≪白文≫
弓裔、新羅人、姓金氏。
考第四十七憲安王誼靖、母憲安王嬪御、失其姓名。
或云四十八景文王膺廉之子。
以五月五日、生於外家。
其時屋上有素光、若長虹、上屬天。
日官奏曰、
此兒以重午日生、生而有齒、且光焰異常、恐將來不利於國家、宜勿養之。
王勑中使抵其家殺之。
使者取於襁褓中、投之樓下。
乳婢竊捧之、誤以手觸、眇其一目。
抱而逃竄、劬勞養育。
年十餘歲、遊戱不止。
其婢告之曰、
子之生也、見棄於國、予不忍、竊養、以至今日。
而子之狂如此、必為人所知、則予與子俱不免、為之奈何。
弓裔泣曰、
若然、則吾逝矣、無為母憂。
便去世達寺、今之興教寺是也。
祝髮為僧、自號善宗。
及壯、不拘檢僧律軒輊、有膽氣。
甞赴齋、行次有烏鳥銜物、落所持鉢中、視之牙籤、書王字、則秘而不言、頗自負。
見新羅衰季、政荒民散、王畿外州縣叛附相半、逺近羣盜蜂起蟻聚、善宗謂乗亂聚衆可以得志、以真聖王即位五年、大順二年辛亥、投竹州賊魁箕萱。
箕萱侮慢、不禮善宗、鬱悒不自安、潜結箕萱麾下元會、申煊等為友。
景福元年壬子、投北原賊梁吉。
吉善遇之、委任以事、遂分兵、使東略地。
於是出宿雉岳山石南寺。
行襲酒泉、奈城、鬱烏、御珍等縣、皆降之。
乾寧元年。
入溟州、有衆三千五百人、分為十四隊、金大、黔毛、盺長、貴平、張一等為舍上、舍上謂部長也。
與士卒同甘苦勞逸、至於予奪、公而不私、是以衆心畏愛、推為將軍。
於是擊破猪足、狌川、夫若、金城、鐵圓等城、軍聲甚盛。
現浿西賊寇來降者衆多、善宗自以為衆大、可以開國稱君、始設內外官職。
我太祖自松岳郡來投、便授鐵圓郡太守。
三年丙辰。
攻取僧嶺、臨江兩縣。
四年丁巳、仁物縣降。
善宗謂松岳郡、漢北名郡、山水竒秀、遂定以為都。
擊破孔巖、黔浦、穴口等城。
時梁吉猶在北原、取國原等三十餘城有之。
聞善宗地廣民衆、大怒、欲以三十餘城勁兵襲之。
善宗潜認先擊、大敗之。
光化元年戊午春二月。
葺松岳城。
以我太祖為精騎大監、伐楊州、見州。
冬十一月。
始作八關會。
三年庚申。
又命太祖伐廣州、忠州、唐城、青州、或云青川、槐壤等、皆平之。
以功授太祖阿飡之職。
天復元年辛酉。
善宗自稱王、謂人曰、
徃者新羅請兵於唐、以破高勾麗、故平壤舊都、鞠為茂草。
吾必報其讎。
蓋怨生時見棄、故有此言。
甞南巡至興州浮石寺、見壁畫新羅王像、發劒擊之、其刃迹猶在。
天祐元年甲子。
立國號為摩震、年號為武泰。
始置廣評省、備員匡治奈、今侍中、徐事、今侍郞、外書、今員外郞、又置兵部、大龍部、今倉部、壽春部、今禮部、奉賔部、今禮賔省、義刑臺、今刑部、納貨府、今大府寺、調位府、今三司、內奉省、今都省、禁書省、今秘書省、南廂壇、今將作監、水壇、今水部、元鳳省、今翰林院、飛龍省、今太僕寺、物藏省、今少府監、又置史臺、掌習諸譯語、植貨府、掌栽植菓樹、障繕府、掌修理城隍、珠淘省、掌造成器物、又設正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹等品職。
秋七月。
移青州人戶一千入鐵圓城為京。
伐取尙州等三十餘州縣、公州將軍弘竒來降。
天祐二年乙丑。
入新京、修葺觀闕、樓臺、窮奢極侈。
改武泰為聖冊元年。
分定浿西十三鎮。
平壤城主將軍黔用降、甑城赤衣、黃衣賊明貴等歸服。
