずるを聽かむと詣(まい)れり。
 一日、惠亮問ひて曰く、
 汝は彌(はるばる)何に從ひて來たり。
 對へて曰く、
 某(それがし)は新羅人なり。
 其の夕、法師招來して相ひ見え、握手して密言して曰く、
 吾は人多く閱するや、汝の容貌を見れば、非常の流を定むるも、其び殆(ほとん)どに異心を有らしめんや。
 答へて曰く、
 某(それがし)は偏方に生まれ、未だ道理を聞かず、師の德譽を聞き、伏しに來たりて下風に趨る、願はくば師よ、拒まず、卒を以て蒙を發せむか。
 師曰く、
 老僧は不敏にして亦た子を識るに能はず、此の國は小さきと雖も、人を知る者無しと謂ふ可からず、子の執らるるを恐れ、故に密かに之れを告ぐ、宜しく其の歸を疾ぐべし、と。
 居柒夫は還らむと欲するも、師又た語りて曰く、
 汝と相へば鷰頷にして鷹視、將來必ず將帥と為る。
 若し兵を以て行かば、我に害を貽すこと無かれ、と。
 居柒夫曰く、
 若し師の言の如くあらば、與師と相ひ好む所の者、皦日の如く有らむ、と。
 遂に國に還り本に返り仕に從ひ、職は大阿飡に至る。
 眞興大王六年乙丑、朝旨を承け、諸文士を集め、國史を修撰せしめ、官に波珍飡を加ふ。
 十二年辛未、王は居柒夫及び仇珍大角飡、比台角飡、耽知迊飡、非西迊飡、奴夫波珍飡、西力夫波珍飡、比次夫大阿飡、未珍夫阿飡等八將軍に命じ、百濟と與させしめ、高句麗を侵せしむ。
 百濟人は先攻して平壤を破り、居柒夫等は勝ちに乘じて竹嶺以外、高峴以內の十郡を取る。
 是に至り、惠亮法師、其の徒を領め、路上に出で、居柒夫は下馬し、軍禮を以て揖拜し、進みて曰く、
 昔、遊學の日、法師の恩を蒙り、性命を保つを得、今、邂逅相遇し、何を以て報を為さむと知らず、と。
 對へて曰く、
 今、我が國の政亂、滅亡に日は無し、之れを貴域に致さむことを願ふ、と。
 是に於いて、居柒夫は同じく載りて以て歸し、之れを王に見えせしむれば、王は以て僧統と為し、始めて百座講會及び八關の法を置く。
 眞智王元年丙申、居柒夫は上大等と為り、以て軍國事務自ら任め、家に於いて老終に至り、享年七十八。