広開土王碑

第一面

現代語訳

 かつて始祖の鄒牟王が国家の礎を創造されたことをよくよく思い出してみるがよい。北夫餘を出自とし、天帝の息子であり母は河伯の娘、卵を割って現世にお降りになられた。生まれながらに聖性を有し、【□□□□□□】天命を受けて馬を操り、巡幸して南に下り、道すがらに扶余の奄利大川を通りがかると、王が岸辺に臨んでおっしゃられた。

「我こそは皇天の子、母は河伯の娘、鄒牟王であるぞ! 我が為に葦を編み連ね、亀を浮かべるがよい!」

 その声に応えて、すぐに葦が編み連なり亀が浮かび、沸流の谷まで届いた。忽本の西の城山の上に都を建てられたが、現世の王位を楽しまれはせず、天は黄龍を遣わせて下界に降し、王を迎えられた。王が忽本の東の岡に佇むと、黄龍が彼を背に負って天に昇られた。天命を顧みた世子の儒留王は、道理によって統治を興された。大朱留王は創業を継承された。□十七世の孫まで至り、国岡上広開土境平安好太王は十八歳にして王位に就いた。永楽太王と號し、恩沢は皇天にあまねく行き渡り、武威を奮って四海を覆った。□□を払い除け、庶民は自らの生業に安堵した。国家は富み、人民は豊かになり、五穀は豊穣となったが、昊天は惜しみなく彼を奪い去る。(王は)三十九歳にして天朝にお顔を出すのがお遅れになられた。国をお棄てになられたのである。甲寅(きのえとら)の年(414年)の九月二十九日の乙酉(きのととり)をもって山陵に遷就し、そこに碑銘を立て、勲功を記し、これによって後の世に示すことにする。

 その辞を以下に記そう。

 永楽五年(396年)の歳は乙未 きのとひつじ にあり。王は碑麗が【不口□人】自ら率いて討伐に向かい、富山と負山を通り過ぎ、鹽水の ほとり までたどり着くと、その丘の部落の六、七百の営を打ち破り、牛や馬、群を為す羊を数え切れないほど手に入れた。そこで御輿を引き返し、襄平道から東來候城、力城、北豊、五備海を通り過ぎ、国境をご遊覧なされ、狩猟をして帰還した。百残と新羅は古くからの属民であったので、いつも朝貢に来ていた。ところが倭が辛卯 かのとう の年(391年)から来ていた。海を渡って百残を破り、【□□】新羅は臣民になることにした。六年(397年)の丙申 ひのえさる をもって、王は自ら水軍を率いて残国の軍の【□□首】を討ち取り、壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弖利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍蔦城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古須耶羅、城莫□城、□□城、分而能羅城、場城於利城、農賣城、豆奴城、沸□□


漢文

惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有聖□□□□□□命駕巡幸南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮龜應聲即為連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉不樂世位天遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勳績以示後世焉其辭曰永樂五年歳在乙未王以碑麗不口□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百営牛馬群羊不可稱數於是旋駕因過襄平道東來候城力城北豊五備海遊觀土境田獵而還百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民以六年丙申王躬率水軍討伐殘國軍□□首攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城閣彌城牟盧城彌沙城□舍蔦城阿旦城古利城□利城雜彌城奧利城勾牟城古須耶羅城莫□城□□城分而能羅城場城於利城農賣城豆奴城沸□□