善宗以強盛自矜、意欲并呑、令國人呼新羅為滅都、凡自新羅來者、盡誅殺之。
朱梁乾化元年辛未。
改聖冊為水德萬歲元年、改國號為泰封。
遣太祖率兵伐錦城等、以錦城為羅州。
論功、以太祖為大阿飡、將軍。
善宗自稱彌勒佛、頭戴金幘、身被方袍、以長子為青光菩薩、季子為神光菩薩。
出則常騎白馬、以綵餙其鬃尾、使童男童女奉幡蓋、香花前導、又命比丘二百餘人梵唄隨後。
又自述經二十餘卷、其言妖妄、皆不經之事。
時或正坐講說、僧釋聰謂曰、
皆邪說恠談、不可以訓。
善宗聞之怒、以鐵推打殺之。
三年癸酉。
以太祖為波珍飡、侍中。
四年甲戌。
改水德萬歲為政開元年。
以太祖為百船將軍。
貞明元年。
夫人康氏以王多行非法、正色諫之。
王惡之曰、
汝與他人奸、何耶。
康氏曰、安有此事。
王曰、
我以神通觀之。
以烈火熱鐵杵撞其陰殺之、及其兩兒。
爾後多疑急怒、諸寮佐將吏、下至平民、無辜受戮者、頻頻有之、斧壤、鐵圓之人不勝其毒焉。
先是、有商客王昌瑾自唐來、寓鐵圓市廛。
至貞明四年戊寅、於市中見一人、狀貌魁偉、鬢髮盡白、着古衣冠、左手持甆椀、右手持古鏡、謂昌瑾曰、
能買我鏡乎。
昌瑾即以米換之。
其人以米俵街巷乞兒、而後不知去處。
昌瑾懸其鏡於壁上、日映鏡面、有細字書、讀之若古詩。
其畧曰、
上帝降子於辰馬、先操鷄、後搏鴨。
於巳年中、二龍見、一則藏身青木中、一則顯形黑金東。
昌瑾初不知有文、及見之、謂非常、遂告于王。
王命有司與昌瑾物色、求其鏡主不見、唯於㪍颯寺佛堂有鎮星塑像、如其人焉。
王嘆異久之、命文人宋含弘、白卓、許原等解之。
含弘等相謂曰、
上帝降子於辰馬者、謂辰韓、馬韓也。
二龍見、一藏身青木、一顯形黑金者、青木、松也、松岳郡人以龍為名者之孫、今波珍飡、侍中之謂歟。
黑金、鐵也、今所都鐵圓之謂也。
今主上初興於此、終滅於此之驗也。
先操鷄、後搏鴨者、波珍飡、侍中先得鷄林、後收鴨綠之意也。
宋含弘等相謂曰、
今主上虐亂如此、吾輩若以實言、不獨吾輩為葅醢、波珍飡亦必遭害。
廼飾辭告之。
王凶虐自肆、臣寮震懼、不知所措。
夏六月。
將軍弘述、白玉、三能山、卜沙貴此洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜知謙之少名也、四人密謀、夜詣太祖私第、言曰、
今主上淫刑以逞、殺妻戮子、誅夷臣寮、蒼生塗炭、不自聊生。
自古廢昏立明、天下之大義也。
請公行湯、武之事。
太祖作色、拒之曰、
吾以忠純自許、今雖暴亂、不敢有二心。
夫以臣替君、斯謂革命。
予實否德、敢效殷、周之事乎。
諸將曰、
時乎不再來、難遭而易失。
天與不取、反受其咎。
今政亂國危、民皆疾視其上如仇讐。
今之德望、未有居公之右者。
況王昌瑾所得鏡文如彼、豈可雌伏、取死獨夫之手乎。
夫人柳氏聞諸將之議、廼謂太祖曰、
以仁伐不仁、自古而然。
今聞衆議、妾猶發憤、況大丈夫乎。
今羣心忽變、天命有歸矣。
手提甲領、進太祖、諸將扶衛太祖出門、令前唱曰、
王公已舉義旗。
於是前後奔走來隨者不知其幾人。
又有先至宮城門皷噪以待者、亦一萬餘人。
王聞之、不知所圖、廼微服逃入山林、尋為斧壤民所害。
弓裔起自唐大順二年、至朱梁貞明四年、凡二十八年而滅。
≪書き下し文≫
弓裔は新羅人、姓は金氏なり。
考は第四十七憲安王の誼靖、母は憲安王の嬪御なるも、其の姓名を失す。
