三国史記 朴赫居世紀

始祖 朴赫居世

現代語訳

 始祖、姓は朴氏、諱は赫居世である。前漢孝宣帝五鳳元年甲子きのえね(前54年)四月丙辰かのえたつ(一説には正月十五日)に即位した。よびなは居西干。この時、年齢は十三歳。国は徐那伐とよびなした。

 それ以前から朝鮮の遺民は山谷の間に分かれて住み、六つの村を形成していた。

 一.閼川楊山村
 二.突山高墟村
 三.觜山珍支村(あるいは干珍村)
 四.茂山大樹村
 五.金山加利村(加里村)
 六.明活山高耶村

 これを『辰韓六部』という。

 高墟村長の蘇伐公が楊山の麓にある蘿井の傍の林間を見渡していると、跪いていななく馬がいた。さっそく出向いてそちらをじっとよく見てみたが、馬は忽然と姿を消しており、大きな卵だけが転がっていた。それを割ってみると、なんと乳児ちのみごが出てきたではないか。

 すぐさまそれを拾って養うと、その乳児が十歳を過ぎた頃には、背も高く大変に立派な振る舞いをして、早くも大人のように成熟していた。六部の人は神異が誕生したと畏れ敬い、こうして君主に擁立したわけである。辰人はひさご(ひょうたん)のことを朴と呼ぶが、最初に彼が生まれた大きな卵がひさごのようであったことから朴を姓とした。居西干とは、辰の言葉で王を意味する。(あるいは貴人の呼称だと言われている。)


漢文

 始祖姓朴氏、諱赫居世、前漢孝宣帝五鳳元年甲子四月丙辰(一曰正月十五日。)即位、號居西干、時年十三、國號徐那伐。先是、朝鮮遺民分居山谷之間、爲六村。一曰閼川楊山村、二曰突山高墟村、三曰觜山珍支村(或云干珍村。)、四曰茂山大樹村、五曰金山加利村(加里村)、六曰明活山高耶村、是爲辰韓六部。高墟村長蘇伐公望楊山麓蘿井傍林間、有馬跪而嘶、則徃觀之。忽不見馬、只有大卵、剖之、有嬰兒出焉、則收而養之、及年十餘歲、岐嶷然夙成。六部人以其生神異推尊之、至是立爲君焉。辰人謂瓠爲朴、以初大卵如瓠、故以朴爲姓、居西干、辰言王。(或云呼貴人之稱。)

書き下し文

 始祖はぢめおやかばねは朴うぢいみなは赫居世、前漢孝宣帝五鳳の元年はぢめどし甲子きのえねの四月の丙辰かのえたつあるふみに曰く正月十五日)にくらひき、よびなは居西干、時によはひ十三とあまりみつ、國は徐那伐とよびなす。是れより先ず、朝鮮の遺民、分かれて山谷のまにますまひ、六村を爲す。一に曰く閼川楊山村。二に曰く突山高墟村。三に曰く觜山珍支村。(あるいは干珍村と云ふ。)四に曰く茂山大樹村。五に曰く金山加利村(加里村)。六に曰く明活山高耶村。是れ辰韓六部と爲す。

 高墟村のをさの蘇伐のきみ、楊山のふもとの蘿井のそばの林のあひまを望みたれば、馬有りひざまづきていななけり。則ち徃きて之れに觀れば、たちまちにして馬見えず、只だ大卵おほたまご有るのみ。之れをらば、嬰兒ちのみごの出づる有らむや。則ち收めて之れを養ひ、よはひ十餘歲とあまりいくとしに及びたれば、岐嶷然いこよかにして夙成おとなびたらむ。六部の人、其の神異あたしきを生ずるを以ちて之れを推尊あがめとうとび、是に至りて立てて君と爲す。辰の人はひさごを謂ひて朴と爲し、初めの大卵おほたまごひさごの如くなるを以ちて、故に朴を以ちてかばねと爲す。居西干は辰のきみを言ふ。(或はたふとき人のを呼ぶと云ふ。)

