金仁問、字仁壽、太宗大王第二子也。
幼而就學、多讀儒家之書、兼涉莊老浮屠之說。
又善隸書射御鄕樂、行藝純熟、識量宏弘、時人推許。
永徽二年、仁問年二十三歲、受王命、入大唐宿衛、高宗謂涉海來朝、忠誠可尚、特授左領軍衛將軍。
四年、詔許歸國覲省、太宗大王授以押督州摠管。
於是、築獐山城、以設險、太宗錄其功、授食邑三百戶。
新羅屢為百濟所侵、願得唐兵為援助、以雪羞恥、擬諭宿衛仁問乞師。
會、高宗、以蘇定方為神丘道大摠管、率師討百濟。
帝徵仁問、問道路險易、去就便宜。
仁問應對尤詳、帝悅制授神丘道副大摠管、勑赴軍中。
遂與定方濟海、到德物島。
王命太子、與將軍庾信、眞珠、天存等、以巨艦一百艘、載兵迎延之。
至熊津口、賊瀕江屯兵、戰破之、乘勝入其都城滅之。
定方俘王義慈及太子孝、王子泰等、廻唐。
大王嘉尚仁問功業、授波珍飡、又加角干。
尋、入唐宿衛如前。
龍朔元年、高宗召謂曰、
朕旣滅百濟、除爾國患、今高句麗負固、與穢貊同惡、違事大之禮、棄善隣之義、朕欲遣兵致討、爾歸告國王、出師同伐、以殲垂亡之虜。
仁問便歸國、以致帝命、國王使仁問與庾信等、練兵以待。
皇帝命邢國公蘇定方、為遼東道行軍大摠管、以六軍、長驅萬里、迕麗人於浿江、擊破之、遂圍平壤、麗人固守、故不能克。
士馬多死傷、糧道不繼。
仁問與留鎭劉仁願、率兵兼輸米四千石、租二萬餘斛、赴之、唐人得食、以大雪、解圍還。
羅人將歸、高句麗謀要擊於半塗、仁問與庾信、詭謀夜遁。
麗人翌日覺而追之、仁問等、廻擊大敗之、斬首一萬餘級、獲人五千餘口而歸。
仁問又入唐、以乾封元年、扈駕登封泰山、加授右驍衛大將軍、食邑四百戶。
摠章元年戊辰、高宗皇帝遣英國公李勣、帥師伐高句麗、又遣仁問徵兵於我。
文武大王與仁問、出兵二十萬、行至北漢山城、王住此、先遣仁問等、領兵會唐兵、擊平壤月餘、執王臧、仁問使王跪於英公前、數其罪、王再拜、英公禮答之、卽以王及男産、男建、男生等還。
文武大王、以仁問英略勇功、特異常倫、賜故大琢角干朴紐食邑五百戶。
高宗亦聞仁問屢有戰功、制曰、
爪牙良將、文武英材、制爵疏封、尤宜嘉命。
仍加爵秩、食邑二千戶。
自後、侍衛宮禁、多歷年所。
上元元年、文武王納高句麗叛衆、又據百濟故地。
唐皇帝大怒、以劉仁軌為雞林道大摠管、發兵來討、詔削王官爵。
時、仁問為右驍衛員外大將軍臨海郡公、在京師、立以為王、令歸國、以代其兄、仍策為雞林州大都督開府儀同三司、仁問懇辭不得命、遂上道。
會、王遣使、入貢且謝罪、皇帝赦之、復王官爵、仁問中路而還、亦復前銜。
調露元年、轉鎭軍大將軍行右武威衛大將軍、載初元年、授輔國大將軍上柱國臨海郡開國公左羽林軍將軍。
延載元年四月二十九日、寢疾薨於帝都、享年六十六。
訃聞、上震悼、贈襚加等、命朝散大夫行司禮寺大醫署令陸元景、判官朝散郞直司禮寺某等、押送靈樞。
孝照大王追贈太大角干、命有司、以延載二年十月二十七日、窆于京西原。
仁問七入大唐、在朝宿衛、計月日、凡二十二年。
時、亦有良圖海飡、六入唐、死于西京、失其行事始末。
金仁問、字は仁壽、太宗大王の第二子である。
幼くして学問に就き、多く儒家の書物を読み、同時に老荘浮屠の説を広く学んでいる。また隸書射御鄕樂をよくしていたので、徳行や技藝は純熟、見識や度量も広大で、当時の人は崇敬の念を持たれ、称讃されていた。
永徽二年、金仁問の年齢は二十三歲、王の命を受けて大唐の宿衛に入ると、海を渡って来朝したことから、高宗はその忠誠敬うべきだとして、左領軍衛將軍を特授した。
四年、帰国して親の見舞いをすることを許可するとの詔が下されると、太宗大王は押督州摠管を授けた。そのため獐山城を築いて険難を設けると、太宗はその功績を記録し、食邑三百戶を授けた。
新羅は頻繁に百濟に侵攻され、唐兵の援助を得ることで、羞恥を雪ごうと願い、宿衛の仁問を諭して軍隊を乞わせようとした。ちょうどそのとき、高宗は蘇定方を神丘道大摠管に任命し、軍隊を率いて百濟を討伐しようとしていた。帝は金仁問を召し出し、道路の険易、去就や便宜を諮問した。金仁問の応対がすぐれて詳細であったので、歓んだ帝は神丘道副大摠管を制授し、軍中に赴くように勑した。