書き下し文

  かつ 始祖 はじめおや 鄒牟 すむ きみ もとい を創りたまふを おも へ。北夫餘 まれ、天帝 あまつみかど むすこ 、母は河伯の女郎 うなご 、卵を りて うつしよ に降り、生まれながらにして ひじり たるを ち【�□□□□□】 みことのり して うまの らせしめ、巡幸 みゆき して南に下り、 みち 夫餘 ふよ 奄利 いり 大水 おほかは たまへば、 おほきみ は津を臨みて まを さく、我は是れ皇天 あめのすめら むすこ にして母は河伯の女郎 うなご たる鄒牟 すむ きみ 、我が為に あしぶえ を連ね、龜を浮かぶべし、とて りたまひき。聲に こた へ、即ち あしぶえ を連ねて龜を浮かぶることに り、然る後に わた ること沸流の谷に とど き、忽本 そほに の西の城山 しろやま の上にして都を建てたまひらむ。 うつしよ くらひ を樂しみたまふにあらじ、 あめ 黃龍 くわうりう を遣はして つち に來たらしめ おほきみ を迎えたまひき。 おほきみ は忽本の東の岡に於いて、黃龍は負ひて あめ に昇りたまひき。 みことのり を顧みるは世子 よつぎ 儒留 ゆる きみ 、道を以ちて をさむ を興したまひき。 おほ 朱留 する きみ もとい みわざ 紹承 あまつひつぎ したまひき。□十七世 とあまりななつよ の孫まで至り、國岡上廣開土境平安好 みくにおかうへにつちをひらきてたひらげやすらぎまします 太王 おほきみ は二九に登祚 あまつひつぎ し、 びて永樂 ながらきのたのします 太王 おほきみ と為し、恩澤 いつくしみ 皇天 あめのすめら あまね くし、威武 たけき は振るいて四海 よものみ に被りたまひき。□□を掃き除け、 もろひと は其の みわざ やす らぐ。國は富みて民は さか り、 いつくさ たなつもの は豊かに みの るも、昊天 おほひなるあめ あは れとせず、 みそ あまり にして晏駕 みまか りて國を棄てたまひき。甲寅 きのえとら の年の九月廿九日の乙酉 きのととり を以ちて山陵 みささき に遷し就かせしめ、是に於いて碑銘 いしふみ を立て勳績 いさをし を記し、以ちて後の世に示したらむ。其の ことは に曰はく、永樂五年の歳は乙未 きのとひつじ に在り。 おほきみ は以ちて碑麗の【不口□人】 みづか ら率いて往き討ち、富山負山を過ぎ、鹽水の ほとり まで至りて其の丘の部洛 むら の六七百営を破り、牛と馬と群つ羊は數を ふ可からず。是に於いて くるま かへ し、因りて襄平道より、東來候城、力城、北豊、五備海を過ぎ、土境 くにさかひ を遊び觀て、田獵 かり をして還りたまひき。百殘と新羅 しらき かつ てより是れ きたる民、由りて朝貢 みつぎ に來たり。而れども倭は辛卯 かのとう の年を り來て、海を渡りて百殘を破り、【□□】新羅は以ちて臣民 をみ らむとす。六年の丙申 ひのえさる を以ちて おほきみ みづか ら水軍を率いて殘國の いくさ 討伐 うちはら ひたるは、□□首、攻め取りたるは、壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弖利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍蔦城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古須耶羅、城莫□城、□□城、分而能羅城、場城於利城、農賣城、豆奴城、沸□□

第二面

現代語訳

利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城、敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城、細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城を攻め取ったが、百残は義に服さずに敢えて百戦に出た。王は激しく赫怒し、阿利水を渡って先遣隊を派遣し、城に迫って、【□□□□□】こうして城を包囲した。すると百残の主は逼迫して困り果て、□男女の奴隷一千人と細布千匝を献上し、王に跪いて以後は永遠に従属し、奴客となると自ら誓ったので、太王の恩慈によって先の錯乱を赦され、その後の従順するとの誠意を記録された。こうして五十八の城と村七百を獲得し、百残の主の弟と大臣併せて十人を連れていき、軍隊を引き返して都に帰還なさられた。

