焚巣館 -三国史記 第五十巻 弓裔

弓裔

 弓裔は新羅人、姓は金氏である。
 父祖は第四十七憲安王であった誼靖。母は憲安王の嬪御であるが、その姓名は失われている。あるいは、四十八景文王膺廉の子とも云われる。
 五月五日に外家で誕生した。その時、長い虹のような真っ白い光が屋根の上から昇り、上は天まで続いた。
 日官が奏じて言った。
「この子供は重午日に生まれ、生まれながらにして歯が生えています。しかも光焰の異常がありました。将来、国家に不利をなす恐れがあります。養うべきではありません。」
 王は宮中の使者に勅命を下し、その家に向かわせて殺すことにした。
 使者は赤子の身に着けたおむつをつかみ取って、樓下に投げ飛ばした。竊かに乳婢がそれを抱きとめたが、誤って指がその目のひとつにかすってしまったが、抱えたまま逃竄し、苦労しながらも養育した。
 年十歲余りになっても遊戱を止めることがなかったので、その乳婢が告げた。
「あなたは生まれてすぐに国から棄てられ、私はそれを忍びないと思って竊かに養い、今日に至っているのです。それなのに、あなたの狂態はこのようなものです。人に知られてしまったら、わたしもあなたも必ずや罪を免れることはできないでしょう。それなのに、どうしてこんなことをするのですか。」
 弓裔は泣きながら言った。
「もしそうならば、私はもう帰ってきません。これで母に憂いを為すこともないでしょう。」
 そのまま世達寺(現在の興教寺とは、これである)まで去り、祝髮して僧となって自ら善宗と號した。
 壮年になると、仏僧の戒律に随っているにもかかわらず、軒輊があり膽氣があった。
 かつて弓裔が法事に赴いたときのことである。道中でカラスが口にくわえていた物が、弓裔の手に持っていた鉢の中に落ちた。その牙籤を見ると、『王』の一字が書かれていたので、弓裔は口にこそしてはいなかったが、それを秘かに頗る自負していた。
 新羅の衰退期、政治は荒廃し、人民は散り、王畿の外の州縣は半ばが叛き半ばが随従し、遠近の群盜が蜂起蟻集しているのを見て、善宗は乱に乗じて衆人を集め、それによって志を得ようと考え、真聖王の即位五年、大順二年辛亥をもって、竹州の賊魁の箕萱の元に身を投じた。
 箕萱は侮慢して善宗に無礼をはたらいたので、鬱悒して自ら安ずることなく、潜かに箕萱麾下の元會、申煊たちと交友を結んでいた。
 景福元年壬子、北原賊の梁吉の元に身を投じた。それに遭遇した吉善は、事をもって委任し、遂に兵を分けて東に略地させた。宿雉岳山の石南寺を出たのは、この時である。行軍して酒泉、奈城、鬱烏、御珍等の縣を襲撃し、これらすべてを降した。

 乾寧元年。
 溟州に入り、三千五百人いる衆勢を分割して十四隊を形成し、金大、黔毛、盺長、貴平、張一たちを舍上とした(舍上とは部長のことである)。
 苦しみも楽しみも、労働も休息も、褒賞や徴収までもを士卒と同じくし、公正にして不私であったので、衆人は心から畏愛し、推挙されて将軍となった。ここで猪足、狌川、夫若、金城、鐵圓等の城を擊破し、軍声は甚だ盛であった。
 今回、浿西の賊寇から来降する衆勢は多く、善宗も自ら衆勢が大いなるものであることを思い、そのため国を開いて君を称そうとして、内外の官職を設け始めた。我が太祖は自ら松岳郡をもって来投し、そこで鐵圓郡太守を授かった。

 三年丙辰。
 僧嶺、臨江の両縣を攻め取った。
 四年丁巳、仁物縣が降った。
 善宗は松岳郡、漢北名郡の山水が奇抜で美しいことを思い、遂に都に定めた。
 孔巖、黔浦、穴口等の城を擊破した。この時、梁吉はまだ北原にいたが、國原等三十城余りを取って領有した。善宗の領地が広大で人民が多大であると聞いて、大いに怒り、三十城余りの勁兵をもって襲撃しようとしたが、善宗はひそかに先擊があることに気づいていたので、これを大いに敗った。

