焚巣館 -三国史記 第五十巻 甄萱

甄萱

 甄萱、尙州加恩縣の人である。本姓は李、後に甄を氏とした。父は阿慈介、農耕によって自らの生活を支え、後に平民の家柄から官職を得て(※1)将軍となった。さて、甄萱が生まれたばかりの幼児の時のことである。父は野で畑仕事をし、母がそちらに食べ物を届けに行こうとして子供を林下に置いていると、虎が来てこれに乳を与えた。それを聞いた郷里の人たちは、奇異に感じた。壮年になると、身体つきと顔つきは並外れてすぐれ、志気はしがらみに囚われず、他者と異なる非凡な才覚があった。従軍して王京(みやこ)に入り、西南海の防人として赴いたとき、戈を枕にして敵を待ち、その勇気によっていつも士卒の先鋒となったことから、報労として裨将(※2)となった。

 唐昭宗景福元年、この時、新羅真聖王は在位六年、お気に入りの竪(しもべ)が側について竊かに政(まつりごと)の権柄を玩弄し、綱紀は紊乱と弛緩に至り、これに加えて飢饉まで起こったので、百姓は流民となり、群盜が蜂起した。ここにおいて甄萱は竊かに分不相応な欲望を抱き、大言壮語をして仲間を集め、行軍して京の西南の州縣を攻撃すると、至る所が響応した。旬月の間に衆勢は五千人までに膨れ上がり、遂に武珍州を襲撃して自ら王となったが、それでも敢えて公然と王を称することはせず、自署は『新羅西面都統指揮兵馬制置、持節、都督全武公等州軍事、行全州刺史、兼御史中丞、上柱國、漢南郡開國公』とし、食邑は二千戸であった。この時、北原の賊の良吉は雄強で、弓裔は自ら投じて麾下となった。それを聞いた甄萱も、良吉から職を遙授して裨将となった。甄萱が西を巡って完山州までたどり着くと、州民が迎え入れて労った。人心を得たことを喜んだ甄萱は、左右に言った。「俺から三国の始まりを遡ってみれば、まずは馬韓が起こり、その後に赫世が勃興し、それゆえ辰韓と卞韓がこれに従って興り、そこで百濟が金馬山に国を開いて六百年余りである。捴章中、唐の高宗は新羅の要請を受けたことで、将軍の蘇定方を船兵十三萬とともに派遣して海を越えさせた。新羅の金庾信は土埃を巻き上げながら黃山を経由して泗泚までたどり着き、唐軍と合流して百済を攻め、これを滅ぼした。今ここで、余が敢えて完山に都を立てることもせず、義慈の宿憤を雪(すす)がない手があるだろうか。」遂に自ら後百濟王と称し、官位を設けて職を分けた。これが唐光化三年、新羅孝恭王四年のことである。遣使して呉越に訪朝させると、呉越王は来聘に報い、これによって檢校太保が加えられ、それ以外は元のままとした。

 天復元年、甄萱が大耶城を攻めたが下らなかった。

 開平四年、甄萱は錦城が弓裔に投降したことに怒り、步兵と騎兵三千でそこを攻め、旬を経ても解放しなかった。

 乾化二年、甄萱と弓裔が德津浦で戦った。

 貞明四年戊寅(つちのえとら)、鐵圓の京の衆人の心が突如として変わり、我が太祖を推戴して即位させた。それを聞いた甄萱は、秋八月に一吉飡の閔卻を派遣して祝賀させ、遂に孔雀扇と地理山の竹箭を献じた。当時に遣使して呉越に入り馬を進め、吳越王は来聘に報い、中大夫を追加で授け、それ以外はもとのままとした。

 六年、甄萱が步兵と騎兵一萬を率い、大耶城を攻め落とし、軍を進禮城に移した。新羅王は阿飡の金律を派遣して太祖に救援を求めた。太祖が出兵すると、それを聞いた甄萱は引き下がった。甄萱と我が太祖は陽(ひなた)では和睦していたが陰(かげ)では対立していた。

 同光二年秋七月、子の須彌強を派遣して大耶を出発させ、聞城と韶城の二城の兵卒が曹物城に攻め込んだ。城の人々は太祖の為に守りを固めながら戦ったので、須彌強は利を失して帰った。

 八月、遣使して騘馬を太祖に献じた。

 三年冬十月、甄萱が三千騎を率いて曹物城までたどり着くと、太祖も精兵をもってこれらとともに确に来たが、この時の甄萱の兵の鋭たること甚しく、まだ勝否が決しないうちに太祖は、かりそめの和睦をすることで、その軍を衰えさせようとして、文書を移して和を乞い、堂弟の王信を人質とすると、甄萱も外甥の真虎を人質として交換した。

 十二月、居昌等二十城余りを攻撃して奪い取った。遣使して後唐に入らせて藩を称すると、唐は『檢校太尉、兼侍中、判百濟軍事、依前持節、都督全武公等州軍事、行全州刺史、海東四面都統、指揮兵馬制置等事、百濟王』と食邑二千五百戶を授けると策した。

 四年、真虎が突然死去し、それを聞いた甄萱は、殺されたからではないかと疑い、すぐに王信を獄中に囚えた。同時に人をやって前年に送った騘馬の返還を要請すると、太祖は笑ってそれを還した。

 天成二年秋九月、甄萱が攻撃して近品城を略取し、これを焼き払った。進軍して新羅の高鬱府を襲撃し、新羅の都の外れまで迫った。新羅王は救援を太祖に求めた。

 冬十月、太祖は軍隊を出撃させて援助した。にわかに甄萱が新羅の王都に入ろうとした時、王は夫人や嬪御と一緒に鮑石亭まで遊びに出て、酒を置いて娯楽していた。賊が辿り着くと、狼狽(うろた)えてどうしてよいかわからず、夫人と一緒に城の南の離宮まで帰り、諸々の侍従や臣寮、宮女や伶官たちは皆が反乱兵に陥落された。甄萱は兵を放って大いに掠奪し、人をやって王を捕まえさせて自らの前に連れて来させ、これを殺し、そのまま宮中に入り込んで、夫人を無理やり引き出して彼女に乱暴した。王の族弟の金傅に王位を嗣がせ、その次に王弟の孝廉と宰相の英景を捕虜とし、同時に国の財貨、珍宝、兵仗や子女、百工の巧者を奪い取って自らに引き連れて帰った。太祖は精騎五千を率いて甄萱を公山の下(ふもと)で待ち伏せし、大いに戦った。太祖の将であった金樂と崇謙はここで死に、諸軍は敗北し、太祖はなんとか身一つで免れた。甄萱は勝ちに乗じて大木郡を奪取した。契丹は裟姑、麻咄等の三十五人を使者として来聘させ、甄萱は将軍の崔堅を差し向けて麻咄等の見送りに同伴させ、海を航(わた)り北に行こうとしたが、風に遇って唐の登州まで辿り着いてしまい、悉くが殺戮された。当時、新羅は君臣いずれも衰退期であると判断し、復興することは難しいと考え、我が太祖を引き寄せるように謀って好(よしみ)を結んで援助とした。甄萱は自ら国を盜もうとする心を懐いていたが、太祖がこれに先んじてしまうことを恐れ、それゆえに兵を引き王都に入り悪をなし、故に十二月日、太祖に次のような文書を寄越した。「かつて国相の金雄廉等がこれからそなたを召し出そうとして京に入ると、鼈(こがめ)のように黿(おおがめ)に従うべきだとの声が上がった。さて、鷃が無理をして隼の翼を広げようとすれば、必ずや生靈(いきるもの)に苦しみを与え、宗社を荒れ果てされることであろう。こういうわけで、僕は先に先鞭を打ち、独り韓鉞を振るい、白日の如く百寮に誓い、義風をもって六部を諭した。姦臣が遁走し、国家の君主が薨変してしまったことは意図したことではなく、こうして景明王の表弟、獻康王の外孫を奉り、勧めて尊位に就かせ、危邦を再造しようとしたのだ。『君主を喪えば、君主をあらしめる』とは、こういうことである。そなたは忠告を詳らかに精査することなく、いたずらに流言を聞き入れ、百計を行なおうと機会を伺っているようだが、多方を侵略し、擾乱することは、まるで僕の馬の首を見て、僕の牛毛を抜くことができないようなものである。冬の初め、都頭の索湘は星山の陣下に手を束ね、月內では、左將の金樂が美理寺の前で骸を曝した。殺害あるいは捕虜とした者は数多く、追撃して捕縛した者も少なくはない。どちらが強くどちらが弱いかは、このように明確である。勝敗はわかりきったことだろう。待機する者は平壤の高楼に弓を掛け、浿江の川で馬に水を飲ませている。しかも前月の七日には、吳越國使班尙書がたどり着き、王に詔旨を伝え、卿と高麗を統治させるとして、久しき歓好を通じさせ、共に隣国の同盟を契らせたが、人質の子がどちらもともに死亡したことで、遂に和親の旧好を失い、互いに国境線を踏み越え、干戈が止むことはなかったところで、現在、使臣を送ることに専念に、卿の本道に駆けつけさせ、同時に文書を高麗に移すことで、どうか互いに親しみ合い、永くやすらぎを育もうとしているのだ。僕の義とは、篤く王を尊び、情深く大国に事つかえることで、詔諭を聞けば、すぐに祗承したいと思ってはいるが、そなたを慮って止めようとしているのに止められないのであれば、どれほど困難であろうとも闘うことにしよう。今回、詔書を錄して寄呈するので、心に留めて悉く詳にしてほしいと思う。もし狡兎と走狗が互いに困憊すれば、最後には必ず悪評を遺すであろう。蚌(はまぐり)と鷸(かわせみ)がお互いに引き分ければ、これも笑いものとなるであろう。どうか迷妄から引き返して戒とし、自ら後悔を残すことのないようにしてほしい。」