 八年(399年)の戊戌 つちのえいぬ 、軍隊の一部を粛慎に派遣し、地質や地形を観察させ、そのついでに莫新羅城と加太羅谷を抄奪して男女三百人余りを奪い取り、これ以降は朝貢して仕えるように言いつけた。九年の己亥 つちのとい (400年)、百残は誓約に違って倭と和通した。王が平壌に巡下したその後、新羅は使者を遣わせて王に告げ、「倭人が我が国との境界に満ち溢れ、城の堀を潰して破り、奴客 われら を民としております。王に帰順し、命を請いたく思います。」と伝えた。太王は恩慈 いつくしみ をもってその忠誠を あわれ み、使者を帰還させるとともに、密計を伝えて報告させた。十年庚子 かのえね (401年)、歩兵と騎兵を合わせて五万人を派遣し、新羅の救援に向かわせた。男居城から新羅城までたどり着くと、倭人がその中に満ちていた。これから官軍が倭賊にたどり着こうという時に、【退□□□□□□□□□背】急いで追撃して任那加羅までたどり着き、城を陥落させと、城はすぐに帰服した。安羅人は兵を駐屯させ、【□新羅城□城】倭人が満ち溢れ、【大潰城口□□□□□□□□□□□□□□□□十□□□□】安羅人が兵を駐屯させると、【滿□□□□其□□□□□□□言


漢文

利城彌鄒城也利城大山韓城掃加城敦拔城□□□城婁實城散那城□婁城細城牟婁城弓婁城蘇灰城燕婁城柝支利城巖門至城林城□□城□□城□利城就鄒城□拔城古牟婁城閨奴城貫奴城豐穰城□□城儒□羅城仇天城□□□□□其國城残不服義敢出百戰王威赫怒渡阿利水遣刺迫城□□□□□便圍城而殘主困逼獻□男女生白一千人細布千匝跪王自誓從今以後永為奴客太王恩赦先迷之愆録其後順之誠於是得五十八城村七百將殘主弟并大臣十人旋師還都八年戊戌教遣偏師觀粛慎土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以來朝貢論事九年己亥百殘違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人滿其國境潰破城池以奴客為民歸王請命太王恩慈矜其忠誠時遣使還告以密計十年庚子教遣步騎五萬往救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退□□□□□□□□□背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵□新羅城□城倭滿大潰城口□□□□□□□□□□□□□□□□十□□□□安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言

書き下し文

利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城、敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城、細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城なるも、残は よろ しきに したが はず、敢えて百戰 ももいくさ に出づ。 おほきみ はげ しく赫怒 いか り、阿利の かは を渡り、 さき を遣りて城に迫らせしめ、【□□□□□】便 りて城を圍み、而りて残の あるぢ せまり に困り、□男女 をめ 生白 しもへ 一千人 ちたり と細布千匝を たてまつ り、 おほきみ ひざまづ きて自ら今 より 後は とこしへ に從ひ、奴客 しもへ と為らむと誓ひたれば、太王 おほきみ いつくし みて先つ まよひ とが を赦し、其の後の したが ひたるの まこと しる したまひき。是に於いて五十八 いそあまりやつ の城と村七百 しちを を得、殘の あるぢ の弟と大臣并せて十人を ひき いて いくさ かへ して都に還りたまひき。八年の戊戌 つちのえいぬ 偏師 いくさ 教遣 つか はせて粛慎 みしはせ の土と谷を觀させしめ、因りて便 すなは かす りて莫新羅城と加太羅谷の男女 をめ 三百餘人 みほたりあまり を得、此れ 以來 さき 朝貢 みつぎ して事うると ひたり。九年の己亥 つちのとい 、百殘は ちかひ に違ひて倭と とも 和通 にき したり。 おほきみ は平穰に巡り下り、而して新羅は使 つかひ を遣りて おほきみ まを さく、倭人は其の國の さかひ に滿ち、城の ほり を潰し破り、奴客 われ を以ちて民と為す。 きみ したが ひ、 みことのり を請はむ、と ひたり。太王 おほきみ 恩慈 いつくしみ は其の忠誠 まこと あはれ み、時に使 つかひ を遣りて還り告げせしむるに密かなる はかりごと を以ちてす。十年庚子 かのえね あしがる うまいくさ 五萬 いつよろづたり 教遣 つか はせて、往かせしめて新羅 しらき を救ひ、男居城 り新羅城に至らば、倭は其の中に滿つ。官軍 つかさのいくさ まさ に倭の あた に至らむとすれば、退□□□□□□□□□背急きて追ひて任那加羅 みなまから まで至り、 りて城を拔かば、城は即ち歸服 した がひたり。安羅 あら の人は いくさひと たむろ せしめ、【□新羅城□城】倭は滿ちて【大潰城口□□□□□□□□□□□□□□□□十□□□□】安羅 あら の人は いくさひと たむろ せしめ、【滿□□□□其□□□□□□□言

