新羅九州説?

 新羅があったのは日本列島の九州である――という説を思いついた。今思いついたわけではなく、三国史記を訳し始めたほとんど最初に思いついたことである。一番最初はまず「新羅の所在は琉球である」という『新羅琉球説』が思い浮かんだのだけど、考察を重ねた結果、より蓋然性の高い『新羅九州説』に行きついた。あー、今こいつ頭おかしいって思っただろ。私は正気だ。

 朝鮮半島初の統一国家であるはずの新羅が日本列島の九州にある……そりゃあ、これだけ読んだら自分でも発狂しているとしか思えないのだけど、それが一度自分の脳裏をよぎってしまったのは事実であり、ないものにはできない。どのみち、天は見ている。然らば、なぜこんなメチャクチャな説を私が思いついたのか、それについて論じる義務があるのではないか。そんな気がする。

 発端は新羅本紀第一巻の冒頭も冒頭、次に転載する始祖朴赫居世の出自に関する記述である。

 始祖、姓は朴氏、諱は赫居世である。前漢孝宣帝五鳳元年甲子、四月丙辰(一説には正月十五日)に即位し居西干を號した。当時、年齢は13歳。国号は徐那伐とした。
 もともと辰韓の遺民は山谷の間に分居し、六つの村を形成していた。

 注目してほしいのは、『国号は徐那伐とした(國號徐那伐)』の部分である。 この国号『徐那伐』は、現代韓国語ではハングルで『서나벌』と表記し、これを日本語で発音表記すると『ソナボル』といったところである。これは韓国の首都『ソウル(서울)』の語源であるとも言われている。

 しかし、韓国語ではそう読むのかもしれないけど、日本語で『徐那伐』を素直に読むと『ジョナバツ』だろう。さて、日本語圏で生活をしてきた人がこの音を聞いて真っ先に思い浮かべるものは何だろうか。私は『與那覇(ヨナハ)』であった。與那覇とは、沖縄県の地名及び沖縄に多い苗字である。
 『徐』のつくりは『余』であり、『ヨ』と読む。『徐那伐』を日本語でそのまま『ヨナバツ』と読むこと自体、実はなんの問題もない。イタリア語で『JO』が『ヨ』と発音されるように、『ジョ』と『ヨ』に転じやすい音である。こうなれば『伐』が『バツ』か『ハ』かといった程度のことは、音記のズレとして処理できるだろう。

 新羅の最初の国号『徐那伐』って琉球っぽくない? これが今回論じる『新羅琉球説』および『新羅九州説』の出発点である。この時点では、そりゃ思い付きは思い付きだけど、正気のままで十分思い浮かぶ程度のことだと思う。邪馬台国だって九州か畿内かで争って、細かい地名でどうだこうだと云々しているけど、あのレベルの議論をこちらに持ち込めば、これも十分に検討するに値するテーマになるはずである。というより、なってしまう。私だってこんな気の狂ったような珍説を唱えたくて唱えているわけではない。
 というか、気の狂ったようなおかしな珍説自体は結構唱えてて愉しいから唱えてもいい。でも、この仮説はヘタしたらド直球に大日本帝国の朝鮮侵略正当化に用いられたイデオロギー『日鮮同祖論』に直結するから、さすがに慎重に論じたいテーマだし、遊び半分で話すには抵抗がある。気の狂ったのような珍説を唱える自由は擁護するし、私自身そういった説を唱えるのは面白いと思うけど、ここではそういった問題ではなく、人道上の問題が発生する。

 とはいえ、だ。誰かが言わねばならないなら、私が言わねばなるまい。そもそも、三国史記を全訳しようなどと自発的に思い立って実行する人が日本に私以外ほとんどまったくいないから誰も唱えていないだけで、日本全国みんなが三国史記を訳し始めたらそれなりの人数が新羅琉球説や新羅九州説を思い浮かべるはずだと思う。冗談ではなく、まじめに。だって、『徐那伐』って字面見て『與那覇』を連想するの、なにもおかしくなくない? そして、『與那覇』は琉球の地名及び苗字である。だから、新羅の国号『徐那伐』は琉球のことだった! という説が連想されるのは、むしろ正気な証拠だ。

