【本文】 子曰く、千乘の國を道(みちび)くには、 【註】 [馬氏] 道は政教を為すことである。 [司馬法] 六尺=步 成の地を有する者には、徴兵に際して革車一乘の徴発が割り当てられる。 [包氏] 道は治である。 [何晏] 馬融は周禮を根拠とし、包氏は王制と孟子を根拠としており、語義には疑わしい点が残る。ゆえに両方を記載する。 【本文】 事に敬して信、 【註】 [包氏] 国家を運営するには、事業を始めるには敬慎でなくてはならず、民衆に協力を仰ぎたいなら誠信でなくてはならない。 【本文】 用を節して人を愛す、 【註】 [包氏] 用を節制すれば、奢侈にはならない。 【本文】 民を使ふに時を以てす。 【註】 [包氏] 民衆を使役するならば、その時節に応じたものでなくてはならず、農務を妨害するようなことがあってはならない。 【疏】 子曰道至以時。 [正義] この章では大国を統治する方法を論じる。 包氏は、道という字を統治であると考えた。 (以下、馬氏と同文) 【注】 馬曰道至存焉。 [正義] 論語為政篇に、「子曰く、之れを道(みちび)くには政を以てし」とある。 「よって、革車千乘が割り当てられるのは千成の地を統治する国である」について。 「農耕地を含む方三百一十六里の地」について。 「公侯として封ぜられた者だけである」について。 「いかに大國に割り当てられたものであろうと、これ以上であることはない」について。 一つの語が二つの単位として用いられている理由について。 包氏の「道は治である」について。 「千乘の國とは百里の國である」について。 「馬融は周禮を根拠とし、包氏は王制と孟子を根拠としている」について。 「語義には疑わしい点が残る」「ゆえに両方を記載する」について。 【注】 包曰作使至農務 [正義] 「民衆を使役するならば、その時節に応じたものでなくてはならない」とは、都邑城郭の建築に関する話である。 王制に「民の力を用いるにあたっては、一年につき三日を超過しないように」とある。 |
≪白文≫
子曰、道千乘之國、
馬曰、道謂為之政教。
司馬法、六尺為步。
步百為畝。畝百為夫。
夫三為屋。
屋三為井。
井十為通。
通十為成。
成出革車一乘。
然則千乘之賦、其地千成。
居地方三百一十六里有畸、唯公侯之封乃能容之。
雖大國之賦亦不是過焉。
包曰、道、治也。
千乘之國者、百里之國也。
古者井田、方里為井。
十井為乘、百里之國、適千乘也。
融依周禮、包依王制孟子、義疑。
故兩存焉。
敬事而信、
包曰、為國者、舉事必敬慎、與民必誠信。
節用而愛人、
包曰、節用、不奢侈。
國以民為本、故愛養之。
使民以時。
包曰、作使民、必以其時、不妨奪農務。
疏。
子曰道至以時。
正義曰、此章論治大國之法也。
馬融以為、道謂為之政教。
千乘之國謂公侯之國、方五百里、四百里者也。
言為政教以治公侯之國者、舉事必敬慎、與民必誠信、省節財用、不奢侈、而愛養人民、以為國本、作事使民、必以其時、不妨奪農務。此其為政治國之要也。
包氏以為、道、治也。
千乘之國、百里之國也、夏即公侯、殷、周惟上公也。餘同。
注。
馬曰道至存焉。
正義曰、以下篇、子曰、道之以政。
故云、道、謂為之政教。
史記齊景公時有司馬田穰苴善用兵。
周禮司馬掌征伐。
六國時、齊威王使大夫追論古者兵法、附穰苴於其中、凡一百五十篇、號曰司馬法。
此六尺曰步、至成出革車一乘、皆彼文也。
引之者以證千乘之國為公侯之大國也。
云、然則千乘之賦、其地千成者、以成出一乘、千乘故千成。
云、居地方三百一十六里有畸者、以方百里者一、為方十里者百。
方三百里者、三三而九、則為方百里者九、合成方十里者九百、得九百乘也。
計千乘猶少百乘方百里者一也。
又以此方百里者一、六分破之、每分得廣十六里、長百里、引而接之、則長六百里、廣十六里也。
半折之、各長三百里、將埤前三百里南西兩邊、是方三百一十六里也。
然西南角猶缺方十六里者一也。
方十六里者一、為方一里者二百五十六、然曏割方百里者為六分、餘方一里者四百、今以方一里者二百五十六埤西南角、猶餘方一里者一百四十四、又復破而埤三百一十六里兩邊、則每邊不復得半里、故云三百一十六里有畸也。