 三年正月、太祖は返答した。「伏して吳越國通和使班尙書から伝えられし詔書の一道を奉るとともに、兼ねてそなたから畏れ多くも示された長書から叙述を蒙りました。伏して中華の軺(くるま)と皇帝の使者が、ここに制書を致しました。いくらかの書き物の好音とともに敎誨(おしえ)を承りました。お手紙を奉りまして激感は増すばかりではありましたが、流麗な書簡を開きながらも悪事の疑いをかけるわけにはいきません。今回はお帰りの軒(くるま)に托すことで、胸の内をお伝えすることに致します。僕は天の仮(かりそめ)を仰ぎて継承し、人に推されるがままに差迫った事情から、過ちて将帥の権をむさぼり、政治の議会に赴くことになりました。この頃、三韓が災厄に巡り合わせ、九土の凶荒によって庶民の多くが黄巾に属し、田野に赤土にあらざるところはありませんが、風塵の警を弭やませ、邦国を災禍から救うことを期待しております。ここに自ら善き隣人となり、ここに好(よしみ)を結んで以降、果たして数千里に亘って農桑を生業として楽しみ、七八年の間、士卒も閑のどかに眠ることができました。ところが酉年、当時陽月に至ってからのこと、忽ち事件が起こり、兵を交えることになってしまいました。当初、あなた様は敵を軽んじていたことから、直進すること螗蜋(かまきり)が轍(わだち)を拒むがごとくでございましたが、最後には困難であることに気づいて蚊子(いえばえ)が山を背負うがごとく勇退されました。手を拱(から)めて辞(ことば)を陳(の)べ、天を指して誓い、今日の後から永世(とこしえ)に和を歓ぶわけですが、もし盟約に違うことでもあろうものなら、神が極刑を下すに違いありません。僕もまた戈を止めるための武を重んじ、殺さずの仁を目的としていることから、遂に幾重もの包囲網を解くことで、疲弊した兵卒を休めることになりました。息子を人質とすることさえも辞さなかったのは、ただ人民を安んじようとしてのことです。これはつまり、私が南人の大徳を有しているからであります。なぜ血を歃(すす)ってまだ乾かぬ間に、凶賊どもの威勢が復活しているのでしょうか。蜂や蠆(さそり)の毒に生きとし生ける者が侵害されているのでしょうか。狼虎の狂が畿(みやこ)の近辺を梗塞しているのでしょうか。金城が困窮させられ、天子の居宮を震撼させられているのです。義に依拠して周の王道を尊ぶのであれば、誰が桓公や文公の覇道のようなことができるでしょうか。隙に乗じて漢王朝を謀って、王莽や董卓の姦を看過するばかりです。使者を王の至尊に致すにあたって、いたずらにそなたを『子(あなた様)』と称することがあれば、尊卑の序列は失われ、上下が憂を同じくすることになるでしょう。思うに、宰相に忠誠と純一がなければ、どうやって再び社稷を安んずることなどできることでしょうか。僕の心は悪を隠匿することなく、王を尊ぶことを切に思い、これから朝廷を援助して存置し、邦国を危機から守ろうとしています。そなたはごく僅かの小利を見て、天地の厚き恩を忘れ、君王を斬り戮ころし、宮闕を焼き尽くし、卿士を殺して塩漬けにし、士民から掠奪をして屠殺しました。姬姜があれば取って一緒に車に同乗させ、珍宝があればそれも奪って括りつけて載せてもちだしました。元凶たること夏の桀王・殷の紂王を超越し、不仁たるは獍梟以上に甚きものです。僕の怨みは天を崩すことに極まり、誠に日を追うごとに深まり、鷹(たか)や鸇(はやぶさ)を追い払うことで、犬馬の勤めを重ねようと誓うことにした。再び干戈を挙げ、槐(えんじゅ)と柳(やなぎ)をもう一度入れ替わらせんことを。陸で戦えば雷馳電擊、水で攻めれば虎搏龍騰、動けば必ず功を成し、挙げれば出発を虚しくすることもない。尹邠を海岸で追い払い、山のように甲冑(よろい)を積み上げた。鄒祖を辺境の城で捕らえ、野を屍で覆い尽くした。燕山郡畔では、吉奐を軍前で斬った。馬利城の周辺では、隨晤を纛下で殺戮した。任存城を下して抜いた日のこと、邢積等数百人が軀(からだ)を捨て去ることになった。靑州を破った時は、直心等の四、五の輩(やから)どもから首を授けられた。桐藪は旗に望んで壊滅四散し、京山では璧を含んでから投降した。康州は南から帰附に来、羅府は西から帰属を移しました。侵攻することかくのごとし、取り戻すことがどれほど遥か遠いことだろうか。必ずや汦水の営中に期し、張耳千般の恨(うら)みを雪ごう。烏江亭上では、漢王一捷の功を成す。ついに風波を息やませ、永(とこしえ)に寰海(よのなか)を清めることに致そう。天の助くる所、これより天命はどちらに帰するか。ましてや呉越王殿下の徳はあまねく荒廃を包み、仁は深く小を字(はぐく)み、特に丹禁から綸言をお出しになられ、靑丘で停戦と困難を諭された。既に訓謨(おおいなるはからい)を尊んで奉じようとしているのだ。もしそなたの睿旨を祗承し、悉く凶機を寄せ集めれば、ただ上国の仁恩に副うのみならず、同時に東海の絶えし由緒を継承することになるであろう。もし過ちを犯すことなく改めることができれば、それは後悔を追うことになるよりもよいはずである。」

 夏五月、甄萱の潜ませた軍が康州を襲撃し、三百人余りを殺し、将軍の有文は生きたまま降伏した。

 秋八月、甄萱は将軍の官昕に衆人を領導するように命じ、陽山を築かせた。太祖は命旨城の将軍王忠にこれを擊つように命じると、退却して大耶城に留まった。

 冬十一月、萱は勁卒を選び攻めて缶谷城を拔き、守卒一千餘人を殺し、將軍の楊志、明式等は生きて降る。

 四年秋七月、甄萱は、甲兵五千人を率いて義城府を攻め、城主の将軍洪術が戦死した。これに哭いた太祖は、慟しながら。「私は左右の手を失ったのだ。」と言った。甄萱は大いに兵を挙げ、古昌郡瓶山の下(ふもと)に次いで太祖と戦ったが勝てなかった、死者は八千人余り。翌日に甄萱は残存兵を集めて順州城を襲撃して破り、将軍の元逢は防御することができず、城を放棄して夜に遁走した。甄萱は百姓を捕虜にして全州に移住させて入らせた。元逢が以前に功績があったことから太祖は、彼を宥めた。順州を下枝縣と號(よびな)を改めた。