こうして蘇定方と海を渡り、德物島に到着した。王は太子に命じ、將軍の庾信、眞珠、天存等と巨艦一百艘に兵を搭載し、これを迎え入れた。熊津口までたどり着くと、賊が江に迫って屯兵したが、これと戦って撃破し、勝ちに乗じてその都城に入り、これを滅ぼした。蘇定方は王の義慈と太子の孝、王子の泰たちを生け捕りにし、唐に帰った。大王は金仁問の功業を褒め称え、波珍飡を授け、また角干を加え、その次に、前のように唐の宿衛に入らせた。
龍朔元年、高宗が召して言った。
「朕は既に百濟を滅ぼし、そなたの国の患を除いたが、今回は高句麗がその険難に恃み、穢貊と悪事を共同で行い、事大の禮に違い、善隣の義を棄て、朕は討伐のために派兵しようとしている。そなたも帰国して国王に告げ、軍隊を出動して共同で討伐に向かうことで、垂亡の虜を殲滅しようではないか。」
こうして金仁問は帰国すると、帝命を知らせ、国王は金仁問と庾信たちに練兵をさせて待った。
皇帝は邢國公蘇定方を遼東道行軍大摠管に任命し、六軍に万里を長駆させると、麗人が浿江で抗戦したが、これを擊ち破り、遂に平壤を包囲したが、麗人は守りを固めたので、勝つことはできず、士馬の多くが死傷し、兵糧の道も途絶えた。金仁問と留鎭の劉仁願が兵を率いると同時に米四千石、租二萬餘斛を輸送して赴くと、唐人は食料を得たが、大雪が降ったので、包囲を解いて帰還した。羅人も帰ろうとしていたが、高句麗は道の半ばで要擊しようとしたが、金仁問と金庾信は詭謀して夜に遁走した。麗人は翌日目覚めると、これを追跡したが、金仁問たちが反転して攻撃し、大いにこれを破り、一万級以上を斬首し、五千口以上を捕虜にして帰国した。
金仁問はまた唐に入り、乾封元年には天使の御車に付き添って泰山に登封し、右驍衛大將軍、食邑四百戶を追加で授かった。
摠章元年戊辰、高宗皇帝は英國公の李勣を派遣して軍隊を統帥させて高句麗を討伐させ、同時に仁金問を我が国に派遣して徵兵させた。
文武大王と金仁問が二十万任を出兵し、北漢山城まで行軍すると、王がそちらに住き、先に金仁問等に兵を率いさせて派遣し、唐兵に会した。平壤を攻撃することひと月以上、王の臧を捕縛し、金仁問は王に英公の前に跪かせしめ、その罪を数えさせ、王が再度拜礼すれば、英公もこれに禮答し、そのまま王と男産、男建、男生たちを伴って帰国した。
文武大王は、金仁問の英略勇功、特異常倫であることをもって、大琢角干朴紐食邑五百戶を賜った。
高宗はまた金仁問が頻繁に戦功を挙げることを聞いて、制を下した。
「爪牙良將、文武英材、制爵疏封、尤宜嘉命。よって爵秩、食邑二千戶を加える。」
この後、宮禁に侍衛し、久遠の時間を経た。
上元元年、文武王は高句麗の叛衆を受け入れ、また百濟の故地を占領した。
唐皇帝は大いに怒り、劉仁軌を雞林道大摠管に任命し、兵を出撃させて討伐に来、詔を下して王の官爵を削った。
この時に京師にいた金仁問を右驍衛員外大將軍臨海郡公に任命して王に擁立し、帰国させて兄の代わりにし、そのため雞林州大都督開府儀同三司に策命した。金仁問は真心からはっきりと辞退して命令を聞かないようにしていたが、結局は帰国への道を出発することになった。
ちょうどそのとき、王は遣使して入貢し、しかも謝罪をしたので、皇帝はそれを赦し、王の官爵を元に戻したので、金仁問は旅路の途中で帰還し、また前の通りに官位を元に戻した。
調露元年、鎭軍大將軍行右武威衛大將軍に転命し、載初元年、輔國大將軍上柱國臨海郡開國公左羽林軍將軍を授かった。
延載元年四月二十九日、疾病に臥して帝都にて死去した。享年六十六。
訃報を聞いた上帝は震悼し、襚加等を贈り、朝散大夫行司禮寺大醫署令陸元景、判官朝散郞直司禮寺某等に追命し、霊樞に押送した。
孝照大王は太大角干を追贈し、有司に命じ、延載二年十月二十七日をもって京西原に葬らせた。
金仁問七たび大唐に入り、朝廷の宿衛に在住し、月日を賢さんしてみれば、おおよそ二十二年。時にまた良圖海飡という者がいて、六たび唐に入り、西京で死去したが、その行事始末は失われている。