云、唯公侯之封、乃能容之者、案周禮大司徒云、諸公之地、封疆方五百里。
諸侯之地、封疆方四百里。
諸伯之地、封疆方三百里。
諸子之地、封疆方二百里。
諸男之地、封疆方百里。
此千乘之國居地方三百一十六里有畸、伯、子、男自方三百而下則莫能容之。
故云、唯公侯之封、乃能容之。
云、雖大國之賦亦不是過焉者、坊記云、制國不過千乘。
然則地雖廣大、以千乘為限。
故云、雖大國之賦亦不是過焉」。
司馬法、兵車一乘、甲士三人、步卒七十二人、計千乘有七萬五千人、則是六軍矣。
周禮大司馬序官、凡制軍、萬有二千五百人為軍。
王六軍、大國三軍、次國二軍、小國一軍。
魯頌·閟宮云、公車千乘。
明堂位云、封周公於曲阜、地方七百里、革車千乘、及坊記與此文、皆與周禮不合者。
禮、天子六軍、出自六鄉。
萬二千五百家為鄉、萬二千五百人為軍。
地官小司徒云、凡起徒役、無過家一人。
是家出一人、鄉為一軍、此則出軍之常也。
天子六軍、既出六鄉、則諸侯三軍、出自三鄉。
閟宮云、公徒三萬者、謂鄉之所出、非千乘之眾也。
千乘者、自謂計地出兵、非彼三軍之車也。
二者不同、故數不相合。
所以必有二法者、聖王治國、安不忘危、故今所在皆有出軍之制。
若從王伯之命、則依國之大小、出三軍、二軍、一軍也。
若其前敵不服、用兵未已、則盡其境內皆使從軍、故復有此計地出軍之法。
但鄉之出軍是正、故家出一人、計地所出則非常、故成出一車。
以其非常、故優之也。
包曰、道、治也者、以治國之法、不惟政教而已。
下云、道之以德、謂道德、故易之、但云、道、治也。
云千乘之國、百里之國也者、謂夏之公侯、殷、周上公之國也。
云古者井田、方里為井者、孟子云、方里而井、井九百畝、是也。
云、十井為乘、百里之國適千乘也者、此包以古之大國不過百里、以百里賦千乘、故計之每十井為一乘、是方一里者十為一乘、則方一里者百為十乘、開方之法、方百里者一為方十里者百。
每方十里者一為方一里者百、其賦十乘。
方十里者百、則其賦千乘。
地與乘數適相當、故曰、適千乘也。
云、融依周禮、包依王制、孟子者、馬融依周禮大司徒文、以為諸公之地方五百里、侯四百里以下也。
包氏依、王制云、凡四海之內九州、州方千里、州建百里之國三十、七十里之國六十、五十里國百有二十、凡二百一十國也。
又孟子云、天子之制地方千里、公侯之制皆方百里、伯七十里、子、男五十里。
包氏據此以為大國不過百里、不信周禮有方五百里、四百里之封也。
馬氏言名、包氏不言名者、包氏避其父名也。
云義疑、故兩存焉者、以周禮者、周公致太平之書、為一代大典王制者、漢文帝令博士所作、孟子者、鄒人也、名軻、師孔子之孫子思、治儒術之道、著書七篇、亦命世亞聖之大才也。
今馬氏、包氏各以為據、難以質其是非、莫敢去取、於義有疑、故兩存其說也。
包曰作使至農務
正義曰、云作使民、必以其時者、謂築都邑城郭也。
以都邑者、人之聚也、國家之藩衞、百姓之保障、不固則敗、不脩則壞、故雖不臨寇、必於農隙備其守禦、無妨農務。
春秋莊二十九年左氏傳曰、凡土功、龍見而畢務、戒事也。
注云、謂今九月、周十一月。
龍星角亢、晨見東方、三務始畢、戒民以土功事。
火見而致用、注云、大火、心星、次角、亢、見者致築作之物。
水昏正而栽、注云、謂今十月、定星昏而中、於是樹板幹而興作。
日至而畢、注云日南至、微陽始動、故土功息。
若其門戶道橋城郭牆壍有所損壞、則特隨壞時脩之、故僖二十年左傳曰、凡啟塞從時、是也。
王制云、用民之力、歲不過三日。
周禮均人職云、凡均力政、以歲上下。
豐年則公旬用三日焉、中年則公旬用二日焉、無年則公旬用一日焉。
是皆重民之力而不妨奪農務也。
≪書き下し文≫
子曰く、千乘の國を道(みちび)くには、
馬曰く、道は謂ひて之れを政教と為す。
司馬法、六尺を步と為す。
步百を畝と為す。畝百を夫と為す。
夫三を屋と為す。
屋三を井と為す。
井十を通と為す。
通十を成と為す。
成は革車一乘を出ずる。
然るに則ち千乘の賦、其の地千成なり。