或いは四十八景文王膺廉の子と云ふ。
五月五日を以て、外家に生まるる。
其の時、屋上に素光有り、長虹の若し、上は天に屬せり。
日官奏じて曰く、
此の兒は重午日を以て生まれ、生にして齒有り、且つ光焰は異常たり。
將來、國家に於いて不利なるを恐るれば、宜しく之れを養ふこと勿らむるべし。
王は中使に勑して其の家に抵せしめ、之れを殺さしむる。
使者は襁褓の中に取りて、之れを樓下に投ず。
乳婢竊かに之れを捧(かか)ふるも、誤りて手を以て觸れ、其の一目を眇(すがめ)る。
抱きて逃竄し、劬勞養育す。
年十餘歲、遊戱止まず。
其の婢之れに告げて曰く、
子の生ずるや、國に棄つられ、予は忍びず、竊かに養ひ、以て今日に至れり。
而れども子の狂たるは此の如し、必ず人に知らるる所と為らば、則ち予と子は俱に免がれず、之れを為すは奈何。
弓裔泣きて曰く、
若し然らば、則ち吾は逝かむや、母に憂を為すこと無からむ。
便ち世達寺に去る。(br)
今の興教寺は是れなり。
祝髮して僧と為り、自ら善宗と號す。
壯ずるに及び、僧律に檢するにも拘らず、軒輊して膽氣有り。
甞て齋に赴き、行きて次に烏鳥の銜する物有り、持する所の鉢の中に落ち、之の牙籤を視れば、王の字書され、則ち秘かにして言はず、頗る自負す。
新羅の衰季、政荒み民散り、王畿の外の州縣叛附相半し、逺近の羣盜は蜂起蟻聚するを見、善宗は亂に乗じて衆を聚めて以て志を得る可しと謂(おも)ひ、真聖王の即位五年、大順二年辛亥を以て、竹州の賊魁の箕萱に投ず。
箕萱は侮慢し、善宗に不禮し、鬱悒して自ら安ずることなく、潜かに箕萱麾下の元會、申煊等と結びて友と為る。
景福元年壬子、北原賊の梁吉に投ず。
吉善は之れに遇ひ、委任するに事を以てし、遂に兵を分け、東に略地せしむ。
是に於いて宿雉岳山石南寺を出ず。
行きて酒泉、奈城、鬱烏、御珍等の縣を襲ひ、皆之れを降す。
乾寧元年。
溟州に入り、衆は三千五百人有り、分けて十四隊を為し、金大、黔毛、盺長、貴平、張一等を舍上と為す、舍上は部長と謂ふなり。
士卒と甘苦勞逸、予奪に至るまでを同じくし、公にして不私、是れ以て衆心畏愛し、推して將軍と為る。
是に於いて猪足、狌川、夫若、金城、鐵圓等の城を擊破し、軍聲は甚だ盛たり。
現の浿西賊寇の來降する者の衆多く、善宗自ら以衆の大なると為し、以て國を開き君を稱す可しとして、內外の官職を設くることを始む。
我が太祖は自ら松岳郡來投し、便りて鐵圓郡太守を授かるる。
三年丙辰。
僧嶺、臨江の兩縣を攻め取る。
四年丁巳、仁物縣降る。
善宗は松岳郡、漢北名郡の山水竒秀なるを謂(おも)ひ、遂に定めて以て都と為す。
孔巖、黔浦、穴口等の城を擊破す。
時に梁吉猶ほ北原に在り、國原等三十餘城を取り之れを有す。
善宗の地廣民衆なるを聞き、大いに怒り、三十餘城の勁兵を以て之れを襲はむと欲す。
善宗潜かに先擊を認め、大いに之れを敗る。
光化元年戊午春二月。
松岳城を葺(おさ)む。
我太祖を以て精騎大監と為し、楊州、見州を伐たしむる。
冬十一月。
八關會を作し始む。
三年庚申。
又た太祖に命じて廣州、忠州、唐城、青州、或いは青川と云ふ、槐壤等を伐たせしめ、皆之れを平げせしむ。
功を以て太祖に阿飡の職を授く。
天復元年辛酉。
善宗自ら王を稱し、人に謂ひて曰く、