 話を進める。『徐那伐』を『ヨナバツ』と読み、『琉球っぽさ』を感じて思案した際、『與那覇』よりもっと近い発音の地名があると気づいた。それは『与那原(ヨナバル)』である。沖縄県には与那原町という町がある。『徐那伐(ヨナバツ)』と『与那原(ヨナバル)』……もはや日本語での発音は一字違いである。その一字も母音が一致。ここまでくれば、音記のズレも極小であり、偶然の一致というにもあまりに出来過ぎである。

 どうだろうか、だんだんそれっぽい話になってきたと感じられないだろうか。新羅琉球説……いける! 個人的にはいきたくないんだけど。
 琉球も大日本帝国の植民地主義によって併合され、現在もアメリカの軍基地を多数置かれており、琉球民族が独立民族かどうかについても現在の政治にも繋がる議論でもあり、こちらも遊び半分で論じるには抵抗がある。朝鮮に加えて琉球まで巻き込むのは、本当に勘弁したいところだ。そもそも、さすがに琉球と朝鮮は遠すぎでしょ?

 というわけで、私が『新羅琉球説』から『新羅九州説』という、より蓋然性の高い(?)仮説を導き出したきっかけについて論じよう。まず、お手元のパソコンで『ヨナバル』で変換してほしい。そうすると、『与那原』以外にもうひとつの地名が候補に挙がる。それが『米原』である。『米原』と書いて『ヨナバル』と読むのは、九州は熊本県山鹿市菊鹿町米原である。米原長者(よなばるちょうじゃ)という民話も存在し、なにやら製鉄と関わる逸話であると民族学者の柳田邦男が論じているらしい。日本の製鉄は朝鮮半島から伝わったと言われている。確かに、琉球の『与那原(ヨナバル)』が『徐那伐(ヨナバツ)』という説は朝鮮から距離がありすぎておかしいと思われるかもしれない。しかし、この『米原(ヨナバル)』が『徐那伐(ヨナバツ)』だったらどうだろうか。琉球は確かに朝鮮から遠いが、九州は非常に近い。新羅は日本列島の九州であり、ソウルは本来熊本県米原にあった。これではどうか。ちょっとくらい信憑性も上がったのではないか。

 しかし、こんな話ばかりしていると、「朝鮮の地名を日本語の観点ばかりから論じて、執拗に初の統一朝鮮王朝といわれる新羅を日本国内にあったと主張して、お前は日鮮同祖論を復活させて大日本帝国の植民地主義を正当化したいのか?」とでも言われてしまいそうである。というか、他人がこんなことをしていたら私が真っ先にそれを疑う。こいつネトウヨなんじゃねーのかって思うよ、ホント。

 もちろん、大日本帝国の朝鮮併合を肯定したいのかという部分については否定するけど(っていうか、むしろ逆だし……)、なんで朝鮮の歴史書について論じているのに日本語の読みでしか考えてねーんだというご意見はごもっともで、実際日本語読みの『ヨナバツ』と『ヨナバル』は似ていても、韓国語読みの『ソナボル』『ソウル』と『ヨナバル』はあんまり似ていない。ここは朝鮮側の意見及び朝鮮語からのアプローチを対照してみよう。ただ、私は朝鮮語はさっぱりわからないので、ここでは日本語訳された朝鮮人学者による研究内容を以下に引用し、それに基づいて論じる。