地方三百一十六里に居し畸有るは、唯だ公侯の封、乃ち之れ容るに能ふ。
大國の賦と雖も、亦た是れに過ぐることあらざらんや。
包曰く、道、治なり。
千乘の國は、百里の國なり。
古くは井田、方里を井と為す。
十井を乘と為し、百里の國、千乘に適ふなり。
融は周禮に依り、包は王制孟子に依るも、義疑はし。
故に兩を存せん。
事に敬して信、
包曰く、國を為す者、事を舉ぐるに必ずや敬慎、民と與すに必ずや誠信なり。
用を節して人を愛す、
包曰く、用を節し、奢侈ならず。
國は民を以て本と為す。
故に愛し之れを養ふ。
民を使ふに時を以てす。
包曰く、使民を作さば、必ずや其の時を以てし、農務を妨奪せず。
疏。
子曰道至以時。
正義曰く、此の章は大國を治の法を論ずるなり。
馬融以為(おもへ)らく、道は謂ひて之れ政教を為す、と。
千乘の國を公侯の國と謂ひ、方五百里、四百里なり。
政教を為すに公侯の國を治むるを以てすると言ふは、事を舉げては必ずや敬慎、民と與に必ずや誠信、財用を省節し、奢侈ならずして愛して人民を養ひ、以て國本を為し、事を作すに民を使ふは、必ずや其の時を以てし、農務を妨奪せず。此れ其の為政治國の要(かなめ)なり。
包氏以為(おもへ)らく、道は治なり、と。
千乘の國、百里の國なれば、夏は即ち公侯、殷、周惟だ上公なり。餘同じ。
注。
馬曰道至存焉。
正義曰く、以下の篇、子曰く、之れを道(みちび)くには政を以てし、と。
故に云(いは)く、道は謂ひて之れ政教と為さん、と。
史記齊景公の時、司馬田穰苴善く兵を用ふること有り。
周禮に司馬は征伐を掌ふ、と。
六國の時、齊の威王は大夫をして古者の兵法を追論せしめ、穰苴を其の中に附し、凡そ一百五十篇、號して曰く司馬法。
此れ六尺曰く步より成革車一乘を出ずるに至るは、皆彼の文なり。
之れを引くは、以て千乘の國は公侯の大國と為すを證するなり。
然るに則ち千乘の賦、其の地千成と云ふは、成一乘を出ずるを以て千乘、故に千成なり。
地方三百一十六里に居して畸有りと云ふは、方百里の一を以て、方十里の百を為す。
方三百里は、三三して九、則ち方百里は九と為し、合はせて方十里を九百と成し、九百乘を得るなり。
計千乘、猶ほ百乘方百里少なきは一なり。
又た此の方を以て百里は一、六分して之れを破り、每分廣十六里を得、長百里、引きて之れを接がば、則ち長六百里、廣十六里なり。
之れを半折し、各の長三百里、將に前三百里南西兩邊、是の方三百一十六里に埤(あ)たらんや。
然るに西南角猶ほ方十六里缺くるは一なり。
方十六里は一、方一里は二百五十六と為し、然るに曏(むか)ひて方百里を割るは六分を為し、方一里の餘りは四百、今以て方一里は二百五十六西南角に埤たり、猶ほ方一里の餘りは一百四十四、又た復び破りて三百一十六里の兩邊に埤たるは、則ち每邊復び半里を得ず、故に三百一十六里畸有りと云ふなり。
唯だ公侯の封乃ち之れを容れるに能ふと云ふは、周禮大司徒を案じて云(いは)く、諸公の地、方五百里を封疆す。
諸侯の地、方四百里を封疆す。
諸伯の地、方三百里を封疆す。
諸子の地、方二百里を封疆す。
諸男の地、方百里を封疆す。
此れ千乘の國地方三百一十六里に居し畸有るは、伯、子、男、方三百より下は則ち之れを容れるに能ふこと莫し。
故に云く、唯だ公侯の封、乃ち之れに容るに能ふ、と。
大國の賦と雖も亦た是れ過ぎずとは、坊記に云く、制國千乘に過ぎず、と。
然るに則ち地は廣大と雖も、以て千乘を限りと為す。
故に云く、大國の賦と雖も亦た是れ過ぎず、と。
司馬法、兵車一乘、甲士三人、步卒七十二人、計千乘に七萬五千人有り、則ち是れ六軍なり。
周禮大司馬の序官、凡そ制軍、萬二千五百人を軍と為す。
王六軍、大國三軍、次國二軍、小國一軍なり。
魯頌閟宮に云く、公車は千乘なり、と。
明堂位に云く、周公は曲阜に封ぜられ、地は方七百里、革車は千乘、及び坊記と此の文、皆周禮と合わざる者なり。
禮、天子六軍、六鄉より出ずる。
萬二千五百家を鄉と為し、萬二千五百人を軍と為す、と。
地官小司徒云く、凡そ徒役を起こすは、家一人に過ぎること無し。