徃者(かつて)、新羅は唐に兵を請ひ、以て高勾麗を破り、故に平壤の舊都は鞠為茂草す。
吾必ず其の讎に報ひむ、と。
蓋し生時の棄つらるるを怨み、故に此の言有り。
甞て南巡して興州の浮石寺に至り、壁畫の新羅王像を見、劒を發して之れを擊ち、其の刃迹猶ほ在り。
天祐元年甲子。
國を立て號を摩震と為し、年號を武泰と為す。
廣評省、備員匡治奈、今の侍中、徐事、今の侍郞、外書、今の員外郞を置き、又た兵部、大龍部、今の倉部、壽春部、今の禮部、奉賔部、今の禮賔省、義刑臺、今の刑部、納貨府、今の大府寺、調位府、今の三司、內奉省、今の都省、禁書省、今の秘書省、南廂壇、今の將作監、水壇、今の水部、元鳳省、今の翰林院、飛龍省、今の太僕寺、物藏省、今の少府監を置き、又た史臺、掌習諸譯語、植貨府、菓樹の栽植を掌る、障繕府、城隍の修理を掌る、珠淘省、器物の造成を掌る、を置き、又た正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹等品職を設け始む。
秋七月。
青州の人戶一千を移し、鐵圓城に入れて京と為す。
取尙州等三十餘州縣を伐ち、公州將軍の弘竒來降す。
天祐二年乙丑。
新京に入り、觀闕、樓臺を修葺すること、奢を窮め侈を極む。
武泰を改めて聖冊元年と為す。
分けて浿西十三鎮を定む。
平壤城主の將軍黔用降り、甑城の赤衣、黃衣の賊の明貴等歸服す。
善宗は強盛を以て自ら矜り、意に并呑を欲し、國人をして新羅を呼ばせしめて滅都と為し、凡そ新羅より來たる者、盡く之れを誅殺す。
朱梁乾化元年辛未。
聖冊を改めて水德萬歲元年と為し、國號を改めて泰封と為す。
太祖を遣りて兵を率せしめ錦城等と伐たせしめ、以て錦城を羅州と為す。
論功するに、太祖を以て大阿飡、將軍と為す。
善宗は自ら彌勒佛を稱し、頭に金幘を戴せ、身に方袍を被り、長子を以て青光菩薩と為し、季子を神光菩薩と為す。
出でては則ち常に白馬に騎し、綵餙に其の鬃尾を以てし、童男童女をして幡蓋を奉らせしめ、香花前導せしめ、又た比丘二百餘人に命じて梵唄隨後せしむ。
又た自ら經二十餘卷を述ぶるも、其の言は妖妄、皆經の事にあらず。
時に正坐講說すること或らむ、僧は釋聰して謂ひて曰く、
皆邪說恠談たるに、以て訓とする可からず、と。
善宗は之れを聞きて怒り、鐵推を以て之れを打ち殺す。
三年癸酉。
太祖を以て波珍飡、侍中と為す。
四年甲戌。
水德萬歲を改めて政開元年と為す。
太祖を以て百船將軍と為す。
貞明元年。
夫人康氏、王の多く非法を行ふを以て、色を正して之れを諫む。
王は之れを惡みて曰く、
汝は他人と奸せり、何ぞや、と。
康氏曰く、
安ぞ此の事有らむ、と。
王曰く、
我は神通を以て之れを觀ゆ、と。
烈火を以て鐵杵を熱し、其の陰に撞して之れを殺し、其の兩兒に及ぶ。
爾る後、疑すること多く急怒し、諸寮佐將吏、下は平民に至るまで、無辜の戮を受くる者、頻頻にして之れ有り、斧壤、鐵圓の人其の毒に勝へず。
是れに先じて、商客の王昌瑾、唐より來たる有り、鐵圓の市廛に寓(かりずまひ)す。
貞明四年戊寅に至り、市中に於いて一人に見ゆれば、狀貌は魁偉、鬢髮は盡く白く、古き衣冠を着、左手に甆椀を持ち、右手に古鏡を持ち、昌瑾に謂ひて曰く、
我が鏡を買ふこと能はむか、と。
