倭人は帯方郡の東南の大海の中にいて、山や島を基準にして国の領地を形成している。かつて百ヵ国あまりが漢の時代に朝見していたが、今も通訳が通じるのは三十カ国である。(帯方)郡から倭に至るまでは、海岸に沿って水行し、韓の国を経て南に行きつつ東に行きつつ、その北岸の狗邪韓国に至るまで七千里余りである。
最初に一度海を渡り、千里余りで対馬 国に至る。その大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。居住地となる離島の面積はおよそ四百里余り、土地には山が険しく深い林が多く、道路は禽や鹿の獣道のようである。千余りの人戸があるものの、肥えた田地はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に商取引をしている。
そこから南にひとたび渡る海千里余りの名を瀚海といい、一支 国まで至る。官は同じく卑狗、副官も卑奴母離である。面積は約三百里、竹や木が群生する林が多く、三千家余りがあり、いくらかは田地があるものの、畑にして耕しても食べるには足りず、同じく南北に商取引をしている。
もう一度海を渡ること千里余り、末盧国まで至る。四千余りの人戸があり、山海の近くに住んでいる。草木が盛んに茂り、道を歩くときにも前の人が見えない。魚や鰒 を捕るのが上手く、水の深い浅いに関係なく、皆がもぐって取る。
東南に陸行すること五百里、伊都国まで至る。官は爾支といい、副官は泄謨觚、柄渠觚という。千余りの人戸と世襲の王がいて、皆が女王国の統治に属している。郡使の往来ではいつも駐留する場所である。
東南に行けば奴国に百里で至る。官は兕馬觚といい、副官は卑奴母離という。二万余りの人戸がある。東に行けば不彌の国まで百里で至る。官は多模といい、副官は卑奴母離といい、千余りの人家がある。南には投馬国まで水行すること二十日で至る。官は彌彌といい、副官は彌彌那利という。およそ五万余りの人戸がある。
南に行けば邪馬台 国に至る。女王が都としている場所まで、水行すること十日、陸行すること一月である。官に伊支馬があり、次が彌馬升といい、次は彌馬獲支といい、次は奴佳鞮という。およそ七万戸余りである。
女王国以北は、その戸数と道里の掲載は略さなくてはならぬ。その他の旁国は遠く隔絶しているので、詳細がわからないからだ。次に斯馬国があり、次に已百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に彌奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴厘国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国があり、ここが女王の限界となる場所である。その南には狗奴国があり、男子が王となり、その官には狗古智卑狗があり、女王に属していない。郡から女王の国まで一万二千里余りである。
男子は大人も子供も関係なく、皆が顔面に黥 をし、身体にも文 をしている。太古 から、その国の使者が中国に来訪し、皆が大夫と自称している。夏王朝の後裔である少康の息子は會稽に封じられ、髮を切り落として身体に文 をすることで、蛟龍 の害を避けた。今の倭の水人 は潜水して魚や蛤 を捕るのが上手く、身体に文 をしているのも、大魚や水禽を厭うてのことで、その後は徐々に装飾としてのものになっていった。身体の文 は諸国によってそれぞれ異なり、あるものは左、あるものは右、あるものは大きく、あるものは小さく、身分の尊卑によって違いがある。
その道里を計測すれば、ちょうど會稽から東治の東にあるはずである。その風俗は淫らさがなく、男子は皆が結った髷を隠すことなく露出し、木綿で頭をくくっている。その衣服は横幅があり、結びつけて連ね合わせるだけで、ほとんど縫わない。婦人は額の方にも髪を垂らし、後ろ髪を折り曲げて髷を結い、一枚布のかけ布団のような衣服を作り、その中央に穴をあけ、そこに頭を通して着用する。禾稲や紵麻 の種をまき、養蚕や機織りをし、細い紵 やカトリ綿を産出する。
その土地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲 はいない。武器には、矛、楯、木の弓を私用する。木の弓は下が短くて上が長く、竹の矢には、あるものは鉄の鏃、あるものは骨の鏃である。あるものとないものは、儋耳郡や硃崖郡と同じである。
倭の土地は温暖、冬と夏には生の野菜を食べ、皆が裸足である。家屋があり、父母兄弟が異なる場所に眠る。中国で白粉を用いるかのように、硃丹を自らの身体に塗る。飲食には竹や焼き物の深皿を用い、手で食べる。
その死に際しては、棺があって槨はなく、土を盛って塚を作る。死の最初には喪に十日余り停 まり、この時には肉を食べず、喪主は声を上げて泣くが、他の人は歌を歌いながら舞い踊り、酒を飲む。葬式の後には、一家を挙げて水に入って身体を清めに行く。喪服を練絹に改め、沐浴をするようなものである。