四年

現代語訳

 四年(前51年)夏四月辛丑かのとうしついたち、日食があった。


漢文

 四年夏四月辛丑朔、日有食之。

書き下し文

 四年夏四月辛丑かのとうしつひたち、日之れを食すること有り。

五年

現代語訳

 五年(前50年)春正月、龍が閼英井に現れ、右脇から女児を産み出した。それを見た老嫗は神異と畏れ敬い、その女児を拾って養い、井戸の名前にちなんで閼英と名付けた。成長すると徳のある容貌に育ち、それを聞いた始祖は彼女を妃として迎え入れた。賢明な行いを身につけており、内からの力添えにすぐれており、当時の人々は彼らを『二聖』と呼んだ。


漢文

 五年春正月、龍見於閼英井、右脇誕生女兒。老嫗見而異之、收養之、以井名名之。及長、有德容。始祖聞之、納以爲妃。有賢行、能內輔、時人謂之二聖。

書き下し文

 五年春正月、龍、閼英井にあらはれ、右脇は女兒をみなご誕生む。老嫗をうなは見て之れをあたとし、之れを收め養ひ、井の名を以ちて之れに名づく。くるに及び、かたち有り。始祖はぢめおや、之れを聞きて納めて以ちてきさきと爲す。賢き行ひ有りて內のたすを能くし、時の人は之れを二聖と謂へり。

八年

現代語訳

 八年(前47年)、倭人が行軍して国境を侵犯しようとしたが、始祖に神徳が備わっていると聞いて、すぐに帰還した。


漢文

 八年、倭人行兵欲犯邊、聞始祖有神德、乃還。

書き下し文

 八年、倭の人はいくさひとを行かしめ、くにへを犯さむとおもふも、始祖はぢめおやかむなる德有るを聞き、乃ち還る。

九年

現代語訳

 九年(前46年)春三月、星孛が王良に現れた。


漢文

 九年春三月、有星孛于王良。

書き下し文

 九年春三月、星孛ながれぼし、王良に有り。

十四年

現代語訳

 十四年(前41年)夏四月、星孛が参に現れた。


漢文

 十四年夏四月、有星孛于參。 

書き下し文

 十四年夏四月、星孛ながれぼし、參に有り。 

十七年

現代語訳

 十七年(前38年)、王が六部を巡撫し、王妃の閼英もそれに従った。農耕と養蚕を推奨することで、地の利を尽くした。


漢文

 十七年、王巡撫六部、妃閼英從焉。勸督農桑、以盡地利。

書き下し文

 十七年、きみは六部を巡りで、きさきの閼英も焉れに從ふ。はたけこがひ勸督すすめうながし、以ちてつちめぐみを盡す。

十九年

現代語訳

 十九年(前36年)春正月、卞韓が国を挙げて投降した。


漢文

 十九年春正月、卞韓以國來降。

書き下し文

 十九年春正月、卞韓、國を以ちてくだりに來たり。

二十一年

現代語訳

 二十一年(前34年)、京城を築き、よびなは金城とした。この年に高句麗の始祖東明が立った。


漢文

 二十一年、築京城、號曰金城。是歲、高句麗始祖東明立。

書き下し文

 二十一年、京城を築き、よびなして金城と曰ふ。是の歲、高句麗の始祖はぢめおやの東明立つ。

二十四年

現代語訳

 二十四年(前33年)夏六月壬申みずのえさるみそか、日食があった。


漢文

 二十四年夏六月壬申晦、日有食之。

書き下し文

 二十四年夏六月壬申みずのえさるみそか、日之れを食すること有り。

二十六年

現代語訳

 二十六年(前31年)春正月、金城に宮室を用意した。


漢文

 二十六年春正月、營宮室於金城。  

書き下し文

 二十六年春正月、宮室を金城に營む。  

三十年

現代語訳

 三十年(前27年)夏四月己亥つちのといみそか、日食があった。

 楽浪人が兵を引き連れて侵しに来たが、国境付近の人々が夜も戸締りをせず、収穫した農作物を野に積んだままにしていたのを見て、互いに「ここに住む人民は互いに盗みをしないようだ。有道の国と言う他ない。軍隊を潜伏させて襲撃しようとしていた我々は盗賊と何も変わらない。恥じずにおられようか!」と言い合い、そのまま引き返した。


