焚巣館 -三国史記 第四十五巻 昔于老伝-

昔于老



現代語訳
 昔于老、奈解尼師今の息子である。〈あるいは、角干の水老の息子であるとも伝わる。〉
 助賁王二年(231年)七月、伊飡であったことから大将軍となり、甘文国を討ちに出てこれを破り、その地を郡県とした。
 四年(233年)七月、倭人が侵略に来たので、于老は沙道で迎え撃ち、風に乗せて火を放って賊の戦艦を焼き払った。賊は溺死し、しばらくして殺し尽くされた。

 十五年(244年)正月、階級が上がって舒弗邯となり、同時に軍事の長となった。

 十六年(245年)、冬十月に高句麗が北の国境付近に侵攻したので、そちらに出撃したが勝てず、退却して馬頭柵に留まった。夜になると、士卒が寒さに苦しんだので、于老は自らの身をもってねぎらいに見舞い、自らの手で焚き木を焼いて彼らの暖をとったので、群衆の心はあたかも綿衣に包まれるかのような喜びを感じた。

 沾解王の在位には、かつての沙梁伐国は我が属国であったが、突然に背いて百済に帰順した。于老は兵を将帥して往き、これを討ち滅ぼした。

 七年(253年)癸酉 みずのととり 、倭国の使臣の葛耶古 かつやこ は館に滞在していた。于老はその主宰となり、客と一緒に戱れて「早晩、お前の国の王を塩取り奴隷とし、王妃を飯炊き女にしてやろう。」と言った。それを聞いた倭王は怒り、将軍の于道朱君 うぢすくぬ を派遣して我が国を討たせようとし、大王は出て于柚村に留まった。于老は「今のこの災難は、私が言葉を慎まなかったことによるものです。私がこれに当たらねばなりません。」と言い、そのまま倭軍に接触して言った。「前日の言葉はあの場での冗談に過ぎません。まさか軍を起こしてこちらに来られようとは、そんなつもりはなかったのです。」倭人は返答せずに彼を捕獲すると、柴を積んでその上に載せ、彼を焼き殺してそのまま去った。于老の息子は幼弱の身であり、まだ步くこともできなかったので、人が馬に乗って彼を抱えて帰り、後に訖解尼師今となった。

 味鄒王の時、倭国大臣が聘問に来たが、于老の妻は国王に、私的に倭の使臣を饗したいと請うた。その者が泥酔すると、壮士を使わして下の庭まで引きずりおろし、それを焼くことで以前の怨みに報いた。倭人は忿 いか り、金城を攻めに来たが、勝つことなく引き帰した。

 本件について論じよう。于老は当時の大臣となって軍事と国事を一手に引き受け、戦えば必ず勝ち、勝たずとも敗れることがなかったのは、とりもなおさず彼の策謀が人類を超越するほどのものであったことに由来するのは間違いない。それなのに、たったの一言が道理に悖ったことによって自らを死に導き、しかもふたつの国に兵を交えさせた。自身の妻も怨みに報いることができたとはいえ、これも変事であって正しいことではなかった。もしこのようなことがなければ、彼の功業も同じく記録されたであろうに……。

注記
(※1)甘文国
 現在の韓国慶尚北道金泉市とされる。

(※2)沙道
 現在の韓国慶尚北道浦項市とされる。

(※3)馬頭柵
 現在の韓国京畿道抱川市にあったとされる。

(※4)舒弗邯
 現代韓国語では서불한 ソボルカン 。新羅の骨品制における一等官の伊伐飡の別名とされている(が、訳者は違うと思う)。日本書紀には、昔于老と同一だと思われる人物として宇流助富利智干 うるそほりちか の名が登場し、宇流 うる は于老、助富利智干 そほりちか 舒弗邯 ソボルカン を指していると思われる。日本書紀の宇流助富利智干 うるそほりちか は新羅王とされている。