その国が海を渡って中国を訪ねに往来するにあたっては、いつも使者の中に一人、頭を櫛ですきもせず、蟣虱も取らずに衣服を垢で汚し、肉も食べず、婦人に近寄らず、あたかも喪に服している人のようにする。これを『持衰』と名付けている。もし行中が吉善であれば、共同で彼に生口と財物を支払い、もし疾病がかかることや、暴風雨、災害等に遭えば、このために彼を殺そうとする。それが持衰の不謹慎に由来すると考えてのことだ。
真珠、青玉を産出する。その山には丹 があり、その木には柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香がある。その竹は筱簳、桃支がある。薑 、橘 、椒 、蘘荷 もあるが、それらが美味であることを知らない。獮猴 や黒雉もいる。
その習俗では、日々のすることを挙げて、何か言ったり行なったりすことがあれば、そこで骨を灼 いて卜 をし、吉凶を占う。先に卜 いことを口にするが、その言葉は令亀法のようである。火によってできた裂け目を視て、物事の兆 を占うのだ。その会合でのしぐさは、父子、男女の別はない。人の性格は、酒を嗜む。〈魏略には、「その習俗では、正確な年と四季を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を数えるだけで年紀としている。」とある。〉
大人を見ての敬礼には、ただ手を叩くだけのことが跪拜に相当する。その国の人は長寿で、ある者は百歳、ある者は八、九十歳である。その習俗は、国内の大人の誰もが四人か五人の妻を持ち、下戸でも二人か三人の妻を持つことがある。
婦人は淫らではなく、妒忌しない。窃盗もなく、訴訟は少ない。その国の法を犯す者は、軽いものであれば、その妻子を没収し、重いものであれば、その門戸を滅ぼす。宗族の身分の尊卑によって、それぞれに差別と序列があり、互いに臣服することをよしとし、租賦を収め、食糧の貯蔵庫がある。
国々には市場があり、交易の有無は、それを大倭が取り締まる。女王国以北には、特に一大率を置き、諸国を検察する。諸国はこれを畏れ憚った。常に伊都国を治め、国内における刺史のようである。王が使者を派遣し、京都、帯方郡、諸韓国を訪問させたりとか、あるいは郡が倭の国に使者を送れば、皆が津を臨み、文書や賜品といった贈物を開いて調査し尽くした後で女王まで伝え届け、間違いは許されない。下戸が大人と道路ですれ違えば、後ろに下がって草むらに入る。言葉を伝えて物事を説明する場合、ある時は背を丸めてしゃがみ込み、ある時は地面に膝を付け、両手を土につけ、これを恭敬とする。応答の声は「噫 」といい、「然」や「諾」のようなものである。
その国ももともとは同じく男子を王としていたが、居住すること七、八十年、倭国は乱れ、長年にわたって互いに攻撃と討伐をし合うことになった。そこでとある女子を共同で立て、王とした。名は卑弥呼といい、鬼道に仕えて大衆を惑わせることができた。年齢として既に大人となっていたが、夫を婿ることなく、男弟の佐 があって国を治めた。自ら王となって以来、面会する者はほとんどいない。婢千人が自ら侍り、男子はただ一人だけおり、飲食を給仕し、言葉を伝えるために出入りしていた。住居である宮室には、楼観 と城柵 が厳重に設けられ、常に武器を持った人が守衛にあたった。
女王国は東に海を渡ること千里余り、またしても国があり、それも倭の同種である。また侏儒の国がその南にあり、人の身長は三、四尺である。女王の国から四千里余り遠ざかると、また裸の国があり、黒歯の国もそのまた東南にあり、船行すること一年でたどり着くことができる。倭の土地を訪ねて訪問してみれば、絶海の中の洲島の上にあり、ある部分では隔たり、ある部分では連なっており、周り巡ってみると約五千里余りである。
景初の二年六月、倭の女王は大夫の難升米等を派遣して郡を訪れさせ、天子に御面会して朝献したいと求めると、太守の劉夏が吏将を派遣して京都まで送迎させた。その年の十二月、詔書にて倭の女王に返報した。
「詔 を親魏倭王の卑弥呼にお制 り致す。帯方太守の劉夏が使者を派遣し、そなたの大夫である難升米と次使の都巿牛利を送り、そなたの献上された男の生口四人と女の生口六人、班布二匹二丈を奉られ、こちらまでたどり着いた。そなたのいる場所はあまりに遠いのに、使者を派遣して貢献させたこと、これはそなたの忠孝である。私はそなたをあまりに哀れに思う。今ここにそなたを親魏倭王とし、金印紫綬を貸与し、代理として帯方太守に付して封じ、仮にではあるがそなたに授けよう。そなたの部族の者をいたわり、孝順となるように努めるがよい。そなたの来使の難升米、牛利は、遠路をはるばる苦労を押して来られ。今より難升米を率善中郎將、牛利を率善校尉とし、銀印青綬を貸与し、引き見て慰労し、賞賜して帰国してつかわす。