 光化元年戊午春二月。
 松岳城を修復した。我が太祖を精騎大監に任命し、楊州、見州を討伐させた。

 冬十一月。
 八關會を作り始めた。

 三年庚申。
 今度は太祖に命じて廣州、忠州、唐城、青州(あるいは青川と云う)、槐壤等を討伐させ、これらすべてを平定させた。この功績によって、太祖に阿飡の職を授けた。

 天復元年辛酉。
 善宗は自ら王を称し、人に言った。
「かつて新羅は唐に兵を要請することで高勾麗を破り、故に平壤の旧都は鞠為茂草している。私は必ずその仇に報いる。」
 まさしく、生時に棄てられたことを怨んだがゆえに、この言葉を吐いたのだ。
 かつて南巡して興州の浮石寺までたどり着いて壁画の新羅王像を見ると、劒を抜いてこれを擊ったことがある。その刃傷の跡は、現在も残っている。

 天祐元年甲子。
 国を立て、號を摩震とし、年號を武泰とした。
 廣評省、備員匡治奈(現在の侍中)、徐事(現在の侍郞)、外書(現在の員外郞)を置き、また兵部、大龍部(現在の倉部)、壽春部(現在の禮部)、奉賔部(現在の禮賔省)、義刑臺(現在の刑部)、納貨府(現在の大府寺)、調位府(現在の三司)、內奉省(現在の都省)、禁書省(現在の秘書省)、南廂壇(現在の將作監)、水壇(現在の水部)、元鳳省(現在の翰林院)、飛龍省(現在の太僕寺)、物藏省(現在の少府監)を置き、また史臺(諸訳語の習得を掌握する)、植貨府(菓樹の栽植を掌握する)、障繕府(城隍の修理を掌握する)、珠淘省(器物の造成を掌握する)を置き、また正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹等の品職の設置を開始した。

 秋七月。
 青州の人戶一千を鐵圓城内に移住させ、京とした。
 尙州等三十餘州縣を伐ち取り、公州將軍の弘竒が来降した。

 天祐二年乙丑。
 新京に入って観闕と樓台を改修し、贅沢を極めた。
 武泰から聖冊元年に改めた。
 浿西十三鎮を分定した。
 平壤城主の將軍黔用が降服し、甑城の赤衣、黃衣の賊の明貴たちが起伏した。
 善宗は強盛であることを自ら矜り、併吞しようと心意に懐きながら國人に新羅を滅都と呼ばせ、凡そ新羅から来た者を誅殺し尽くした。

 朱梁乾化元年辛未。
 聖冊から水德萬歲元年と改め、國號を泰封に改めた。
 太祖に兵を率いさせて錦城等に派遣し、錦城を羅州とした。
 論功にて、太祖を大阿飡、將軍とした。
 善宗は弥勒仏を自称し、頭に金幘を戴せ、身に方袍を被り、長子を青光菩薩とし、季子を神光菩薩とした。
 外出ではいつも白馬に騎乗し、それを鬃尾に装飾を施し、童男童女に幡蓋を奉らせ、香花を持たせて前を往かせ、また比丘二百人余りに梵唄するよう命じ、後ろにつき従わせた。
 また自ら経を二十卷余りを著述したが、その言葉は妖妄であり、どれも経とは呼べないものであった。
 ある時、正坐講説をすることがあったが、それを釋聰した僧は言った。
「どれもでたらめな邪説だ。訓戒とすることなどできぬ。」
 それを聞いた善宗は怒り、鐵推でその者を打ち殺した。

 三年癸酉。
 太祖を波珍飡、侍中に任命した。

 四年甲戌。
 水德萬歲を政開元年と改めた。
 太祖を百船將軍に任命した。

 貞明元年。
 王が非法を数多く行っていたので、夫人の康氏が顔色を正して諫めた。
 これを憎らしく思った王は言った。
「お前は他人と淫行に及んだな。どうしてだ?」
 康氏は言った。
「そんなことするはずがないでしょう!」
 王は言った。
「私はそれを神通力で見通したのだ。」
 烈火で鉄杵を熱し、その陰部に突き刺して殺し、それは二人の子供にも及んだ。
 それからというもの、人への疑心から突然怒り出すことが多くなり、上は閣僚、佐官、将軍、吏員、下は平民に至るまで、無辜にして殺戮を受ける者が頻出し、斧壤と鐵圓の人々は、その害毒に耐えることができなかった。