 徐羅伐は辰韓六部(新羅六部)の総称でなく、六部の中の一つである沙梁部である。新羅(신라; シルラ)や沙梁(사량; サリャン)は全て「새라; セラ」と読むべきものであり、「セラ」は川水の名なので、「セラ」の上にあることから「セラ」と称したものであり、沙梁(사량; サリャン)は「沙喙(사훼; サフェ)」(真興王碑文に見える)とも記録し、「サフェ」は「새불; セブル」なので、同じく「セラ」の上にある「불; プル」(들판; トゥルパン:野原)であるために称した名である。『三国史記』新羅本紀に、新羅が初めて「徐羅伐(서라벌; ソラボル)」としたが、「ソラボル(서라벌)」は「새라불; セラプル」と読むべきものなので、同じく「セラ」の「プル(原)」という意味である。高墟村は即ち沙梁部なので、蘇伐公の「蘇伐(소벌; ソボル)」は、同様に「사훼; サフェ」と同じく「セブル」とも読むべきものであって、地名であり、公は尊称であるので、セブルの自治会の会長であることから、「セブル公」と言ったのである。言うなれば、蘇伐公は即ち高墟村長だという意味であるのに、まるで人の名前のように書くのは、歴史家が間違って記録したものである。セラ部長蘇伐公の養子である朴赫居世居西干が六部の総王となったことから、国の名を「セラ」とし、吏読字で「新羅」と書いたのである。

 これは申采浩『朝鮮上古史』の日本語訳からの引用である。というか、Wikipediaの『徐羅伐』の記事からの引用である。

 さて、ここで注目したいのは、『三国史記』新羅本紀に、新羅が初めて「徐羅伐(서라벌; ソラボル)」としたが、「ソラボル(서라벌)」は「새라불; セラプル」と読むべきものなので、同じく「セラ」の「プル(原)」という意味である。の部分である。申采浩は『徐羅』を『セラ』と読むべきであるとしているが、そもそも三国史記新羅本紀においては『徐那伐』と記述されており、この部分の解釈は一旦置いておく。今回特に注目しなくてはならないのは、『伐』=『原』としていることである。『米原』の『原』と『徐那伐』の『伐』が同じ意味で、更には古代朝鮮語に同じ発音で同じ意味の語『プル(ブル)』であったとここでは論じられているのだ。古代朝鮮新羅語でも『伐』=『原』であるならば、これはむしろ『米原』=『徐那伐』という仮説を証明する根拠のひとつとなりえる。

 更に追加で論じよう。仮に『徐那伐』を『徐羅伐』とし、『セラ(新羅)のプル(原)』であるすれば、『徐羅伐』に相当する地名が熊本県の『米原』ではなく、福岡県の『白木原(しらきばる)』かもしれない。こちらも九州である。『白木原』は『シラ(キ)バル』として『セラブル』と十分音が似ているし、『新羅(しらぎ)』と『原(ばる)』が合わさった名であると解釈できる。ゆえに、『徐那伐』を『徐羅伐』と表記した上で、その読みに朝鮮語を採用したとしても「白木原こそ徐羅伐(=徐那伐)であり、九州が新羅であった」と主張できる。それに『米原』は熊本県であり九州中央部だけど、『白木原』は福岡なのでかなり北方、更に朝鮮半島と近い。

 ここで引用した申采浩は戦前の朝鮮独立運動家であり、朝鮮民族主義歴史学を提唱し、抗日運動においても暴力革命組織義烈団が発行する機関誌で暴力革命の重要性を訴えた、ゴリゴリにもうひとつゴリをつけてよいほどの朝鮮民族主義運動家である。まさかこの人物が大日本帝国の植民地主義を肯定するはずがあるまい。その人の学説に基づいても、むしろ新羅九州説を主張することができる、それどころか更に強化することができる……ということに不本意ながらなってしまう。
 これ、もう信憑性が邪馬台国釜山説くらいには到達してしまっているだろう。申采浩が伐=原を唱えていたことを知ったときなど、「まさかシラバルなんて地名が九州にあったりしないよな……」と思って検索したら福岡県の白木原がヒットしたときは、本当に驚いた。このままでは、本当に新羅が日本列島の九州だと証明されてしまうのではないか……。生涯初めて感じた危機意識である。