今回は絳地交龍錦を五匹、〈臣 裴松之が思いまするに、地はおそらく綈とすべきでしょう。漢の文帝が『皁衣』と表現したのは、これのことを謂い、『弋綈』とは、このことです。この字は元からそうだったわけではなく、魏朝の誤りでないなら、つまり伝え写した者の誤りでしょう。〉絳地の縐粟罽を十張、蒨絳を五十匹、紺青を五十匹、これによってそなたの献上された朝貢品の見返りとして与えようではないか。また、同時にそなたには紺地句文錦を三匹、細班華罽を五張、白絹を五十匹、金を八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹をそれぞれ五十斤を賞賜し、どれも代理として難升米、牛利に付して封じる。帰って来たら記録して受け取れ。これらすべてをそなたの国中に人に見せることで、我が国がそなたを哀れんでいることを知らしめるがよい。故に丁重にそなたの好む物を賜ったのだ。」
正始元年、太守の弓遵は建中校尉の梯俊等を派遣して詔書 と印綬を奉り、倭の国まで訪ね、倭王を拜して貸与し、同時に詔 をもたらして金、帛、錦罽、刀、鏡、采物を賜った。これに因んで倭王は上表によって回答し、恩詔 に感謝を告げた。その四年、倭王はまたしても使者として大夫の伊聲耆、掖邪狗等の八人を派遣し、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢を献上した。掖邪狗等は率善中郎將の印綬を(壹)拜んだ。その六年、詔 して倭の難升米に黄幢を賜り、郡に渡して仮授した。その八年、太守の王頎は官に着任した。倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼は、平素から和せず、倭の載斯と烏越等を派遣し、郡を訪問させて互いに攻擊し合っている現状を説明した。塞曹掾史の張政等を派遣し、これに因んだ詔書 と黄幢を齎し、拜して難升米に仮授し、檄文をつくって彼らに告諭した。卑弥呼が死んだ際には、大きな塚を作り、直径は百步余り、殉葬された者は奴婢百人余りであった。新たに男王が立ったものの、国内は服さず、またしても互いに誅殺を繰り返し、この時に千人余りが殺され、ふたたび卑弥呼の宗女の壱与を立てた。齢十三歳にして王となり、国内は遂に定まった。張政等は檄文によって壱与に告諭し、壱与は倭大夫の率善中郎將の掖邪狗等二十人を派遣し、張政等の貴国を見送り、その時に台を訪れ、男女の生口三十人を献上し、白珠五千、孔青大句珠二枚、異なる文飾の雑錦二十匹を貢いだのであった。
(※1)帯方郡
前漢の武帝が設置した群。朝鮮半島北部から大陸との間にある。設置経緯について詳しくは、史記朝鮮伝を参照。
(※2)狗邪韓国
狗邪 は伽耶 と音通であり、三国史記に登場する金官国に比定される。現在の韓国慶尚南道沿海部。同書韓伝に登場する弁辰十二国のうちのひとつ『弁辰狗邪』と同一と見なされることもあり、あるいは隣接する別の国とする説もある。
(※3)対馬 国
対馬は朝鮮半島と九州本島の中間に位置する島。現在の長崎県対馬市。本文の記述にもある通り、土地の90%近くが山地であり、しかも土壌が岩がちであることから、農耕地は1%もない。そのため、古来から漁業が主要な第一次産業であり、また穀物を入手するために朝鮮半島や九州本島等との交易が盛んだったため、これが海神信仰に結びついた。この海神は古事記や日本書紀における天皇の祖神に数えられる。また、日本全国で最も神社の密度の高い地域とも考えられ、平安時代に編纂された神社の目録である『延喜式』に登録された九州地方の神社98社のうち、約3分の1を占める29社が対馬に存在し、現存する神社の数は200社を超えている。スサノオや住吉大神等の朝鮮との所縁のある神々について独自の伝承が存在し、他にも朝鮮からの製鉄技術者に由来する信仰だと推測される諸黒神 等の独自の神も祀られている。
(※4)卑狗、卑奴母離
卑狗は、おそらく『彦 』『日子 』であり、日本の古語における男性の尊称。首長を指すと思われる。卑奴母離は、『鄙守 』『比奈守 』『夷守 』であり、地方(ひな、田舎のこと)の守護者(もり、守りのこと)を指すと思われる。彦、日子は、古事記や日本書紀の男性名にも頻出し、鄙守 や夷守 は九州の地名にみられることから、本文の記述と一致する。
(※5)瀚海
大海。大きな海。転じて砂漠を意味することもある。なぜ対馬から壱岐にかけての海をこのように呼称するのかは不明。
(※6)一支 国
対馬と九州本島の中間に位置する壱岐島 に比定される。対馬に次いで神社の数が多く、※3で紹介した神社目録『延喜式』に登録された九州地方の神社98社のうち、24社が壱岐にあり、対馬の29社と併せれば、九州全土の神社数の半数を超える。
(※7)末盧国
