慕本王と武烈天皇

 三国史記での慕本王は、本紀の冒頭で暴君だったと述べられたにもかかわらず、その後何事もなかったかのようにまともな政治の記録が続き(困窮者に配給までしている)、終わり際になって唐突に慕本王が家臣を人間椅子にしたとか枕にしたとか、そういったおかしなエピソードが挿入され、最後に家臣に殺されて終わる。
 これ、なーんか裏がありそうな話で。

 これを訳しているとき、真っ先に思い出したのは武烈天皇である。
 以下は、日本書紀に記録された武烈天皇の記事。

≪原文≫
 二年秋九月、刳孕婦之腹而觀其胎。

≪書き下し文≫
 二年秋九月、孕婦の腹を刳きて其の胎を觀る。

≪現代語訳≫
 訳したくない。

≪原文≫
 三年冬十月、解人指甲、使掘暑預。

≪書き下し文≫
 三年冬十月、人の指甲を解きて、暑預を掘らせしむ。

≪現代語訳≫
 「暑預」は長芋のことであるとだけ書いておきます。こんなのどうやったら考え付くんだ……。

≪原文≫
 四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。

≪書き下し文≫
 四年夏四月、人の頭髮を拔き、樹巓を昇らせしめ、樹本を斮倒し、昇者の落死するを快と爲す。

≪現代語訳≫
 四年夏四月、人の頭髮を引き抜き、樹巓に昇らせたのちに樹を本から切り倒し、昇った者が落ちて死ぬのを眺めて快楽とした。

 ……あまりにひどい暴虐の記録。これに比べたら、慕本王など大したものではない。

 ところで、ありきたりな揶揄になってしまうが、竹田恒泰とかいう明治天皇の玄孫を称する右翼が「学校で日本書紀を教えるべきだ」と言っていたと思うのだけど、こんな話を教えちゃう気だろうか。
 そういえば、私は小学生のころに子供向けに翻案した古事記を読んだけれども、イザナミをイザナギがいきなり障碍者を海に流したり、黄泉平坂でイザナミが人を毎日100人殺すとか言い出したとき、イザナギが「じゃあ、俺は1000人子をつくる」とか言い出して、人の命ってそういうものじゃなくない? って子供心に思ったし、ちょっと本気でどうかと思ったんだけど……逆に愛国心削がれちゃわないだろうか。

 しかし、この武烈天皇に関する記録、実は正当性が疑われている。
 というのも、この天皇と次の継体天皇というのが結構いわくつきな人物なのだ。
 武烈天皇には子がおらず、親戚の子が後を継ぐしかなかった。それが継体天皇である。

 ここまではよくある話だけど、この継体天皇、なんと武烈天皇から10代前の応神天皇の5世下の子孫。200年以上前の天皇までさかのぼった遠戚である。さすがにちょっと血縁が遠すぎないだろうか。
 つまり、継体天皇は10代前の天皇の更に玄孫の子供だったわけで、4代前の天皇の玄孫(4世下)である竹田が次の天皇に即位するよりもはるかに遠いムチャな王位継承なのである。

 いくら武烈天皇に子がいなかったとして、これほど離れた親戚が即位するなど相当異常な事態だと想像できる。クーデターによって成立した王位だとしてもおかしくない。
 天皇の名前が「継体天皇」であることからも、体制の体裁だけを引き継いだ別の王朝が開かれたのではないか、その王朝交代の正当性のために武烈天皇が残虐な王であったという記録が残されたのではないか、そのように疑うことはできる。
 このあたり、私はあまり詳しくないが、実際「三王朝交代説」という武烈天皇から継体天皇への移行時に王朝交代が起こったという説は昔から唱えられているらしい。

 さて、翻って高句麗の慕本王を見てみよう。
 慕本王は二代前の大武神王の子であるが、跡を継いだのは子供ではなく、親戚の子であった太祖大王である。しかも、慕本王は自分の子がおり、既に太子として立てているにもかかわらず、子が王位を継がなかった、いや、継げなかったのである。

≪原文≫
 太祖大王、或云、國祖王、諱宮、小名於漱、琉璃王子古鄒加再思之子也。
 母太后扶餘人也。
 慕本王薨、太子不肖、不足以主社稷、國人迎宮繼立。
 王生而開目能視、幼而岐嶷。
 以年七歳、太后垂簾聽政。

≪書き下し文≫
 太祖大王、或いは云く、國祖王、諱は宮、小名は於漱、琉璃王の子古鄒加再思の子なり。
 母の太后は扶餘人なり。
 慕本王薨するも、太子不肖なるに、以て社稷の主に足らずとして、國人宮を迎へ繼立す。
 王は生じて目を開き視に能ひ、幼くして岐嶷たり。
 以て年七歳、太后垂簾聽政す。

≪現代語訳≫
 太祖大王(あるいは、國祖王ともいわれる)の諱は宮、小名は於漱。
 4代前の琉璃王の子、古鄒加の再思の子である。
 母の太后は扶餘人であった。
 慕本王が死去するも、太子が不肖であったため、社稷の主に足る人物ではないとして、国民が宮を迎え入れ跡を継がせた。
 王は生まれつき目が開いてものを視ることができ、幼くして背が高く堂々としていた。
 年が七歳であったため、太后が代理で政治を取り仕切った。

 これが三国史記の太祖大王本紀の冒頭である。
 慕本王は子供がいたにもかかわらず、それが無能だということで7歳で太祖大王が即位している。そして、母親の太后が代理で政治をした、と。

 ……あまりに怪しい!
 太子を国民が廃嫡にするだなんて相当なことだと思うし、無能だからという理由での廃嫡なのに政務が行えない幼児を擁立して太后に摂政をさせるものだろうか。
 そもそも、慕本王の先代である閔中王は、慕本王があまりに幼かったという理由で、前王の弟として王位を代理で継いだはずである。こういった前例があるにもかかわらず、いきなり七歳児を即位させるのか?

 この太祖大王の「太祖」とは本来は王朝の始祖に送られる諡号で、中華王朝では、漢の劉邦、呉の孫権、明の朱元璋、清のヌルハチなどに送られた。どれも歴代中華王朝の始祖たちである。

 この代替わりでなにが起こったのか、その名が暗示しているようにも思われる。
 ここで一種の王朝交代、それに近い何かが起こったのではないか。その正当性のために、先代の慕本王を暴虐の君主だと記録する必要があったのではないか。慕本王の暗殺も、裏にあったのはそういった権力闘争だったのではないか。これらはあくまで想像であるが、このように考えることはできる。
 暴君と称された慕本王とその後継者太祖大王の関係は、同じく暴君と記録された武烈天皇と継体天皇との関係に非常に似ている。

 ところで、3年くらい前だったか、「やっぱりケータイ天皇って女子高生だったの?」と三回くらい繰り返し言ってたら、大学生に「今どき携帯電話=女子高生だと思っているのはおっさんだけですよ」と言われて、私はとても傷ついた。当時は20代で、おっさんと言われる覚悟が完了していなかったのである。


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