第三面

現代語訳

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□□隨□】安羅人は兵を駐屯させたが、かつての新羅の寐錦は未だ【有身來論事□国岡上廣開土境好太王□□□羅寐□□□僕句□□□□朝貢】。十四年甲辰 きのえたつ (404年)になってから、倭は従わずに帯方の境界に侵入し、【□□□□□石城□連船□□□□□率□□□平穰□□□】先鋒が互いに衝突した。王の戦旗が迎え撃ち、自在闊達の矛先によって倭寇は潰敗し、斬り殺された者は数え切れぬほどである。十七年の丁未 ひのとひつじ (407年)に歩兵とと騎兵の五万を派遣し、【□□□□□□□□□城□□】合戦してすべてを斬り殺し尽くし、獲得した鎧兜は一万を超えた。指揮した軍勢の資材と器械は数えきれないほどである。帰還しながら【沙溝城□城□住城□□□□□□□□城】を破った。二十年の庚戌 かのえいぬ (410年)には、かつて鄒牟王の属民であったはずの東夫餘が、内側から叛いて朝貢しなくなった。王自ら討伐軍を率い、餘城までたどり着くと、【餘城國□□□□□□□□□□】王の恩慈 いつくしみ はあまねく行き渡った。こうして引き返し、またその慕って教化を受け、官途に隨って来た者には、味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□鏈婁鴨盧、肅斯舍鴨□□□□鴨盧がおり、攻め破った城の総計は六十四村である。一千四百人は守墓人。烟戸の賣勾余民国の烟は二人、看烟は三人。東海賈国の烟は三人、看烟は五人。 敦城の民の四家はすべてを城における看烟とし、一家を看烟とする。碑利城は二家を国烟とする。平穰城民国の烟は一人、看烟は十人。呰連は二家を看烟とする。住婁人国の烟は一人、看烟は四十二人。溪谷は二家を看烟とし、梁城は二家を看烟とし、安失連は二十二家を看烟とし、改谷は三家を看烟とし、新城は三家を看烟とし、南蘇城を一家國烟とする。新たに来た韓と穢の沙水城の国烟は一人、看烟も一人、牟婁城は二家を看烟とし、豆比鴨岑韓は五家を看烟とし、勾牟客頭は二家を看烟とし、永底韓は一家を看烟とする。舍蔦城韓穢の国烟は三人、看烟は二十一人。古家耶羅城は一家を看烟とする。炅古城の国烟は一人、看烟は三人、客賢韓は一家を看烟とし、阿旦城と雜珍城は合わせて十家を看烟とし、巴奴城韓は九家を看烟とし、各模廬城は四家を看烟とし、各模盧城は二家を看烟とし、牟水城は三家を看烟とする。幹弓利城の国烟は二人、看烟は三人。彌舊城の国烟は七人、看烟は


漢文

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□□隨□安羅人戍兵昔新羅寐錦未有身來論事□國岡上廣開土境好太王□□□羅寐□□□僕句□□□□朝貢十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界□□□□□石城□連船□□□□□率□□□平穰□□□鋒相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數十七年丁未教遣步騎五萬□□□□□□□□□城□□合戰斬殺蕩盡所獲鎧鉀一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城□城□住城□□□□□□□□城廿年庚戌東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城國□□□□□□□□□□王恩晋覆於是旋還又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□鏈婁鴨盧肅斯舍鴨□□□□鴨盧凡所攻破城六十四村一千四百守墓人烟戸賣勾余民國烟二看烟三東海賈國烟三看烟五敦城民四家盡為看烟于城一家為看烟碑利城二家為國烟平穰城民國烟一看烟十呰連二家為看烟住婁人國烟一看烟卌二溪谷二家為看烟梁城二家為看烟安失連廿二家為看烟改谷三家為看烟新城三家為看烟南蘇城一家為國烟新來韓穢沙水城國烟一看烟一牟婁城二家為看烟豆比鴨岑韓五家為看烟勾牟客頭二家為看烟永底韓一家為看烟舍蔦城韓穢國烟三看烟廿一古家耶羅城一家為看烟炅古城國烟一看烟三客賢韓一家為看烟阿旦城雜珍城合十家為看烟巴奴城韓九家為看烟各模廬城四家為看烟各模盧城二家為看烟牟水城三家為看烟幹弓利城國烟二看烟三彌舊城國烟七看烟

