貴山

貴山

 貴山は沙梁部の人で、父は武殷阿干である。
 貴山は少與部人の箒項を友としていた。
 二人は互いに言い合った。
「我らは士君子たちと期して遊んでいるけど、心を正し身を修めることを先にしなくては、辱めを招いたとき、それから逃れられないのではないだろうか。どうして賢者の側で道を聞かないのだろうか。」
 この時、隋に入朝して遊学していた圓光法師が、帰国して加悉寺に住んでおり、当時の人たちは尊礼していた。
 貴山たちはその門を詣でて衣の裾をたくし上げ、前に進んで告げた。
「俗士は無知蒙昧で知識を得るところがありません。願わくば、一言を賜り、それをもって終身の誡としたく思います。」
 法師は言った。
 仏戒には菩薩戒というものがあり、それぞれ別に十の戒律があるのですが、あなたがたは人の臣下であり、人の子でありますから、これに堪えることができない恐れがあります。
 現在の世俗には五戒があります。ひとつは『君に仕えるには忠をもってすべし』、ふたつには『親に仕えるには孝をもってすべし』みっつには『友との交わりには信をもってすべし』よっつには『戦に臨めば退いてはならない』いつつには『殺生に擇ぶことあり』と。あなたがたは、これらをおろそかにすることなく行いなさい。」
 貴山たちは言った。
「他のことについては既に命を受けておりますが、『殺生に擇ぶことあり』だけは、まだ理解できておりません。」
 師は言う。
「六齋には『春夏の月には殺生をしてはならない』とありますが、これは『時を擇ぶ』というものです。『使畜を殺生してはならない』とは、馬牛雞犬のことを言い、『細物を殺生してはならない』とは、肉の一切れに足りないものを言い、これらは『物を擇ぶ』というものです。このように、ただ用いるもののみを殺し、多くを殺すことを求めない、これぞ世俗の善戒と言うべきです。」
 貴山たちは言った。
「今後は周旋の礼をもって奉じ、それを失わないようにします。」
 眞平王建福二十四年壬戌秋八月、百濟は大いに兵を起こし、阿莫(一説に暮と書く)山城を包囲しに来た。
 王は将軍の波珍干乾品、武梨屈、伊梨伐、級干武殷、比梨耶たちに兵を統率させ、これに抗戦し、貴山、箒項を併せて少監をに任命し、そちらに赴かせた。
 百濟が敗れて泉山の澤まで撤退し、そこに伏兵を潜ませて待ち伏せした。
 我が軍は進擊したが、力が尽きて引き返すことにした。
 この時、武殷を殿軍とし、軍尾に立てたが、伏兵が突然躍り出て、鉤りて之れを下すと、貴山が大言した。
「私はかつて、このように師に聞いた!『士は軍に当たれば退いてはならない』と。おめおめと敗走することなどできようか!」
 賊数十人を擊ち殺し、自身の馬を父に託して脱出させると、箒項と共に戈を振るって力の限り闘った。
 諸軍はそれを見て奮擊し、横死した屍が野に満ち溢れ、一匹の馬や片輪の戦車でさえも帰るものはなかった。
 貴山たちは戦傷で身に満たし、路半ばにして死んだ。
 王と群臣は、阿那の野に迎え出て、屍に臨んで痛哭すると、禮をもって殯葬し、貴山に奈麻、箒項に大舍の官位を追賜した。

 