古事記に記載のある末羅国 とする説が有力。後の備前国松浦 郡。現在は長崎県と佐賀県の県境にある松浦半島付近。また、先代旧事本紀の国造本紀によれば、13代成務天皇の代に大水口宿禰 の孫である矢田稲吉 を国造に定めたことから始まったとされている。ただ、古事記や日本書紀の成務天皇は13代天皇であり、後述するが卑弥呼と有力視される倭迹迹日百襲姫命は10代崇神天皇の大叔母で、その代に死去した人物とされているため、今ひとつ年代がかみ合わない。とはいえ、成務天皇と同じ世代の彦狭島王と同名の彦狭島命が7代孝霊天皇の子として登場する等、古事記や日本書紀の初期天皇の頃の時系列には怪しいところがあり、どのように解釈すべきかはわからない。
(※8)伊都国
古事記や日本書紀に登場する伊都県 と比定する説が有力。現在の福岡県糸島市付近。松浦半島に隣接する。日本書紀によれば、この地を治める五十迹手 が筑紫に行幸する仲哀天皇を出迎え、それが「伊蘇志 」と讃えられたことから、この国は伊蘇国 となり、それが訛って伊都国 となったとされる。ちなみに、筑前国風土記によれば、この五十迹手 の祖先は、高麗国の意呂山 (一説には韓国の蔚山 のことだとされる。)に天降った日桙 の子孫とされている。ただし、卑弥呼と有力視される倭迹迹日百襲姫命は10代崇神天皇の大叔母で、その代に死去した人物とされているため、14代天皇の登場するこの説話は、今ひとつ年代がかみ合わない。とはいえ、ここに登場する日桙 と同一視される似たようなエピソードを有する人物群(天日槍、天日之矛、都怒我阿羅斯等、蘇那曷叱知……)の渡来時期も文献によってまったくバラバラであり、古事記や日本書紀の初期天皇の頃の時系列には怪しいところがあるため、どのように解釈すべきかはわからない。
(※9)爾支
「にき」「ねき」「にし」等、読み方には諸説ある。ヤマトを支配するために高天原から遣わされた天孫の邇邇芸命 や饒速日尊 を想起させる。
(※10)泄謨觚、柄渠觚
おそらく泄謨觚(siat mag ko)は「シマコ」だと思われるが、※12の兕馬觚(しまこ)と同名になるため、やや強引な字通となる泄謨觚の方はシマコとの比定を控えた。柄渠觚(pi∧ng giag ko)は「ヒゴコ」「ヒココ」「ヒクコ」等とされている。筑前国風土記において伊都県主 の祖先とされる「ヒボコ」こと新羅王子の天日槍 に通じるとする説もある。筑前国風土記において、日桙 は高麗国 の意呂山 に天から降りてきたと説明されている。あるいは、そこから柄渠觚を高句麗の建国伝説に登場する「解慕漱 」に比定する説もある。私が思うに、朝鮮半島の山に天から降りてきたと言えば、新羅始祖の朴赫居世も想起される。赫居世は現代韓国語でも「ヒョッコセ」とされ、「ヒココ」に通じなくもないと思うが、いずれにせよやや厳しい推測である。
(※11)奴国
儺県 に比定する説が有力。現在の福岡県春日市。後漢書にも倭奴国として名が登場し、そこでは倭国の領土の最南端に位置すると記されている。後漢初代皇帝の光武帝から金印を受け取ったことが記録されており、これが江戸時代に筑前国那珂郡志賀島村(現在の福岡県福岡市東区)にて農夫の甚兵衛が発見したとされる金印とされる。
(※12)兕馬觚
兕馬觚(sì mǎ ko)であり、おそらくは「シマコ」と読む。『島子』だろうか? おとぎ話の浦島太郎のモデルとなった浦島子が想起される。
(※13)不弥国
上記の各国については異論が少ないが、この国から諸説の意見が大きく分かれる。現福岡県の宇美 とする説や同県飯塚市の穂波(ほなみ)とする説がある。
(※14)多模
「たま」「とも」等と読む説がある。「たま」は古事記等において「たましい」「神霊」を指し、神を祀る神職を指すとも考えられる。「とも」であれば、大伴 氏や伴造 等に通じる官職とも推察される。
(※15)投馬国
畿内説における出雲 とする説が有力。づま、あるいは、つま、と読まれるが、980年頃に宋で編纂された類書『太平御覧』には、「投馬」は「於投馬」と表記されており、「あづま」「おつま」等とよむことができるため、より出雲 と音が近い。
(※16)彌彌、彌彌那利
彌彌はおそらく「みみ」であり耳 。出雲系の王族の名号によく用いられる語である。出雲国風土記には、須賀之八耳 、布帝耳 、鳥耳 等が登場し、古事記には、出雲の王であった足名椎 にスサノオから稲田宮主須賀之八耳神 との名を授けられている。神武天皇の息子も神八井耳命 、神沼河耳命 、彦八井耳命 、手研耳命 、研耳命 と、すべて耳がつく。語源は神霊を指す「霊(み)」と推測され、海を司る神とされる海神(わたつみ)は海(わた)の(つ)神霊(み)、山を司る神とされる山祇(やまつみ)は山(やま)の(つ)神霊(み)の意である。また、耳(みみ)は民衆の言葉をよく聞いて政務を取ることが示されているとも言われ、聖徳太子が十人の言葉を一度に聞けたという逸話も、こうした信仰に由来すると思われる。彌彌那利は「みみなり」か「みみたり」であろうが、よくわからない。
(※17)邪馬台 国