 長興三年、甄萱の臣下の龔直は勇猛にして智略があったが、太祖に降りに来た。甄萱は龔直の二子一女を収容し、股間の筋を烙(や)いて切断した。

 秋九月、甄萱は一吉飡の相貴を派遣して船兵をもって高麗の禮成江に入らせると、三日ほど滞留させ、鹽白貞の三州と船一百艘を略取してこれらを焚き、猪山島の牧馬三百匹を捕えて帰った。

 清泰元年春正月、甄萱は太祖の運州に駐屯していることを聞き、遂に甲士五千を選抜して辿り着いた。将軍の黔弼は自らの陣をまだ立てていなかったことから、勁騎数千を率いてそこに突擊し、斬獲すること三千級余り、熊津以北の三十城余りは風を聞いて自ら降伏した。甄萱の麾下にあった術士の宗訓、医者の訓謙、勇将の尙達、崔弼等も太祖に降伏した。

 甄萱は多くの妻を娶り、子は十人余りいた。第四子の金剛は、身長は高く知略に長けていたことから、甄萱が特にこの者を寵愛し、自らの王位を伝承したいと思っていたが、その兄であった神劒、良劒、龍劒等は、これを知って憂悶した。当時、良劒は康州都督となり、龍劒は武州都督となり、独り神劒だけが側近として控えていた。伊飡の能奐が人をやって康州と武州の二州に往かせ、良劒等と一緒に陰謀を立てた。清泰二年春三月になると、波珍飡の新德が、甄萱を金山の仏寺に幽閉するよう英順等と神劒に勧め、人を派遣して金剛を殺させた。神劒は自ら大王と称し、境內に大赦を下した。その教書は次のような内容である。「意の通りに格別の寵愛を蒙り、惠帝は君となることができた。騒濫の場所に大いなる善徳を建成し、太宗は興って即位された。天命とは安易なものではなく、神器に帰するものである。恭しくも大王の神武は超倫、英邁なる謀略は前人未到の者であったと思われる。出生は衰退期に当たり、天下の統治を自らに任じ、三韓を従え、百濟を復興させた。困苦を一掃して庶民は安らかに集まり、風雷を鼓舞して近隣の者も遠隔の者も奔って来るようになった。功業は重ねて興すこと多大であったが、突如として智慮が一挙に失われた。幼子が鍾愛を受け、姦臣は権力を弄び、大君を晋の恵帝のごとき昏迷に導き、慈父を獻公の惑に陥れ、はがゆいことに大宝を男色の相手となる稚児に差し出す有様である。幸を受けたことにより、上帝は衷を降し、君子は過ちを改め、我が元子に命じ、この一邦を糺すことにした。顧れば震長の才はないのに、どうして君主として臨むほどの智があろうか。競々慄々として冰淵を蹈(ふ)むがごとくしている。どうか次のない恩を推して維新の政を示そう。境内に大赦すべく、清泰二年十月十七日昧爽以前に限り、既に発覚した者も、まだ発覚していない者も、既に正を結んだ者も、まだ正を結んでいない者も、大辟以下の罪は、ことごとく赦免してこれを除き、主たる者として施行しよう。」

 甄萱は金山に三朔ほど滞在していたが、六月に季(すえ)の息子の能乂と娘の衰福、嬖妾姑比等と一緒に錦城に逃げ奔り、人を派遣して太祖に会いたいと要請させた。太祖は喜び、将軍の黔弼、萬𡻷等を派遣し、水路を経由して彼らをねぎらいに来させ、(彼らが)たどり着くと、厚禮をもって接待した。甄萱が十歳年長であることから、尊んで尚父とし、館として南宮を授け、位を百官の上に在位させた。楊州を賜って食邑とし、兼ねて金帛、蕃縟、奴婢をそれぞれ四十口、内廐の馬十匹を賜った。甄萱の壻の将軍英規は、密(ひそ)かに自らの妻に語った。「大王は四十年余りにわたって勤めに励まれ、功業は完成間近であったが、一旦にして家族の禍によって地を失い、高麗に投降された。さて貞女は二人の夫に仕えることなく、忠臣は二人の主に仕えることはないものだ。もし己の主君を捨てることで不孝の子に仕えることになれば、どんな顔をして天下の義士に見えればよいものか。ましてや高麗王公の評判を聞けば、仁に厚く倹約に勤めることで民心を得ているという。天啓といっていいのではないか。必ず三韓の主となるだろう。こうなれば、文書をお送りすることで我が王を安慰するとともに、王公に殷勤しすることで、将来の福を図らない手があろうか。」彼の妻は言った。「あなたの言葉は、まさに私の意思そのものです。」この天福元年二月に、人を派遣して意思を伝え、このことを太祖に告げた。「もし義旗を挙げられるのであれば、内応することで王の軍隊をお迎えしたいと思います。」太祖は喜び、その使者に厚く褒賜して彼を派遣し、同時に英規に感謝した。「もし恩一合をお受けし、道路の塞ぐようなことがなければ、まずは将軍に謁見し、その後には堂に昇って夫人を拜し、男の親族が出仕して女の親族がそれを尊ぶのであれば、最後までそのことに必ず厚く報いよう。天地鬼神のすべてがこの言を聞いておるぞ。」

 夏六月、甄萱が告げた。「老臣(わたし)が殿下に身を投じたのは、殿下の御威光を御頼りして反逆者の息子を誅さんと願ってのことです。伏して大王に望みまするに、神兵をお借りして率い、かの賊乱どもの殲滅さえできれば、臣(わたし)は死んだとしても如何には思いませぬ。太祖はそれに従った。まず太子の武と将軍の述希に步騎一萬を統領させてを派遣し、天安府に赴かせた。

 秋九月、太祖は三軍を率いて天安までたどり着いて兵を合流させ、続いて一善まで進軍した。これに神劒は兵を率いて抵抗した。甲午(かのえうし)、一利川を隔て、相対して陣を布(し)いた。太祖と尙父の甄萱が兵を観、大相の堅權、述希、金山、將軍の龍吉、竒彦等に步騎三萬を統領させて左翼とし、大相の金鐵、洪儒、守鄕、將軍王順、俊良等に步騎三萬を統領させて右翼とし、大匡の順式、大相の兢俊、王謙、王乂、黔弼、將軍の貞順、宗熙等に鐵騎二萬、步卒三千、及び黑水鐵利諸道の勁騎九千五百を率いさせて中軍とし、大將軍の公萱、將軍の王含允には、兵一萬五千を率いさせて先鋒とし、太鼓を叩きながら行進した。百濟將軍の孝奉、德述、明吉等は兵勢が多大かつ整然としているのを望み見て、甲(よろい)を棄て陣前で降伏した。太祖は彼らを慰労し、百濟の将帥の所在を問うと、孝奉等は言「元帥の神劒は中軍にいます。」と言った。太祖は将軍の公萱と直擣の中軍一軍に対して、一斉に進軍して挟撃するように命じた。百濟軍は壊滅して敗北、神劒と二人弟及び将軍の富達、小達、能奐等四十人余りは生きたまま降伏した。太祖は能奐を除いた残り全員の降伏を受け入れ、彼らを慰労し、妻子と一緒に上京することを許し、能奐には「最初に良劒等と一緒に陰謀を企て、大王を幽閉して彼の息子を擁立したのは、お前の謀略であろう! 臣下が義を為すとは、このようなものを言うのか?」と質問したが、能奐は首を俯けて何も言わず、そこで彼を誅するように命じた。神劒が王位を僭称していた原因は、人に脅されたからであったので彼の本心ではなく、また同時に帰命して罪を乞うたことから、特別にその死を赦免した。(一説には、三兄弟は全員誅に伏したとも伝わる。)甄萱は憂い懣(もだ)え、疽(はれもの)を発病して数日後、黃山の仏寺で死去した。太祖の軍令は厳明で、士卒は僅かたりとも罪を犯さず、故に州縣は安堵し、老人から幼児まで全員が万歳と叫んだ。こうして将士を存問し、才覚を量って任用し、小民それぞれに彼らの生業を安じた。神劒の罪は以前に言ったとおりであるということで官位を賜ったが、彼の二人の弟や能奐と罪は同じであるとされ、遂に真州まで流罪となり、続いて彼を殺した。英規には、「前王が国を失った後、その臣下や子供に一人も同情する者がいなかったのに、彼ら夫妻だけが千里に声音を届けることで誠意を示すとともに、寡人(わたし)に対して美を帰した。その義を忘れることはできない」と言い、そのことから職位として左丞、下賜として田一千頃、駅馬二十五匹の借用を許可することで家族を迎え入れ、彼らの二人の子に官位を賜った。

