强首

强首

 强首は中原京の沙梁人である。
 父は昔諦奈麻。
 その親は、角が生えた人の夢を見た。こうして妊娠して生まれた子は、頭の後ろに高骨があった。
 昔諦は幼児について当時賢者と呼ばれていた者に就いて質問した。
「この幼児の頭骨がこのようになっているのはどうしてだろうか。」
 その者は答えた。
「私はこのように聞いておる。伏羲は虎の姿をしており、女媧は蛇の身体を持っていた。神農は牛の頭をし、皐陶は馬の口を持っていた、と。つまり聖賢の同類であり、してみればその人相も非凡なものである。
 またその幼児の首を見るとほくろがある。相法では「顔のほくろによいものなく、頭のほくろに悪いものなし」といい、これは必ず珍重すべきものである。」
 父は帰宅してその妻に言った。
「お前の子は非常の幼児である。これをよく養育すれば、将来の国士となることだろう。」
 壮年になると、自力で読書を理解し、義理に通曉した。
 父はその志を見たく思い、質問した。
「お前は仏教を学びたいか、儒教を学びたいか。」
 强首は答えた。
「私は、佛は世外の教えであると聞いています。私は人とともに生きる者、仏のすることを学ぶことがありましょうか。儒者の道を学びたく思います。」
 父は言った。
「お前の好きなようにするがいい。」
 こうして師に就き孝経、曲禮、爾雅、文選を読んだ。
 浅近なことを聞いたとしても、非常に高遠なことまで学び取り、魁然として一時代の傑物となった。
 遂に仕官して官職を歴任し、時の有名人となった。
 かつて强首は釜谷冶家の女と野合し、非常に篤く親密な関係を結んでいた。
 二十歲になると、父母は容姿も立ち振る舞いも優れた邑中の女を紹介し、これを妻とさせようとしたが、强首は辞して再婚しようとしなかった。
 父は怒って言った。
「お前は当代の有名人、国民に知らぬ者はいない。それなのにつまらぬ者を配偶者とすることも、恥ずべきことではないのか。」
 强首は再拜して言った。
「貧しく賤しきことは恥じることではありません。道を学びながらそれを行わないことこそ、本当に恥ずべきことです。かつて古人の言として聞いた言葉に、『糟糠の妻を堂から下してはならない、貧賤の交を忘れてはならない」というものがあります。してみれば、賤しき日の妾を棄てることは耐えがたきものにあります。」
 太宗大王が即位すると、唐からの使者が来て、詔書を伝えた。
 その中に読み難き部分があったので、王は强首を召喚してそれを質問した。
 王の御前に出ると、それを一見にしてすらすらと解説し、滞る部分がなかった。
 王は驚喜し、相見のおそきを恨み、その姓名を問うと、强首は答えた。
「わたくしはもともと任那加良人、名は牛頭です。」
 王は言った。
「卿の頭骨を見るに、『强首先生』と称してよいだろうか。」
 强首に廻謝唐皇帝詔書表の著述を命じると、文は巧みでありながら意を尽くし、王はますますそれを奇貨として、名を呼ぶことなく、官命だけで呼ぶようになった。
 これまで强首は生活を意に介することはなく、家の貧乏さえも愉しんでいたので、王は有司に命じ、新城の租一百石を毎年賜ることにした。
 文武王は言った。
「强首に文章を任せて以来、書翰をもって意を中国や高句麗百済の二国に伝えることができるようになり、故に友好を結ぶことに成功できた。
 我が国の先王は兵を唐に要請することで高句麗と百済を平定したのは、武による功績と言われるが、同時に文章の助力に由来するものでもあろう。
 してみれば、强首の功績をおろそかにすべきであろうか。沙飡を授位し、毎年の租二百石を増俸する。」
 神文大王の時に死去すると、葬事官がその賻を供えた。
 非常に多くの衣物匹段を贈られたが、家人はそれを私物とすることなく、すべてを仏事に帰した。その妻は食べるにも窮乏し、鄕里に帰ることになった。
 それを聞いた大臣、王に租百石を賜うように要求したが、妻は辞した。
わらわは賤しき者にありながら、衣食は夫に従って国の恩を多く受けることができました。現在は既に独り身でありますから、再び厚賜を辱めを受けようとは思いません。」
 結局、受け取ることなく帰郷した。
 新羅古記には次のようにある。
「文章といえば、强首、帝文、守眞、良圖、風訓、骨番である。」
 帝文以下の事跡は、立伝されていない。

 