 ……とまあ、いろいろ言ってはみたけど、実際的に考えてみれば、『ヨナバル』には熊本県の『米原』と琉球の『与那原』が存在することからして、既に『ヨナバル』という地名自体は複数存在することが確認される。従って、新羅の最初の国号にして韓国の首都ソウルの『徐那伐』がもともと熊本県の『米原』と同音で語源を同じくしていたとしても、必ずしも熊本県の『米原』が新羅の『徐那伐』であることにはならない。常識的に考えて、新羅本紀が九州であるという説は随分ぶっ飛んだ話で、琉球と熊本で地名の一致が見られる以上、ソウルも同様に別場所で名前が一致したと考える方が蓋然性があると考えられれる。それは『白木原』と『徐羅伐』も同様であろう。日本全国にある『ヤマト』と発音するところすべてが邪馬台国のあった場所だと主張するようなもので、一地方の名前が一致する以上の証拠だけでは、新羅九州説は牽強付会な説であると評価せざる得ない。私自身、新羅九州説なんぞ本気で主張しているわけではない。

 しかし、である。新羅が九州ではないとしても、白木原や米原、与那原の件を見ての通り、これらがすべて九州及び琉球の地名であることを鑑み、また古朝鮮の『伐』が『原』と同音同意語であるとの説を省みれば、三国史記に登場する新羅・徐那伐が九州でないとしても、これらの名前の一致そのものまでただの偶然の一致と纏めるのは、それはそれで無理があるのではないか。かつての宮崎県知事も『東国原』と書いて『ヒガシコクバル』という姓であったが、これも同様であろう。日本全国に『米原』と書く地名は点在しているが、九州の外にあるものは『マイバラ』『マイハラ』『ヨネハラ』等であり、『原』を『バル』とは読まない。
 たとえ新羅が九州でないとしても(そんなのあたりまえだけど)、九州と新羅にはなにかゆかりがあるのではないか。その程度のことは考えを巡らせざる得ない。明治天皇替え玉説はさすがにないとしても、孝明天皇暗殺説は一考の余地があるのと似ている。いや、九州で『原』を『バル』と読むことと古代朝鮮で『原』と『伐』が同音同義語『ブル』であることの関連性は、孝明天皇暗殺説よりもはるかに蓋然性がある。これはまったくの「瓢箪から駒」というやつで、新羅が琉球だっただの九州だっただの、思い付きで書き綴っていた珍説を突き詰めていくと、十分考察に値するところにまで到達した。

 といったことを考えながらネットサーフィンをしていると、興味深いサイトに行きついた。というか、私が論じていることなんぞ、だいたいここに書いてある……。このサイトによれば、確認できる限り『原』を『バル』と読む日本の地名は100カ所近くあり、富山県の『針原』というたったひとつの例外を除いて、そのほぼすべてが九州および琉球に存在し、その中でも九州北部に集中している。今回最初に論じたのが琉球の与那原であったが、南方の方に『ばる』という地名が多いかと言えば、むしろ逆である。九州北部は朝鮮半島と非常に近く、邪馬台国九州説は畿内説とともに二大派閥であり、三国史記に頻出する倭人も、多くがこの九州北部を根城にしていたのではないだろうか。こうして考えてみると、九州北部と朝鮮南部で文化的共通点を持っていたことまでは了解できるのではないかと考えられる。実際、中国の史書でも、新羅を含む三韓は倭と文化や言語に共通点があったとの記述がある。新羅と邪馬台国がどちらも九州にあったなどという説は珍説であっても、新羅と倭が地理的にも文化的にも混交しており、ゆえに言語に共通点が多かったのではないかという仮説は、十分どころか十二分に成立する。

 といったところで、先ほどのサイトを見直してみると、同じような説を唱えた人はいたらしく、いや、私のような不学の輩による思い付きと異なり、非常に丹念な研究をした人物が過去にいたらしい。名を金沢庄三郎と言い、東洋における比較言語学の礎を築いたと言われる大学者が九州における『原=ばる(はる)』という読みが、古代朝鮮語の『伐』に由来すると論じているようである。おお、私の勘所と一致するではないか。                          