 それ以前のこと、唐から来た商客の王昌瑾は、鐵圓の市廛に仮住まいしていた。
 貞明四年戊寅になって市中で、一人の者と出会った。容貌は魁偉で、毛髪はすべてが白く、古の衣冠を着用し、左手に甆椀を持ち、右手に古鏡を持ち、王昌瑾に言った。
「私の鏡を買うことはできるだろうか。」
 王昌瑾はすぐに米とそれを交換した。
 その人は、米俵を街巷の乞食の児童に渡すと、そのまま立ち去ってどこに行ったか分からない。
 王昌瑾はその鏡を壁上に懸け、日に鏡面を映すと、細かい字が書かれていた。それを読んでみると、古詩のようであった。
 その概要は以下のようなものである。
「上帝は子を辰馬に降し、まず鷄を操り、後に鴨をつかむ。巳年中に二頭の龍が現れ、一頭は身を青木の中に隠し、一頭の姿形は黒金で、東方に顕れる。」
 当初、王昌瑾は文の存在に気付かず、これを発見した際には、非常のことであると考え、そのまま王に報告した。
 王は有司に命じて昌瑾と一緒に物色させ、その鏡を求めたが主は現れず、㪍颯寺の仏堂に鎮星の塑像があっただけだったが、その人物にそっくりであった。
 王はしばらくその異事に嘆くと、文人の宋含弘、白卓、許原等に命じ、それを解読させた。
 含弘等は互いに言い合った。
「『上帝は子を辰馬に降し』とは、辰韓、馬韓のことだ。『二頭の龍が現れ、一頭は身を青木の中に隠し、一頭の姿形は黒金で、東方に顕れる』の『青木』とは、松のことだ。松岳郡の人は龍を名者の孫としますが、これは現在の波珍飡、侍中のことだろうか。『黑金』とは鐵のことで、現在の都である鐵圓のことだ。今の主上はここを最初にして興隆し、最後はこの前兆によって滅びる。『先に鷄を操り、後に鴨をつかむ』とは、波珍飡、侍中が先に鷄林を得、後に鴨綠を手に入れるという意味だ。」
 宋含弘等は互いに言い合った。
「現在、主上はあのように逆乱している。もし我々が本当のことを言えば、殺されて塩漬けの刑に処されるのは我々だけでには留まらない。必ずや波珍飡も同様に害に遭うことになる。」
 すぐに言葉を粉飾し、それを伝えた。
 王は自らのほしいままに凶虐し、臣寮は震懼し、どうしてよいかわからなかった。

 夏六月。
 将軍の弘述、白玉、三能山、卜沙貴(これらは洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜知謙の少名である)の四人は密謀し、夜に太祖の私邸を訪ねて進言した。
「今の主上は思うがままに刑罰をみだりに行ない、妻や子を殺戮し、臣寮を誅殺し、蒼生は泥に塗れて火に焼かれるような苦難に陥り、自らの生計すら立てられません。古より昏迷の者を廃絶して賢明な者を立てるのは、天下の大義でありました。あなたに湯武の事を行なってほしいと思います。」
 太祖は顔色を変え、それを拒んで言った。
「私は忠義にまっすぐであることを自らの誇りとしている。今は暴乱であろうと、二心を敢えて持とうとは思わない。考えてみたまえ。臣下を君主に替えることを革命という。私はまったくの徳なき者なのに、殷周の事を敢えてやれと言うのか。」
 諸将は言った。
「時間は二度と巻き戻らず、遭うことは難しくも、失うことは容易いものです。天に与えられながら受け取らないのは、かえってその咎を受けることになります。現在、政治は乱れ、国家は危機に瀕し、人民は皆が自らのお上に対して仇讐であるかのように憎しみの視線を向けています。今や徳望において、あなたの右に出る者はいません。それのみならず、王昌瑾が手に入れた鏡文には、このようにあります。わざわざ雌伏し、一人の男の手にかかって死ぬことを選択するのですか?」
 夫人の柳氏は諸将の議を聞くと、すぐに太祖に「仁によって不仁を伐つのは、古からの必然です。今、衆議を聞き、妾でさえも発憤しております。偉丈夫なら尚更でしょう。今や群心は豹変し、天命に帰しているのです。」と言い、手には鎧と兜を提げ、太祖に進めた。諸将が護衛を務め、太祖は門を出ると、「王公は既に義旗を挙げた!」と前唱させた。
 こうして前後に奔走し随行した者は、何人になるかわからない。また、先に宮城の門まで至り、太鼓を打ち鳴らして待つ者も、一万人以上に上った。
 それを聞いた王は、何が計画されているのかも理解できないまま、庶民に扮装して逃げ出し、山林に入ったが、すぐに斧壤の民に殺害されてしまった。
 弓裔は唐大順二年に決起してから朱梁貞明四年までの間、凡そ二十八年にして滅んだ。