昌瑾即ち米を以て之れに換ゆ。
其の人、米俵を街巷乞兒に以てし、而る後に去る處を知らず。
昌瑾は其の鏡を壁上に懸け、日に鏡面を映さば、細字の書有り、之れを讀めば古詩の若し。
其の畧(あらまし)に曰く、
上帝は子を辰馬に降し、先ず鷄を操り、後に鴨を搏(つか)む、と。
巳年中に於いて、二龍見(あらは)れ、一は則ち身を青木の中に藏し、一は則ち形は黑金の東に顯る。
昌瑾は初め文有るを知らず、之れを見るに及び、非常を謂(おも)ひ、遂に王に告ぐ。
王は有司に命じて昌瑾と與に物色せしめ、其の鏡を求むるも主は見えず、唯だ㪍颯寺の佛堂に鎮星塑像有り、其の人の如し。
王は嘆異久之し、文人の宋含弘、白卓、許原等に命じ之れを解かせしむ。
含弘等は相ひ謂ひて曰く、
上帝は子を辰馬に降すとは、辰韓、馬韓の謂なり。
二龍見え、一は身を青木に藏り、一は形を黑金に顯すは、青木は松なり。
松岳郡の人は龍を以て名者の孫と為し、今の波珍飡、侍中の謂か。
黑金は鐵なり。
今の都とする所の鐵圓の謂なり。
今、主上は初めて此に興り、終に此の驗に滅びるなり。
先に鷄を操り、後に鴨を搏むとは、波珍飡、侍中の先ず鷄林を得、後に鴨綠を收むるの意なり。
宋含弘等は相ひ謂ひて曰く、
今、主上は虐亂たること此の如し、吾輩は若し實言を以てすれば、吾輩の葅醢と為るは獨りならず、波珍飡も亦た必ず害に遭ふ、と。
廼ち辭を飾り之れを告ぐ。
王は凶虐して自ら肆(ほしいまま)にし、臣寮は震懼し、措く所を知らず。
夏六月。
將軍の弘述、白玉、三能山、卜沙貴此れ洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜知謙の少名なり、四人は密謀し、夜に太祖の私第を詣で、言(まふ)して曰く、
今、主上は刑を淫にして以て逞(ほしいまま)にし、妻を殺し子を戮し、臣寮を誅夷し、蒼生は塗炭し、自ら聊生せず。
古より昏を廢して明を立つるは、天下の大義なり。
公に湯武の事を行はむことを請へり、と。
太祖は色を作して、之れを拒みて曰く、
吾は忠純を以て自ら許し、今は暴亂と雖も、二心を有らしむることを敢へてせず。
夫れ臣を以て君を替ふるは、斯れ革命と謂ふ。
予は實に否德、殷周の事を敢へて效せむか、と。
諸將曰く、
時は再來せず、遭ひ難くして失ひ易し。
天の與ふるを取らざれば、反て其の咎を受く。
今の政亂國危、民は皆其の上を疾視すること仇讐の如し。
今の德望、未だ公の右の者居ること有らず。
況や王は昌瑾の得る所の鏡文は彼の如し。
豈に雌伏して獨夫の手に死するを取る可きか、と。
夫人の柳氏は諸將の議を聞き、廼ち太祖に謂ひて曰く、
仁を以て不仁を伐つは、古よりにして然り。
今、衆議を聞き、妾は猶ほ發憤す、況や大丈夫をや。
今は羣心忽變し、天命に歸する有らむ、と。
手に甲領(よろいかぶと)を提げ、太祖に進むれば、諸將扶衛して太祖門を出で、前に唱しめて曰く、
王公已に義旗を舉ぐ、と。
是に於いて前後奔走し來隨する者、其の幾人なるを知らず。
又た先に宮城門まで至り皷噪して以て待つ者、亦た一萬餘人有り。
王之れを聞き、圖する所を知らず、廼ち微服して逃れて山林に入るも、尋いで斧壤の民の害する所と為る。
弓裔は唐大順二年より起り、朱梁貞明四年まで至り、凡そ二十八年にして滅ぶ。