 と、喜んでばかりもいられない。というのも、大日本帝国の朝鮮半島併合に用いられた『日鮮同祖論』を最初に唱えた人物こそ、この金沢庄三郎であり、これは自身の唱えた『日韓両国語同系論』を発展させたものなのである。なんと、私が恐れていた日鮮同祖論への接近をド真ん中で撃ちぬいてしまう学説だったらしい。勘がよすぎるのも考え物だ。
 先ほどのサイトによれば、今日金沢庄三郎の『日韓両国語同系論』があまり知られていないのは、これが大日本帝国による植民地主義に利用されたことが原因であると考察できるとのこと。また、金沢のアイヌ語や琉球語を日本語と同様の類型を持つ言語として分析する学説は、アイヌや琉球を独立した民族として扱わない根拠としても用いられてきた。
 言語が共通性を持つからとて、民族が同じだとすることなどできはしないのだけど、たとえば言語学的研究の成果であったインド・ヨーロッパ語族アーリアン学説がイギリスによるインド植民地化に果たした役割や、その後に血統主義と結びついてナチズムのアーリア人至上主義を生み出したことを省みれば、こうした研究は非常にセンシティブなもので、政治的に強い意味を持つ。まったくもって注意せねばなるまい。                            

 ただ、近年のネトウヨは朝鮮への嫌悪を強めるあまり、どちらかといえば日鮮同祖論を否定する傾向が強いし、戦後左翼などには騎馬民族征服説などの日鮮同祖論の流れを汲む説を好んでいたものが多かったようにも思うけれども。最近は特に、リベラル派や左派などが日鮮同祖論的な論理展開を好むような気がしていたし、私自身なんとなく日本と朝鮮が共通の文化を有していたことなどの話を聞くと、韓国などに親近感を抱くことが多かったため、韓国などで日鮮同祖論が忌み嫌われていることを知った際は随分驚いたものである。(もちろん、日韓併合に結びついたことが理由であることはすぐに察しがついたが)
 私個人の見解としては、倭や高句麗などの古代国家がそもそも近代民族国家、領域国民国家のような領土概念を有していたとはまったく思えないし、朝鮮と日本なるものが成立したのが白村江の戦い以後であり、それ以前から朝鮮に住んで統一新羅などに所属していた人は倭人の出自であろうと朝鮮人だっただろうし、日本が成立した際にかかわった菅原氏などの朝鮮からの渡来人を古代日本人でないと認識すべきであるはずがないだろう。以後の移住者などについてはまた別の議論が起こりそうであるが、たとえば百済や倭に所属していた人たちは、その集団にアイデンティティがあったとしても、それが朝鮮半島や日本列島という領土へのアイデンティティだったのか、これが非常に怪しく、日本列島と朝鮮半島という領土に対する愛着を基調とする近代領域国民国家的民族概念との間に隔たりがある分、不毛な議論となることが多いのだと感じられる。日本と朝鮮とに国境がなかったとか、国境を意識せずに人の移動や文化言語の混交があったとするのは、日本列島と朝鮮半島のどちらの土地の領主がどちらの土地の領主を従えてたとか、そういう話ではなく、それらがシームレスであったとして考えるべきだと思うのだけど。日本と朝鮮において民族と土地が一致したものとしてアンデンティファイされたのは、新羅統一によって日本と朝鮮が成立した後に醸成された感覚ではないか。ゆえに同祖論という切り口のみで事を論じること自体が粗雑だと感じるし、そこから何を導き出すかが重要という認識だけど、このあたりは話が長くなるので、別稿にて。

 それにしても、九州で『原』を『バル』と読むことが、新羅で『伐』『原』を『ブル』『プル』と読んでいたことに通じるとすれば、現代日本語において一般に『原』を『はら』『ばら』と読むのも、その変形であると考えるべきだろう。してみれば、今日の日本で多くの地名、人名で用いられる『原』の『はら』『ばら』という読みが、古代朝鮮と通じ、更には韓国の首都ソウルの名とも通じていることにもなり、なんとも雄大なことである。                          


戻る