 

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≪白文≫
 弓裔、新羅人、姓金氏。
 考第四十七憲安王誼靖、母憲安王嬪御、失其姓名。
 或云四十八景文王膺廉之子。
 以五月五日、生於外家。
 其時屋上有素光、若長虹、上屬天。
 日官奏曰、
 此兒以重午日生、生而有齒、且光焰異常、恐將來不利於國家、宜勿養之。
 王勑中使抵其家殺之。
 使者取於襁褓中、投之樓下。
 乳婢竊捧之、誤以手觸、眇其一目。
 抱而逃竄、劬勞養育。
 年十餘歲、遊戱不止。
 其婢告之曰、
 子之生也、見棄於國、予不忍、竊養、以至今日。
 而子之狂如此、必為人所知、則予與子俱不免、為之奈何。
 弓裔泣曰、
 若然、則吾逝矣、無為母憂。
 便去世達寺、今之興教寺是也。
 祝髮為僧、自號善宗。
 及壯、不拘檢僧律軒輊、有膽氣。
 甞赴齋、行次有烏鳥銜物、落所持鉢中、視之牙籤、書王字、則秘而不言、頗自負。
 見新羅衰季、政荒民散、王畿外州縣叛附相半、逺近羣盜蜂起蟻聚、善宗謂乗亂聚衆可以得志、以真聖王即位五年、大順二年辛亥、投竹州賊魁箕萱。
 箕萱侮慢、不禮善宗、鬱悒不自安、潜結箕萱麾下元會、申煊等為友。
 景福元年壬子、投北原賊梁吉。
 吉善遇之、委任以事、遂分兵、使東略地。
於是出宿雉岳山石南寺。
 行襲酒泉、奈城、鬱烏、御珍等縣、皆降之。

 乾寧元年。
 入溟州、有衆三千五百人、分為十四隊、金大、黔毛、盺長、貴平、張一等為舍上、舍上謂部長也。
 與士卒同甘苦勞逸、至於予奪、公而不私、是以衆心畏愛、推為將軍。
 於是擊破猪足、狌川、夫若、金城、鐵圓等城、軍聲甚盛。
 現浿西賊寇來降者衆多、善宗自以為衆大、可以開國稱君、始設內外官職。
 我太祖自松岳郡來投、便授鐵圓郡太守。

 三年丙辰。
 攻取僧嶺、臨江兩縣。
四年丁巳、仁物縣降。
 善宗謂松岳郡、漢北名郡、山水竒秀、遂定以為都。
 擊破孔巖、黔浦、穴口等城。
 時梁吉猶在北原、取國原等三十餘城有之。
 聞善宗地廣民衆、大怒、欲以三十餘城勁兵襲之。
 善宗潜認先擊、大敗之。

 光化元年戊午春二月。
 葺松岳城。
 以我太祖為精騎大監、伐楊州、見州。

 冬十一月。
 始作八關會。

 三年庚申。
 又命太祖伐廣州、忠州、唐城、青州、或云青川、槐壤等、皆平之。
 以功授太祖阿飡之職。

 天復元年辛酉。
 善宗自稱王、謂人曰、
 徃者新羅請兵於唐、以破高勾麗、故平壤舊都、鞠為茂草。
 吾必報其讎。
 蓋怨生時見棄、故有此言。
 甞南巡至興州浮石寺、見壁畫新羅王像、發劒擊之、其刃迹猶在。

 天祐元年甲子。
 立國號為摩震、年號為武泰。
 始置廣評省、備員匡治奈、今侍中、徐事、今侍郞、外書、今員外郞、又置兵部、大龍部、今倉部、壽春部、今禮部、奉賔部、今禮賔省、義刑臺、今刑部、納貨府、今大府寺、調位府、今三司、內奉省、今都省、禁書省、今秘書省、南廂壇、今將作監、水壇、今水部、元鳳省、今翰林院、飛龍省、今太僕寺、物藏省、今少府監、又置史臺、掌習諸譯語、植貨府、掌栽植菓樹、障繕府、掌修理城隍、珠淘省、掌造成器物、又設正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹等品職。

