神滅論

第一章

現代語訳

 ある人が私に問う。

「精神は消滅する。なにをもってそれが消滅すると知ったのか?」

 ならば答えよう。

「精神とは身体である。身体とは精神である。つまり身体が存在するのであれば精神も存在するが、肉体が絶えれば精神も消滅する。」


漢文

 或問予云、神滅、何以知其滅也。答曰、神卽形也、形卽神也。是以形存則神存、形謝則神滅也。

書き下し文

 あるひとわれに問ひていはく、神の滅びたるは、何を以ちて其の滅びたるを知らむや、と。答へて曰く、神なるは卽ち形なり。形なるは卽ち神なり。是れ以ちて形らば則ち神り、形のたば則ち神は滅ぶなり。

第二章

現代語訳


「身体とは知覚なき名称であり、精神とは知覚ある名称だ。知と無知は、事実に差異がある。精神は確かに身体と共にあるが、理は同一ではない。身体と精神が直ちに同一であるとは聞いたことがない。」


「身体とは精神の物質であり、精神とは身体の作用である。つまり身体はその物質の名称であり、精神はその作用である。身体は間違いなく精神と共にあり、互いに差異があるとは言えないものだ。」


漢文

 問曰、形者無知之稱、神者有知之名。知與無知、卽事有異、神之與形、理不容一、形神相卽、非所聞也。答曰、形者神之質、神者形之用。是則形稱其質、神言其用。形之與神、不得相異也。

書き下し文

 問ひて曰く、形なる者は知無きの稱ひ、神なる者は知有るの名なり。知と無知は、卽ち事に異有り、神之れ形と與にあり、理は一に容らず、形と神は相ひ卽くは、聞かるる所に非ざるなり、と。答へて曰く、形なる者は神の質、神なる者は形の用たり。是れ則ち形は其の質を稱ひ、神は其の用を言ふ。形之れ神と與にあり、相ひ異なるを得ざるなり。

第三章

現代語訳


「精神とは物質ではない。身体とは作用ではない。差異があると言えないのなら、その義はどこにあるのだ。」


「名称は異なるが実体は同一である。」


漢文

 問曰、神故非質、形故非用、不得爲異、其義安在。答曰、名殊而體一也。

書き下し文

 問ひて曰く、神の故は質に非ず、形の故は用に非ず、異と爲すを得ざるか、其のことはりは安ぞ在らむ、と。答へて曰く、名は殊なり、而れども體は一つなり。

第四章

現代語訳


「名称が異なっているのに、なぜ実体が同一であることができるのか。」


「物質にとっての精神とは、刀にとっての鋭利さのようなものだ。作用にとって身体とは、鋭利さにとっての刀のようなものだ。鋭利の名は刀ではない。刀の名は鋭利ではない。それでも鋭利さを捨て去れば刀ではないし、刀を捨て去れば鋭利さも存在しない。刀が失われたのに鋭利さだけが存在するとは聞いたことがない。身体を喪失して精神が存在する――こんなことは受け入れられるはずがない。」


漢文

 問曰、名旣已殊、體何得一。答曰、神之於質、猶利之於刀。形之於用、猶刀之於利。利之名非刀也、刀之名非利也。然而捨利無刀、捨刀無利。未聞刀沒而利存、豈容形亡而神在。

書き下し文

 問ひて曰く、名は旣已すでことなるも、體は何ぞ一つたるを得むか、と。答へて曰く、神の質に於けるや、猶ほするどきことの刀に於けるがごとし。形の用に於けるや、猶ほ刀のするどきことに於けるがごとし。するどきことの名は刀に非ざるなり。刀の名はするどきことに非ざるなり。然れどもすなはするどきことを捨てて刀無し、刀を捨てればするどきこと無し。未だ刀のうしなひてするどきことのるを聞かず、豈に形亡くして神在るを容らむ、と。

第五章

現代語訳


「刀は確かに鋭利さと共にある――もしかして、如来の説法であろうか? 『身体は確かに精神と共にある』とは、そういう意味ではない! なにをもってそんなことを言うのか。木は物質として知覚がない。人は物質として知覚がある。人は木と同様のものを有しながらも、知覚を有する点に木と差異がある。木が一方を有し、人は両方を有している――なぜこのように捉えないのか。」


「なんともおかしなことを言うものだ。人が仮に木と同様の物質として身体を形成しても、同様に木と異なる知覚を有し、これによって精神を形成できるのなら、如来の論理に同意してやろう。実際には、物質としての人間は物質として知覚を有し、物質としての木は物質として知覚を有さない。物質としての人間は、物質としての木ではない。物質としての木は、物質としての人間ではない。なぜ物質としての木と同じものを有しながら、それでも木の知覚と差異が生じることがあり得るものか。」


