≪白文≫
金令胤、沙梁人、級飡盤屈之子。
相祖欽春、或云欽純。
角干、眞平王時為花郞、仁深信厚、能得衆心。
及壯、文武大王陟為冢宰、事上以忠、臨民以恕、國人翕然稱為賢相。
大宗大王太宗大王七年庚申、唐高宗命大將軍蘇定方、伐百濟、欽春受王命、與將軍庾信等、率精兵五萬以應之。
秋七月、至黃山之原、値百濟將軍階伯戰、不利。
欽春召子盤屈曰、
為臣莫若忠、為子莫若孝、見危致命、忠孝兩全。
盤屈曰、唯。
乃入賊陣、力戰死。
令胤生長世家、以名節自許。
神文大王時、高句麗殘賊悉伏、以報德城叛。
王命討之、以令胤為黃衿誓幢步騎監。
將行、謂人曰、
吾此行也、不使宗族朋友、聞其惡聲。
及見悉伏、出椵岑城南七里、結陣以待之。
或告曰、
今此凶黨、譬如鷰巢幕上、魚戱鼎中。
出萬死以爭一日之命耳。
語曰、窮寇勿迫。
宜左次以待疲極而擊之、可不血刃而擒也。
諸將然其言、暫退、獨令胤不肯之而欲戰。
從者告曰、
今諸將豈盡偸生之人、惜死之輩哉。
而以向者之言為然者、將俟其隙而得其便者也。
而子獨直前、其不可乎。
令胤曰、
臨陣無勇、禮經之所識誡、有進無退、士卒之常分也。
丈夫臨事自決、何必從衆。
遂赴敵陣、格鬪而死。
王聞之、悽慟流涕曰、
無是父、無是子、其義烈可嘉者也。
追贈爵賞尤厚。
≪書き下し文≫
金令胤、沙梁人、級飡盤屈の子なり。
相祖は欽春、或は欽純と云ふ、角干。
眞平王の時に花郞と為り、仁は深く信に厚く、能く衆心を得る。
壯ずるに及び、文武大王は陟めて冢宰と為し、上に事ふるに忠を以てし、民に臨むに恕を以てし、國人は翕然として稱へ賢相と為る。
大宗大王七年庚申、唐の高宗は大將軍の蘇定方に命じ、百濟を伐たせしめ、欽春は王命を受け、將軍の庾信等と與に、精兵五萬を率いて以て之れに應ず。
秋七月、黃山の原に至り、百濟將軍の階伯と戰ふに値ふ、利あらず。
欽春は子の盤屈を召して曰く、
臣を為すには忠に若くもの莫く、子を為すには孝に若くもの莫し、危を見て命を致さば、忠孝の兩を全す。
盤屈曰く、唯と。
乃ち賊陣に入り、力戰して死す。
令胤は世家に生長せしめ、名節を以て自ら許す。
神文大王の時、高句麗の殘賊悉く伏するも、以て報德城叛く。
王命じて之れを討たせしむるに、令胤を以て黃衿誓幢步騎監と為す。
將に行かむとし、人に謂ひて曰く、
吾が此の行なるや、宗族朋友をして其の惡聲を聞かせしむることなし。
悉く伏するを見るに及び、椵岑城の南七里に出で、陣を結して以て之れを待つ。
或(あるひと)告げて曰く、
今此の凶黨、譬ふれば鷰幕上に巢くい、魚の鼎中に戱るが如し。
萬死に出でて以て爭へば、一日の命たるのみ。
語に曰く、窮寇迫ること勿れ、と。
宜しく左次して以て疲の極まるを待ちて之れを擊つべし。
刃を血することなくして擒る可きなり。
諸將は其の言を然りとし、暫し退くも、獨り令胤は之れを肯ふことなくして戰はむと欲す。
從者告げて曰く、
今の諸將は豈に盡く生を偸(ぬす)まむとするの人、死を惜まむとするの輩(やから)なり。
而りて以て向者の言の然りと為す者、將に其の隙を俟ちて其の便者を得むや。
而るに子は獨り直前し、其れ不可ならむ。
令胤曰く、
陣に臨いて勇無かりけるは、禮經の識誡する所、進有りて退くこと無きは、士卒の常分なり。
丈夫は事に臨みて自ら決し、何を必ず衆に從はむ。
遂に敵陣に赴き、格鬪して死す。
王之れを聞き、悽慟して涕を流して曰く、
是の父無し、是の子無し、其の義烈は嘉ぶ可き者なり、と。
爵を追贈し、尤る厚く賞す。