漢文

 三十年夏四月己亥晦、日有食之。樂浪人將兵來侵、見邊人夜戶不扃、露積被野、相謂曰、此方民不相盜、可謂有道之國。吾儕潛師而襲之、無異於盜、得不愧乎。乃引還。

書き下し文

 三十年夏四月己亥つちのといみそか、日之れを食すること有り。樂浪の人のいくさひとひきゐて、侵しに來たるも、くにへの人の夜に戶のとざさるるなく、あらは被野を積むを見、相ひ謂ひて曰く、此のところの民は相ひ盜まず、有道の國と謂ふ可し。吾儕われらいくさを潛ませて之れを襲はむとするは、盜に異なること無し、はぢざるを得むや、と。乃ち引き還す。

三十二年

現代語訳

 三十二年(前25年)秋八月乙卯きのとうみそか、日食があった。


漢文

 三十二年秋八月乙卯晦、日有食之。

書き下し文

 三十二年秋八月乙卯きのとうみそか、日之れを食すること有り。

三十八年

現代語訳

 三十八年(前19年)春二月、瓠公を派遣し、馬韓に聘問させた。馬韓王は瓠公を責め立て、「辰韓と卞韓の二国は我が属国でありながら、この頃は職貢みつぎものを奉げておらぬではないか。大国に小国が仕える礼とは、このようなものであろうか?」と言ったので、「我が国は二聖から始まり、人々は懸命に働き、天の時も和合し、倉庫は食糧で満ち足りており、人民は敬讓である。辰韓の遺民から始まり卞韓、楽浪、倭人に至るまで、二聖に畏懐していない者はいない。それなのに我が国の王が謙虚にも臣下を遣わせて聘礼させたのは、過剰な礼と言うべきものであろう。それなのに大王は赫怒し、武力を用いて我が国を脅かそうとしている。これは一体どういうつもりだ。」と答えた。王は憤怒して彼を殺そうとしたが、左右が諫止し、そのまま帰国を許した。

 それ以前のこと、中国の人々は大秦帝国の乱政に苦しみ、東に渡ってきた者も数多くいた。その多数が馬韓の東を住処とし、辰韓と共に雑居したので、この時から少しずつ、確実に盛況となっていったのだ。ゆえに馬韓はそれを疎ましく思い、いびるようになったのである。瓠公は、その族姓はよくわからないが、もともとは倭人で、最初はひさごが腰からぶら下がったまま海を渡ってきたことから、瓠公と呼ばれるようになったのだ。


漢文

 三十八年春二月、遣瓠公聘於馬韓。馬韓王責讓瓠公曰、辰、卞二韓爲我屬國、比年不輸職貢、事大之禮、其若是乎。對曰、我國自二聖肇興、人事修、天時和、倉庾充實、人民敬讓。自辰韓遺民以至卞韓、樂浪、倭人無不畏懷。而吾王謙虛、遣下臣修聘、可謂過於禮矣。而大王赫怒、劫之以兵、是何意耶。王憤欲殺之、左右諫止、乃許歸。前此中國之人苦秦亂、東來者衆、多處馬韓東、與辰韓雜居、至是䆮盛、故馬韓忌之、有責焉。瓠公者、未詳其族姓、本倭人、初以瓠繫腰渡海而來、故稱瓠公。