 甄萱は唐景福元年に起こり、晉天福元年に至るまで、共に四十五年にして滅んだ。




(※1)平民の家柄から官職を得て……原文では起家。出典は史記。
(※2)裨將……副将、あるいは偏将のこと。裨は「おぎなう」「たすける」の意。

戻る








≪白文≫
 甄萱、尙州加恩縣人也、本姓李、後以甄為氏。父阿慈介、以農自活、後起家為將軍。初、萱生孺褓時、父耕于野、母餉之、以兒置于林下、虎來乳之、鄕黨聞者異焉。及壯、體貌雄竒、志氣倜儻不凡。從軍入王京、赴西南海防戍、枕戈待敵、其勇氣恒為士卒先。以勞為裨將。

 唐昭宗景福元年、是新羅真聖王在位六年、嬖竪在側、竊弄政柄、綱紀紊弛、加之以饑饉、百姓流移、羣盜蜂起。於是萱竊有覦心、嘯聚徒侶、行擊京西南州縣、所至響應。旬月之間、衆至五千人。遂襲武珍州自王、猶不敢公然稱王、自署為新羅西面都統指揮兵馬制置、持節、都督全武公等州軍事、行全州刺史、兼御史中丞、上柱國、漢南郡開國公、食邑二千戶。是時、北原賊良吉雄強、弓裔自投為麾下。萱聞之、遙授良吉職為裨將。萱西巡至完山州、州民迎勞。萱喜得人心、謂左右曰、吾原三國之始、馬韓先起後、赫世勃興、故辰、卞從之而興、於是百濟開國金馬山、六百餘年。捴章中、唐高宗以新羅之請、遣將軍蘇定方以船兵十三萬越海、新羅金庾信卷土、歷黃山至泗泚、與唐兵合攻百濟滅之。今予敢不立都於完山、以雪義慈宿憤乎。遂自稱後百濟王、設官分職。是唐光化三年、新羅孝恭王四年也。遣使朝吳越、吳越王報聘、仍加檢校太保、餘如故。

 天復元年、萱攻大耶城、不下。

 開平四年、萱怒錦城投于弓裔、以步騎三千圍攻之、經旬不解。

 乾化二年、萱與弓裔戰于德津浦。

 貞明四年戊寅、鐵圓京衆心忽變、推戴我太祖即位。萱聞之、秋八月、遣一吉飡閔卻稱賀、遂獻孔雀扇及地理山竹箭。又遣使入吳越進馬、吳越王報聘、加授中大夫、餘如故。

 六年、萱率步騎一萬、攻陷大耶城、移軍於進禮城。新羅王遣阿飡金律求援於太祖。太祖出師、萱聞之、引退。萱與我太祖陽和而陰剋。

 同光二年秋七月、遣子須彌強發大耶、聞韶二城卒攻曹物城。城人為太祖固守、且戰、須彌強失利而歸。八月、遣使獻騘馬於太祖。

 三年冬十月、萱率三千騎至曹物城、太祖亦以精兵來與之确。時萱兵銳甚、未決勝否。太祖欲權和以老其師、移書乞和、以堂弟王信為質、萱亦以外甥真虎交質。十二月、攻取居昌等二十餘城。遣使入後唐稱藩、唐策授檢校太尉、兼侍中、判百濟軍事、依前持節、都督全武公等州軍事、行全州刺史、海東四面都統、指揮兵馬制置等事、百濟王、食邑二千五百戶。

 四年、真虎暴卒、萱聞之、疑故殺、即囚王信獄中。又使人請還前年所送騘馬、太祖笑還之。

 天成二年秋九月、萱攻取近品城、燒之。進襲新羅高鬱府、逼新羅郊圻。新羅王求救於太祖。冬十月、太祖出師援助。萱猝入新羅王都時、王與夫人嬪御出遊鮑石亭、置酒娛樂。賊至、狼狽不知所為、與夫人歸城南離宮、諸侍從臣寮及宮女、伶官皆陷沒於亂兵。萱縱兵大掠、使人捉王至前、戕之、便入居宮中、強引夫人亂之。以王族弟金傅嗣立、然後虜王弟孝廉、宰相英景、又取國帑、珍寳、兵仗、子女、百工之巧者自隨以歸。太祖以精騎五千要萱於公山下、大戰。太祖將金樂、崇謙死之、諸軍敗北、太祖僅以身免。萱乘勝取大木郡。契丹使裟姑、麻咄等三十五人來聘。萱差將軍崔堅伴送麻咄等航海北行、遇風、至唐登州、悉被戮死。時新羅君臣以衰季、難以復興、謀引我太祖結好為援。甄萱自有盜國心、恐太祖先之、是故引兵入王都作惡、故十二月日、寄書太祖曰、昨者國相金雄廉等將召足下入京、有同鼈應黿聲、是欲鷃披隼翼、必使生靈塗炭、宗社丘墟。僕是用先著祖鞭、獨揮韓鉞、誓百寮如皦日、諭六部以義風。不意姦臣遁逃、邦君薨變、遂奉景明王之表弟、獻康王之外孫、勸即尊位、再造危邦。喪君有君、於是乎在。足下勿詳忠告、徒聽流言、百計窺覦、多方侵擾、尙不能見僕馬首、拔僕牛毛。冬初、都頭索湘束手於星山陣下、月內、左將金樂曝骸於美理寺前。殺獲居多、追擒不少。強羸若此、勝敗可知。所期者、掛弓於平壤之樓、飮馬於浿江之水。然以前月七日、吳越國使班尙書至、傳王詔旨、知卿與高麗久通歡好、共契鄰盟、比因質子之兩亡、遂失和親之舊好、互侵疆境、不戢干戈。今專發使臣、赴卿本道、又移文高麗、宜各相親、比永孚于休。僕義篤尊王、情深事大、及聞詔諭、即欲秪承、但慮足下欲罷不能、困而猶闘。今錄詔書寄呈、請留心詳悉。且㕙獹迭憊、終必貽譏。蚌鷸相持、亦為所笑。宜迷復之為戒、無後悔之自貽。

