夫餘国は玄菟郡の北千里余りにあり、南は鮮卑と接し、北には弱水があり、土地の面積は二千里、人戸は八万、城邑と宮室を有し、土地は五穀の栽培に向いている。その人は強勇、会合では手を拱めながら挨拶をして譲り合うのが行儀であり、中国と似たところがある。その使者が出るときには、錦罽を身につけ、金と銀で腰を飾る。その法は、人を殺す者は死刑に処し、その家を没収する。盜みをした者は一につき十二倍の賠償責任を負う。男と女の姦淫や婦人の
武帝の時、頻繁に朝貢に来て、太康六年になると、慕容廆に襲撃されて破られた。その王の依慮は自殺し、子弟も沃沮に逃走して留まった。帝は下詔した。「夫餘王は代々にわたって忠孝を守っていたのに悪しき蛮族どもに滅ぼされてしまい、このことに思いは乱されるばかりである。もしその遺類から国を復興させられる者があれば、その為の
(※2)鮮卑
(※3)弱水
(※4)貂豽
(※5)穢王之印
(※6)武帝
(※7)慕容廆
(※8)沃沮
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≪白文≫
武帝時、頻來朝貢、至太康六年、爲慕容廆所襲破、其王依慮自殺、子弟走保沃沮。帝爲下詔曰、夫餘王世守忠孝、爲惡虜所滅、其湣念之。若其遺類足以復國者、當爲之方計、使得存立。有司奏護東夷校尉鮮于嬰不救夫餘、失於機略。詔免嬰、以何龕代之。明年、夫餘後王依羅遣詣龕、求率見人還復舊國。仍請援。龕上列、遣督郵賈沈以兵送之。廆又要之于路、沈與戰、大敗之、廆衆退、羅得復國。爾後每爲廆掠其種人、賣於中國。帝湣之、又發詔以官物贖還、下司、冀二州、禁市夫餘之口。
武帝の時、
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