 秋七月。
 移青州人戶一千入鐵圓城為京。
 伐取尙州等三十餘州縣、公州將軍弘竒來降。

 天祐二年乙丑。
 入新京、修葺觀闕、樓臺、窮奢極侈。
改武泰為聖冊元年。
分定浿西十三鎮。
平壤城主將軍黔用降、甑城赤衣、黃衣賊明貴等歸服。
善宗以強盛自矜、意欲并呑、令國人呼新羅為滅都、凡自新羅來者、盡誅殺之。

 朱梁乾化元年辛未。
 改聖冊為水德萬歲元年、改國號為泰封。
 遣太祖率兵伐錦城等、以錦城為羅州。
 論功、以太祖為大阿飡、將軍。
 善宗自稱彌勒佛、頭戴金幘、身被方袍、以長子為青光菩薩、季子為神光菩薩。
 出則常騎白馬、以綵餙其鬃尾、使童男童女奉幡蓋、香花前導、又命比丘二百餘人梵唄隨後。
 又自述經二十餘卷、其言妖妄、皆不經之事。
 時或正坐講說、僧釋聰謂曰、
 皆邪說恠談、不可以訓。
 善宗聞之怒、以鐵推打殺之。

 三年癸酉。
 以太祖為波珍飡、侍中。

 四年甲戌。
 改水德萬歲為政開元年。
 以太祖為百船將軍。

 貞明元年。
 夫人康氏以王多行非法、正色諫之。
 王惡之曰、
 汝與他人奸、何耶。
 康氏曰、安有此事。
 王曰、
 我以神通觀之。
 以烈火熱鐵杵撞其陰殺之、及其兩兒。
 爾後多疑急怒、諸寮佐將吏、下至平民、無辜受戮者、頻頻有之、斧壤、鐵圓之人不勝其毒焉。

 先是、有商客王昌瑾自唐來、寓鐵圓市廛。
 至貞明四年戊寅、於市中見一人、狀貌魁偉、鬢髮盡白、着古衣冠、左手持甆椀、右手持古鏡、謂昌瑾曰、
 能買我鏡乎。
 昌瑾即以米換之。
 其人以米俵街巷乞兒、而後不知去處。
 昌瑾懸其鏡於壁上、日映鏡面、有細字書、讀之若古詩。
 其畧曰、
 上帝降子於辰馬、先操鷄、後搏鴨。
 於巳年中、二龍見、一則藏身青木中、一則顯形黑金東。
 昌瑾初不知有文、及見之、謂非常、遂告于王。
 王命有司與昌瑾物色、求其鏡主不見、唯於㪍颯寺佛堂有鎮星塑像、如其人焉。
 王嘆異久之、命文人宋含弘、白卓、許原等解之。
 含弘等相謂曰、
 上帝降子於辰馬者、謂辰韓、馬韓也。
 二龍見、一藏身青木、一顯形黑金者、青木、松也、松岳郡人以龍為名者之孫、今波珍飡、侍中之謂歟。
 黑金、鐵也、今所都鐵圓之謂也。
 今主上初興於此、終滅於此之驗也。
 先操鷄、後搏鴨者、波珍飡、侍中先得鷄林、後收鴨綠之意也。
 宋含弘等相謂曰、
 今主上虐亂如此、吾輩若以實言、不獨吾輩為葅醢、波珍飡亦必遭害。
 廼飾辭告之。
 王凶虐自肆、臣寮震懼、不知所措。

 夏六月。
 將軍弘述、白玉、三能山、卜沙貴此洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜知謙之少名也、四人密謀、夜詣太祖私第、言曰、
 今主上淫刑以逞、殺妻戮子、誅夷臣寮、蒼生塗炭、不自聊生。
 自古廢昏立明、天下之大義也。
請公行湯、武之事。
 太祖作色、拒之曰、
 吾以忠純自許、今雖暴亂、不敢有二心。
 夫以臣替君、斯謂革命。
 予實否德、敢效殷、周之事乎。
 諸將曰、
 時乎不再來、難遭而易失。
 天與不取、反受其咎。
 今政亂國危、民皆疾視其上如仇讐。
 今之德望、未有居公之右者。
 況王昌瑾所得鏡文如彼、豈可雌伏、取死獨夫之手乎。
 夫人柳氏聞諸將之議、廼謂太祖曰、  以仁伐不仁、自古而然。
 今聞衆議、妾猶發憤、況大丈夫乎。
 今羣心忽變、天命有歸矣。
 手提甲領、進太祖、諸將扶衛太祖出門、令前唱曰、  王公已舉義旗。
 於是前後奔走來隨者不知其幾人。
 又有先至宮城門皷噪以待者、亦一萬餘人。
 王聞之、不知所圖、廼微服逃入山林、尋為斧壤民所害。
 弓裔起自唐大順二年、至朱梁貞明四年、凡二十八年而滅。