漢文

 問曰、刀之與利、或如來說。形之與神、其義不然。何以言之。木之質無知也、人之質有知也。人旣有如木之質、而有異木之知、豈非木有一、人有二邪。答曰、異哉言乎。人若有如木之質以爲形、又有異木之知以爲神、則可如來論也。今人之質、質有知也。木之質、質無知也。人之質非木質也、木之質非人質也、安有如木之質而復有異木之知哉。

書き下し文

 問ひて曰く、刀之れするどきと與にあり、あるいは如來のはなしたるか。形之れ神と與にありし、其のことはりは然らず。何以ちて之れを言ふか。木の質は無知なり。人の質は知をつなり。人は旣に木の如きをち、而りて木と異なりて之れ知をち、豈に木は一をち、人は二つをつに非ざるか、と。答へて曰く、異なるかな、言なるや。人に若し木の如き質をち、以ちて形を爲さば、又た木と異なる知をち、以ちて神と爲らば、則ち如來の論をよろしきとするなり。今の人の質は、質に知をつなり。木の質、質に知無きなり。人の質は木の質に非ざるなり。木の質は人の質に非ざるなり。安ぞ木の質が如きをち、而りて復た木の知と異なること有らむや、と。

第六章

現代語訳


「人が物質として木と異なることだけが知覚を有している理由であるなら、人でありながら知覚がない者は、木とどこに差異があるのか。」


「物質としての人に知覚のないものはない。木に知覚のある形質が存在しないのと同様だ。」


漢文

 問曰、人之質所以異木質者、以其有知耳。人而無知、與木何異。答曰、人無無知之質、猶木無有知之形。

書き下し文

 問ひて曰く、人之れ質は木と異なる質の所以ゆゑなる者、以ちて其れ知有るのみ。人にして知無きは、木と何ぞ異ならむ、と。答へて曰く、人に知無きが質無し、猶ほ木に知有るが形無きがごとし、と。

第七章

現代語訳


「死者の身体の屍骸は『無知の物質』ではないのか!」


「それはそもそも物質としての人ではない。」


漢文

 問曰、死者之形骸、豈非無知之質邪。答曰、是無人質。

書き下し文

 問ひて曰く、死せる者の形の骸は、豈に知無きが質に非ざるか、と。答へて曰く、是れ人の質にあらず。

第八章

現代語訳


「もしその通りなら、人はやはり木のような物質性を有しながら木と異なる知覚を有するのではないか!」


「死者は木のような物質性を有する。だから木とは異質な知覚を有していない。生者は木と異なり知覚を有するから木のような物質性を有さないのだ。」


漢文

 問曰、若然者、人果有如木之質、而有異木之知矣。答曰、死者有如木之質、而無異木之知。生者有異木之知、而無如木之質也。

書き下し文

 問ひて曰く、若し然る者、人は果たして木の如きが質をち、而りて木と異なるが知をちたらむ、と。答へて曰く、死せる者は木の如きが質を有ち、而りて木と異なるが知無し。生くる者は木と異なるが知を有ち、而りて木の如きが質無きなり、と。

第九章

現代語訳


「死者の骨骼は生者の形骸ではないのか?」


「生者の身体は死者の身体ではない。死者の身体は生者の身体ではない。変化の後に区切られている。生者の形骸が死者の骨格を有しているはずがあるわけがない。」


漢文

 問曰、死者之骨骼、非生之形骸邪。答曰、生形之非死形、死形之非生形、區已革矣。安有生人之形骸、而有死人之骨骼哉。

書き下し文

 問ひて曰く、死せる者の骨骼は、生くるものが形骸に非ざるか、と。答へて曰く、生くるものの形は之れ死せるものの形に非ず、死せるものの形は之れ生くるものの形に非ず、わかれて已に革むるかな。安ぞ生くる人の形骸をち、而れども死せる人の骨骼を有するかな、と。

第十章

現代語訳


「もし生者の形骸が死者の骨格ではないのなら、生者の骨格に由来するものではなく、生者の形骸に由来しないのなら、その骨格は何によってそのようになったのだ。」


「まさに生者の形骸が変化して死者の骨格となるのだ。」


漢文

 問曰、若生者之形骸、非死者之骨骼。非死者之骨骼、則應不由生者之形骸。不由生者之形骸、則此骨骼從何而至此邪。答曰、是生者之形骸、變爲死者之骨骼也。

書き下し文

 問ひて曰く、若し生くる者の形骸は、死せる者の骨骼に非ざず、死せる者の骨骼に非ざれば、則ちまさに生くる者の形骸に由らざらむとし、生くる者の形骸に由らざれば、則ち此の骨骼は何にりて此に至るか、と。答へて曰く、是れ生くる者の形骸、變はりて死せる者の骨骼と爲るなり、と。