(※5)沙梁伐国
 沙伐国とも表記する。現在の韓国慶尚北道尚州市とされる。後の新羅の沙梁部。ただし、申采浩は沙梁を朴赫居世の国号の徐羅伐と同源としている。

(※6)葛耶古 かつやこ
 日本書紀に登場する葛城襲津彦 かつらぎそつひこ のことだと思われるが不明。葛城襲津彦は、日本書紀において神功皇后の命令に忠実な臣下として名が登場する。繰り返し朝鮮半島に攻め込んでいた人物で、同じく朝鮮半島を頻りに攻撃したとの記録が日本書紀に引用された百済記に残る沙至比跪 さちひこ と同一人物とされる。百済記によれば、倭国に人質に取られていた新羅王子の微叱許智伐旱 みしこしほつかん (未斯欣)を脱出させた毛麻利叱智 もまりしち (朴提上)らを焼き殺したのち、新羅に攻め込んだとされ、このエピソードは三国史記の朴提上伝にも似たものが掲載されている。また、日本書紀引用の百済記には沙至比跪 さちひこ は新羅に侵攻したが現地の美女に篭絡されて同盟国の加羅を襲撃し、そのことを天皇から咎められたがために恥じて自ら石の洞穴に入って死んだと記されている。
 日本書紀によれば、葛城襲津彦は16代仁徳天皇の皇后である磐之媛の父親であり、ゆえに17代、18代、19代の天皇(大王)の祖父でもあったので、外戚として葛城氏は権勢を振るったが、日本書紀によれば当時の葛城氏の当主であった葛城円 かつらぎのつぶら が19代天皇を暗殺した眉輪王 まよわのみこ を匿い、これによって20代雄略天皇から粛清され、これを期に没落した。

(※7)于道朱君 うぢすくぬ
 内宿禰 うちすくね あるいは宇治宿禰 うぢすくね の音写と思われる。宿禰はヤマト政権における大臣の呼称。新羅に攻め込んだ内宿禰といえば、おそらくは日本書紀に登場する武内宿禰 たけしのうちすくね と思われるが、その実は不明。「内宿禰」という名を有する日本書紀の登場人物には、武内宿禰の弟とされる甘美内宿禰 うましのうちすくね がいる。但し、こちらは新羅に攻め込んだとの記述はない。
 武内宿禰は※6の葛城襲津彦 かつらぎそつひこ の父親とされ、日本書紀においては息子の彼や神功皇后とともに新羅に攻め入ったと記録される。12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇、15代応神天皇、16代仁徳天皇の5代に仕え、312歳まで生き延びたとされ、この長寿について宋史日本伝にも記録がある。そのため武内宿禰という名は世襲されたものだとする説もある。

(※8)于柚村
 現在の大韓民国慶尚北道東北部の蔚珍郡に比定される。于柚村が韓国読みの「于柚(우유 ウズ )」と韓国語の「村(마을 マウル )」から成ることから太秦 うずまさ の語源とする説もあるが、現状は一般的な説とは言い難い。

(※9)味鄒王の時の記事
 日本書紀の神功皇后紀九年十二月の一云 あるふみにいはく には、同じ事件を記したと思わしき記事がある。以下に引用しよう。

 一云、禽獲新羅王、詣于海邊、拔王臏筋、令匍匐石上、俄而斬之埋沙中。則留一人、爲新羅宰而還之。然後、新羅王妻、不知埋夫屍之地、獨有誘宰之情、乃誂宰曰、汝、當令識埋王屍之處、必敦報之。且吾爲汝妻。於是宰信誘言、密告埋屍之處、則王妻與國人、共議之殺宰、更出王屍葬於他處。乃時取宰屍、埋于王墓土底、以舉王櫬、窆其上曰、尊卑次第、固當如此。於是天皇聞之、重發震忿、大起軍衆、欲頓滅新羅。是以、軍船滿海而詣之、是時新羅國人悉懼、不知所如、則相集共議之、殺王妻以謝罪。