ヤマトの国。現代に至るまで日本の代名詞となる。ただし、古来から位置についての論争が絶えない。畿内説が有力とされ、これに九州説が次いでいるが、他にも四国説、岡山吉備説、北陸説、山口県説、東北説、釜山説、満州説など、諸説数限りなく、折衷的な説としては、九州から畿内までの間を邪馬台国は移動していたとする東遷説や邪馬台国非実在説等もある。こうした邪馬台国論争の鏑矢とも言える江戸儒者の新井白石自身、当初は畿内説(現在の奈良県の大和)を唱えた後に九州説(現在の福岡県山門)を改めて唱え、自説を変更していることから、この比定の困難がうかがえる。
(※18)伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮
伊支馬はイキマ、彌馬升はミマショウ、彌馬獲支はミマワキ、ミマワケ、奴佳鞮はナカテ、ヌカテと読めるが、よくわからない。彌馬升と彌馬獲支に共通する『彌馬(みま)』は、十代天皇の崇神天皇の和風諡号である御眞木入日子印恵命 の『みま』に通じる。
(※19)女王国
本文において、女王の卑弥呼の治める邪馬台国のことだとして記されているように見えるが、実は断定されておらず韜晦的である。このことから、本居宣長の説を始め、古くから邪馬台国と女王国を別の国とする説もあり、この説においては女王国が九州王朝に比定されることから、邪馬台国論争においても関連して述べられる。
(※20)斯馬、已百支、伊邪、都支、彌奴、好古都、不呼、姐奴、対蘇、蘇奴、呼邑、華奴蘇奴、鬼、為吾、鬼奴、邪馬、躬臣、巴厘、支惟、烏奴、奴
以下に読みと比定地の諸説の一覧表を掲載する。
名称
|
読み
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比定地
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斯馬
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シマ
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志摩国(三重県志摩)
淡路島(兵庫県淡路島)
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已百支
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イハキ
ハキ
アキ
ホウキ
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安芸国(広島県安芸)
伯耆国(鳥取県伯耆)
石城国(福島県いわき市)
阿波国(徳島県)
把木国(福岡県筑後地区朝倉郡把木町)
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伊邪
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イヤ
イザ
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伊予国(愛媛県)
伊賀国(三重県伊賀市)
弥永国(福岡県朝倉郡弥永)
諫早(長崎県諫早市)
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都支
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トキ
ツキ
タキ
タケ
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伯耆国(鳥取県倉吉市)
筑紫国(福岡県東部)
多紀国(兵庫県多紀郡)
土岐(岐阜県土岐市)
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彌奴
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ミヌ
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美濃国(岐阜県美濃市)
三野国(岡山県御野郡
|
好古都
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カカト
ヌコツ
ココツ
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摂津国(大阪府西部から兵庫県東部)
額田国(岐阜県池田町額田)
備前和気郡香止郷(岡山県和気郡香登町)
肥後国菊池郡(熊本県菊池郡)
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不呼
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フカ