第十一章

現代語訳


「生者の形骸が変化して死者の骨格になるといっても、生者を素因とせず死は存在しない。つまり死者の本体は生者の本体と同様だと理解できるのだ!」


「もし覆い茂る木という素因が変化して枯木となるとして、枯れ木という物質のどこが覆い茂る木の本体なのだ?」


漢文

 問曰、生者之形骸雖變爲死者之骨骼、豈不因生而有死。則知死體猶生體也。答曰、如因榮木變爲枯木、枯木之質、甯是榮木之體。

書き下し文

 問ひて曰く、生くる者の形骸は變はりて死者の骨骼に爲ると雖も、豈に生くるものに因らずして死をてり。則ち死せる體は、猶ほ生くる體のごときを知らむや、と。答へて曰く、如し榮えたる木の變はりて枯れ木と爲るに因りて、枯れ木の質、いづくにぞ是れ榮えたる木の體ならむ、と。

第十二章

現代語訳


「覆い茂る本体から枯れた本体に変化しても、枯れた本体とは、つまりは覆い茂る本体である。糸の本体から布切れの本体となったとしても、布切れの本体とは、つまりは糸の本体である。どこに違いがあるというのか。」


「もし衰枯することがあれば、それは繁栄するもので、繁栄するならそれは衰枯するものだ。これから繁栄する時には凋零し、衰枯する時には実を結ぶ。そして覆い茂る木が枯れ木に変化しないなら、つまり繁栄とは衰枯であり、もう二度と変化することはない。衰枯はひとつである。なぜ衰枯を先にして繁栄を後にするのか。繁栄を先にして衰枯を後にする必要があるのはどうしてだろうか。糸と布切れの義も、その破損と同じことなのだ。」


漢文

 問曰、榮體變爲枯體、枯體卽是榮體。絲體變爲縷體、縷體卽是絲體、有何別焉。答曰、若枯卽是榮、榮卽是枯、應榮時凋零、枯時結實也。又榮木不應變爲枯木、以榮卽枯、無所復變也。榮枯是一、何不先枯後榮。要先榮後枯、何也。絲縷之義、亦同此破。

書き下し文

 問ひて曰く、榮えある體は變はりて枯れし體と爲るも、枯れし體は卽ち是れ榮えの體たり。絲の體は變はりてきれの體と爲るも、きれの體は卽ち是れ絲の體たり、何のちがひを焉れたむ。答へて曰く、若し枯らば卽ち是れ榮え、榮えれば卽ち是れ枯れ、應に榮えむとする時はしぼち、枯るる時は實を結ぶなり。又た榮ゆる木のまさに變はりて枯れ木と爲らむとするにあらざれば、以ちて榮えて卽ち枯れ、復た變はる所無きなり。榮ゆると枯るるは是れ一、何ぞ枯るるを先にして榮ゆるを後にするか。かならず榮を先にして枯を後にするは、何ぞや。絲縷の義も亦た此の破るるに同じき。

第十三章

現代語訳


「生の形質の終焉は、すぐにあっさりと消失する。なぜ死の形質をこうむることは、永遠に終焉しないのか。」


「生の消滅における本体には、必ずその次があるからだ。つまり一瞬にして生きている者は必ず一瞬にして消滅するが、ゆるやかに生きる者は必ずゆるやかに消滅する。一瞬にして生きる者とは、つむじ風である。ゆるやかに生きる者とは、動物や植物である。一瞬の存在もゆるやかな存在もあるのは、物のことわりである。」


漢文

 問曰、生形之謝、便應豁然都盡。何故方受死形、綿歷未已邪。答曰、生滅之體、要有其次故也。夫歘而生者必歘而滅、漸而生者必漸而滅。歘而生者、飄驟是也。漸而生者、動植是也。有歘有漸、物之理也。

書き下し文

 問ひて曰く、生形のるは、便すなはち應に豁然からりとして都盡つくせり。何故にまさに死の形を受くるは、綿歷とこしへにして未だ已まざるか、と。答へて曰く、生の滅ぶが體、かならず其の次有るが故なり。夫れたちまちにして生くる者は必ずたちまちにして滅び、漸くにして生くる者は必ず漸くにして滅べり。たちまちにして生くる者は、飄驟是れなり。漸くにして生くる者、動植是れなり。たちまちも有らばやうやくも有るは、物のことはりなり。