書き下し文

 三十八年春二月、瓠公を遣り馬韓にたづねせしむ。馬韓のきみは瓠公に責讓とがめて曰く、辰卞の二韓ふたつのからくには我がきたる國るも、比年このごろ職貢みつぎものささぐことなし。おほくにつかふるの禮、其れ是くの若くなるか、と。對へて曰く、我が國は二聖よりはぢめて興り、人の事は修まり、天の時に和、倉庾くら充實ち、人民たみ敬讓かしこまりき。辰韓の遺民より以ちて卞韓、樂浪、倭人に至るまで畏れ懷くにあらざるもの無し。而れども吾がきみ謙虛つつましきたればこそ、下臣をみを遣はしてたづぬるを修めせしむるは、禮に過ぎたるを謂ふ可し。而れども大王おほきみ赫怒いかり、之れをおびやかすにいくさを以てするは、是れ何のこころなるか、と。きみは憤りて之れを殺さむとおもひたるも、左右すけは諫め止め、乃ち歸するを許す。此れより前、中國の人は秦の亂に苦しみ、東に來たる者もかずおほし。多くは馬韓の東にみ、辰韓とともこもごもすまひ、是に至りてやうやさかり、故に馬韓は之れを忌み、責むること有りけり。瓠公は、未だ其の族姓は詳らかならざるも、もともとは倭人、初めひさごの腰に繫ぎて海を渡り來たるを以ちて、故に瓠公をふ。

三十九年

現代語訳

 三十九年(前18年)、馬韓王が薨去した。とある人物が始祖に「西韓王は前に我が国の使者を辱めました。今まさにその喪中、あちらに征伐すれば、かの国も平然としてはおられますまい。」と説いたが、君上は「人のわざわいさいわいとするのは不仁である。」と言って従わず、そのまま使者を派遣して弔慰した。


漢文

 三十九年、馬韓王薨、或說上曰、西韓王前辱我使、今當其喪征之、其國不足平也。上曰、幸人之災、不仁也。不從、乃遣使弔慰。

書き下し文

 三十九年、馬韓のきみみまかれり。あるひときみに說きて曰く、西韓にしからきみさきわがくに使つかひを辱しむ。今ぞ其の喪に當たりて之れを征たば、其の國も平かなるに足らざるなり、と。きみ曰く、人のわざはひさいはひとするは不仁なり、と。從はず、乃ち使つかひを遣はして弔慰とむらふ。

