【本文】 [王氏]
【本文】 【註】
【本文】 【註】
【疏】 [白虎通] この言葉はまったくもって君子のものである。君子の行いは一に非ずして、それが一つの行いである。
【注】 『時』とは、学んだことを時節に応じ、それを誦習することについてである。 二.年中の時 三.日中の時
【注】
【注】 いずれにせよ、もし愚鈍であるがゆえに理解ができない人がいたとしても、君子はそれを許容し、憤怒することはない。 |
≪原文≫
子曰、學而時習之。不亦說乎。
馬曰、子者、男子之通稱、謂孔子也。
王曰、時者、學者以時誦習之。
誦習以時、學無廢業。
所以為說懌。
有朋自遠方來。不亦樂乎。
包曰、同門曰朋。
人不知而不慍。不亦君子乎。
慍、怒也。
凡人有所不知、君子不怒。
疏。子曰學而至君子乎。
正義曰、此章勸人學為君子也。
子者、古人稱師曰子。子、男子之通稱。
此言子者、謂孔子也。
曰者、說文云、詞也。
從口、乙聲。亦象口氣出也。
然則曰者、發語詞也。
以此下是孔子之語、故以子曰冠之。
或言孔子曰者、以記非一人、各以意載、無義例也。
白虎通云、學者、覺也。覺悟所未知也。
孔子曰、學者而能以時誦習其經業、使無廢落、不亦說懌乎。
學業稍成、能招朋友、有同門之朋從遠方而來、與已講習、不亦樂乎。
既有成德、凡人不知而不怒之、不亦君子乎。
言誠君子也。君子之行非一、此其一行耳、故云亦也。
注、馬曰子者至說懌。
正義曰、云子者、男子之通稱者、經傳凡敵者相謂皆言吾子、或直言子、稱師亦曰子、是子者、男子有德之通稱也。
云謂孔子者、嫌為他師、故辨之。
公羊傳曰、子沈子曰。
何休云、沈子稱子冠氏上者、著其為師也。
不但言子曰者、辟孔子也。其不冠子者、他師也。
然則書傳直言子曰者、皆指孔子、以其聖德著聞、師範來世、不須言其氏、人盡知之故也。
若其他傳受師說、後人稱其先師之言、則以子冠氏上、所以明其為師也、子公羊子、子沈子之類是也。
若非已師、而稱他有德者、則不以子冠氏上、直言某子、若高子、孟子之類是也。
云時者、學者以時誦習之者、皇氏以為、凡學有三時。
一、身中時。
學記云、發然後禁、則扞格而不勝。
時過然後學、則勤苦而難成。
故內則云、十年出就外傅、居宿於外、學書計。
十有三年、學樂、誦詩、舞勺。
十五成童、舞象。是也。
二、年中時。王制云、春秋教以禮樂、冬夏教以詩書。
鄭玄云、春夏、陽也。詩樂者聲、聲亦陽也。
秋冬、陰也。
書禮者事、事亦陰也。
互言之者、皆以其術相成。
又文王世子云、春誦、夏弦、秋學禮、冬讀書。
鄭玄云、誦謂歌樂也。
弦謂以絲播。
時陽用事則學之以聲、陰用事則學之以事、因時順氣、於功易也。
三、日中時。
學記云、故君子之於學也、藏焉、脩焉、息焉、遊焉。
是日日所習也。
言學者以此時誦習所學篇簡之文、及禮樂之容、日知其所亡、月無忘其所能、所以為說懌也。
譙周云、悅深而樂淺也。
一曰、在內曰說、在外曰樂。
言亦者、凡外境適心、則人心說樂。
可說可樂之事、其類非一、此學而時習、有朋自遠方來、亦說樂之事耳。故云亦。
猶易云、亦可醜也、亦可喜也。
注。包曰、同門曰朋。
正義曰、鄭玄注大司徒云、同師曰朋、同志曰友。
然則同門者、同在師門以授學者也。
朋即羣黨之謂。
故子夏曰、吾離羣而索居。
鄭玄注云、羣謂同門朋友也。
此言有朋自遠方來者、即學記云、三年視敬業樂羣也。
同志謂同其心意所趣鄉也。
朋疏而友親、朋來既樂、友即可知、故略不言也。
注慍怒至不怒。
正義曰、云凡人有所不知、君子不怒者、其說有二。
一云古之學者為已己、得先王之道、含章內映、而他人不見不知、而我不怒也。
一云君子易事、不求備於一人、故為教誨之道、若有人鈍根不能知解者、君子恕之而不慍怒也。
≪書き下し文≫
子曰く、學びて時に之れを習ふ。亦た說ばしからずや。
馬曰く、子は男子の通稱、孔子の謂なり。
王曰く、時、學は時を以て之れを誦習す。
誦習は時を以てす、學に廢業無し。
說懌と為すの所以なり。
朋有り遠方より來たる。亦た樂しからずや。
包曰く、同門曰く朋。
人知らずして慍みず。亦た君子ならずや。
慍は怒なり。
凡そ人知らざる所有り、君子怒らず。
疏。子曰學而至君子乎。
正義曰く、此の章は人に學を勸め君子と為すなり。
子は古人師を稱して曰く子。子は男子の通稱なり。
此言の子、孔子を謂ふなり。
曰は說文に云ひて、詞なり。
口に從ひ、聲を乙す。亦た象口氣出ずるなり。