 三年正月、太祖答曰、伏奉吳越國通和使班尙書所傳詔書一道、兼蒙足下辱示長書叙事者。伏以華軺膚使、爰致制書。尺素好音、兼承教誨。捧芝檢而雖增感激、開華牋而難遣衽疑。今託廻軒、輒敷危衽。僕仰承天假、俯迫人推、過叨將帥之權、獲赴經綸之會。頃以三韓厄會、九土凶荒、黔黎多屬於黃巾、田野無非於赤土、庶幾弭風塵之警、有以救邦國之灾。爰自善隣、於焉結好、果見數千里農桑樂業、七八年士卒閑眠。及至酉年、維時陽月、忽焉生事、至於交兵。足下始輕敵以直前、若螳蜋之拒轍、終知難而勇退、如蚊子之負山。拱手陳辭、指天作誓、今日之後、永世歡和、苟或渝盟、神其殛矣。僕亦尙止戈之武、期不殺之仁、遂解重圍、以休疲卒。不辭質子、但欲安民。此則我有大德於南人也。豈謂歃血未乾、凶威復作。蜂蠆之毒、侵害於生民。狼虎之狂、為梗於畿甸。金城窘忽、黃屋震驚。仗義尊周、誰似桓、文之覇?乘間謀漢、唯看莽、卓之姦。致使王之至尊、枉稱子於足下。尊卑失序、上下同憂。以為非有元輔之忠純、豈得再安於社稷。以僕心無匿惡、志切尊王、將援置於朝廷、使扶危於邦國。足下見毫釐之小利、忘天地之厚恩、斬戮君王、焚燒宮闕、葅醢卿士、虔劉士民。姬姜則取以同車、珍寳則奪之稛載。元惡浮於桀、紂、不仁甚於獍梟。僕怨極崩天、誠深却日、誓効鷹鸇之逐、以申犬馬之勤。再舉干戈、兩更槐柳。陸擊則雷馳電擊、水攻則虎搏龍騰、動必成功、舉無虛發。逐尹邠於海岸、積甲如山。擒鄒造於城邉、伏尸蔽野。燕山郡畔、斬吉奐於軍前。馬利城邉、戮隨䎸於纛。下拔任存之日、邢積等數百人捐軀。破清州之時、直心等四五輩授首。桐藪望旗而潰散、京山銜璧以投降。康州則自南而來歸、羅府則自西移屬。侵攻若此、收復寧遙。必期泜水營中、雪張耳千般之恨。烏江岸上、成漢王一捷之功。竟息風波、永清寰海。天之所助、命欲何歸。況承吳越王殿下德洽包荒、仁深字小、特出綸於丹禁、諭戢難於青丘。既奉訓謀、敢不尊奉。若足下祗承睿旨、悉戢凶機、不惟副上國之仁恩、抑可紹海東之絶緖。若不過而能改、其如悔不可追。

 夏五月、萱潜師襲康州、殺三百餘人、將軍有文生降。秋八月、萱命將軍官昕領衆築陽山。太祖命命旨城將軍王忠擊之、退保大耶城。冬十一月、萱選勁卒攻拔缶谷城、殺守卒一千餘人、將軍楊志、明式等生降。

 四年秋七月、萱以甲兵五千人攻義城府、城主將軍洪術戰死。太祖哭之慟、曰、吾失左右手矣。萱大舉兵、次古昌郡瓶山之下、與太祖戰、不克、死者八千餘人。翌日、萱聚殘兵襲破順州城、將軍元逢不能禦、棄城夜遁。萱虜百姓、移入全州。太祖以元逢前有功、宥之。改順州號下枝縣。

 長興三年、甄萱臣龔直、勇而有智略、來降太祖。萱收龔直二子一女、烙斷股筋。秋九月、萱遣一吉飡相貴以船兵入高麗禮成江、留三日、取鹽、白、貞三州船一百艘焚之、捉猪山島牧馬三百匹而歸。

 清泰元年春正月、萱聞太祖屯運州、遂簡甲士五千至。將軍黔弼及其未陣、以勁騎數千突擊之、斬獲三千餘級、熊津以北三十餘城聞風自降。萱麾下術士宗訓、醫者訓謙、勇將尙達、崔弼等降於太祖。

 甄萱多娶妻、有子十餘人。第四子金剛、身長而多智、萱特愛之、意欲傳其位。其兄神劒、良劒、龍劒等知之憂悶。時良劒為康州都督、龍劒為武州都督、獨神劒在側。伊飡能奐使人往康、武二州、與良劒等陰謀。至清泰二年春三月、與波珍飡新德、英順等勸神劒幽萱於金山佛宇、遣人殺金剛。神劒自稱大王、大赦境內。其教書曰、如意特蒙寵愛、惠帝得以為君。建成濫處元良、太宗作而即位。天命不易、神器有歸。恭惟大王神武超倫、英謀冠古。生丁衰季、自任經綸、徇地三韓、復邦百濟。廓清塗炭而黎元安集、鼓舞風雷而邇遐駿奔。功業幾於重興、智慮忽其一失。幼子鍾愛、姦臣弄權、導大君於晉惠之昏、陷慈父於獻公之惑、擬以大寳授之頑童。所幸者、上帝降衷、君子改過、命我元子、尹茲一邦。顧非震長之才、豈有臨君之智。兢兢慄慄、若蹈冰淵、宜推不次之恩、以示惟新之政。可大赦境內、限清泰二年十月十七日昧爽以前、已發覺、未發覺、已結正、未結正大辟已下罪、咸赦除之、主者施行。
 萱在金山三朔、六月、與季男能乂、女子衰福、嬖妾姑比等逃奔錦城、遣人請見於太祖。太祖喜、遣將軍黔弼、萬𡻷等、由水路勞來之。及至、待以厚禮。以萱十年之長、尊為尙父、授館以南宮、位在百官之上。賜楊州為食邑、兼賜金帛、蕃縟、奴婢各四十口、內廐馬十匹。甄萱壻將軍英規密語其妻曰、大王勤勞四十餘年、功業垂成、一旦以家人之禍失地、投於高麗。夫貞女不事二夫、忠臣不事二主。若捨己君以事逆子、則何顔以見天下之義士乎。況聞高麗王公、仁厚勤儉、以得民心、殆天啓也、必為三韓之主。盍致書以安慰我王、兼殷勤於王公、以圖將來之福乎。其妻曰、子之言是吾意也。於是天福元年二月、遣人致意、遂告太祖曰、若舉義旗、請為內應、以迎王師。太祖喜、厚賜其使者而遣之、兼謝英規曰、若蒙恩一合、無道路之梗、則先致謁於將軍、然後升堂拜夫人、兄事而姉尊之、必終有以厚報之。天地鬼神、皆聞此言。

 夏六月、萱告曰、老臣所以投身於殿下者、願仗殿下威稜、以誅逆子耳。伏望大王借以神兵、殲其賊亂、則臣雖死無憾。太祖從之。先遣太子武、將軍述希領步騎一萬趣天安府。

 秋九月、太祖率三軍至天安合兵、進次一善。神劒以兵逆之。甲午、隔一利川、相對布陣。太祖與尙父萱觀兵、以大相堅權、述希、金山、將軍龍吉、竒彦等、領步騎三萬、為左翼、大相金鐵、洪儒、守鄕、將軍王順、俊良等、領步騎三萬、為右翼、大匡順式、大相兢俊、王謙、王乂、黔弼、將軍貞順、宗熙等、以鐵騎二萬、步卒三千、及黑水鐵利諸道勁騎九千五百、為中軍、大將軍公萱、將軍王含允、以兵一萬五千、為先鋒、鼓行而進。百濟將軍孝奉、德述、明吉等望兵勢大而整、棄甲降於陣前。太祖勞慰之、問百濟將帥所在。孝奉等曰、元帥神劒在中軍。太祖命將軍公萱直擣中軍一軍、齊進挾擊。百濟軍潰北、神劒與二弟及將軍富達、小達、能奐等四十餘人生降。太祖受降、除能奐、餘皆慰勞之、許令與妻孥上京。問能奐曰、始與良劒等密謀囚大王、立其子者、汝之謀也。為臣之義、當如是乎。能奐俛首不能言、遂命誅之。以神劒僣位、為人所脅、非其本心、又且歸命乞罪、特原其死。〈一云三兄弟皆伏誅。〉甄萱憂懣、發疽數日、卒於黃山佛舍。太祖軍令嚴明、士卒不犯秋毫、故州縣案堵、老幼皆呼萬歲。於是存問將士、量材任用、小民各安其所業。謂神劒之罪如前所言、乃賜官位。其二弟與能奐罪同、遂流於真州、尋殺之。謂英規、前王失國後、其臣子無一人慰藉者、獨卿夫妻千里嗣音、以致誠意、兼歸美於寡人、其義不可忘。仍許職左丞、賜田一千頃、許借驛馬二十五匹、以迎家人賜、其二子以官。甄萱起唐景福元年、至晉天福元年、共四十五年而滅。

≪書き下し文≫
 甄萱、尙州加恩縣の人なり。本姓は李、後に甄を以て氏と為す。父は阿慈介、農を以て自活し、後に家を起こして將軍と為る。初め、萱の生まれて孺褓(おさなご)の時、父は野に于(お)いて耕し、母は之れに餉(かてをおくり)、兒を以て林下に置けば、虎來たりて之れに乳し、鄕黨の聞ける者焉れを異とせり。壯ずるに及び、體(からだ)貌(かお)は雄(たけだけしく)竒(すぐれ)、志氣(こころ)は倜儻(すぐれて)凡(なみ)にあらず。軍に從ひて王京(みやこ)に入り、西南海の防戍(さきもり)に赴き、戈を枕にして敵を待ち、其の勇氣恒に士卒の先を為す。勞を以て裨將と為れり。