四十年

現代語訳

 四十年(前17年)、百済の始祖溫祚が立った。 


漢文

 四十年、百濟始祖溫祚立。

書き下し文

 四十年、百濟くだらの始祖はぢめおやの溫祚立つ。 

四十三年

現代語訳

 四十三年(前14年)春二月乙酉きのととりみそか、日食があった。


漢文

 四十三年春二月乙酉晦、日有食之。

書き下し文

 四十三年春二月乙酉きのととりみそか、日之れを食すること有り。

五十三年

現代語訳

 五十三年(前4年)、東沃沮の使者が良馬二十匹を献上しに来て言った。
「寡君は南韓に聖人が出現したと聞きました。だから臣下を派遣してささげに来たのです。」


漢文

 五十三年、東沃沮使者來獻良馬二十匹、曰、寡君聞南韓有聖人出、故遣臣來享。

書き下し文

 五十三年、東沃沮の使者、良き馬二十匹をささげに來たりて曰く、寡君わがきみは南韓に聖人の出づる有るを聞き、故にわれを遣はしてささげに來たり、と。

五十四年

現代語訳

 五十四年(前3年)春二月己酉つちのととり、星孛が河皼に現れた。


漢文

 五十四年春二月己酉、星孛于河皼。

書き下し文

 五十四年春二月己酉つちのととり星孛ながれぼし、河皼にあり。

五十六年

現代語訳

 五十六年(前1年)春正月辛丑かのとうしついたち、日食があった。  


漢文

 五十六年春正月辛丑朔、日有食之。   

書き下し文

 五十六年春正月辛丑かのとうしつひたち、日之れを食すること有り。   

五十九年

現代語訳

 五十九年(3年)秋九月戊申つちのえさるみそか、日食があった。  


漢文

 五十九年秋九月戊申晦、日有食之。  

書き下し文

 五十九年秋九月戊申つちのえさるみそか、日之れを食すること有り。  

六十年

現代語訳

 六十年(4年)秋九月、二龍が金城の井の中に現れ、はげしい雷雨によって城の南門が震えた。 


漢文

 六十年秋九月、二龍見於金城井中、暴雷雨、震城南門。 

書き下し文

 六十年秋九月、二龍、金城の井の中にあらはれ、はげしく雷雨し、城の南門を震はせしむ。 

六十一年

現代語訳

 六十一年(5年)春三月、居西干が遥か遠くの天まで昇り、虵陵に葬られた。現在の曇巖寺の北である。


漢文

 六十一年春三月、居西干升遐、葬虵陵、在曇巖寺北。

書き下し文

 六十一年春三月、居西干はるかにのぼり、虵陵に葬らる。曇巖寺の北に在り。

注記

前漢孝宣帝五鳳元年甲子きのえね

 中華王朝の暦による年数。紀元前57年。前漢は中華王朝の名称。前漢孝宣帝は前漢王朝の10代皇帝。6代武帝の曾孫。武帝の子である祖父が冤罪を蒙ったことで民間で育つことになったが、武帝の死後に7代、8代、9代と幼君と暗君が続き、彼が皇帝に抜擢された。五鳳は孝宣帝年間における5番目の元号。

宣帝
前漢孝宣帝

徐那伐

 朝鮮語では、「서라벌ソラボル」といい、これが現在の韓国の首都ソウルの語源であるとも言われる。

朝鮮の遺民

 現代日本において朝鮮とは朝鮮半島(韓半島、高麗半島)を基本的に指すが、ここでの朝鮮は半島北部から大陸境界の周辺地域のこと。半島北部が「朝鮮」であり、半島南部には「韓」などの小国が林立していた。漢書地理志燕地条によれば、この地域に殷王朝の末期に亡命した箕氏によって朝鮮国が建てられたとされている。これを箕氏朝鮮という。史記朝鮮伝によれば、その後に燕人の満が朝鮮に亡命し、そこに国を建てた。これを現在は一般に衛氏朝鮮というが、この建国について、後漢書の東夷三韓伝によれば、燕から亡命した衛満は、当時(箕氏)朝鮮の王であった准を攻め滅ぼして王になったのだという。そこで准の残党数千人は南方に海を渡って韓に辿り着くと、韓諸国のうちのひとつ馬韓を撃ち破って韓王となった。ここでの「朝鮮の遺民」は、本文中では時期が同定されていないが、おそらくこの時期の亡命者を指すと思われる。三国史記では他の箇所で朝鮮の語は朝鮮地域を指していることから、少なくとも北方地域の亡命者を指して「朝鮮の遺民」としていることは推測できる。

辰韓六部

 辰韓については、後漢書の東夷三韓伝魏志韓伝に記録がある。三韓とは馬韓、辰韓、弁辰(弁韓)の総称であり、辰韓と弁辰(弁韓)は馬韓に服属している。閼川楊山村、突山高墟村、觜山珍支村(干珍村)、茂山大樹村、金山加利村(加里村)、明活山高耶村はすべて現在の韓国の慶尚北道の慶州市内にあると考えられている。
後漢末の朝鮮地図
後漢末(3世紀頃)の朝鮮半島の地図

蘇伐公

 高墟村の村長であるが、蘇伐は朝鮮語では「소벌ソボル」であり、申采浩の考察によれば、これは国名の「徐羅伐(서라벌ソラボル)」に通じ、もともと蘇伐という一地域の首長の養子であった朴赫居世が、辰韓六部の全体を統括するようになったのだという。

跪いていななく馬

 韓国有数の古墳群『大陵苑(慶尚北道慶州市皇南洞)』の塚から発掘された白樺の木で製造された泥除けには、翼を生やして天を翔ける馬が描かれており、この塚は天馬塚と名付けられている。また、易経における陰陽のすべてが陰となる大地の卦『坤為地』は牝馬を象徴とする卦であり、すべてが陽となる天空の卦『乾為天』の象徴である龍と対称関係にある。

大きな卵が転がっているだけであった。それを割ってみると、なんと乳児が出てきたではないか。

 卵生神話はインド、東南アジア、中国、アフリカと広く存在しており、たとえば越南の史書である『大越史記全書』にも登場する。

龍が閼英井に現れ、右脇から女児を産み出した。

 右脇から生まれたのは仏教の開祖ゴータマ・ブッダと同様。ブッダも出生の際に龍が現れたとの伝説がある。また、易経において龍は陽の象徴であり、馬が陰の象徴なっていることから、出生が馬と関連する朴赫居世との対比となっているものだと思われる。
摩耶夫人とブッダ
摩耶夫人と右脇から生まれるブッダ

