倭國は、古くは倭奴國であった。京師から一萬四千里ほど離れた新羅の東南大海中にある。山島に停泊し、東西に五月ほど行き、南北に三月行くことで、代々中国と通じてきた。
その国の住居には城郭がなく、木を用いて柵を造り、草を用いて家屋にした。四面の小島五十余国すべてが従属している。
王の姓は阿每氏、諸国に一大率という役職の者を置いて監察させた。現地の人々はそれを畏れ、付随った。官位を十二等の設置しており、訴訟をする者は、匍匐して前に出る。
その地には女が多く男は少ない。わずかに文字があり、俗は仏法を敬している。並んで皆が裸足で、一幅の布で身体の前後を蔽い、貴人は錦帽を戴き、百姓は皆椎髻を結い、冠や帯は身につけない。女性は純色の裙(スカート)を身に着け、丈の長い襦袢を着、髪を後ろで束ね、銀花を身に纏い、長さは八寸、左右にそれぞれ数枝を飾り、それによって貴賤等級を明らかにした。衣服の制、いくらか新羅と似ている。
貞觀五年、遣使して方物を献上した。太宗は遠路を遥々来たことを思いやって、毎年の朝貢はしなくてよいと役人に勅を出し、また新州刺史の高表仁を派遣して使節団を従事させ、倭国に向かわせこれを慰撫させようとした。しかし、高表仁は遠方の国を安んずる才能がなかったので、倭国の王子と礼について言い争いをした挙句、朝命を伝えもせずに帰還してしまった。二十二年になって、今度は新羅に上表を託けることで、中国と動静を伝えた。
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