然るに則ち曰は發語の詞なり。
此下是れを以て孔子の語、故に子曰を以て之れを冠す。
或ひは孔子曰を言ふに、一人に非ざるを記すを以て、各の意を以て載き、義例無し。
白虎通云く、學は覺なり。覺悟未だ知らざる所なり。
孔子曰く、學者は時を以て其の經業を誦習するに能ひ、廢落すること無くして、亦た說懌せしめざらんや。
學業稍成し、朋友を招くに能ひ、同門の朋有り遠方より從ひて來たり、已と講習す、亦た樂しからずや。
既に成德有り、凡そ人知らずして之れを怒らず、亦た君子ならずや。
言誠に君子なり。君子の行一に非ずして、此れ其の一行なり。
故に亦と云ふなり。
注。馬曰く、子は說懌に至る。
正義曰く、子、男子の通稱を云ふ。
經傳凡そ敵ふ者を相ひ謂ひて皆吾子と言ひ、或いは子と直言し、師を稱して亦た曰く子。
是れ子は男子の有德の通稱なり。
孔子の謂と云ふは、他師を為すを嫌ひ、故に之れを辨ず。
公羊傳曰く、子沈子曰く、と。
何休云(いは)く、沈子子を氏上に冠して稱するは、其れ師を為すを著すなり。
但子と言わざりて曰ふは、孔子を辟くるなり。其れ子を冠せざるは、他師なり。
然るに則ち書傳に子と直言して曰ふは、皆孔子を指し、其の聖德を以て著聞し、來世を師範す。
其の氏を須ひず言うは、人盡く之れを知るが故なり。
若し其の他傳に師說を受け、後人其れ先師の言を稱し、則ち以て子氏上に冠するは、其の師を為すこと明らかなる所以なり。
子公羊子、子沈子の類ひは是れなり。
若し已が師に非ざれば、而るに他の有德者を稱す。
則ち氏上に冠することを以てせず、某子と直言す。若高子、孟子の類ひは是れなり。
時は學は時を以て之れを誦習するを云ひ、皇氏以為らく、凡そ學に三時有り。
一に身中の時。
學記云(いは)く、發して然る後に禁ずるは、則ち扞格にして勝たず、と。
時は過ぎて然る後に學べば、則ち苦を勤めて成り難し。
故に內則に云(いは)く、十年外傅に出就し、外に居宿し、書計を學ぶ。
十有三年、樂を學び、詩を誦し、勺を舞ふ。
十五の成童、象を舞ふとは、是れなり。
二に、年中の時。
王制に云(いは)く、春秋以て禮樂を教え、冬夏以て詩書を教ゆ。
鄭玄云(いは)く、春夏は陽なり。
詩樂は聲にして、聲は亦た陽ならんや。
秋冬は陰なり。
書禮は事にして、事も亦た陰ならんや。
互ひに之れを言ふは、皆其の術を以て相成る。
又た文王世子云(いは)く、春は誦し、夏は弦じ、秋は禮を學び、冬は書を讀む、と。
鄭玄云(いは)く、誦は歌樂の謂(いひ)なり。
弦は以絲播の謂ひなり。
時陽なれば事を用ひて則ち之れを學ぶに聲を以てし、陰なれば事を用ひて則ち之れを學ぶに事を以てす。
時に因りて氣に順ずるは、功易に於いてなり。
三、日中の時なり。
學記に云(いは)く、故に君子の之れ學に於けるや、藏るか、脩むるか、息するか、遊ぶか。
是れ日日習ふ所なり。
學を言ふは此の時を以て篇簡の文を學ぶ所を誦習し、禮樂の容に及ぶ。
日に其の亡ぶ所を知り、月に其の能ふ所を忘るること無し、說懌を為す所以なり。
譙周云(いは)く、悅深くして樂淺かりしなり。
一に曰く、內に在りて曰く說、外に在りて曰く樂。
亦を言ふは、凡そ外境心に適ふ、則ち人心說樂するなり。
說ぶ可き樂しむ可きの事、其れ類一に非ず、此の學びて時に習ひ、朋有り遠方より來たる、亦た說樂の事か。故に亦と云ふ。
猶ほ易に云(いは)く、亦た醜(にく)む可きなり、亦た喜ぶ可きなり、と。
注。包曰、同門曰朋。
正義曰く、鄭玄大司徒に注して云く、同師曰く朋、同志曰く友。
然るに則ち同門、同じく師門に在りて以て學を授く者なり。
朋は即ち羣黨の謂。
故に子夏曰く、吾羣を離れて居を索る、と。
鄭玄注に云(いは)く、羣は同門の朋友を謂ふなり。
此の言朋有り遠方より來たるは、即ち學記に云ふ、三年業を敬し羣を樂しむを視るなり。
同志は其の心意鄉を趣く所を同じくするの謂ひなり。
朋疏にして友親しみ、朋來たりて既に樂しみ、友は即ち知る可し、故に略して言わざるなり。
注慍怒至不怒。
正義曰く、凡そ人知らざる所有り、君子怒らずと云ふは、其の說二有り。
一に云く古の學者已己を為し、先王の道を得、含章內映し、而るに他人見ず知らずして我怒らざるなり。
一に云く君子は事を易へ、一人に備はるを求めず、故に教誨(きょうかい)の道を為す。
若し人鈍根にして知解に能わざる者有れども、君子之れを恕(ゆる)して慍怒せざるなり。