第十四章

現代語訳


「形質それ自体が精神であるならば、手なども同様にそうなのか。」


「すべてが精神の一部である。」


漢文

 問曰、形卽是神者、手等亦是邪。答曰、皆是神之分也。

書き下し文

 問ひて曰く、形の卽ち是れ神なる者、手等も亦た是れか。答へて曰く、皆是れ神の分なり。

第十五章

現代語訳


「『知』、これは『慮』と同一なのか、異なるものなのか。」


「『知』とはすなわち『慮』である。浅いものが『知』であり、深いものが『慮』だ。」


漢文

 問曰、知之與慮、爲一爲異。答曰、知卽是慮。淺則爲知、深則爲慮。

書き下し文

 問ひて曰く、知の之れと慮とは、一と爲すか異と爲すか、と。答へて曰く、知は卽ち是れ慮。淺かれば則ち知と爲し、深かれば則ち慮と爲す、と。

第十六章

現代語訳


「もしすべてが精神の一部であり、精神がすべて思慮(慮)をおこなうのなら、手なども同様に思慮(慮)ができるものだとするのが当然であろう。」


「手なども同様に痛みや痒みへの『知』が当然ある。是非を判断する『慮』はないが。」


漢文

 問曰、若皆是神之分、神旣能慮、手等亦應能慮也。答曰、手等亦應能有痛癢之知、而無是非之慮。

書き下し文

 問ひて曰く、若し皆が是れ神の分にして、神はことごとく能く慮らば、手等も亦た應に能く慮らむとするなり。答へて曰く、手等も亦た應に能く痛癢の知有り、而れども是非の慮無し。

第十七章

現代語訳


「仮にあなたがふたつの『慮』を所有しているとしよう。『慮』をふたつ所有していれば、精神はふたつ存在するのか。」


「人体は唯一のものだ。精神がなぜふたつであることができようか。」


漢文

 問曰、若爾、應有二慮。慮旣有二、神有二乎。答曰、人體惟一、神何得二。

書き下し文

 問ひて曰く、若し爾、應に二つの慮有り。慮は旣に二有り、神に二有るか。答へて曰く、人體は惟れ一、神の何ぞ二つを得む。

第十八章

現代語訳


「もし二つであることができないなら、どうやって痛みや痒みへの『知』があり、同時に是非を判断する『慮』があるのか。」


「手足のごときに差異があるといっても統合するのはひとつだ。是非の判断と痛みや痒みに差異があると言っても、統合するのはひとつの精神である。」


漢文

 問曰、若不得二、安有痛癢之知、復有是非之慮。答曰、如手足雖異、總爲一人。是非痛癢雖復有異、亦總爲一神矣。

書き下し文

 問ひて曰く、若し二つを得ざれば、いづくに痛癢いたしかゆしの知る有り、復た是非よしあしおもひ有らむ、と。答へて曰く、手足の如きは異なると雖も、總ぶるは一人と爲る。是非よしあし痛癢いたしかゆしも復た異なる有りと雖も、亦たぶるは一つの神爲らむ、と。

第十九章

現代語訳


「是非を判断する『慮』は、手足に関わらないのならどこに関わっているのか。


「是非を判断する『慮』は、心臓に主宰されている。」


漢文

 問曰、是非之慮、不關手足、當關何處。答曰、是非之慮、心器所主。

書き下し文

 問ひて曰く、是非よしあしおもひは、手足に關はらざれば、當に何處どこに關はらむ、と。答へて曰く、是非よしあしの慮は、心の器につかさどらるる所たり。

第二十章

現代語訳


「心臓というのは、五臓の心臓で間違いないか?」


「その通りだ。」


漢文

 問曰、心器是五藏之心、非邪。答曰、是也。

書き下し文

 問ひて曰く、心器は是れ五藏の心、非ざるか、と。答へて曰く、是れなり、と。

第二十一章

現代語訳


「五臓に何の殊別があり、心だけが是非を判断する『慮』を有するのか?」


「七竅にも同様にどのような違いがあるのか。つまり司る用法も同様に均一ではないのだ。」


漢文

 問曰、五藏有何殊別、而心獨有是非之慮乎。答曰、七竅亦復何殊、而司用不均。

書き下し文

 問ひて曰く、五藏に何の殊別ちがひ有り、而りて心のみ獨つ是非よしあしおもひつか、と。答へて曰く、七つのあなにも亦復またまた何のちがはむ、而るに司るはたらきも均しからず。

