現代語訳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本件について論じよう。
かつて箕子は衰退する殷の運命に抗い、土地を朝鮮に避けた。当初はその国の習俗に褒められたところはなかったが、『八条の約』を施し、人に禁則を知らしめてからは、遂に 同様に実質が伴わなくなってしまったことにも理由があるのだ。その後は遂に商売を通じて接するようになり、徐々に宗主国(中国)とも交流が深まっていった。しかし燕人の衛満がその風習をめちゃくちゃにかき乱し、このようにしてその後は異俗が注がれるようになった。老子は「法令の文章が増えれば増えるほど、盗賊も多いということなのだ。」と言ったが、もし箕子の簡略な条文を省みて、信義を用いれば、聖賢の作法の源を理解することができるはずだ。
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注記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(※1)箕子 殷王朝の最後の王であった紂王の叔父。紂王の暴政を諫めて怒りにふれ、奴隷の身分に落とされたが、狂人のふりをして逃れ、亡命したという逸話がある。後に殷が打倒されてから代わりに立った周王朝から賢者として認められ、朝鮮の地を任されたとされる。論語微子篇にも名が登場し、滅びゆく殷王朝にいた三人の仁者(三仁)のひとりとして孔子が讃えたことが記される。
(※2)殷
(※3)朝鮮
(※4)『八条の約』
(※5)遂に 楽浪の将兵が侵攻しに来たが、国境付近の人々が夜も戸締りをせず、収穫した農作物を野に積んだままにしていたのを見て、互いに「ここに住む人民は互いに盗みをしないようだ。有道の国と言う他ない。軍隊を潜伏させて襲撃しようとしていた我々は、盗賊と何も変わらないではないか。慙愧を禁じ得ない。」と言い合うと、そのまま引き返した。 おそらく本文の内容を意識して記されたものであろう。本文の内容は箕子の影響に基づき、上記三国史記朴赫居世紀の記述は当時の新羅王の朴赫居世の影響に基づく教化である。教化とは、統治者の徳が非統治者の徳に影響を与えるという儒教の思想であり、論語顔淵第十二の「君子之德風、小人之德草。草尚之風必偃。(君子の徳は風、小人の徳は草である。草は風に影響されてなびくものだ。)」等に見られる。
(※6)仲尼
(※7)仲尼は憤りを心に懐いて、九夷に居住したいと思うようになったことがある。ある人は、あんな陋劣なところにどうして……と疑いを抱いたが、孔子は「君子がそこにいるのだ。なぜ陋劣ということがあろうか。」と言った。
(※8)燕人の衛満
(※9)老子
(※10)「法令の文章が増えれば増えるほど、盗賊も多いということなのだ。」
(※11)賛
(※12)嵎夷、暘谷
(※13)嬴氏秦
(※14)燕人
(※15)漢 |
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漢文 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
論曰、昔箕子違衰殷之運、避地朝鮮。始其國俗未有聞也、及施八条之約、使人知禁、遂乃邑無淫盗、門不夜扃、回頑薄之俗、就宽略之法、行數百千年、故東夷通以柔謹為風、異乎三方者也。苟政之所暢、則道義存焉。仲尼懷愤、以為九夷可居。或疑其陋。子曰、君子居之、何陋之有。亦徒有以焉尔。其後遂通接商賈、漸交上國。而燕人衛滿扰雜其風、於是从而澆異焉。老子曰、法令滋章、盗賊多有。若箕子之省簡文条而用信義、其得聖賢作法之原矣。
贊曰、宅是嵎夷、曰乃旸谷。巢山潜海、厥區九族。嬴末紛亂、燕人違難。雜華澆本、遂通有漢。眇眇偏譯、或从或畔。 |
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書き下し文 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
論じて曰く、
贊へて曰く、 |