 唐昭宗景福元年、是れ新羅真聖王の在位六年、嬖(おきにいり)の竪(しもべ)側に在り、竊かに政(まつりごと)の柄(つか)を弄れば、綱紀は紊(みだれ)弛(ゆるみ)、之れに加ふるに饑饉を以てし、百姓流れ移り、羣盜蜂起す。是に於いて萱竊かに覦心有り、嘯きて徒侶(ともがら)を聚(あつ)め、行きて京西南州縣を擊ち、至る所響き應ず。旬月の間、衆(ひと)は五千人に至れり。遂に武珍州を襲ひ自ら王たるも、猶ほ公然と王を稱することを敢へてせず、自ら署(しる)して新羅西面都統指揮兵馬制置、持節、都督全武公等州軍事、行全州刺史、兼御史中丞、上柱國、漢南郡開國公と為り、食邑二千戶。是の時、北原の賊の良吉は雄強、弓裔自ら投じて麾下と為る。萱之れを聞き、良吉に職を遙授(う)けて裨將と為る。萱は西に巡り完山州まで至れば、州民迎へ勞ふ。萱は人心を得たるを喜び、左右に謂ひて曰く、吾の三國の始(はじめ)を原(たず)ぬれば、馬韓先ず起こる後、赫世勃興し、故に辰卞之れに從ひて興り、是に於いて百濟は國を金馬山に開き、六百餘年たり。捴章中、唐の高宗は新羅の請を以て、將軍の蘇定方を遣るに船兵十三萬を以て海を越えせしめ、新羅の金庾信は土を卷き、黃山を歷て泗泚に至り、唐兵與(と)合はせて百濟を攻めて之れを滅ぼせり。今予(われ)敢へて完山に都を立てて以て義慈の宿憤を雪(すす)がざらむか、と。遂に自ら後百濟王を稱し、官を設けて職を分く。是れ唐光化三年、新羅孝恭王四年なり。遣使して吳越に朝せしむれば、吳越王は聘に報い、仍りて檢校太保を加え、餘は故の如し。

 天復元年、萱は大耶城を攻むるも、下らず。

 開平四年、萱は錦城の弓裔に投(くだる)に怒り、步騎三千を以て之れを攻め、旬を經ても解かず。

 乾化二年、萱と弓裔、德津浦に于(お)いて戰ふ。

 貞明四年戊寅、鐵圓の京の衆(ひとびと)の心、忽として變じ、我が太祖を推戴して即位せしむ。萱之れを聞き、秋八月、一吉飡の閔卻を遣り稱賀(いはは)せしめ、遂に孔雀扇及び地理山の竹箭を獻ず。又た遣使して吳越に入らせて馬を進ませしむれば、吳越王は聘に報じ、加へて中大夫を授け、餘は故(もと)の如し。

 六年、萱、步騎一萬を率い、攻めて大耶城を陷し、軍を進禮城に移す。新羅王は阿飡の金律を遣りて太祖に援を求む。太祖、師を出だせば、萱之れを聞き、引き退く。萱と我が太祖は陽和にして陰剋たり。

 同光二年秋七月、子の須彌強を遣り大耶を發せしめ、聞韶の二城の卒は曹物城を攻む。城人は太祖の為に守りを固め、且つ戰へば、須彌強は利を失して歸る。八月、遣使して騘馬を太祖に獻ず。

 三年冬十月、萱、三千騎を率いて曹物城に至れば、太祖も亦た精兵を以て之れと與に确に來たり。時に萱の兵の銳きこと甚し、未だ勝否を決せず。太祖、和を權(はか)りて以て其の師を老(おとろ)へせしめむと欲し、書(ふみ)を移して和を乞ひ、堂弟の王信を以て質と為さば、萱も亦た外甥の真虎を以て質を交ゆ。

 十二月、攻めて居昌等二十餘城を取る。遣使して後唐に入らせしめて藩を稱さば、唐は檢校太尉、兼侍中、判百濟軍事、依前持節、都督全武公等州軍事、行全州刺史、海東四面都統、指揮兵馬制置等事、百濟王、食邑二千五百戶を授けむと策る。

 四年、真虎暴(にはか)に卒し、萱之れを聞き、故の殺なるを疑ひ、即ち王信を獄中に囚ふ。又た人を使(し)て前年の送る所の騘馬を還さむことを請へば、太祖笑ひて之れを還せり。

 天成二年秋九月、萱攻めて近品城を取り、之れを燒く。進みて新羅の高鬱府を襲ひ、新羅の郊(みやこ)の圻(さかひ)まで逼(せま)れり。新羅王は救を太祖に求む。

 冬十月、太祖は師を出して援助す。萱猝(にはか)に新羅の王都に入らむとする時、王は夫人嬪御と與に出でて鮑石亭に遊び、酒を置きて娛樂す。賊至り、狼狽(うろた)へて為す所を知らず、夫人と與に城の南の離宮に歸り、諸侍從臣寮及び宮女、伶官は皆が亂兵に陷沒せらる。萱は兵を縱(はな)ちて大いに掠(うば)ひ、人を使(し)て王を捉はせて前に至らせしめ、之れを戕(ころ)し、便りて宮中に入居し、強いて夫人を引き之れを亂す。王の族弟の金傅を以て立(くらひ)を嗣がせしめ、然る後に王弟の孝廉、宰相の英景を虜(とりこ)にし、又た國帑、珍寳、兵仗、子女、百工の巧者を取りて自ら隨(したが)へて以て歸せり。太祖は精騎五千を以て萱を公山の下(ふもと)に於いて要(まちぶせ)し、大いに戰へり。太祖の將の金樂、崇謙は之れに死し、諸軍敗北し、太祖僅かに身を以て免がるる。萱は勝ちに乘じて大木郡を取る。契丹は裟姑、麻咄等三十五人を使(し)て來聘せしむ。萱は將軍の崔堅を差して麻咄等に伴送せしめ海を航(わた)り北に行くも、風に遇ひ、唐の登州に至り、悉く戮死を被らる。時に新羅の君臣は衰季なるを以て、復興すること難く、謀りて我が太祖を引き好(よしみ)を結びて援(たすけ)と為す。甄萱自ら國を盜まむとする心有るも、太祖の之れに先ずることを恐れ、是の故に兵を引き王都に入り惡を作(おこ)し、故に十二月日、書を太祖に寄して曰く、昨者(かつて)國相の金雄廉等將に足下(そなた)を召さむとして京に入らば、鼈(こがめ)に同じく黿に應(したが)はむとの聲有り。是れ鷃披隼翼を欲さば、必ず生靈(いくるもの)をして塗炭(くるし)ませしめ、宗社を丘墟(あれはて)せしむ。僕は是れ用て先に祖鞭を著(あらは)し、獨り韓鉞を揮(ふる)ひ、百寮に誓ふこと皦(けがれなき)日の如くし、六部を諭すに義風を以てす。姦臣の遁逃(のがる)、邦(くに)の君(きみ)の薨變(し)せるを意(おも)ふことなく、遂に景明王の表弟、獻康王の外孫を奉り、勸めて尊位に即せしめ、再び危邦を造らむとす。君を喪(うしな)はば君を有らしめ、是に於いてか在らむ。足下は忠告を詳(あまね)くすること勿り、徒(いたずら)に流言を聽き、百計窺ひ覦(ねが)へども、多方に侵し擾すは、尙ほ僕の馬の首を見て、僕の牛毛を拔くに能はざるがごとし。冬の初め、都頭の索湘は星山の陣下に手を束ね、月內には、左將の金樂が美理寺の前に骸を曝す。殺獲すること多を居(いま)し、追ひ擒ふるも少なからず。強(つよき)羸(よわき)は此の若し、勝敗知る可し。期する所の者、弓を平壤の樓に掛け、浿江の水に於いて馬を飮ましむる。然るに前月七日を以て、吳越國使の班尙書至り、王に詔旨を傳へ、卿は高麗と久しく歡好を通じ、共に鄰盟を契るも、比(このごろ)質子の兩(いずれ)も亡(し)せるに因り、遂に和親の舊好を失ひ、互ひに疆境(くにざかひ)を侵し、干戈を戢(と)めざるを知る。今專ら使臣を發ち、卿の本道に赴き、又た文を高麗に移し、宜しく各(おのおの)相ひ親しみ、比(とも)に永らく休に孚するべし、と。僕の義は篤く王を尊ひ、情は深く大に事へ、詔諭を聞くに及べば、即ち秪承を欲し、但し足下を慮り罷むを欲するも能はざれば、困りて猶ほ闘ふべし。今詔書を錄して寄して呈(あらは)し、請へるは心に留め悉くを詳(あまね)くすることなり。且(も)し㕙(うさぎ)と獹(いぬ)が迭(とも)に憊(つか)るれば、終に必ず譏(そしり)を貽す。蚌と鷸の相ひ持たば、亦た笑はるる所と為る。宜しく迷復の為戒とし、後悔の自ら貽すこと無からしむるべし、と。