書き下し文

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□□隨□】安羅 あら の人は いくさひと たむろ せしむるも、 かつ ての新羅 しらき 寐錦 むきむ は未だ【有身來論事□國岡上廣開土境好太王□□□羅寐□□□僕句□□□□朝貢。】十四年甲辰 きのえたつ にして倭は不軌 そむ きて帶方の さかひ に侵し入り、【□□□□□石城□連船□□□□□率□□□平穰□□□】 さき は相ひ まみ ゆ。 おほきみ はたほこ 要截 むかへう ちて ほさき ほしいまま にし、倭の あた は潰れ敗れて斬り殺さるるは數うること無かりけり。十七年丁未 ひのとひつじ あしがる うまいくさ 五萬 いつよろづたり 教遣 つか はして【□□□□□□□□□城□□】合ひ戰ひて斬り殺すこと蕩盡 きたりて、獲る所の鎧鉀 よろひ 一萬餘 ひとよろづあまり にして領むる いくさ たから 器械 うつは は數うるに勝ふ可からず。還りて沙溝城□城□住城□□□□□□□□城を破りたり。廿年 はつかどし 庚戌 かのえいぬ に東夫餘は かつ て是れ鄒牟 すむ きみ きたる民、 うち に叛きて貢がじ。 きみ みづか ら往き討ちたる いくさ を率い、餘城に到り、而して餘城國【□□□□□□□□□□】 きみ いつくしみ あまね おほ ひたり。是に於いて旋還 かへ り、又た其の した ふに りて つかさ に隨ひ來たる者の味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□鏈婁鴨盧、肅斯舍鴨□□□□鴨盧、 すべ ての攻め破る所の城は六十四 むそあまりよつ の村。一千四百 ちあまりよほたり 守墓人 はかもりひと 烟戸 けぶりのへ の賣勾余民國の烟は ふたり 、看烟は みたり 、東海賈國の烟は みたり 、看烟は いつたり 、敦城民の四家 よついえ ことごと くは城に于 いて看烟と為り、一家 ひといえ は看烟と為る。碑利城の二家 ふたいえ は國烟と為る。平穰城民國の烟は ひとり 、看烟は とたり 呰連の二家 ふたいえ は看烟と為る。住婁人國の烟は ひとり 、看烟卌二 よそあまりふたり 、溪谷の二家 ふたいえ は看烟と為る。梁城の二家 ふたいえ は看烟と為り、安失連の廿二家 はたちあまりふたいえ は看烟と為り、改谷の三家 みついえ は看烟と為り、新城の三家 みついえ は看烟と為り、南蘇城の一家 ひといえ は國烟と為り、新たに來たる韓と穢の沙水城の國烟は ひとり 、看烟も ひとり 、牟婁城の二家 ふたいえ は看烟と為り、豆比鴨岑韓の五家 いついえ は看烟と為り、勾牟客頭の二家 ふたいえ は看烟と為り、永底韓の一家 ひといえ は看烟と為り、舍蔦城韓穢の國烟は みたり 、看烟は廿一 ふたそあまりひとり 、古家耶羅城の一家 ひといえ は看烟と為り、炅古城の國烟は ひとり 、看烟は みたり 、客賢韓の一家 ひといえ は看烟と為り、阿旦城と雜珍城の合はせて十家 といえ は看烟と為り、巴奴城韓の九家 ここのいえ は看烟と為り、各模廬城の四家 よついえ は看烟と為り、各模盧城の二家 ふたいえ は看烟と為り、牟水城の三家 みついえ は看烟と為り、幹弓利城の國烟は ふたり 、看烟は みたり 、彌舊城の國烟は ななたり 、看烟は