≪書き下し文≫
 弓裔は新羅人、姓は金氏なり。
 考は第四十七憲安王の誼靖、母は憲安王の嬪御なるも、其の姓名を失す。
 或いは四十八景文王膺廉の子と云ふ。
 五月五日を以て、外家に生まるる。
 其の時、屋上に素光有り、長虹の若し、上は天に屬せり。
 日官奏じて曰く、
 此の兒は重午日を以て生まれ、生にして齒有り、且つ光焰は異常たり。
 將來、國家に於いて不利なるを恐るれば、宜しく之れを養ふこと勿らむるべし。
 王は中使に勑して其の家に抵せしめ、之れを殺さしむる。
 使者は襁褓の中に取りて、之れを樓下に投ず。
 乳婢竊かに之れを捧(かか)ふるも、誤りて手を以て觸れ、其の一目を眇(すがめ)る。
 抱きて逃竄し、劬勞養育す。
 年十餘歲、遊戱止まず。
 其の婢之れに告げて曰く、
 子の生ずるや、國に棄つられ、予は忍びず、竊かに養ひ、以て今日に至れり。
 而れども子の狂たるは此の如し、必ず人に知らるる所と為らば、則ち予と子は俱に免がれず、之れを為すは奈何。
 弓裔泣きて曰く、
 若し然らば、則ち吾は逝かむや、母に憂を為すこと無からむ。
 便ち世達寺に去る。(br)  今の興教寺は是れなり。
 祝髮して僧と為り、自ら善宗と號す。
 壯ずるに及び、僧律に檢するにも拘らず、軒輊して膽氣有り。
 甞て齋に赴き、行きて次に烏鳥の銜する物有り、持する所の鉢の中に落ち、之の牙籤を視れば、王の字書され、則ち秘かにして言はず、頗る自負す。
 新羅の衰季、政荒み民散り、王畿の外の州縣叛附相半し、逺近の羣盜は蜂起蟻聚するを見、善宗は亂に乗じて衆を聚めて以て志を得る可しと謂(おも)ひ、真聖王の即位五年、大順二年辛亥を以て、竹州の賊魁の箕萱に投ず。
 箕萱は侮慢し、善宗に不禮し、鬱悒して自ら安ずることなく、潜かに箕萱麾下の元會、申煊等と結びて友と為る。
 景福元年壬子、北原賊の梁吉に投ず。
 吉善は之れに遇ひ、委任するに事を以てし、遂に兵を分け、東に略地せしむ。
 是に於いて宿雉岳山石南寺を出ず。
 行きて酒泉、奈城、鬱烏、御珍等の縣を襲ひ、皆之れを降す。

 乾寧元年。
 溟州に入り、衆は三千五百人有り、分けて十四隊を為し、金大、黔毛、盺長、貴平、張一等を舍上と為す、舍上は部長と謂ふなり。
 士卒と甘苦勞逸、予奪に至るまでを同じくし、公にして不私、是れ以て衆心畏愛し、推して將軍と為る。
 是に於いて猪足、狌川、夫若、金城、鐵圓等の城を擊破し、軍聲は甚だ盛たり。
 現の浿西賊寇の來降する者の衆多く、善宗自ら以衆の大なると為し、以て國を開き君を稱す可しとして、內外の官職を設くることを始む。
 我が太祖は自ら松岳郡來投し、便りて鐵圓郡太守を授かるる。

 三年丙辰。
 僧嶺、臨江の兩縣を攻め取る。
 四年丁巳、仁物縣降る。
 善宗は松岳郡、漢北名郡の山水竒秀なるを謂(おも)ひ、遂に定めて以て都と為す。
 孔巖、黔浦、穴口等の城を擊破す。
 時に梁吉猶ほ北原に在り、國原等三十餘城を取り之れを有す。
 善宗の地廣民衆なるを聞き、大いに怒り、三十餘城の勁兵を以て之れを襲はむと欲す。
 善宗潜かに先擊を認め、大いに之れを敗る。