 三年正月、太祖答へて曰く、伏して吳越國の通和使の班尙書の傳ふる所の詔書の一道を奉り、兼ねて足下の辱示せむ長書叙事の者を蒙らる。伏して華の軺(くるま)膚の使を以て、爰(ここ)に書を制(つく)ること致す。尺素の好音、兼ねて教誨を承く。芝檢を捧りて感激を增すと雖も、華の牋(てがみ)を開きて衽疑を遣り難し。今は廻軒に託し、輒ち危衽を敷せり。僕は仰ぎて天の假(かりそめ)を承(う)け、俯きて人の推すに迫り、過ちて將帥の權を叨(みだ)りにし、經綸の會に赴きたるを獲。頃(このごろ)三韓の厄會、九土の凶荒を以て、黔黎には黃巾に屬する多く、田野は赤土に非ざる無く、風塵の警を弭(や)め、邦國の灾を救ふもの有らむと庶幾(こひねが)ふ。爰(ここ)に自ら善隣し、焉(ここ)に於いて好(よしみ)を結ばは、果たして數千里の農桑樂業に見え、七八年の士卒閑(のどか)に眠れり。酉年に至るに及び、維れ時は陽月、忽として焉(ここ)に事を生み、兵を交ゆるに至る。足下は始め敵を輕じて以て直(まっすぐ)に前(すす)むこと、螳蜋の轍を拒むが若し、終には難きを知りて勇退せること、蚊子の山を負ふが如し。手を拱して辭(ことば)を陳(なら)べ、天を指して誓ひを作すに、今日の後、永く世(よよ)和を歡び、苟も渝盟を或らしむれば、神其れ殛(つみ)せむかな。僕も亦た止戈の武を尙び、不殺の仁に期すれば、遂に重ねし圍(かこひ)を解き、以て疲卒を休ませしむ。質子を辭さず、但だ民を安ぜむと欲するのみ。此れ則ち我に南人に於ける大德有るなり。豈に謂血を歃(すす)りて未だ乾かざれば、凶威復た作らむ。蜂蠆の毒、生民に於いて侵害す。狼虎の狂、畿甸に於いて梗を為す。金城は窘忽(おざなり)、黃屋は震驚(ふる)えにけり。義に仗(よ)り周を尊べば、誰か桓文の覇を似(まね)したるか。間(すき)に乘じて漢を謀るは、唯だ莽卓の姦を看るのみ。使を王の至尊に致し、枉(いたずら)に子を足下(そなた)に稱さば、尊卑は序を失ひ、上下は憂ひを同じくす。以為(おもへ)らくは元輔の忠純有るに非ざれば、豈に再び社稷を安ぜむを得む。僕の心を以て惡を匿(かく)すこと無く、志は王を尊ばむと切し、將に朝廷に援け置き、邦國に於ける危を扶(たす)けせしめむとす。足下は毫釐の小利を見、天地の厚恩を忘れ、君王を斬り戮(ころ)し、宮闕を焚燒(や)き、卿士を葅醢(しおづけ)にし、士民を虔劉(ころ)す。姬姜は則ち取りて以て車を同じくし、珍寳は則ち之れを奪ひて稛載(の)せり。元惡は桀紂より浮かび、不仁なること獍梟より甚しき。僕の怨みは崩天をめ、誠に却(さ)りし日より深く、鷹鸇の逐を効し、以て犬馬の勤を申(の)べむと誓ふ。再び干戈を舉げ、兩(ふたたび)槐柳を更(あらた)めむ。陸擊すれば則ち雷馳電擊し、水攻すれば則ち虎搏龍騰、動かば必ず功を成し、舉ぐれば虛發無からむ。尹邠を海岸に逐ひ、甲を積むこと山の如し。鄒造を城邉に於いて擒へ、尸(しかばね)を伏して野を蔽へり。燕山郡畔、吉奐を軍前に於いて斬る。馬利城の邉(くにへ)、隨䎸を纛に於いて戮(ころ)さむ。任存を下し拔くるの日、邢積等數百人は軀(からだ)を捐(す)つ。清州を破りしの時、直心等四五の輩は首を授く。桐藪は旗を望みて潰え散り、京山は璧を銜(くは)へて以て投降す。康州なれば則ち南よりにして歸しに來たり、羅府なれば則ち西より移屬(うつ)れり。侵攻すること此の若し、收めて復するは寧ぞ遙かならむ。必ず泜水の營中に期し、張耳千般の恨を雪がむ。烏江岸の上(ほとり)、漢王一捷の功を成さむ。竟(つひ)に風波は息み、永(とこしへ)に寰海を清めむ。天の助くる所、命は何れに歸するを欲せむ。況や吳越王殿下の德は荒に洽(ゆきわたり)包み、仁は深く小を字(はぐく)み、特に綸を丹禁に出すを承くれば、戢(いくさ)の難きを青丘に於いて諭す。既に訓謀を奉り、敢えて尊奉せず。若し足下に睿旨を祗承し、悉く凶機を戢(あつ)むれば、惟だ上國の仁恩に副(そ)ふのみにあらず、抑も海東の絶たれし緖(すぢ)を紹(つ)ぐ可し。若し過たずして能く改むれば、其れ悔の追ふ可からざるに如けり。

 夏五月、萱の潜師、康州を襲ひ、三百餘人を殺し、將軍の有文は生きて降る。  秋八月、萱は將軍の官昕に命じて衆を領(おさ)めせしめて陽山を築かせしむ。太祖は命旨城の將軍王忠に命じて之れを擊たせしめ、退きて大耶城に保(とど)むる。

 冬十一月、萱は勁卒を選び攻めて缶谷城を拔き、守卒一千餘人を殺し、將軍の楊志、明式等は生きて降る。

 四年秋七月、萱、甲兵五千人を以て義城府を攻め、城主の將軍洪術戰死す。太祖之れに哭き、慟して曰く、吾は左右の手を失せるかな、と。萱大いに兵を舉げ、古昌郡瓶山の下(ふもと)に次ぎ、太祖と戰ふも、克たず、死者は八千餘人。翌日、萱は殘兵を聚めて順州城を襲ひ破り、將軍の元逢、禦するに能はず、城を棄て夜に遁(のが)る。萱は百姓を虜にし、移して全州に入らしむる。太祖は元逢の前に功有るを以て、之れを宥む。順州を改めて下枝縣と號す。

 長興三年、甄萱の臣の龔直、勇にして智略有り、太祖に降りに來たる。萱は龔直の二子一女を收め、股筋を烙(や)き斷つ。

 秋九月、萱、一吉飡の相貴を遣り船兵を以て高麗の禮成江に入らせしめ、三日留まり、鹽白貞の三州と船一百艘を取りて之れを焚き、猪山島の牧馬三百匹を捉へて歸る。

 清泰元年春正月、萱は太祖の運州に屯(たむろ)せるを聞き、遂に甲士五千を簡(えら)びて至る。將軍の黔弼は其の未だ陣ならずに及び、勁騎數千を以て之れに突擊し、斬獲すること三千餘級、熊津以北の三十餘城は風を聞き自ら降る。萱の麾下の術士宗訓、醫者の訓謙、勇將の尙達、崔弼等も太祖に降れり。