第四面

現代語訳

□□□□七人、也利城の三家を看烟とする。豆奴城の国烟は一人、看烟は二人。奧利城の国烟は二人、看烟は八人。須鄒城の国烟は二人、看烟は五人。百残の南にいる韓の国烟は一人、看烟は五人、大山韓城は六家を看烟とする。農賣城の国姻は一人、看烟は一人。閏奴城の国烟は二人、看烟は二十二人。古牟婁城の国烟は二人、看烟は八人。琢城の国烟は一人、看烟は八人、味城は六家を看烟とし、就咨城は五家を看烟とし、豐穰城は二十四家を看烟とし、散那城は一家を国烟とし、那旦城は一家を看烟とし、勾牟城は一家を看烟とし、於利城は八家を看烟とし、比利城は三家を看烟とし、細城は三家を看烟とする。

 国岡上廣開土境好太王は、存命の頃に祖王と先王にお告げされた。

「僅かではありますが、教化した遠近の旧民を取り、墓を守らせて水を撒かせ、塵払いをさせることにします。私は旧民を慮り、衰退しようとしているさまを変えさせました。もし私から万年の後に墓を安らかに守る者は、つまらぬ私自らが歴巡し、略服させて来させた韓穢から取り、水撒きと塵払いをしておくように言いつけ、このように言い含めました。そういうわけで、言いつけの通りに韓穢の二百二十家を取り、彼らが法則を知らないことを慮り、重ねて旧民の百十家を取り、新旧の守墓の人戸は合わせて、国烟の三十と看烟の三百の都合三百三十家にございます。上祖と先王以来、墓の上に石碑を安んずることなく、守墓人と烟戸を誤らせてしまっていました。そこで国岡上廣開土境好太王は、すべての祖先たる王の為に墓の上に碑銘を立て、その烟戸には誤りをさせません。また、守墓人を制定した現在以降、互いに新たな転売をしてはならず、富を積んで相応の額を提示した場合であっても自由に購入することは許可しません。これらの言いつけを破って売る者がいれば、その者を死刑に処し、人を買った者には、守墓となるように取り決めます。」


漢文

□□□□七也利城三家為看烟豆奴城國烟一看烟二奧利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百殘南居韓國烟一看烟五大山韓城六家為看烟農賣城國姻一看烟一閏奴城國烟二看烟廿二古牟婁城國烟二看烟八琢城國烟一看烟八味城六家為看烟就咨城五家為看烟豐穰城廿四家為看烟散那城一家為國烟那旦城一家為看烟勾牟城一家為看烟於利城八家為看烟比利城三家為看烟細城三家為看烟國岡上廣開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近舊民守墓洒掃吾慮舊民轉當羸劣若吾萬年之後安守墓者但取吾躬巡所略來韓穢令備洒掃言教如此是以如教令取韓穢二百廿家慮其不知法則復取舊民一百十家合新舊守墓戸國烟卅看烟三百都合三百卅家自上祖先王以來墓上不安石碑致使守墓人烟戸差錯惟國岡上廣開土境好太王盡為祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得擅買其有違令賣者刑之買人制令守墓之