フコ
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周防国(山口県東部)
備前国邑久(岡山県邑久郡)
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姐奴
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サナ
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科野国(長野県)
讃岐国(徳島県)
|
対蘇
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ツス
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土佐国(高知県)
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蘇奴
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スヌ
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讃岐国(徳島県)
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呼邑
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イハ
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伊和(兵庫県立伊和)
阿波(徳島県)
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華奴蘇奴
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カナスナ
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神野磯野国(愛媛県西条市伊曽乃台地)
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鬼
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キ
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紀伊国(和歌山県)
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為吾
|
イゴ
イガ
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伊賀国(三重県伊賀市)
伊予国(愛媛県)
|
鬼奴
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チヌ
キヌ
|
茅渟国(大阪府南部)
紀伊国(和歌山県)
|
邪馬
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ヤマ
|
山背国(京都府)
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躬臣
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クス
クジ
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越国(福井県敦賀市から山形県庄内地方)
玖珠郡(大分県玖珠郡)
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巴厘
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ハリ
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播磨国(兵庫県播磨)
尾張国(愛知県尾張)
|
支惟
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キイ
|
吉備国(岡山県)
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烏奴
|
アナ
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穴門国(山口県長門)
淡海国(滋賀県近江)
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奴
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ナ
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儺県(福岡県春日市)
日向国那珂郡(宮崎県那珂郡)
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(※21)狗奴国
伝統的には九州南部の肥後の球磨説が有力であるが、近年は東国説も有力視されている。東国説には、近江説、尾張説(岐阜加納説、三重桑名説)、遠江説(久努国説)関東説(毛野説)がある。他には、畿内の熊野説、四国の伊予説、讃岐説、出雲説等も存在する。思うに、あくまで「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國……(次に奴の国があり、ここが女王の限界となる場所である。その南には狗奴国があり……)」とあることから、この記述に基づく限りにおいて、邪馬台国からは遠方にあることが読み取れる。
(※22)大夫
周王朝における官職の名であるが唐突な登場のため意味は掴みがたい。
(※23)夏王朝の後裔である少康の息子
夏王朝は聖王禹が建国したとされる中華王朝(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)。少康はその第六代帝王。ここでの息子というのは、庶子の無余のことであろう。
(※24)會稽
現在の中華人民共和国浙江省紹興市。東の海沿いにあり、緯度は琉球本島に近い。本文には日本列島は会稽の東とされているが、明の時代に中国で描かれた世界地図では、日本は実際よりも南方にあると認識されており、會稽のすぐ東に日本列島が記されていたので、おそらくこの時代も同様だったのだろう。※23の無余は、ここに父の少康から封じられた。
(※25)髮を切り落として身体に文 をすることで、蛟龍 の害を避けた。
※23の無余に関して、史記越王勾践世家や漢書地理志粤地条に記された故事。これとよく似た伝説が、越南(ベトナム)の歴史書『大越史記全書』の雄王紀に記されている。中国から南方の海洋部族には刺青の風習があり、これらについては春秋左氏伝等にも記されている。
(※26)東治
東冶の誤字。会稽から更に南にあり、同じく東の海沿い。緯度は台湾に近い。
(※27)紵麻 、カトリ綿
イラクサ目イラクサ科の多年生植物。茎の皮から採取できる繊維が衣服に用いられる。
(※28)鵲
カチガラス、高麗ガラスとも呼ばれる。倭国にいないとされているが、九州北部には稀に飛来する。三国史記の脱解本紀には、昔脱解が鵲(かささぎ)とともに新羅へ来航し、昔氏という姓は『鵲』にちなむとされる。
(※29)儋耳郡、硃崖郡
中国南端の海南島に置かれたふたつの行政区分。現在の海南省。台湾より更に南方にあり、ほぼ越南と同じ緯度。
(※30)硃丹
朱色の顔料。
(※31)棺、槨
棺は遺体を収納する棺桶。槨は埋葬に際して棺が土に直接つかないようにするための外側を囲うための棺桶。外棺と呼ばれる。儒教においては、両者を用いて土葬することが礼となっている。
(※32)喪服を練絹に改め、沐浴をするようなものである。
原文では「練沐」である。服喪から一年を経過して絹の衣服を着て水浴びをする儒教の儀礼。
(※33)青玉、丹
青玉はサファイアのこと。丹は赤色の顔料となる硫化水銀鉱。
(※34)柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香
すべて木の名前。柟は楠のこと。杼はくぬぎのこと。どんぐりが実る。豫樟と楺櫪は不明。投橿は杉か樫木との説がある。烏號は黄帝が遺したとされる優れた弓。転じて優れた弓の材料である桑の木を指すという説もあるが、よくわからない。楓香はカエデ。
(※35)筱簳、桃支
筱簳は前者が太い竹、後者が細い竹、笹竹を指す。桃支はおそらく桃枝竹のことで、皮が赤くなる竹のことらしい。
(※36)薑 、橘 、椒 、蘘荷
薑はショウガ、橘はミカン、椒は山椒、蘘荷はミョウガを指す。訓読みが重複しているのは、和語における辛味調味料の語彙が少ないため。
(※37)令亀法
亀の甲羅を用いる中国における伝統的なうらない。亀卜。漢字の原型である殷代の甲骨文字は、これについての記録のための文字に由来する。対馬の伝承では、雷大臣(いかつをみ)が亀卜を日本に伝えたとされている。
(※38)魏略
魚豢によって編纂された魏の歴史書。
(※39)「その習俗では、正確な年と四季を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を数えるだけで年紀としている。」とある。
日本書紀に記録されている初期の天皇は、ほとんどが百年を超える寿命であり、この由来については、上記の春と秋をもってそれぞれ一年と数え、春夏秋冬の一年の間に二年を数える暦を採用していたことに由来するという説がある。
