向德、熊川州板積鄕の人である。父の名は善、字は潘吉、生まれつきは溫良、鄕里はその行状を推した。母はその名が失われた。向德もまた孝行で恭順であったことで、当時称えられた。天寶十四年の乙未(きのとひつじ)、年は荒れ人民は餓え、それに加えて疫癘が巻き起こり、父母は飢え、しかも病み、母は同時に癰を発症し、皆が死に瀕していた。向德は日夜、衣服を脱ぐことさえなく、忠誠を尽くして慰安し、こうして食事に差し出す者がなくなれば、すぐに髀肉を抉り取って彼らに食べさせた。また、母の癰を舐め、皆それらを和らげるようにした。鄕司はその州に報告し、州が王に報告した。王は教を下し、租三百斛、宅一區、口分田若干を賜い、有司に命じて石を立たせ、この事を記録させ、それによって今回のことを広めた。現在に至るまで、人はその地を名付けて『孝家里』と云う。 |
≪白文≫ 向德、熊川州板積鄕人也。父名善、字潘吉、天資溫良、鄕里推其行。母則失其名。向德亦以孝順、為時所稱。天寶十四年乙未、年荒民饑、加之以疫癘、父母飢且病、母又發癰、皆濱於死。向德日夜不解衣、盡誠安慰、而無以為養、乃刲髀肉以食之。又吮母癰、皆致之平安。鄕司報之州、州報於王。王下敎、賜租三百斛、宅一區、口分田若干、命有司立石紀事、以標之。至今、人號其地云孝家里。
≪書き下し文≫ 向德、熊川州板積鄕の人なり。父の名は善、字は潘吉、天資は溫良、鄕里は其の行を推す。母は則ち其の名を失す。向德も亦た孝順を以て、時の稱へらるる所と為る。天寶十四年乙未、年は荒れ民は饑え、之れに加えるに疫癘を以てし、父母は飢え且つ病み、母は又た癰を發し、皆死に濱す。向德は日夜衣を解くことなく、誠を盡くして安慰し、而りて以て養を為すこと無かりければ、乃ち髀肉を刲(えぐ)りて以て之れに食せしむ。又た母の癰を吮(な)め、皆之れに平安を致す。鄕司は之の州に報せ、州は王に報す。王、敎を下せるに、租三百斛、宅一區、口分田若干を賜ひ、有司に命じて石を立たせしめ事れを紀(しる)せしめ、以て之れを標(あらは)す。今に至るまで、人は其の地を號して孝家里と云ふ。 |