本件について論じよう。
新羅は幾度となく困窮し、道理は喪われた。天の助くる所もなく、民の帰る所もない。そこで隙に乗じた群盜が猬(ハリネズミ)の針のように興り立ったが、それらの中で劇烈な者は、弓裔と甄萱の二人だけであった。
もともと弓裔は新羅の王子であったが、宗国に復讐するために反乱を起こし、皆殺しを図ってこれを滅ぼし、先祖の像までもを斬るに至った。なんとも甚だしき不仁を行なったものである。
甄萱は新羅の民より起こり、新羅の祿を食らっていたが、禍乱の心を包み隠し、国家の危機を幸いとし、都邑を侵軼し、君臣を殺害して掠奪をし、禽鳥や大猿のようにしてこれらを草薙(くさな)ぎ、天下の元悪大憝(※1)を実らせた。
故に弓裔はその臣下に見棄てられ、甄萱はその子から禍を産んた。どちらも自らそれを選択したのだ。誰を咎めることができるだろうか。
項羽や李密のような雄才でも、漢や唐の興隆に敵うことはできなかった。してみれば、弓裔や甄萱のような凶人については言うまでもない。どうして我が太祖に対抗することができるだろうか。その為にしたことは、人民を恐怖によって追い立てたことだけである。(※2)
(※1)元悪大憝
元悪は「悪の元締め」「諸悪の根源」、大憝は「大罪人」「悪を極めた人物」の意。大悪人のことである。出典は書経。
(※2)その為にしたことは、人民を恐怖によって追い立てたことだけである。
原文は、「但為之歐民者也」であり、私は「但(ただ)之れの為にするは、民を歐(おひたて)ることのみなり」と書き下した。ここで問題となるのは、「歐」の意味である。「歐」は日本の新字体では「欧」であり、第一義は「吐く」「吐き戻す」である。しかし、「歐民」が「民を吐き戻す」では意味が通らない。それ以外の意味には、「うたう(謳う)」と「なぐる(殴る)」がある。
時に儒教経典のひとつに数えられる『大戴礼記』には、「導之以德教者、德教行而民康樂。歐之以法令者、法令極而民哀戚。」という一節がある。「之れを導くに德教を以てする者は、德教行ひて民を康樂せしむ。之れを歐するに法令を以てする者は、法令極めて民を哀戚せしむ。」と書き下して現代語訳すれば、「これ(人民)を導くために徳教を用いる者は、徳教を行なうことで人民を安堵させて楽しませる。これ(人民)を『歐』するために法令を用いる者は、法令を極めて人民を悲しみ悼ませる」となろうか。これは論語為政篇にある孔子の言葉「道之以政、齊之以刑、民免而無恥。道之以德、齊之以禮、有恥且格。」と似ている。こちらを概ね意訳すれば、「人民を導くために政治を用い、統治するために刑罰を用いれば、人民は免れても恥じることがなくなる。人民を導くために徳を用い、統治に礼を用いれば、恥を持って自ら正しくなる」といったところで、徳(礼)と法(刑)が対比される有名な章句である。ここでは、人民を法律によって無理やり従わせるよりも、徳や礼によって人民を感化させることを上位に置く倫理観が示される。してみれば、『大戴礼記』の『歐』は「(法令によって人民を)無理やり従わせる」という意味になろう。これは辞典における「殴る」という意味に近い。
これを鑑みれば、本文の用例も、この部分を意識したものであると考えられる。新羅本紀第十二巻敬順王紀には、「昔甄氏之來也、如逢豺虎。今王公之至也、如見父母。」とあり、これは儒教倫理に基づき、徳によって人民を感化する太祖王建と、恐怖によって人民を従わせる甄萱を対比しての言葉であろう。そして、この人物観は本文の内容とも一致している。
よって、本文「但為之歐民者也」の『歐』を、『大戴礼記』の『歐』と同じ用法であると見なし、ここでは「なぐる」よりも更に具体的な含意を持たせて「おひたてる(追い立てる)」と訓読した上で、現代語訳を「恐怖によって追い立てる」とした。
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