  あるふみ いは く、新羅 しらき きみ 禽獲 とりこ にして海邊 うみのへ まひ り、 きみ あはた すぢ を拔きて石の上に匍匐 はひつく ばらせ むれば、俄かにして之れを斬りて すな うち うず む。則ち一人 ひとり を留め、新羅 しらき みこともち して之れに還りたり。然る後に新羅 しらき きみ の妻は夫の屍を ずむの ところ を知らず、獨り みこともち したごころ を誘ふ有らば、乃ち みこともち もてあそ びて曰く、 なむぢ よ、 まさ きみ しかばね を埋づむるの ところ むれば、必ず敦く之れに報い、且も吾は なむぢ の妻と爲らむ、と。是に於いて みこともち は誘ひの ことば まこと とし、密かに しかばね を埋づむるの ところ を告ぐれば、則ち きみ の妻と國の人は、共に之れを はか りて みこともち を殺し、更に きみ の屍を出だして他處 よそ に葬りたり。乃ち時に みこともち しかばね を取り、 きみ の墓の土底 つちぞこ に埋め、以ちて きみ ひつぎ を舉げ、其の上に うづ めて曰く、尊きと卑きの次第 つぎて は、 もと より當に此の如し、と。是に於いて天皇 すめらみこと は之れを聞き、震えと忿 いか りを重ねて おこ し、大いに軍衆 いくさひと を起こし、 とみ 新羅 しらぎ を滅ぼさむと おも ふ。是れ以ちて、軍船 いくさふね は海に滿ちて之れに まひ らば、是の時に新羅 しらき の國の人は悉く懼れ、 く所を知らず、則ち相ひ集ひて共に之れを はか り、 きみ の妻を殺して以ちて罪を謝りたり。

 一説によれば、新羅王を捕虜にして海辺まで連れて行き、王の膝の皿の筋を抜き取り、石の上に這いつくばらせ、にわかにこれを斬って砂の中に埋めた。そこで一人を駐留させて新羅の宰相とし、そのまま帰国した。その後、新羅王の妻は夫の屍が埋められた場所を知らなかったので、独りで宰相を誘惑し、宰相を思いのままにもてあそんで操ろうとした。「お前さんよ、新羅王の遺体を埋めた場所を教えてくれれば、そのことに必ず厚く報い、それだけでなく私はお前さんの妻になります。」ここで宰相は甘言を信じ、密かに遺体を埋めた場所を告げると、そのまま新羅王の妻と新羅国の人はそのことを共に議論し、宰相を殺し、更には新羅王の遺体を掘り起こして他所に葬った。その時、宰相の遺体を持っていき、新羅王の墓の土底に埋め、王の棺桶を挙げ、その上に埋葬して「尊卑の序列は、最初からこうだったのだ。」と言った。そこでこれを聞いた天皇は、重ねて怒りに震え、大勢の軍を起こして何としてでも新羅を滅ぼしてやろうとした。これによって、軍船が海を満たしてそちらに向かうと、この時になって新羅国の人はことごとくが恐懼し、どうしてよいかわからなくなってしまい、すぐに互いに集まると、そのことについて共同で議論し、新羅王の妻を殺すことで謝罪とした。

 細部は大きく違っているが、大枠の流れはほぼ同じと言っていいだろう。また、本文の論評で金富軾は、昔于老の妻が倭国大臣を焼き殺した件について、「変事であって正しいことではなかった。(變而非正)」と評価しているが、後に戦争に発展したとはいえ、編纂当時の倫理観を想像すれば、単純に夫の仇討ちをしただけであったなら、否定的に論じられる契機は薄いと思われ、少し奇妙な記述である。しかしながら、倭国大臣を昔于老の妻が誘惑していたという逸話を前提としていれば、そのように評価されたことも理解しやすい。

漢文
 昔于老、奈解尼師今之子。〈或云、角干水老之子也。〉助賁王二年七月、以伊飡為大將軍、出討甘文國、破之、以其地為郡縣。四年七月、倭人來侵、于老逆戰於沙道、乘風縱火、焚賊戰艦、賊溺死且盡。十五年正月、進為舒弗邯兼知兵馬事。十六年、冬十月高句麗侵北邊、出擊之、不克、退保馬頭柵。至夜、士卒寒苦、于老躬行勞問、手燒薪櫵、暖熱之、群心感喜、如夾纊。沾解王在位、沙梁伐國舊屬我、忽背而歸百濟、于老將兵往討滅之。七年癸酉、倭國使臣葛耶古在館。于老主之、與客戱言、早晚、以汝王為鹽奴、王妃為爨婦。倭王聞之怒、遣將軍于道朱君、討我、大王出居于柚村。于老曰、今玆之患、由吾言之不愼、我其當之。遂抵倭軍、謂曰、前日之言、戱之耳、豈意興師至於此耶。倭人不答、執之、積柴置其上、燒殺之乃去。于老子、幼弱不能步、人抱以騎而歸、後為訖解尼師今。味鄒王時、倭國大臣來聘、于老妻請於國王、私饗倭使臣。及其泥醉、使壯士曳下庭焚之、以報前怨。倭人忿、來攻金城、不克引歸。