書き下し文

 □□□□ ななたり 、也利城の三家 みついえ は看烟と為り、豆奴城の國烟は ひとり 、看烟は ふたり 、奧利城の國烟は ふたり 、看烟は やつたり 、須鄒城の國烟は ふたり 、看烟は いつたり 、百殘の南に ゐま せる韓の國烟は ひとり 、看烟は いつたり 、大山韓城の六家 むついえ は看烟と為り、農賣城の國姻は ひとり 、看烟は ひとり 、閏奴城の國烟は ふたり 、看烟は廿二 はたちあまりふたり 、古牟婁城の國烟は ふたり 、看烟は やつたり 、琢城の國烟は ひとり 、看烟は やつたり 、味城の六家 むついえ は看烟と為り、就咨城の五家 いついえ は看烟と為り、豐穰城の廿四家 はたちあまりよついえ は看烟と為り、散那城の一家 ひといえ は國烟と為り、那旦城の一家 ひといえ は看烟と為り、勾牟城の一家 ひといえ は看烟と為り、於利城の八家 やついえ は看烟と為り、比利城の三家 みついえ は看烟と為り、細城の三家 みついえ は看烟と為る。國岡上廣開土境好太王は、存りし時に祖王 おやぎみ 先つ きみ に教へて まを さく、 わづ かに教へて遠き近きの かつ ての民を取り、墓を守らせしめ、洒掃 ちりとり せしめむ。 かつ ての民を おもむみはか り、當に羸劣 おとろへ たらむとするを へたり。若し 萬年 よろづとせ の後に墓を安守 やすもり したる者は但だ みづか ら巡りて はか りたる所の來たる韓穢を取り、洒掃 ちりとり に備へたることを いひつけ し、言ひ教ゆること此の如し。是を以ちて教令 おしへ の如く韓穢の二百廿家 ふたおあまりはたちのいえ を取り、其の法則 のり を知らざることを おもむみはか り、 たも かつ ての民の一百十家 ももあまりといえ を取り、新舊の守墓 はかもり を合はせ、國烟の みそたり と看烟の三百 みおたり 都合 あはせて 三百卅家 みおあまりみそいえ 上祖 うへつおや 先王 さきつきみ 以來 さき に墓の上に石碑 いしぶみ を安ぜず、守墓人 はかもりひと 烟戸 けぶりのへ 使 差錯 あやまち せしむるを致す。惟れ國岡上廣開土境好太王は ことごと 祖先 さきつおや きみ の為に墓の上に碑銘 いしぶみ を立て、其の烟戸 けぶりのへ 差錯 みだれ しめ ざり。又た守墓人 はかもりひと をさ めて今 以後 のち は更に こもごも 轉賣 はこびうり を得ず、富を つと雖も之れに足る者も亦た ほしいまま に買ふを得ず、其れ いひつけ に違ひて賣る者有らば、之れを しおき し、人を買ふは之れを しおき して守墓 はかもり とせしむると とりきめ す。

注記

始祖の鄒牟王

 高句麗始祖の朱蒙のこと。東明聖王。詳細は三国史記東明王本紀にて。

北夫餘

 夫餘は中国から少し北方の満州地域に在居した民族。これらはまとまった統一国家を創建しておらず、北扶余、東扶余など、バラバラの地域国家を形成していた。北扶余はそのひとつで、三国史記では、解夫婁という人物が王として君臨し、後に天帝の子の解慕漱に国を譲ったとされる。※1の朱蒙は、解慕漱の子であり、同時に解夫婁の子の金蛙の孫とされている。

奄利大川

 엄리수 イリス 。漢江のこと。朝鮮国の太白山から韓国のソウルを通り、江華島付近の黄海まで流れる朝鮮半島の象徴的な川のひとつ。

沸流の谷

 三国史記においては、沸流水が登場する。渾江の支流である富尔江と推測される。

忽本

 三国史記においては卒本。現在の中国遼寧省本渓市桓仁満族自治県にあるとされる。

儒留王

 三国史記においては類利王、あるいは瑠璃明王。

大朱留王

 三国史記においては大武神王。あるいは無恤。

十七世の孫

 三国史記において、広開土王は十九代高句麗王なので、三代大朱留王(大武神王)から数えてのことであろう。ただし、三国史記の場合、間には多数の兄弟間の相続があり、「十七世の孫」という表現とはやや矛盾する。単なる修辞の差異であろうか?