 光化元年戊午春二月。
 松岳城を葺(おさ)む。
 我太祖を以て精騎大監と為し、楊州、見州を伐たしむる。

 冬十一月。
 八關會を作し始む。

 三年庚申。
 又た太祖に命じて廣州、忠州、唐城、青州、或いは青川と云ふ、槐壤等を伐たせしめ、皆之れを平げせしむ。
 功を以て太祖に阿飡の職を授く。

 天復元年辛酉。
 善宗自ら王を稱し、人に謂ひて曰く、
 徃者(かつて)、新羅は唐に兵を請ひ、以て高勾麗を破り、故に平壤の舊都は鞠為茂草す。
 吾必ず其の讎に報ひむ、と。
 蓋し生時の棄つらるるを怨み、故に此の言有り。
 甞て南巡して興州の浮石寺に至り、壁畫の新羅王像を見、劒を發して之れを擊ち、其の刃迹猶ほ在り。

 天祐元年甲子。
 國を立て號を摩震と為し、年號を武泰と為す。
 廣評省、備員匡治奈、今の侍中、徐事、今の侍郞、外書、今の員外郞を置き、又た兵部、大龍部、今の倉部、壽春部、今の禮部、奉賔部、今の禮賔省、義刑臺、今の刑部、納貨府、今の大府寺、調位府、今の三司、內奉省、今の都省、禁書省、今の秘書省、南廂壇、今の將作監、水壇、今の水部、元鳳省、今の翰林院、飛龍省、今の太僕寺、物藏省、今の少府監を置き、又た史臺、掌習諸譯語、植貨府、菓樹の栽植を掌る、障繕府、城隍の修理を掌る、珠淘省、器物の造成を掌る、を置き、又た正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹等品職を設け始む。

 秋七月。
 青州の人戶一千を移し、鐵圓城に入れて京と為す。
 取尙州等三十餘州縣を伐ち、公州將軍の弘竒來降す。

 天祐二年乙丑。
 新京に入り、觀闕、樓臺を修葺すること、奢を窮め侈を極む。
 武泰を改めて聖冊元年と為す。
 分けて浿西十三鎮を定む。
 平壤城主の將軍黔用降り、甑城の赤衣、黃衣の賊の明貴等歸服す。
 善宗は強盛を以て自ら矜り、意に并呑を欲し、國人をして新羅を呼ばせしめて滅都と為し、凡そ新羅より來たる者、盡く之れを誅殺す。

 朱梁乾化元年辛未。
 聖冊を改めて水德萬歲元年と為し、國號を改めて泰封と為す。
 太祖を遣りて兵を率せしめ錦城等と伐たせしめ、以て錦城を羅州と為す。
 論功するに、太祖を以て大阿飡、將軍と為す。
 善宗は自ら彌勒佛を稱し、頭に金幘を戴せ、身に方袍を被り、長子を以て青光菩薩と為し、季子を神光菩薩と為す。
 出でては則ち常に白馬に騎し、綵餙に其の鬃尾を以てし、童男童女をして幡蓋を奉らせしめ、香花前導せしめ、又た比丘二百餘人に命じて梵唄隨後せしむ。
 又た自ら經二十餘卷を述ぶるも、其の言は妖妄、皆經の事にあらず。
 時に正坐講說すること或らむ、僧は釋聰して謂ひて曰く、
 皆邪說恠談たるに、以て訓とする可からず、と。
 善宗は之れを聞きて怒り、鐵推を以て之れを打ち殺す。

 三年癸酉。
 太祖を以て波珍飡、侍中と為す。

 四年甲戌。
 水德萬歲を改めて政開元年と為す。
 太祖を以て百船將軍と為す。

 貞明元年。
 夫人康氏、王の多く非法を行ふを以て、色を正して之れを諫む。
 王は之れを惡みて曰く、
 汝は他人と奸せり、何ぞや、と。
 康氏曰く、
 安ぞ此の事有らむ、と。
 王曰く、
 我は神通を以て之れを觀ゆ、と。
 烈火を以て鐵杵を熱し、其の陰に撞して之れを殺し、其の兩兒に及ぶ。
 爾る後、疑すること多く急怒し、諸寮佐將吏、下は平民に至るまで、無辜の戮を受くる者、頻頻にして之れ有り、斧壤、鐵圓の人其の毒に勝へず。