第二十二章

現代語訳


「慮思には定まった場所がない。何の理由で心器こそが主宰者だとわかったのか。」


「五臓にはそれぞれ司るものがあるのに、『慮』をおこなう存在がない。それだから心が『慮』の根本だと理解したのだ。」


漢文

 問曰、慮思無方、何以知是心器所主。答曰、五藏各有所司、無有能慮者、是以知心爲慮本。

書き下し文

 問ひて曰く、慮思おもひところ無し、何の以ちて是れ心器につかさどらるる所なるを知らむ、と。答へて曰く、五藏のおのもおのもに司らるる所有り、能くおもふ者有る無かれば、是れ以ちて心はおもひおほもと爲るを知れり、と。

第二十三章

現代語訳


「なぜ眼のちょうど真ん中にあるように移動させることがないのか。」


「もし『慮』が眼のあるところに移動させることができるなら、眼はどんな理由で耳のあるところに移動しないのだろうか。」


漢文

 問曰、何不寄在眼等分中。答曰、若慮可寄於眼分、眼何故不寄於耳分邪。

書き下し文

 問ひて曰く、何ぞ寄せて眼の等しきところうちに在らしめざる、と。答へて曰く、若しおもひの眼のところに寄す可きなれば、眼は何故なにゆゑにか耳のところに寄らざるか、と。

第二十四章

現代語訳


「『慮』の本体には根本がない。だからそれを眼のあるところに移動させることができる。眼は自身に根本を有する。仮にも他のものがあるところに移動することはないのだ。」


「眼がなぜ根本を有し、『慮』には根本がないのか。仮に我が身体に根本がないなら、あらゆる異境に移動することもできよう。それに張甲の情が王乙の体躯に移動し、李丙の性が趙丁の身体に託されることもあり得る――そうだろうか? そうではないのだ!」


漢文

 問曰、慮體無本、故可寄之於眼分。眼自有本、不假寄於佗分也。答曰、眼何故有本而慮無本。苟無本於我形、而可遍寄於異地。亦可張甲之情、寄王乙之軀。李丙之性、託趙丁之體。然乎哉。不然也。

書き下し文

 問ひて曰く、慮の體におほもと無し、故に之れを眼のところに寄らしむ可し。眼は自づからおほもと有り、かりそめに佗のところに寄ることあらざるなり。答へて曰く、眼は何故なにゆゑにかおほもと有りて慮におほもと無きや。苟も我がからだおほもと無くば、すなはち遍く異なる地にいたる可し。亦た張甲の情の王乙の軀にいたり、李丙の性の趙丁の體に託す可し。然らむかな。然らざるなり。

第二十五章

現代語訳


「聖人の身体はあたかも凡人の身体のようだ。それなのに凡人と聖人には違いがある。ここでわかることがある。身体と精神は異なるものなのだ、と。」


「そうではない。精錬された金属は輝くことができて、穢れたものは輝くことはできない。輝くことのできる精錬された金属であれば、輝きのない穢れた物質性を有することがあろうか。それに聖人の精神にありながら凡人の器官に移動させることがあるだろうか。同様に凡人の精神にありながら聖人の体躯に託すにこともないのだ。このように、八采、重瞳、勛、華といった容姿や龍顔、馬口、軒、皞といった容貌が身体の表層における差異なのだ。比干の心は、七つのあなが角に並んでいた。伯約の膽は、その大きさが拳のようであった。これが心器の違いである。ここで理解できることがある。聖人とは(器官の)ある場所は一定であるが、いかなる場合にも常識の範疇を越えていたのだ。単に道だけにおいて群生より変革したものであるわけではない。つまり同様に身体も万有を超越するのだ。凡人と聖人の体躯が均質であるとは、受け入れることのできないことである。


漢文

 問曰、聖人形猶凡人之形、而有凡聖之殊、故知形神異矣。答曰、不然。金之精者能昭、穢者不能昭、有能昭之精金、寧有不昭之穢質。又豈有聖人之神而寄凡人之器、亦無凡人之神而托聖人之體。是以八采、重瞳、勛、華之容。龍顏、馬口、軒、皞之狀。形表之異也。比干之心、七竅列角。伯約之膽、其大若拳。此心器之殊也。是知聖人定分、每絕常區、非惟道革羣生、乃亦形超萬有。凡聖均體、所未敢安。

