旧唐書東夷伝日本条

 日本は倭国の別種である。その国は日邊(太陽の昇る側)にあることから日本と名とした。

 しかし、一方では「倭国は自身の名を雅でないと嫌がり、日本と名を改めた」と言い、一方では「日本ではもともと小国であったが、倭国の領土を併合した」と言う。

 唐に入朝した日本人は、自分のことについて大袈裟に話を盛ることが多く、事実によって対面しようとしなかったので、中国の人々はこれらの話を疑わしく思った。 また次のようにも言った。「日本国は東西南北の国境線はそれぞれ数千里、西と南は大海に面し、東と北には大山があり、そこを国境としている。その山の向こうには毛人の国がある」と。

 長安三年、日本国の大臣、朝臣、真人が来朝し、方物を貢いだ。

 朝臣と真人は、まるで中國の戶部尚書のごとく、進德冠を冠し、その頂には花を四散して飾り、紫袍を着、帛を腰帯に巻いていた。真人は好んで経典や史書を読み、文章を綴ることができたし、立ち振る舞いは溫雅であった。武則天は彼らを麟德殿で宴会を開いてもてなし、司膳卿の官位を授け、本国に帰還させた。

 開元初年、また遣使が来朝し、今度は儒士による経書の指導をしてくれまいかと請願した。四門助教の趙玄默に詔を出し、鴻臚寺で経書の指導にあたらせた。日本の使者たちは玄默に闊幅布(幅の広い布)を遺して束修の礼(授業料の支払いの礼)とした。これを題して、「白龜元年調布」というが、人々はその逸話の真偽を疑った。また、日本からの使者たちは朝廷から下賜されたので、市場で文籍を買い尽くし、海を渡って帰っていった。その使者の一人であった朝臣の仲滿は中國の風を慕い、在留して日本に帰らなかった。姓名を改め朝衡と名乗り、中国に仕えて左補闕、儀王友を歴任した。朝衡が在留すること京師五十年になるも、中国の書籍を好み、故郷に帰らせようとしても、逗留して帰らなかった。

 天寶十二年、また遣使が朝貢した。

 上元中、朝衡を左散騎常侍、鎮南都護に抜擢した。

 貞元二十年、遣使が来朝した。留學生の橘免勢と學問僧の空海である。

 元和元年、日本國使の判官である高階真人が「前件の学生たちは、そろそろ学問教養も成熟に至ったので本国への帰りたいと願っておりますので、私たちと一緒に帰還させてもらえませんでしょうか」と上言したので、それに従って留学生たちを日本に帰らせた。

 開成四年、また遣使が朝貢した。

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【白文】

 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。

 或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。 或云、日本舊小國、併倭國之地。

 其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

 又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。

 長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國。

 開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕曆左補闕、儀王友。

 衡留京師五十年、好書籍、放歸鄉、逗留不去。

 天寶十二年、又遣使貢。

 上元中、擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。

 貞元二十年、遣使來朝、留學生橘免勢、學問僧空海。

 元和元年、日本國使判官高階真人上言、前件學生、藝業稍成、願歸本國、便請與臣同歸。從之。

 開成四年、又遣使朝貢。

【書き下し文】

 日本國は倭國の別種なり。其の國日邊に在るを以て、故に日本以て名と爲す。

 或いは曰く、倭國自ら其の名を雅ならずと惡み、改めて日本と爲す、と。 或いは云ふ、日本舊くは小國なるも、倭國の地を併す、と。

 其の入朝する人、自ら矜大すること多く、對するに實を以てせず、故に中國疑ふ。

 又た云ふ、其の國、東西南北を界するに各の數千里、西界、南界咸(ことごと)く大海に至り、東界、北界に大山有りて限と爲し、山外は即ち毛人の國なり、と。

 長安三年、其の大臣朝臣真人來たりて方物を貢ぐ。朝臣真人は、猶ほ中國の戶部尚書のごとく、進德冠を冠し、其の頂を花と爲し、分けて四散し、身服紫袍、帛を以て腰帶と爲す。真人は好んで經史を讀み、屬文を解し、容止は溫雅なり。則天麟德殿に於いて之れを宴し、司膳卿を授け、放ちて本國に還らしむ。

 開元初、又た遣使來朝し、因りて儒士の經を授くるを請ふ。四門助教の趙玄默に詔し、鴻臚寺に就き之れを教ゆ。乃ち玄默に闊幅布を遺し以て束修の禮と爲す。題して云く、白龜元年調布なり。人亦た其の偽を疑ふ。錫賚を所得し、市にては文籍を盡し、海を泛りて還る。其の偏使たる朝臣の仲滿、中國の風を慕ひ、因りて留まり去らず、姓名を改め朝衡と爲し、仕へて左補闕、儀王友を曆す。衡留ること京師五十年、書籍を好み、放ちて鄉に歸さしむるも、逗留し去らず。

 天寶十二年、又た遣使貢ぐ。

 上元中、衡を擢きて左散騎常侍、鎮南都護と爲す。

 貞元二十年、遣使來朝す。留學生橘免勢、學問僧空海。

 元和元年、日本國使の判官高階真人上言するに、前件の學生、藝業は稍成し、本國に歸するを願ひ、便ち臣と與に同じく歸せんと請ふ、と。之れに從ふ。 開成四年、又た遣使朝貢す。