 戻る








≪白文≫
 强首、中原京沙梁人也。
 父昔諦奈麻。
 其母、夢見人有角、而妊身及生、頭後有高骨。
 昔諦以兒就當時所謂賢者、問曰、
 此兒頭骨如此、何也。
 答曰、
 吾聞之、伏羲虎形、女媧蛇身、神農牛頭、皐陶馬口、則聖賢同類、而其相亦有不凡者。
 又觀兒首有黶子、於相法、面黶無好、頭黶無惡、則此必奇物乎。
 父還謂其妻曰、
 爾子非常兒也、好養育之、當作將來之國士也。
 及壯、自知讀書、通曉義理。
 父欲觀其志、問曰、
 爾學佛乎。
 學儒乎。
 對曰、
 愚聞之、佛世外敎也。
 愚人間人、安用學佛為。
 願學儒者之道。
 父曰、
 從爾所好。
 遂就師讀孝經、曲禮、爾雅、文選。
 所聞雖淺近、而所得愈高遠、魁然為一時之傑。
 遂入仕歷官、為時聞人。
 强首嘗與釜谷冶家之女野合、情好頗篤。
 及年二十歲、父母媒邑中之女有容行者、將妻之、强首辭不可以再娶。
 父怒曰、
 爾有時名、國人無不知、而以微者為偶、不亦可恥乎。
 强首再拜曰、
 貧且賤非所羞也、學道而不行之、誠所羞也。
 嘗聞古人之言曰、糟糠之妻、不下堂、貧賤之交、不可忘。
 則賤妾所不忍棄者也。
 及太宗大王卽位、唐使者至、傳詔書。
 其中有難讀處、王召問之。
 在王前一見說釋無疑滯。
 王驚喜、恨相見之晚、問其姓名。
 對曰、
 臣本任那加良人、名牛頭。
 王曰、
 見卿頭骨、可稱强首先生。
 使製廻謝唐皇帝詔書表。
 文工而意盡、王益奇之、不稱名、言任生而已。
 强首未嘗謀生、家貧怡如也。
 王命有司、歲賜新城租一百石。
 文武王曰、
 强首文章自任、能以書翰致意於中國及麗、濟二邦、故能結好成功。
 我先王請兵於唐、以平麗、濟者、雖曰武功、亦由文章之助焉。
 則强首之功、豈可忽也。
 授位沙飡、增俸歲租二百石。
 至神文大王時卒、葬事官供其賻。
 贈衣物匹段尤多、家人無所私、皆歸之佛事。
 其妻乏於食、欲還鄕里。
 大臣聞之、請王賜租百石。
 妻辭曰、
 妾、賤者也、衣食從夫、受國恩多矣。
 今旣獨矣、豈敢再辱厚賜乎。
 遂不受而歸。
 新羅古記曰、
 文章則强首、帝文、守眞、良圖、風訓、骨番。
 帝文已下事逸、不得立傳。

≪書き下し文≫
 强首は中原京の沙梁人なり。
 父は昔諦奈麻。
 其の母、夢見るに人に角有り、而りて妊身及び生れ、頭の後に高骨有り。
 昔諦は兒を以て當時の所謂賢者に就かせ、問ひて曰く、
 此の兒の頭骨、此の如し、何ぞや、と。
 答へて曰く、
 吾之れを聞けり、伏羲は虎形、女媧は蛇身、神農は牛頭、皐陶は馬口、則ち聖賢の同類、而るに其の相亦た不凡の者有り。
 又た兒の首を觀れば黶子有り、相法に於いて、面黶無好、頭黶無惡、則ち此れ必ず奇物ならむか。
 父還りて其の妻に謂ひて曰く、
 爾の子は非常の兒なり、好く之れを養育すれば、當に將來の國士とらむや、と。
 壯に及び、自ら讀書を知り、義理に通曉す。
 父は其の志を觀んと欲し、問ひて曰く、
 爾は佛を學ぶか、儒を學ぶか、と。
 對へて曰く、
 愚は之れを聞けり、佛は世外の敎なり、と。
 愚は人間の人、安ぞ用て佛の為を學ばむ。
 願はくば儒者の道を學ばむ、と。
 父曰く、
 爾の好む所に從ふ、と。
 遂に師に就き孝經、曲禮、爾雅、文選を讀む。
 聞く所は淺近と雖も、而るに得る所はいよいよ高遠、魁然として一時の傑と為る。
 遂に仕に入り官をて、時聞人と為る。
 强首は嘗て釜谷冶家の女と野合し、情好すること頗る篤し。
 年二十歲に及び、父母は邑中の女の容行有る者になかだちし、將に之れを妻らしめむとするも、强首は辭して以て再娶す可からず。
 父怒りて曰く、
 爾に時名有り、國人に知らざるもの無し、而るに微者を以て偶と為すは、亦た恥ず可からざるや。
 强首再拜して曰く、
 貧且つ賤は羞する所に非ざるなり、道を學びて之れに行かざれば、誠に羞ず所なり。
 嘗て古人の言を聞きて曰く、糟糠の妻、堂より下さず、貧賤の交、忘る可からず、と。
 則ち賤妾は棄を忍ばざる所の者なり、と。
 太宗大王の卽位に及び、唐の使者至り、詔書を傳ふ。
 其の中に讀み難き處有り、王は召して之れを問ふ。
 王前に在り、一見にして說釋すれば、疑滯すること無し。
 王は驚喜し、相見のおそきを恨み、其の姓名を問へり。
 對へて曰く、
 臣はもともと任那加良人、名は牛頭。
 王曰く、
 卿の頭骨を見れば、强首先生と稱す可し。
 廻謝唐皇帝詔書表を製らしむ。
 文工にして意盡、王はますます之れを奇し、名を稱せず、任生のみを言へり。
 强首未だ嘗て生を謀らず、家の貧に怡如なり。
 王は有司に命じ、新城の租一百石を歲賜せしむ。
 文武王曰く、
 强首の文章の任ずるより、能く書翰を以て意を中國及び麗濟二邦に致し、故に能く好を結ぶに成功す。
 我が先王は兵を唐に請ひ、以て麗濟を平ぐは、武功と曰ふと雖も、亦た文章の助に由らむや。
 則ち强首の功、豈に忽とす可けむや。
 沙飡を授位し、歲租二百石を增俸す。
 神文大王の時に至り卒し、葬事官は其の賻を供ず。
 衣物匹段を贈ること尤る多かれども、家人私する所無く、皆之れを佛事に歸す。
 其の妻は食に乏しく、鄕里に還らむと欲す。
 大臣之れを聞き、王に租百石を賜はむことを請へり。
 妻は辭して曰く、
 妾は賤しき者なれども、衣食は夫に從ひ、國恩を受くること多きかな。
 今旣に獨りかな、豈に敢へて再び厚賜を辱めむや。
 遂に受けずして歸す。
 新羅古記に曰く、
 文章なれば則ち强首、帝文、守眞、良圖、風訓、骨番、と。
 帝文已下の事逸、立傳を得ず。