倭人

 三國史記で最初に登場する異民族。倭は現在の日本の元となる国家とされ、半島の東の海の先にある島国であると思われる。一番最初に韓国を襲撃する異民族である。大日本帝国恐るべし。

星孛

 流星のこと。
星孛
星孛

王良

 星官(中国における星座)のひとつ。トレミーの48星座ではちょうどカシオペア座にあたる。王良は春秋時代の御者の名で、一星を馬車、四星を馬に見立てる。
王良
王良

 星官(中国における星座)のひとつ。トレミーの48星座ではちょうどオリオン座に当たる。
参
王良

卞韓

 弁韓のこと。馬韓、辰韓と並ぶ三韓のひとつ。三国志の魏志韓伝では馬韓、辰韓、弁韓が並立されており、紀元200-300年頃の時点を記録したものでは別個の国であるのに、紀元前であるはずのここで辰韓に弁韓が国ごと投降したことになっているのはおかしい。ただ、それ以前の紀元0-200年頃を記録した後漢書東夷三韓伝では、弁韓が「弁辰」となっており、ここに意図があるのかもしれない。よくわからない。

楽浪

 半島北東部を指す。漢武帝の定めた地域区分で、中国の史書では独立した国家として扱われることはないはず……だけど、ここだと国や民族のように扱われる。よくわからない。漢書地理志燕地条史記朝鮮伝に登場する。

人々が夜も戸締りをせず、収穫した農作物を野に積んだままにしていた

 中国の『漢書地理志燕地条』『後漢書東夷伝評語』等に描かれる朝鮮の特徴。太古に朝鮮地域を治めていたとされる箕子の育んだ文化に基づいて、そのような風土が形成されたという歴史認識が存在していた。本文の内容は、これに引き寄せたものだと思われる。

馬韓

 辰韓、弁韓と並ぶ三韓のひとつにして最大の国家。後漢書東夷三韓伝によれば、一度は箕氏朝鮮からの遺民が国を奪ったが、また現地人が王に立ったとのこと。ここで馬韓王は辰王と呼称されている。後漢書東夷三韓伝には、辰韓は秦帝国からの亡命者が馬韓から領土を割譲されて建国したものとの伝承が述べられ、実際に秦と用いる語彙もよく似ており、辰韓には秦韓という別名があると述べられている。

大秦帝国

 中華王朝の名称。前漢の前の王朝。紀元前221年から206年まで。500年以上にわたる戦乱の春秋戦国時代を治めて中国の統一を果たしたが、僅か15年で瓦解した。その理由のひとつとして刑罰の厳しさが挙げられ、治世の代から流民が発生した。
大秦帝国
秦代(前210年)の中国地図

東沃沮

 沃沮は朝鮮半島北西部に居住していた民族。北沃沮と別れる。これらについては後漢書の東夷東沃沮伝魏志東沃沮伝に記述がある。

河皼

 星官のひとつ。河鼓三星のこと。トレミーの48星座における鷲座のα星(アルタイル)、β星(アルシャイン)、γ星(タラゼット)によって構成される。
河鼓三星
河鼓三星

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底本

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改易

 馬韓王讓瓠公曰→馬韓王責讓瓠公曰

 前者であれば、「馬韓王は瓠公に遠慮がちに~と言った」となり、「馬韓王は瓠公を責め立て~と言った」となる。旧版では前者の通りに訳したが、属国が朝貢を絶やしていることへの批判をおこなう宗主国の王の発言としては違和感がある。(もちろん、朴赫居世の威光と辰韓の伸張を恐れていたとも解釈できるし、最初は訳者もそう考えたが。)

 また、本書において『責讓』の語は、本書巻十五太祖大王紀九十四年文注と巻二十三温祚王紀二十四年の二度に渡って登場し、内容にも違和感がない。

 よって、これを『責』の欠字と見なし、以上のように本文を改易した。