是れ家一人を出し、鄉を一軍と為すは、此れ則ち出軍の常なり。
天子六軍、既に六鄉を出し、則ち諸侯三軍、三鄉より出る。
閟宮云く、公徒三萬は、鄉の出る所を謂ひ、千乘の眾に非ざるなり。
千乘は、計地出軍より謂ひて、彼の三軍の車に非ざるなり。
二者同じからず、故に數は相ひ合はず。
必ず二法有る所以の者、聖王國を治め、安んずるも危を忘れず、故に今所在は皆出軍の制に有り。
若し王伯の命に從はば、則ち國の大小に依り、三軍、二軍、一軍を出ずるなり。
若し其の前の敵服せず、兵を用ひて已まざるは、則ち其の境內を盡し皆で軍を從はせしめ、故に復た此の計地出軍の法有り。
但し鄉の出軍は是正し、故に家は一人を出だし、出ずる所の地を計るは則ち常に非ず、故に成は一車を出ずる。
其の非常を以て、故に之れに優るなり。
包曰く、道は治なりは、以て治國の法、惟だ政教のみにあらず。
下云く、之れを道びくに德を以てするは、道德を謂ふ、故に之れに易へ、但た云く、道は治なり、と。
千乘の國、百里の國なりと云ふは、夏の公侯、殷、周上公の國を謂ふなり。
古者の井田、方里を井と為すと云ふは、孟子云く、方里而して井、井は九百畝、是れなり。
十井を乘と為し、百里の國は千乘に適ふなりと云ふは、此れ包は以て古の大國は百里を過ぎず、以て百里は千乘を賦す、故に之れを計りて每十井を一乘と為し、是れ方一里は十を一乘と為し、則ち方一里は百を十乘と為し、方の法を開けば、方百里は一と方十里は百と為す。
每方十里は一と方一里は百と為し、其の賦は十乘なり。
方十里は百、則ち其の賦は千乘なり。
地と乘の數は相當に適ひ、故に曰く、千乘に適するなり。
融は周禮に依り、包は王制、孟子に依ると云ふは、馬融は周禮の大司徒の文に依り、以為らく諸公の地は方五百里、侯は四百里以下なり、と。
包氏は、王制に云ふ、凡そ四海の內は九州、州は方千里、州は百里の國を三十、七十里の國を六十、五十里の國を百有二十、凡そ二百一十國を建つるなり。
又た孟子云く、天子の制地は方千里、公侯の制皆方百里、伯七十里、子、男五十里に依る。
包氏此れに據り以為らく、大國は百里を過ぎず、周禮に方五百里、四百里の封有るを信じざるなり。
馬氏は名を言ひ、包氏は名を言はざるは、包氏其の父の名を避ければなり。
義疑はしき、故に兩を存ぜんかと云ふは、周禮を以ては、周公太平の書を致し、一代の大典たる王制を為すは、漢文帝博士をして作させしむる所、孟子は、鄒人なり、名を軻、孔子の孫子思を師とし、儒術の道をめ治、著書七篇、亦た亞聖の大才を命世するなり。
今馬氏、包氏各おの據を以為らく、以て其の是非を質すは難く、義疑しきこと有るに於いて敢へて取るを去ること莫し。
故に其の說を兩存するなり。
包曰作使至農務
正義曰く、使民を作さば、必ずや其の時を以てすと云ふは、都邑城郭を築くことを謂ふなり。
以て都邑は、人の聚なるに、國家の藩衞にして、百姓の保障、不固なれば則ち敗れ、不脩なれば則ち壞るる、故に寇に臨まずと雖も、必ずや農隙に於いて其の守禦に備へ、農務を妨げること無し。
春秋莊二十九年左氏傳曰く、凡そ土功、龍見れて務めを畢(お)え、事を戒むるなり。
注に云く、今の九月、周は十一月と謂ふ。
龍星角亢、晨東方に見れ、三務始畢し、土功事ふるを以て民を戒む。
火見れて用を致す、注に云く、大火、心星、次角、亢、見るは築作の物を致す。
水昏正して栽く、注に云く、今の十月を謂ひ、星昏定まりて中り、是れに於いて樹板幹して興作す。
日畢えるに至って、注に云く日南至り、微かに陽は始動し、故に土功息す。
若し其の門戶の道橋城郭牆壍損壞する所有らば、則ち特に壞時に隨ひ之れを脩む、故に僖二十年左傳曰く、凡そ啟塞は時に從ふは、是れなり。
王制に云く、民の力を用ふるは、歲には三日を過ぎず。
周禮均人職に云く、凡く力政を均くするは、歲を以て上下す。
豐年は則ち公には旬しく三日を用ひ、中年則ち公には旬しく二日を用ひ、年無ければ則ち公には旬しく一日を用ふ。
是れ皆民の力を重じて農務を妨奪せざるなり。