崔致遠、字は孤雲(あるいは海雲ともいう)。王京沙梁部の人である。
史伝は滅び果て、その世系はわからない。
致遠は若い頃から精敏で学問を好んだ。
十二歳になり、海舶に乗って唐に入り学問をしようとすると、その父は言った。
「十年で科挙に及第しなければ、我が子ではない。行け! 学問に勉めるがいい。」
唐に辿り着いた致遠は、師を追って学問を怠らなかった。
乾符元年甲午、禮部侍郞の裴瓚が一挙の及第を下し、宣州溧水縣尉を調授した。その成績を考慮し、承務郞侍御史內供奉に任命し、紫金魚袋を賜った。
この時、黃巢が叛き、高騈を諸道行營兵馬都統に任命して討伐させ、辟致遠もそれに従事しており、書記を委任されていた。その表狀書啓は現在まで伝わっている。
二十八歲になると、里帰りをしたいと思い、それを知った僖宗は、光啓元年、使者に詔書を持たせて来聘させた。留まって侍讀となり、翰林學士守兵部侍郞知瑞書監事に兼任された。
致遠は西遊して多くのことを学んだとして、来訪に及んで自身の志を行おうとした。しかしながら、世の衰退期には疑忌も多かったので受け入れられることはなく、朝廷を出て山郡太守となった。
唐昭宗景福二年、旌節使兵部侍郞の金處誨が唐に入国したが、海に沈んでしまった。すぐに橻城郡太守の金峻を差し出して告奏使とした。
この時、致遠は富城郡太守をしており、王は召して賀正使に任命したが、近年の饑荒によって盜賊が蔓延っていたので、道を塞がれて行を果たせなかった。その後、致遠はまた以前の使を奉って唐に行こうとしたが、ただいつまでもそれが果たされることはなかった。
ゆえにその文集にある上太師侍中狀には次のように書かれている。
「伏してお聞かせ致します。
東海の外にある三国、その名は馬韓、卞韓、辰韓。
馬韓とは高句麗、卞韓とは百濟、辰韓とは新羅のことです。
高句麗、百濟の全盛期には、強兵百万、南は吳越を侵し、北は幽燕齊魯を攪乱し、中国の巨蠹となりました。
隋皇による統治の失敗は、遼への遠征に由来します。
貞觀の中、我が唐太宗皇帝は、自ら六軍を統率して海を渡り、天罰を恭行しましたところ、その威光を畏れた高句麗は講和を請い、文皇は降伏を受けて蹕を反しました。
この際、我が武烈大王は、犬馬の誠をもって要請し、一方の難の平定に助力しました。唐に入っての朝謁は、これより始まったことです。
後に高句麗、百濟が踵を前にして悪を為したことから、武烈は朝廷に入って現地の手引きをしたいと要請しました。
高宗皇帝顯慶五年になると、蘇定方に勅を下し、十道の強兵、樓舡一万隻を統率させ、大いに百濟を破ることで、その地に扶餘都督府を置き、遺民を招緝し、漢官をもって臨みましたが、臭味同じからず、頻繁に離叛を繰り返していると聞き、遂にその人民を河南に移住させました。
摠章元年、英公の李勣に命じて高句麗を撃破させ、安東都督府を置き、儀鳳三年になると、その人民を河南、隴右に移住させました。
高句麗の残孽どもは類集し、北は太白山の麓に依拠し、国號を渤海とし、開元二十年には天朝を怨恨し、兵を将帥して不意に登州を襲撃し、刺史の韋俊を殺しました。
そこで明皇帝は大いに怒り、內史の高品、何行成と太僕卿の金思蘭に命じ、兵を出撃させて海を通り過ぎ、攻討させました。それに加えて我が王の金某を正太尉持節充寧海軍事雞林州大都督に就任させました。冬は深く、雪は厚かったため、蕃漢は寒さに苦しみ、軍を退却させるように勅命なさりました。
現在の三百年余りに至るまで、無事に向かい滄海は晏然としております。これはつまり我が武烈大王の功績です。
現在、某(それがし)は儒門の末学であり海外のありふれた思慮の足りない愚か者、誤って上奏文を奉るため楽土に来朝しましたが、おしなべて誠実な志を備え、礼をもって思うことを隠すことなく述べたく思います。
伏して申し上げます。元和十二年、本国の王子、金張廉が風飄に吹かれて明州の下岸まで流され、それを送りに出た浙東の某官は京に入りました。
中和二年、入朝使の金直諒、叛臣が乱を起こしたが為に道路が通じず、楚州の下岸まで逃れ、迂回して楊州までたどり着くと、天子のお乗りになられる聖車が蜀に行幸したことを知ることができ、高大尉太尉差都頭の張儉が監督して西川まで護送なさいました。
それまでの事例、はっきりとしております。
伏して太師侍中に乞う。俯いて台恩を降し、特別に水陸の券牒を賜わり、そちらから船舶を供給していただき、十分な食糧と驢馬の草糧を唐からお送りいただき、同時に軍将を差し向け、その監督により護送していただきまして、天子の乗られる車の御前までご案内下さい。」
ここでいう太師侍中が誰を指すのか、姓名も知ることはできない。
致遠は、西に向かえば大唐に仕え、東の祖国に帰ったが、どちらでも乱世に遭遇し、苦悶に留まり苦悩を連ね、動けばいつも咎を受け、自ら傷つき不遇のまま、仕官に邁進する意志は回復することなく、山林の下、江海の浜を逍遙自放し、臺榭を営み、松竹を植え、書史を枕の代わりにし、詩歌を口にして風月を詠んだ。
慶州の南山、剛州の氷山、陜州の淸凉寺、智異山の雙溪寺、合浦縣の別墅、どれもすべてが遊焉した場所である。
最後は、家を構えて伽耶山の海印寺に隠居し、仏僧であった母兄の賢俊や定玄師と道友の好を結び、ゆったりと世間の流れに身を任せることで老年を終えた。
西遊した始めの頃、江東の詩人の羅隱と知り合った。
羅隱は才覚の高きと自負していたので、軽々しくは人を認めはしなかったが、致遠が製作した歌詩五軸を教えられた。
また同年の顧雲と仲良くなり、帰国しようとする際、顧雲は詩をもって送別した。それは以下のようなものである。
「私はこんな話を聞いた。
海に浮かんだ三匹の鼈は金色に輝き、頭に高々とした山を載せていた。山の上には真珠の宮と貝殻の城門、それと黄金の御殿があり、山の下に広がるのは千里万里の大きな波。
そのひとつが雞林碧の鼈山、秀を孕んで奇特を生んだ。十二歳で船に乗り、海を渡ってやって来て、その文章に中華の国が感動した。十八歳で縦横無尽に詞苑を競り合わせ、一本の矢で金門の策を射貫いた。」
新唐書藝文志には次のようにある。
「崔致遠四六集一卷、桂苑筆耕二十卷の注には、『崔致遠は高麗の人で、賓貢に及第し、高騈の従事となった。』とある。」
このように、その名は上国にも評判され、また文集三十卷が世に刊行されている。
我が太祖が高麗を興した当初、崔致遠は非常の人であったので、これが必ず受命して開国すると察知していた。そこで書を送致し、「雞林黃葉、鵠嶺靑松」の句があるかどうかを質問した。
その門人たちのうちに、高麗の建国時に来朝し、仕えて高い官職にまで出世した者は何人もいた。
顯宗の在位、致遠のため、間接的に祖業を助力した功績を忘れてはならないとして、內史令を贈るように下教し、十四歲太平二三年癸亥五二月になると、文昌侯との諡が贈られた。
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