 是れに先じて、商客の王昌瑾、唐より來たる有り、鐵圓の市廛に寓(かりずまひ)す。
 貞明四年戊寅に至り、市中に於いて一人に見ゆれば、狀貌は魁偉、鬢髮は盡く白く、古き衣冠を着、左手に甆椀を持ち、右手に古鏡を持ち、昌瑾に謂ひて曰く、
 我が鏡を買ふこと能はむか、と。
 昌瑾即ち米を以て之れに換ゆ。
 其の人、米俵を街巷乞兒に以てし、而る後に去る處を知らず。
 昌瑾は其の鏡を壁上に懸け、日に鏡面を映さば、細字の書有り、之れを讀めば古詩の若し。
 其の畧(あらまし)に曰く、
 上帝は子を辰馬に降し、先ず鷄を操り、後に鴨を搏(つか)む、と。
 巳年中に於いて、二龍見(あらは)れ、一は則ち身を青木の中に藏し、一は則ち形は黑金の東に顯る。
 昌瑾は初め文有るを知らず、之れを見るに及び、非常を謂(おも)ひ、遂に王に告ぐ。
 王は有司に命じて昌瑾と與に物色せしめ、其の鏡を求むるも主は見えず、唯だ㪍颯寺の佛堂に鎮星塑像有り、其の人の如し。
 王は嘆異久之し、文人の宋含弘、白卓、許原等に命じ之れを解かせしむ。
 含弘等は相ひ謂ひて曰く、
 上帝は子を辰馬に降すとは、辰韓、馬韓の謂なり。
 二龍見え、一は身を青木に藏り、一は形を黑金に顯すは、青木は松なり。
 松岳郡の人は龍を以て名者の孫と為し、今の波珍飡、侍中の謂か。
 黑金は鐵なり。
 今の都とする所の鐵圓の謂なり。
 今、主上は初めて此に興り、終に此の驗に滅びるなり。
 先に鷄を操り、後に鴨を搏むとは、波珍飡、侍中の先ず鷄林を得、後に鴨綠を收むるの意なり。
 宋含弘等は相ひ謂ひて曰く、
 今、主上は虐亂たること此の如し、吾輩は若し實言を以てすれば、吾輩の葅醢と為るは獨りならず、波珍飡も亦た必ず害に遭ふ、と。
 廼ち辭を飾り之れを告ぐ。
 王は凶虐して自ら肆(ほしいまま)にし、臣寮は震懼し、措く所を知らず。

 夏六月。
 將軍の弘述、白玉、三能山、卜沙貴此れ洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜知謙の少名なり、四人は密謀し、夜に太祖の私第を詣で、言(まふ)して曰く、
 今、主上は刑を淫にして以て逞(ほしいまま)にし、妻を殺し子を戮し、臣寮を誅夷し、蒼生は塗炭し、自ら聊生せず。
 古より昏を廢して明を立つるは、天下の大義なり。
 公に湯武の事を行はむことを請へり、と。
 太祖は色を作して、之れを拒みて曰く、
 吾は忠純を以て自ら許し、今は暴亂と雖も、二心を有らしむることを敢へてせず。
 夫れ臣を以て君を替ふるは、斯れ革命と謂ふ。
 予は實に否德、殷周の事を敢へて效せむか、と。
 諸將曰く、
 時は再來せず、遭ひ難くして失ひ易し。
 天の與ふるを取らざれば、反て其の咎を受く。
 今の政亂國危、民は皆其の上を疾視すること仇讐の如し。
 今の德望、未だ公の右の者居ること有らず。
 況や王は昌瑾の得る所の鏡文は彼の如し。
 豈に雌伏して獨夫の手に死するを取る可きか、と。
 夫人の柳氏は諸將の議を聞き、廼ち太祖に謂ひて曰く、
 仁を以て不仁を伐つは、古よりにして然り。
 今、衆議を聞き、妾は猶ほ發憤す、況や大丈夫をや。
 今は羣心忽變し、天命に歸する有らむ、と。
 手に甲領(よろいかぶと)を提げ、太祖に進むれば、諸將扶衛して太祖門を出で、前に唱しめて曰く、
 王公已に義旗を舉ぐ、と。
 是に於いて前後奔走し來隨する者、其の幾人なるを知らず。
 又た先に宮城門まで至り皷噪して以て待つ者、亦た一萬餘人有り。
 王之れを聞き、圖する所を知らず、廼ち微服して逃れて山林に入るも、尋いで斧壤の民の害する所と為る。
 弓裔は唐大順二年より起り、朱梁貞明四年まで至り、凡そ二十八年にして滅ぶ。