≪白文≫
奚論、牟梁人也。
其父讚德、有勇志英節、名高一時。
建福二十七年庚午乙丑、眞平大王選為椵岑城縣令。
明年辛未丙寅冬十月、百濟大發兵、來攻椵岑城一百餘日。
眞平王命將、以上州、下州、新州之兵救之、遂往與百濟人戰不克、引還。
讚德憤恨之、謂士卒曰、
三州軍帥見敵强不進、城危不救、是無義也。
與其無義而生、不若有義而死。
乃激昻奮勵、且戰且守、以至粮盡水竭、而猶食屍飲尿、力戰不怠。
至春正月、人旣疲、城將破、勢不可復完、乃仰天大呼曰、
吾王委我以一城、而不能全、為敵所敗、願死為大厲、喫盡百濟人、以復此城。
遂攘臂瞋目、走觸槐樹而死。
於是、城陷、軍士皆降。
奚論年二十餘歲、以父功、為大奈麻。
至建福三十五四十年戊寅、王命奚論、為金山幢主、與漢山州都督邊品、興師襲椵岑城、取之。
百濟聞之、擧兵來、奚論等逆之。
兵旣相交、奚論謂諸將曰、
昔吾父殞身於此、我今亦與百濟人戰於此、是我死日也。
遂以短兵赴敵、殺數人而死。
王聞之、為流涕、贈卹其家甚厚。
時人無不哀悼、為作長歌弔之。
≪書き下し文≫
奚論は牟梁人なり。
其の父の讚德、勇志英節有り、一時に名高し。
建福二十七年庚午乙丑、眞平大王選びて椵岑城縣令と為す。
明年辛未丙寅冬十月、百濟大いに兵を發ち、椵岑城を攻めに來たりて一百餘日。
眞平王は將に命じ、上州、下州、新州の兵を以て之れを救はせしめ、遂に往きて百濟人と戰ふも克たず、引き還す。
讚德之れを憤恨し、士卒に謂ひて曰く、
三州の軍帥は敵の强きを見て進まず、城は危して救はず、是れ義無きなり。
其の義無きに與して生きるは、義有りて死せるに若かず、と。
乃ち激昻奮勵、且つ戰ひ且つ守り、以て粮盡き水竭くに至り、而れども猶ほ屍を食ひ尿を飲み、力戰して怠らず。
春正月に至り、人旣に疲れ、城將に破れむとし、勢は完に復す可からず、乃ち天を仰ぎて大いに呼(さけ)びて曰く、
吾が王は我を委じるに一城を以てす、而れども全うすること能はず、敵に敗るる所と為る。
願はくば死して大厲と為り、百濟人を喫し盡し、以て此の城に復せむことを。
遂に臂を攘(まく)り目を瞋(いか)らせ、走りて槐樹に觸れて死す。
是に於いて、城陷ち、軍士皆降る。
奚論の年は二十餘歲、父の功を以て大奈麻と為る。
建福三十五四十年戊寅に至り、王は奚論に命じ、金山幢主と為し、漢山州都督邊品と與に、師を興せしめ椵岑城を襲はせしめ、之れを取らしむる。
百濟之れを聞き、兵を擧げて來たるも、奚論等は之れに逆す。
兵旣に相ひ交はり、奚論は諸將に謂ひて曰く、
昔吾が父は此に身を殞(お)とす。
我は今亦た百濟人と此に戰ひ、是れ我が死の日なり、と。
遂に短兵を以て敵に赴き、數人を殺して死す。
王之れを聞き、流涕を為し、其の家に甚だ厚く贈卹す。
時の人は哀悼せざる無し、長歌を作り之れを弔ひと為す。