(※40)下戸
身分の低い人。
(※41)大倭
唐突に登場するため、よくわからない。
(※42)刺史
漢王朝においては、中央から派遣された郡国の査察官。後に州の長官として扱われるようになる。魏志倭人伝は魏の時代について記した史書であるから、当時は既に州の長官であったはずだが、ここでの説明は漢代の査察官として解釈しないと説明に齟齬が出るように思う。
(※43)卑弥呼
日本神話における比定には諸説あるが、畿内説に基づく倭迹迹日百襲姫命 が有力とされている。他には、九州王朝説に依拠した宇那比姫 説、北陸王朝説に依拠した能登比咩 説などの説がある。また、日本書紀においては神功皇后紀に魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事が引用されていることから、神功皇后を卑弥呼だと想定して記されているものだと考えられる。
(※44)侏儒の国
侏儒はこびとのこと。『山海経』にも東方の海に「小人国」という国が存在するとの記述がある。
(※45)裸の国
呂氏春秋や淮南子にも記述がある。淮南子によれば、東方に存在する羽の生えた羽民の国と南方にある不死の国の近くにあるという。呂氏春秋によれば、夏王朝の始祖である禹王が訪れたとされ、その際には現地の風習を尊重して王が自ら裸になって入国したという。
(※46)難升米
日本書紀の神功皇后紀の引用では、難斗米と表記されている。近江国風土記に登場する梨津臣命(なしつおみ)とする説がある。中臣氏(後の藤原氏)の祖。
(※47)都巿牛利
丹波県主の由碁理に比定する説がある。開化天皇の妃である竹野媛の父親。
(※48)金印紫綬、銀印青綬
皇帝の臣下に配布される印綬。漢王朝の代には、中国内の太子や諸王には金印朱綬、列侯将相や中国外の諸王には金印紫綬、御史大夫以下には銀印青綬を配布した。
(※49)率善中郎將、率善校尉
ともに比二千石。官秩は郡守に相当。
(※50)絳地交龍錦
深紅の布地に二頭の龍を織り出した錦。
(※51)裴松之
中国の東晋末から南朝宋にかけての史官。三国志の註釈を付けたことで有名。
(※52)漢文帝
前漢五代皇帝。劉邦の四男である。
(※53)皁衣
栗染めの衣服。黒衣。
(※54)弋綈
黒色に染められた上着のこと。
(※55)魏朝
魏王朝のこと。改めて確認するが、魏志倭人伝は三国志における魏王朝の記述である。
(※56)絳地の縐粟罽、蒨絳、紺地句文錦、細班華罽
絳地の縐粟罽は、深紅の布地に細密な添毛の小紋を織り出した毛織物。蒨絳は、茜色に染めた平織の帛。紺地句文錦は、紺地に曲線文を織り出した錦。細班華罽は、細密のまだらの華文を織り出した毛織物。
(※57)建中校尉の梯俊等
建忠校尉の誤記と推測される。また、日本書紀の神功皇后紀での引用では、建忠校尉と記されている。
(※58)大夫の伊聲耆、掖邪狗
伊聲耆、掖邪狗というふたりの人物とする説、伊聲耆掖邪狗という名前とする説、伊聲耆という官号と掖邪狗という名とする説がある。
(※59)黄幢
黄色い軍旗(幢)。黄色は皇帝の色を表現し、中国の正規軍であることを示す。魏の後ろ盾が存在することを諸国に示すための表示となったものだと考えられる。
(※60)卑弥弓呼
卑弥呼に敵対した男王とされ、『卑弥」の呼称が被っている。
(※61)載斯と烏越等
載斯と烏越というふたりの人物とする説、載斯烏越という名とする説、載斯という官号と烏越という名とする説がある。ちなみに、載斯烏越の読みには、スサノオとする説や、タケウチとする説もあるが、強引だと思う。
(※62)塞曹掾史
後漢書にある諸曹掾史のひとつだと思われる。属国の警備にあたる役職。
(※63)卑彌呼が死んだ際には、大きな塚を作り、直径は百步余り、殉葬された者は奴婢百人余り。
倭迹迹日百襲姫命の陵墓である箸墓古墳の直径と一致するため、卑弥呼を百襲姫に比定する材料のひとつとされる。箸墓古墳は奈良県桜井市箸中にある。弥生時代から古墳時代に以降する過渡期の墳丘墓で、最古級の古墳とされる。
(※64)壹與
後年に編纂された梁書倭国伝や北史倭国伝では、臺與 と記されており、こちらが現在では通説となっている。ここでの読み仮名は三国志本文の読みに倣った。壹與 という読みは、独特の音の響きから漫画などの創作において人気が高い。日本の史書における人物への比定には、卑弥呼を誰とするかによって諸説ある。倭迹迹日百襲姫命 を卑弥呼とすれば、その姪孫である豊鍬入姫命 、神功皇后に比定する場合には、その妹の豊姫に当てられる。また、高天原 において天照大御神 が天岩戸 に籠り、神々の祭囃子に応じて出でた死と再生の故事を卑弥呼の死と壱与(台与)の誕生の事跡に擬えたものだとする説が知られている。
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