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≪白文≫
 貴山、沙梁部人也。
 父、武殷阿干。
 貴山少與部人箒項為友。
 二人相謂曰、
 我等期與士君子遊、而不先正心修身、則恐不免於招辱、盍聞道於賢者之側乎。
 時、圓光法師、入隋遊學、還居加悉寺、為時人所尊禮。
 貴山等詣門、摳衣進告曰、
 俗士顓蒙、無所知識、願賜一言、以為終身之誡。
 法師曰、
 佛戒有菩薩戒、其別有十、若等為人臣子、恐不能堪。
 今有世俗五戒、一曰事君以忠、二曰事親以孝、三曰交友以信、四曰臨戰無退、五曰殺生有擇、若等、行之無忽。
 貴山等曰、
 他則旣受命矣、所謂殺生有擇、獨未曉也。
 師曰、
 六齋日、春夏月不殺、是擇時也。
 不殺使畜、謂馬牛雞犬。
 不殺細物、謂肉不足一臠、是擇物也。
 如此、唯其所用、不求多殺、此可謂世俗之善戒也。
 貴山等曰、
 自今已後、奉以周旋、不敢失墜。
 眞平王建福二十四年壬戌秋八月、百濟大發兵、來圍阿莫、一作暮、山城。
 王使將軍波珍干乾品、武梨屈、伊梨伐、級干武殷、比梨耶等、領兵拒之、貴山、箒項、幷以少監赴焉。
 百濟敗、退於泉山之澤、伏兵以待之。
 我軍進擊、力困引還。
 時、武殷為殿、立於軍尾、伏猝出、鉤而下之。
貴山大言曰、  吾嘗聞之師曰、
 士當軍無退、豈敢奔北乎。
 擊殺賊數十人、以己馬出父、與箒項揮戈力鬪。
 諸軍見之奮擊、橫尸滿野、匹馬隻輪、無反者。
 貴山等金瘡滿身、半路而卒。
 王與群臣、迎於阿那之野、臨尸痛哭、以禮殯葬、追賜位貴山奈麻、箒項大舍。

≪書き下し文≫
 貴山は沙梁部人なり。
 父は武殷阿干なり。
 貴山は少與部人の箒項を友と為す。
 二人は相ひ謂ひて曰く、
 我等は士君子と期して遊ぶ、而れども心を正し身を修むるを先にせざれば、則ち招辱に於いて免ぜらるを恐る、盍し賢者の側に於いて道を聞かむや、と。
 時に圓光法師、隋に入りて遊學し、還りて加悉寺に居し、時の人尊禮する所と為る。
 貴山等は門に詣(まい)り、衣を摳して進みて告げて曰く、
 俗士は顓蒙にして知識する所を無らず、願はくば一言を賜はり、以て終身の誡と為さむ。
 法師曰く、
 佛戒に菩薩戒有り、其の別に十有り、若等為人臣子、堪へるに能はざるを恐る。
 今に世俗五戒有り、一に曰く君に事ふるに忠を以てす、二に曰く親に事ふるに孝を以てす、三に曰く友と交ゆるに信を以てす、四に曰く戰に臨みては退くこと無かれ、五に曰く殺生に擇ぶこと有り、若等、之れを行ひ忽(おろそか)にすること無かれ。
 貴山等曰く、
 他なれば則ち旣に命を受けむや、所謂殺生に擇有り、獨つ未だ曉ならむや。
 師曰く、
 六齋に日く、春夏の月に殺さず、是れ時を擇ぶなり。
 使畜を殺さず、馬牛雞犬を謂ひ、細物を殺さず、肉の一臠に足らずを謂ひ、是れ物を擇ぶなり。
 此の如く、唯だ其の用ふる所のみ、多く殺すを求めず、此れ世俗の善戒と謂ふ可きなり。
 貴山等曰く、
 今已後より、奉ずるに周旋を以てし、失墜すること敢へてせず。
 眞平王建福二十四年壬戌秋八月、百濟大いに兵を發ち、阿莫、一に暮と作す、山城を圍みに來たり。
 王は將軍波珍干乾品、武梨屈、伊梨伐、級干武殷、比梨耶等をして、兵を領めせしめ之れを拒ましめ、貴山、箒項、幷せて少監を以て焉れに赴かせしむ。
 百濟敗れ、泉山の澤に退き、兵を伏せて以て之れを待つ。
 我が軍進擊するも、力困り引き還す。
 時に武殷を殿と為し、軍尾に立つるも、伏は猝(にはか)に出で、鉤りて之れを下す。
 貴山大いに言ひて曰く、
 吾嘗て之れを師に聞くに曰く、
 士は軍に當たりて退くこと無し、豈に敢へて北に奔らむや、と。
 賊數十人を擊ち殺し、己の馬を以て父を出せしめ、箒項と與に戈を揮して力鬪す。
 諸軍は之れを見て奮擊し、橫尸野に滿ち、匹馬隻輪、反る者無し。
 貴山等は金瘡を身に滿たし、路を半ばにして卒す。
 王と群臣、阿那の野に迎へ、尸に臨みて痛哭し、禮を以て殯葬し、位を貴山に奈麻、箒項に大舍を追賜す。