書き下し文

 問ひて曰く、聖人ひじりからだは猶ほ凡人なみからだのごとし。而れどもなみひじりちがひ有り。故に知りぬ、からだと神は異ならむことを、と。答へて曰く、然らず。金のきよき者は能く昭らかにして穢るる者は昭るること能はず。能く昭らなるがきよき金をたば、いづくにぞ昭らならざるが穢れの質をたむ。又た豈に聖人ひじりの神にして凡人なみの器に寄ること有りや。亦た凡人なみの神にして聖人の體に托すこと無し。是れ以ちて八采、重瞳、勛、華のかたち、龍顏、馬口、軒、皞のかたちからだの表のちがひなり。比干の心、七つのあなは角にならべり。伯約の膽、其の大いなること拳の若し。此の心器のちがひなり。是に知りぬ、聖人ひじりところを定むるも、つねに常のところより絕ゆ。惟だ道のみ羣生よりあらたまるに非ず。乃ち亦たからだ萬有あまねきを超ゆ。凡と聖の體を均しくするは、未だ敢へて安ぜられざる所たり。

第二十六章

現代語訳


「あなたは聖人の身体が必ず凡人とは異なると言うが、ならば質問したい。陽貨は仲尼に類し、項籍は大舜と似ていた。舜と項籍、孔子と陽貨は、叡智には変革があったが身体は同じである。その故は何であろうか。」


「珉は玉に似ているが玉ではない。鶏は鳳凰に類するが鳳凰ではない。物が本当にそれを有しているなら、人は故にそのようになるに違いないのだ。項籍や陽貨の顔が似ていても実が似ているわけではない。心器は均質ではないのだから、顔がそうであっても無益である。」


漢文

 問曰、子云聖人之形必異於凡者。敢問陽貨類仲尼、項籍似大舜。舜、項、孔、陽、智革形同、其故何邪。答曰、珉似玉而非玉、雞類鳳而非鳳。物誠有之、人故宜爾。項、陽貌似而非實似、心器不均、雖貌無益。

書き下し文

 問ひて曰く、そちは聖人のすがたに必ずなみの者より異なると云へり。敢へて問ふ、陽貨は仲尼に、項籍は大舜に似たり。舜項孔陽、智はあらたまりて形は同じ。其の故は何ぞや、と。答へて曰く、珉は玉に似て玉に非ず。にはとりおほとりおほとりに非ず。物は誠に之を有さば、人は故に宜しく爾るべし。項陽のかほは似てまことの似るに非ず、心器は均しからず、貌と雖も益無し。

第二十七章

現代語訳


「凡人と聖人の差異は、身体や器官のうちひとつではないというのはわかったが、聖人とは円満にして究極、理はふたつ有することのないものだ。なのに孔丘と周公旦は姿を違い、湯王と文王も容貌が異なっていた。精神は色を同じくしないことが、ここでますます明らかとなる。」


「聖人は心器については同じであるが、身体は必ずしも同じではないのだ。馬に毛色の違いがあっても等しく素早いように、玉は色を異にしても均しく美しいように。だから晋棘と荊和の価値は連なる城と等価であり、驊騮や騄驪はどちらも千里先まで走ることができるのだ。」


漢文

 問曰、凡聖之殊、形器不一、可也。聖人員極、理無有二。而丘、旦殊姿、湯、文異狀、神不侔色、於此益明矣。答曰、聖同於心器、形不必同也、猶馬殊毛而齊逸、玉異色而均美。是以晉棘、荊和、等價連城。驊騮、騄驪、俱致千里。

書き下し文

 問ひて曰く、なみひじりちがひは、形器の一つにあらず、可なり。聖人ひじりまことに極まり、ことはりに二つ有る無し。而れども丘旦は姿をたがひ、湯文もかたちを異ならしむ。神は色をおなじくせず、此に於いてますます明るきかな、と。答へて曰く、聖は心器に於いて同じなるも、形は必ずしも同じにあらざるなり。猶ほ馬は毛をたがひて齊しくはやく、玉は色をたがひて均しく美しくあるがごとし。是れ以ちて晉棘、荊和、價を連ぬる城に等しくし、驊騮、騄驪、俱に千里を致す、と。

第二十八章

現代語訳


「身体と精神は二つのものではない、と。このことは既に聞いたが、身体が絶えれば精神が消滅しても理は最初からそのままの通りに違いない。質問したい。経に『彼に宗廟につくることで、みたまをそこでもてなす。』と言うのは、どういう意味なのか。」


「聖人の教えはそうなのだ。孝子の心を緩め、そして酷薄な者の意を励ます為である。『精神によってそれが明らかになる』とは、このことを謂う。」


漢文

 問曰、形神不二、旣聞之矣、形謝神滅、理固宜然。敢問經云、爲之宗廟、以鬼饗之、何謂也。答曰、聖人之教然也。所以弭孝子之心、而厲偷薄之意、神而明之、此之謂矣。

書き下し文

 問ひて曰く、形と神に二つなし、旣に之れを聞けり。形は謝たれて神は滅ぶも、理は固より宜しく然れり。敢へて問ふ、經に之れに宗廟をつくり、以ちて鬼を之れにかしむと云ふは、何の謂ぞや、と。答へて曰く、聖人ひじりをしへは然るなり。孝子の心をゆるめ、而りて偷薄うすきこころはげます所以ゆゑなり。神にして之れを明らむは、此のいひならむ、と。