国岡上広開土境平安好太王

 三国史記においては広開土王。諱は談徳。

富山、負山

 いずれも朝鮮国の牛毛大山に比定されるが、はっきりしない。

鹽水

 鹽は塩のこと。渾江とする説や中国遼寧省の太子河とする説もあるが、中国内モンゴル自治区にある塩湖(水に塩分を含んだ湖)の広済湖とする説が有力。

襄平道

 中国東北部の遼陽(中華人民共和国遼寧省遼陽市)をかつては襄平と呼んだことから、襄平道は遼陽から高句麗に到る交通路だと推測されている。

東來候城、力城、北豊、五備海

 調査中。

百残、新羅

 百残は一般に朝鮮三国のひとつである百済の蔑称だとされているが、異説もある。新羅は朝鮮三国のひとつ。いずれも朝鮮半島南方の国家。

 日本国のことだとされているが、その所在やヤマト朝廷との関係については、いくつかの説がある。

壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弖利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍蔦城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古須耶羅、城莫□城、□□城、分而能羅城、場城於利城、農賣城、豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城、敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城、細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城

 調査中。

阿利水

 아리수 アリス 。漢江のこと。朝鮮国の太白山から韓国のソウルを通り、江華島付近の黄海まで流れる朝鮮半島の象徴的な川のひとつ。※3の奄利大川と同じだと考えられている。

粛慎

 朝鮮半島から北方の現中国から極東ロシア地域に古くからいる部族。必殺の毒矢を用いることで有名。孔子もその矢の存在を知っていたことが『史記』や『国語』に記される。後に挹婁、靺鞨、勿吉、女真族と呼ばれる部族・民族は、この粛慎の異名や同系だと言われている。

莫新羅城、加太羅谷

 調査中。

男居城、新羅城

 調査中。

任那加羅

 趙藩半島南部には加羅諸国が広がり、そのうちの国のひとつが任那。三国史記の強首伝にも、新羅に仕えた強首の祖国として登場し、古事記や日本書紀にも朝鮮半島の国家のひとつとして頻繁に登場する。また、三国志東夷伝では弥烏邪馬国に比定する説がある。古事記や日本書紀では、10代崇神天皇に朝貢したとされ、また日本書紀では日本領であったと記載されているが、この事実性については兼ねてより論争がある。

安羅

 日本書紀にも登場する朝鮮半島の国家。

寐錦

 日本書紀によれば、新羅の王の呼称。また、韓国で出土された碑文にも同様の記述がある。

帯方

 3世紀から4世紀初頭にかけては中国の郡であったが、この時期は高句麗に制圧されている。

沙溝城□城□住城□□□□□□□□城

 調査中。

かつて鄒牟王の属民であったはずの東夫餘

 三国史記においては、朱蒙(鄒牟王)は東夫餘の王の金蛙に養育されたと記され、その後に亡命して高句麗を建国したとされる。その後、東夫餘は高句麗に臣従を求め、二代王の類利王(儒留王)が受け入れたものの、三代目の大武神王(大朱留王)が逆に東夫餘を攻めて滅亡させた。このことから、かつて高句麗が東夫餘を従属させてた点は一致するものの、「鄒牟王の属民」という記述には僅かながらの矛盾がある。

味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□鏈婁鴨盧、肅斯舍鴨□□□□鴨盧

 直前に官途に就いたのと記述があるため、おそらく『鴨盧』は官名だと思われる。

守墓人、烟、看烟<

 よくわからないが、本文から察するに墓守のことであろう。

賣勾余民国、東海賈国、敦城、碑利城、平穰城、呰連、住婁人国、溪谷、梁城、安失連、改谷、新城、南蘇城

 調査中。

韓、穢

 韓は朝鮮半島南部の小国家群とそれを構成する部族の名称。穢は朝鮮半島中部に在居した部族の名前。詳細は『後漢書東夷伝』の『韓伝』と『穢伝』に譲る。

沙水城、牟婁城、豆比鴨岑韓、勾牟客頭、永底韓、舍蔦城韓穢、古家耶羅城、炅古城、客賢韓、阿旦城、巴奴城韓、各模廬城、各模盧城、牟水城、幹弓利城、彌舊城、也利城、豆奴城、奧利城、須鄒城

 調査中。

大山韓城、農賣城、閏奴城、古牟婁城、琢城、味城、就咨城、豐穰城、散那城、那旦城、勾牟城、於利城、比利城、細城

 調査中。