官昌

官昌

 官昌(一説には官狀と伝わる)は新羅の將軍品日の子である。
 容貌は上品で優美、幼少にして花郞となり、よく人と交際した。年齢は十六歳、騎馬彎弓が上手であった。大監の某によって太宗大王に推薦された。
 唐顯慶五年庚申になると、王が軍隊を出して唐の将軍と百濟に侵攻し、官昌を副将に任命した。
 黃山の野まで辿り着くと、両軍の兵は相対した。
 父の品日が「お前は幼年ではあるが志気がある。今日こそが功名を立て富貴を取る時だ。勇気を振るわないでよいものだろうか?」と言うと、官昌は「わかりました」と言った。
 そのまま馬に乗って槍を握りしめ、まっすぐに敵陣を突っ込み、馳せて数人を殺した。しかしながら、相手は多勢、我が軍は少数であり、賊の捕虜となって生きたまま百濟の元帥であった階伯の前に送致された。
 階伯が甲冑を脱がせると、その若年かつ勇猛であることを愛で、加害するには忍びなく思ったため、嘆いて言った。
「新羅には奇士が多い。少年であってもこのようであるならば、壮士については言うまでもない。」
 こうして生還が許されたが、官昌は言った。
「私に賊中に向かって入ったのですが、敵将の搴旗を斬ることができませんでした。これは痛恨のことです。再び敵陣に入れば、必ず成功することができます。」
 手で井戸の水を掬って飲み終えると、再び賊陣に突入して疾闘したが、階伯が捕えて斬首し、馬の鞍に繫いで送致した。
 品日はその首を手に取って、袖で血を拭いて言った。
「我が子の面目は、まるで生きているようです。王事のために死ぬことができたのですから、悔いることなどありません。」
 それを見た三軍は激しく憤り嘆いて志を立て、太鼓を打ち鳴らして進擊し、百濟は大敗した。
 大王は位に級飡を贈り、禮をもってこれを葬り、その家に唐絹三十匹、二十升布三十匹、穀一百石を贈った。

 

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≪白文≫
 官昌、一云官狀、新羅將軍品日之子。
 儀表都雅、少而為花郞、善與人交。
 年十六、能騎馬彎弓。
 大監某薦之太宗大王。
 至唐顯慶五年庚申、王出師、與唐將軍侵百濟、以官昌為副將。
 至黃山之野、兩兵相對。
 父品日謂曰、
 爾雖幼年、有志氣、今日是立功名取富貴之時、其可無勇乎。
 官昌曰、唯。
 卽上馬橫槍、直擣敵陣、馳殺數人。
 而彼衆我寡、為賊所虜、生致百濟元帥階伯前。
 階伯俾脫胄、愛其少且勇、不忍加害。
 乃嘆曰、
 新羅多奇士、少年尚如此、況壯士乎。
 乃許生還。
 官昌曰、
 向吾入賊中、不能斬將搴旗、深所恨也。
 再入必能成功。
 以手掬井水、飲訖、再突賊陣疾鬪。
 階伯擒斬首、繫馬鞍送之。
 品日執其首、袖拭血曰、
 吾兒面目如生、能死於王事、無所悔矣。
 三軍見之、慷慨有立志、鼓噪進擊、百濟大敗。
 大王贈位級飡、以禮葬之、賻其家唐絹三十匹、二十升布三十匹、穀一百石。

≪書き下し文≫
 官昌、一に官狀と云ふ、は新羅將軍品日の子なり。
 儀表は都雅、少なくして花郞と為り、善く人と交わる。
 年は十六、能く騎馬彎弓す。
 大監の某、之れを太宗大王に薦む。
 唐顯慶五年庚申に至り、王は出師し、唐將軍と百濟を侵し、以て官昌を副將と為す。
 黃山の野に至り、兩兵相ひ對す。
 父の品日は謂ひて曰く、
 爾は幼年と雖も志氣有り。
 今日是れ功名を立て富貴を取るの時なり。
 其れ勇を無からしむ可けむや、と。
 官昌、唯と曰ふ。
 卽ち馬に上り槍を橫し、直く敵陣を擣(つ)き、馳せて數人を殺す。
 而れども彼は衆(おお)くして我は寡(すくな)し、賊に虜はるる所と為り、生きて百濟元帥の階伯の前に致る。
 階伯は胄(よろひ)を脫がせしめ、其の少且つ勇を愛で、加害を忍びず。
 乃ち嘆いて曰く、
 新羅に奇士多し。
 少年尚ほ此の如し。
 況や壯士をや、と。
 乃ち生還を許す。
 官昌曰く、
 吾に向かひ賊中に入るも、將の搴旗を斬ること能はず、深く恨む所なり。
 再び入れば必ず成功に能ふ、と。
 手を以て井の水を掬ひ、飲み訖へれば、再び賊陣に突して疾鬪す。
 階伯擒へて斬首し、馬の鞍に繫ぎて之れを送る。
 品日は其の首を執り、袖は血を拭ひて曰く、
 吾が兒の面目は生くるが如し。
 王事に死するに能ひ、悔む所無からむ、と。
 三軍は之れを見、慷慨して立志有り、鼓噪して進擊し、百濟大敗す。
 大王は位に級飡を贈り、禮を以て之れを葬り、其の家に唐絹三十匹、二十升布三十匹、穀一百石を賻(おく)る。