 甄萱は多く妻を娶り、子十餘人有り。第四子の金剛、身は長くして智を多くし、萱特に之れを愛で、意(こころ)に其の位を傳へむと欲す。其の兄の神劒、良劒、龍劒等、之れを知りて憂悶す。時に良劒は康州都督を為し、龍劒は武州都督を為し、獨り神劒のみ側に在り。伊飡の能奐は人をして康武の二州に往かせしめ、良劒等と與に陰(ひそか)に謀る。清泰二年春三月に至り、波珍飡の新德は、英順等と神劒に萱を金山の佛宇(てら)に幽せむことを勸め、人を遣りて金剛を殺させしむ。神劒は自ら大王を稱し、境內に大赦せり。其の教書に曰く、意の如く特に寵愛を蒙り、惠帝は君と為ることを得。濫(みだ)るる處(ところ)に元良(よしき)を建成(た)て、太宗作(おこ)して即位せり。天命易からず、神器に歸する有り。恭しく大王の神武は超倫、英謀は冠古なるを惟(おもんみ)ゆ。生まれて衰季に丁(あ)たり、自ら經綸(ととのう)を任じ、三韓を徇地(したが)へ、百濟を復邦す。塗炭(くるしみ)を廓清(きよ)めて黎元は安集し、風雷を鼓舞して邇(ちかき)も遐(とほき)も駿奔(はし)れり。功業は重興に於いて幾(いくばく)なるも、智慮は忽として其れ一失す。幼子は鍾愛し、姦臣は權を弄び、大君を晉惠の昏に導き、慈父を獻公の惑に陷れ、擬するに大寳を以て之れを頑童に授く。幸する所の者、上帝は衷を降し、君子は過ちを改め、我が元子に命じ、茲(こ)の一邦を尹(ただ)す。顧れば震長の才に非ず、豈に臨君の智有らむ。兢兢慄慄として、冰淵を蹈(ふ)むが若く、宜しく不次の恩を推し、以て惟新の政を示さむ。境內に大赦す可く、清泰二年十月十七日昧爽以前に限り、已に發覺せるも、未だ發覺せざるも、已に正を結びたるも、未だ正を結ばざるも、大辟已下の罪は、咸(ことごと)く赦して之れを除き、主たる者として施行すべし、と。

 萱は金山に三朔在(いま)し、六月、季男の能乂、女子の衰福、嬖妾姑比等と與に錦城に逃げ奔り、人を遣りて太祖に見えむと請へり。太祖喜び、將軍の黔弼、萬𡻷等を遣り、水路を由して之れを勞ひ來たり。至るに及び、待するに厚禮を以す。萱十年の長たるを以て、尊びて尙父と為し、館を授くるに南宮を以てし、位は百官の上に在(いま)しむる。楊州を賜ひて食邑と為し、兼ねて金帛、蕃縟、奴婢を各(おのおの)四十口、內廐の馬十匹を賜る。甄萱の壻の將軍英規、密(ひそ)かに其の妻に語りて曰く、大王は勤勞すること四十餘年、功業は成に垂るるも、一旦、家人の禍を以て地を失ひ、高麗に投じたる。夫れ貞女は二夫に事えず、忠臣は二主に事えざりき。若し己の君を捨て以て逆子に事へれば、則ち何の顔をして以て天下の義士に見えむか。況や聞くに高麗王公、仁厚く儉を勤め、以て民心を得たる。殆ど天啓なり。必ず三韓の主と為らむ。盍ぞ書を致して以て我が王を安慰し、兼ねて王公に殷勤し、以て將來の福を圖らざるか、と。其の妻曰く、子の言是れ吾の意(こころ)なり、と。是れ天福元年二月に於いて、人を遣り意を致し、遂に太祖に告げて曰く、若し義旗を舉ぐれば、內應を為し、以て王の師を迎へむことを請へり、と。太祖喜び、厚く其の使者に賜ひて之れを遣り、兼ねて英規に謝して曰く、若し恩一合を蒙(こふむ)り、道路の梗(ふさぎ)を無からしむれば、則ち先ず謁を將軍に致し、然る後に堂に升り夫人を拜し、兄事へて姉之れを尊べば、必ず厚く之れに報ゆるを以てすること有るに終えむ。天地鬼神、皆此の言を聞けり、と。

 夏六月、萱告げて曰く、老臣の殿下に身を投ずるの所以の者、殿下の威稜に仗(よ)り、以て逆子を誅するを願はむとするのみ。伏して大王に望むは、借りて神兵を以(ひき)い、其の賊亂を殲(ほろぼ)さば、則ち臣は死する雖も憾(うら)み無からむ、と。太祖之れに從ふ。先ず太子の武、將軍の述希を遣り、步騎一萬を領(おさ)めせしめ天安府に趣かせしむ。

 秋九月、太祖、三軍を率いて天安に至り、兵を合はせて進み、一善に次ぐ。神劒は兵を以て之れに逆ふ。甲午(かのえうし)、一利川を隔て、相ひ對して陣を布(し)く。太祖と尙父萱は兵を觀、以て大相の堅權、述希、金山、將軍の龍吉、竒彦等、步騎三萬を領(おさ)めせしめて左翼と為し、大相の金鐵、洪儒、守鄕、將軍王順、俊良等に步騎三萬を領(おさ)めせしめて右翼と為し、大匡の順式、大相の兢俊、王謙、王乂、黔弼、將軍の貞順、宗熙等に鐵騎二萬、步卒三千、及び黑水鐵利諸道の勁騎九千五百を以(ひき)いせしめて中軍と為し、大將軍の公萱、將軍の王含允、兵一萬五千を以(ひき)いて先鋒と為り、鼓し行きて進めり。百濟將軍の孝奉、德述、明吉等は兵勢の大にして整なるを望み、甲を棄て陣前に降れり。太祖は之れを勞慰し、百濟將帥の所在を問ふ。孝奉等曰く、元帥の神劒は中軍に在り、と。太祖は將軍の公萱と直擣の中軍一軍に命じ、齊(とも)に進み挾擊せしむ。百濟軍潰えて北し、神劒と二弟及び將軍の富達、小達、能奐等四十餘人は生きて降る。太祖は降を能奐を除く餘の皆より受け、之れを慰勞し、許して妻孥と與に上京せしむ。能奐に問ひて曰く、始め良劒等と與に密(ひそ)かに謀りて大王を囚え、其の子を立つるは、汝の謀(はからい)なり。臣の義を為すは、當に是の如きなるか、と。能奐は首を俛(うつむ)けて言ふこと能はず、遂に命じて之れを誅せしむ。神劒の僣位は、人の脅さるる所為りて、其の本心に非ざるとし、又た且も歸命して罪を乞ふを以て、特に其の死を原(ゆる)す。〈一に云く三兄弟は皆誅に伏す。〉甄萱は憂ひ懣(もだ)え、疽を發すること數日、黃山の佛舍に於いて卒す。太祖の軍令は嚴明、士卒は秋毫(いささか)も犯さず、故に州縣は案堵し、老幼の皆が萬歲を呼(さけ)ぶ。是に於いて將士を存問し、材を量り任用し、小民各(おのおの)其の所業を安ず。神劒の罪は前に言ふ所の如くと謂ひ、乃ち官位を賜ふも、其の二弟と能奐の罪を同じくし、遂に真州に流れ、尋いで之れを殺す。英規には、前王の國を失ふ後、其の臣と子に一人も慰藉する者無く、獨り卿の夫妻のみ千里に音を嗣(つ)ぎ、以て誠意を致し、兼ねて寡人に於いて美に歸する。其の義忘る可からず、と謂ひ、仍りて職に左丞、賜に田一千頃を許し、驛馬二十五匹を借するを許し、以て家人を迎へ、其の二子に賜ふるに官を以てせり。

 甄萱は唐景福元年に起こり、晉天福元年に至るまで、共に四十五年にして滅ぶ。