第二十九章

現代語訳


「伯有は甲冑を着、彭生は豚になって現れた。墳素がその事を著しているが、これは単に教訓を設けただけのことなのだろうか。」


「妖怪とは捉えどころのないもので、存在するものでもあり存在しないものでもある。無理やり死なされた者は数多くいるが、全員が鬼になるわけではない。彭生や伯有だけがなぜ独りそのようになることができようか。いきなり人を豚にしたとしても、必ずしも斉や鄭の公子ということにはならないのだ。」


漢文

 問曰、伯有被甲、彭生豕見、墳素著其事、寧是設教而已邪。答曰、妖怪茫茫、或存或亡、強死者衆、不皆爲鬼。彭生、伯有、何獨能然。乍爲人豕、未必齊、鄭之公子也。

書き下し文

 問ひて曰く、伯有はよろひ、彭生は豕してあらはる。墳素の其の事を著はすは、いづくにぞ是れをしへを設くる而已のみならむや、と。答へて曰く、妖怪は茫茫とし、存るも或らば亡きも或り、強いて死ぬ者はあまたあるも、皆が鬼と爲るにあらず。彭生、伯有、何ぞ獨り能く然らむ。たちまち人を豕と爲せども、未だ必ずしも齊鄭の公子ならざるなり。

第三十章

現代語訳


「易には、『故に鬼神の情状を知る。天地と互いに似通い、違いがない。』と称されている。それに『鬼と一緒の車に載る』ともいう。その義は何を言っておるのか。」


「禽がいて獣がいる。飛ぶか走るかの違いがある。人がいて鬼がいる。幽か明かの違いがある。人は滅びて鬼となるが、鬼が滅びて人となるのか、まだそれはよくわからない。」


漢文

 問曰、易稱、故知鬼神之情狀、與天地相似而不違。又曰、載鬼一車。其義云何。答曰、有禽焉、有獸焉、飛走之別也。有人焉、有鬼焉、幽明之別也。人滅而爲鬼、鬼滅而爲人、則未之知也。

書き下し文

 問ひて曰く、易はへり、故に鬼神の情狀ありさまを知りぬ。天地あめつちと相ひ似たりて違はず、と。又た曰く、鬼とひとつの車に載る、と。其のことはりは何を云へり、と。答へて曰く、とり有らむ、獸有らむ、飛び走るの別なり。人有らむ、鬼有らむ、おぼろあきらかの別なり。人は滅びて鬼と爲るも、鬼は滅びて人と爲るは、則ち未だ之れ知らざるなり、と。

第三十一章

現代語訳


「ここに精神の消滅を理解した。何に利用することができるだろうか。」


「浮屠は政治を害し、桑門は世俗に蠢いておる。風が驚いたように吹き荒れ、霧が立ち上がるように起こり、放蕩に向けて突っ走って休まることがない。私はその弊害を哀れみ、その惑溺から救い出そうと思っているのだ。さて、財産を枯渇させて僧侶に向かわせ、破って仏に駆動し、親戚を心配することもなく、貧者に憐れみを向けることもない者とはなんであろうか。まさしく自分を厚遇しようという情欲が深く、他人を救済しようとする意思が薄いからなのだ。このようにして貧者の友に渡す贈物は少なく、物惜しみの情は顔色にまで表れる一方で、あまたの贈物が裕福な僧侶に委ねられ、歓びの意思が容貌の表にまで滲み出る。僧には多くの豊穣への期待を持たせて友には残り物の収穫の報いさえなく、務めや施しが差し迫った事情の者に行き渡らせることには欠け、徳を必ず自己のあるところに帰するものだとする――そのようでないことがあろうか。そして漠然としたわかりにくい言葉で困惑させ、阿鼻の苦しみで恐懼させ、根拠のない大袈裟かつでたらめな言辞で誘惑し、兜率の安楽をもって小躍りするような歓びをあたえる。だから逢掖を捨て、横衣を重ね着し、俎豆を廃して缾缽を並べるようになり、家々は自らの親への愛を放棄し、人々は自らの相続を絶やしてしまった。兵には行軍の間に挫折させ、官吏には官府を空っぽにさせることになるし、粟は怠惰と豪遊に消費され、財貨は泥や木に使い尽くされる結果になる。姦悪の者が勝利することがなくなり、頌声がいつまでも響き渡る――という根拠とは、単にそれだけのことなのだ。その流れが止まることがないなら、その病理に限りはない。もし薫陶を自然から受ければ、森羅万物は独化に均しい。前触れもなく自然と存在し、じんわりと消失する。来れば拒むことなく、去れば追わない。その天の理に乗じ、それぞれが自らの性に安らぎ、小人は自らの田畑に甘受し、君子は自らの淡白と素朴を保つ。耕して食べるが食事は限界まで食べない。蚕養をして衣服を着るが、衣服は極めてはならない。下位の者に余剰があれば、それを自らの上位の者に奉り、上位の者に仕事がなければ、そこで自らの下位の者をもてなす。これによって生を全うするがよい。これによって国を糺すがよい。これによって君主を覇者とするがよい。これを道に用いるがよい。」