 論曰、于老為當時大臣、掌軍國事、戰必克、雖不克、亦不敗、則其謀策必有過人者。然以一言之悖、以自取死、又令兩國交兵、其妻能報怨、亦變而非正也。若不爾者、其功業、亦可錄也。

書き下し文
 昔于老、奈解の尼師今 むきむ むすこ なり。〈或いは いは く、角干の水老の むすこ なり、と。〉助賁の きみ の二年七月、伊飡なるを以ちて大將軍と らば、甘文の國を討ちに出で、之れを破りて其の ところ を以ちて郡縣 こほりあがた と為す。
 四年七月、倭の人の侵しに來たらば、于老は沙道に於いて逆らひ戰ひ、風に乘せて火を はな ち、 あた 戰艦 いくさふね かば、 あた は溺れ死にて しば しにして盡きたり。

 十五年正月、進みて舒弗邯と為り、兼ねて兵馬 いくさ の事を をさ む。

 十六年、冬十月に高句麗は北の くにへ を侵し、之れを擊ちに出づるも克たず、退きて馬頭柵に とど む。夜に至り、士卒 いくさひと の寒く苦しまば、于老は みづか 勞問 ねぎらひ を行ひ、 づから薪櫵 まき を燒き、之れを暖熱 あたた まば、 ひと の心は喜びを感ずること、 わた つつ まるるが如し。

 沾解王の位に いま せるに、沙梁伐の國は かつ わがくに くも、忽ち背きて百濟 くたら き、于老は いくさ ひき いて往き、討ちて之れを滅ぼす。

 七年癸酉 みずのととり 、倭の國の使 つかひ をみ 葛耶古 かつやこ は館に在り。于老は之れに あるぢ し、 まらうと とも に戱れて まを せるに、早かれ おそ かれ、以ちて きみ しを やつこ らしめ、王妃 きさき めしたき をみな らしめむ、と。倭の きみ は之れを聞きて怒り、將軍 いくさのきみ 于道朱君 うちすくぬ を遣はせて、 わがくに を討たせしめむとすれば、大王 おほきみ は出でて于柚村に いま す。于老曰く、今の うれひ は、 ことば の愼まざるに由らむ。我其れ之れに當たらむ、と。遂に倭の いくさ き、謂ひて曰く、前日 さきつひ ことば は之れを戱れたるのみ、豈に いくさ を興して此に至たらむことを おも ひたらむや、と。倭の人は答へずして之れを とら へ、柴を積みて其の上に置き、之れを燒き殺して乃ち去る。于老の むすこ は幼きこと はなは だしく步くことも能はじ、人は抱うに うま を以ちてして かへ り、後に訖解の尼師今 むきむ と為らむ。

 味鄒の きみ の時、倭國大臣 やまとのおほをみ たず ねに來たりて、于老の妻は國王 くにぎみ に、 わたくし に倭の使 つかひ をみ もてな さむことを請ひたり。其の泥醉 ゑひたる に及び、壯士 ますらを 使 つか はして下庭 したには かせしめ、之れを きて以ちて前怨 さきつうらみ に報ゆ。倭の人は忿 いか りて金城を攻めに來たるも、克たずして引き かへ したり。

 論じて曰く、于老は當時 そのとき 大臣 おほをみ と為り、 いくさ まつりごと の事を つかさど り、戰へば必ず克ち、克たずと雖も、亦た敗れざるは、則ち其の謀策 はかりごと は必ず人に過ぐる者有ればなり。然れども一言の あやまち を以ちて、自らを以ちて死を取らしめ、又た ふたつ の國を いくさ を交えせしめ、其の妻も能く怨みに報ゆも、亦た あやしき にして ただしき に非ざるなり。若し しか らざる者なれば、其の功業 いさを も亦た しる す可きならむや。

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