漢文

 問曰、知此神滅、有何利用邪。答曰、浮屠害政、桑門蠹俗。風驚霧起、馳蕩不休。吾哀其弊、思拯其溺。夫竭財以赴僧、破產以趨佛、而不卹親戚、不憐窮匱者何。良由厚我之情深、濟物之意淺。是以圭撮涉於貧友、吝情動於顏色。千鐘委於富僧、歡意暢於容發。豈不以僧有多稌之期、友無遺秉之報、務施闕於周急、歸德必於在己。又惑以茫昧之言、懼以阿鼻之苦、誘以虛誕之辭、欣以兜率之樂。故捨逢掖、襲橫衣、廢俎豆、列缾缽。家家棄其親愛、人人絕其嗣續。致使兵挫於行間、吏空於官府、粟罄於惰遊、貨殫於泥木。所以姦宄弗勝、頌聲尚擁、惟此之故、其流莫已、其病無限。若陶甄稟於自然、森羅均於獨化。忽焉自有、恍爾而無、來也不禦、去也不追、乘夫天理、各安其性。小人甘其壟畝、君子保其恬素。耕而食、食不可窮也。蠶而衣、衣不可盡也。下有餘以奉其上、上無爲以待其下、可以全生、可以匡國、可以霸君、用此道也。

書き下し文

 問ひて曰く、此に神の滅ぶを知りぬ。何のもちゆるによろ)しきこと有るかや、と。答へて曰く、浮屠はまつりごとそこなひ、桑門は俗に蠹く。風は驚きて霧は起こり、ほしひままに馳せてまず。吾は其のわざはひを哀れみ、思ふは其の溺るるを拯はむとす。夫れたからを竭くして以ちて僧に赴き、たからを破りて以ちて佛に趨り、而りて親戚うからうれふことなし。窮匱まづしきを憐れむことなき者は何ぞや。良く我を厚くするが情は深く、物を濟はむとするが意は淺きに由らむ。是れ以ちてたまものわづかなること貧しき友にわたし、ものをしみこころ顏色かほいろあらはる。あまたたまものは富める僧に委ね、歡ぶこころかたちおもていたる。豈に以ちて僧に多きみのりの期をたしめ、友に遺りのみのりの報ひをも無からしめ、務め施すことあまねさしせまりに闕け、德を歸すこと必ず己に在るに於いてせざらむ。又た茫昧の言を以ちて惑はせしめ、阿鼻の苦を以ちて懼れせしめ、虛誕の辭を以ちて誘ひ、兜率の樂を以ちて欣ばしむ。故に逢掖を捨て、橫衣をかさね、俎豆を廢めて缾缽をならぶ。家家は其の親の愛を棄て、人人は其の嗣續を絕やす。使ひて兵をして行くの間に挫かせしめ、吏をして官府に空しくせしめ、粟をして惰遊にうしなはせしめ、貨をして泥木にかしむに致さむ。姦宄よこしまは勝つことく、頌聲は尚ほまもらるる所以ゆゑは、惟だ此の故のみ。其の流れの已むこと莫くば、其の病は限り無し。若し陶甄つとめの自然よりくれば、森羅は獨化に均しくあり。忽ちにして自づと有り、恍爾として無し。來たるやこばまず、去るや追はず。夫の天のことはりに乘り、おのもおのもが其の性に安らぐ。小人は其の壟畝はたけに甘じ、君子は其の恬素を保つ。耕して食ひ、いひは窮む可からざるなり。こがひしてころもは盡くす可からざるなり。下に餘り有らば、以ちて其の上にたてまつり、上につとめ無くば、以ちて其の下をもてなし、以ちて生を全うす可し。以ちて國を匡す可し。以ちて君を霸す可し。此れを道に用ゆなり。