潜夫論 序文にかえて

後漢書王符伝・後漢三賢王符讃

現代語訳

 王符の あざな は節信、安定の臨涇の人である。若い頃から学問を好み、節操を固く守っていた。友として馬融、竇章、張衡、崔瑗等との親交があった。安定の俗鄙 スラム に住む妾の子であったので、王符には親族がおらず、故郷の人たちには賤しまれていた。和帝と安帝の年間(88年~125年)の後から故郷を出て仕官し、当世の王朝での仕事に精を出したが、当時の官途にあった者たちはお互いに薦引し合い、王符独りが節義を守って世俗に同調せず、そのため遂に昇進することができなかった。心の中には義憤がつのり、そのまま隠居して三十篇余り書の著すことで、時事の善し悪しを批判したが、自らの名が栄誉に浴することは求めなかったので、『潜夫論』と よびな した。その時代の過ちを指摘し、糾弾し、世情のおかしさを問い質して摘発したもので、当時の風潮と政情を観見するには十分である。その五篇を著述することにしよう。

(五篇中略)

 後に度遼将軍となる皇甫規が官から解任されて安定に帰った時のことである。同郷人に財貨によって鴈門太守となった者がいて、同じく職を辞して家に帰り、名刺をよこして皇甫規と謁見したいと申し出た。皇甫規は横になったまま迎えに行かなかったが、家の中まで入ってきたので質問した。「お前さんが前に郡にいた時、食べた鴈はおいしかったかね?」しばらくして今度は、「王符が家の門前におりますぞ。」との報告があると、皇甫規は王符の名を聞くや否や、驚いてすぐさま起き上がり、衣服を身につけながら帯も巻かないうちに、草履をつっかけて外まで出迎え、王符の手を引きながら家に戻ると、席を同じくして歓喜を極めた。これについて語り合った当時の人々は、「空虚な二千石を受けるより、一枚の粗末な脇縫いの衣さえあればよい。」と言った。書生の道義として貴ぶべきことを言ったのである。王符は最後まで仕官せず、家で最期を迎えた。


漢文

 王符字節信、安定臨涇人也。少好學、有志操、與馬融、竇章、張衡、崔瑗等友善。安定俗鄙庶孽、而符無外家、為鄉人所賤。自和、安之後、世務游宦、當塗者更相薦引、而符獨耿介不同於俗、以此遂不得升進。志意蘊憤、乃隱居著書三十餘篇、以譏當時失得、不欲章顯其名、故號曰潛夫論。其指訐時短、討謫物情、足以觀見當時風政、著其五篇云爾。

(五篇中略)

 後度遼將軍皇甫規解官歸安定、鄉人有以貨得鴈門太守者、亦去職還家、書刺謁規。規臥不迎、既入而問、卿前在郡食鴈美乎。有頃、又白王符在門。規素聞符名、乃驚遽而起、衣不及帶、屣履出迎、援符手而還、與同坐、極歡。時人為之語曰、徒見二千石、不如一縫掖。言書生道義之為貴也。符竟不仕、終於家。

書き下し文

 王符の あざな は節信、安定の臨涇の人なり。 わか くして學を好み、志操 みさを 有り、馬融、竇章、張衡、崔瑗等と與に友善 したし む。安定の俗鄙 ひな びたる庶孽 めかけご 、而るに符に外つ家も無く、 むら の人に賤しまるる所と為る。和安の後 り、游宦 つかさ 世務 つと むるも、 とき みち の者は更相 こもごも 薦め引き、而れども符は獨り耿介 みさを して俗に同じうせず、此を以ちて遂に升り進むを得ざりき。志意 こころざし 蘊憤 いきどほり あり、乃ち隱れ して書の三十餘篇 みそあまり を著し、以ちて當時 とき 失得 よしあし そし り、其の名を章顯 あき らむを欲さず、故に びて潛夫論と曰ふ。其の時の あやま ちを指し め、 ありさま を討ち とが め、以ちて當時 とき ありさま まつりごと 觀見 るに足る。其の五篇 いつ を著し しか 云ふ。

(五篇中略)

 後の度遼將軍の皇甫規は官を きて安定に歸らば、 くに の人に貨を以ちて鴈門太守を得る者有り、亦た職を去りて家に還り、書刺 ふみた して規と まみ ゑむとす。規は て迎へず、既に入らば すなは ち問ひたるに、卿は さき こほり に在りて鴈の うまし みたるかや、と。 しばら く有り、又た まを さく、王符は門に在り、と。規は はじ めて符の名を聞き、乃ち驚き にはか にして起き、 るも帶に及ばず、屣履 わらじばき にして出迎ゑ、符の手を きて還り、與に坐を同じうし、歡びを極めた。時の人は之の為を語りて曰く、徒だ二千石を くるは、一つの縫掖 ころも に如かず、と。書生道義の貴しと為すを言ふなり。符は つひ に仕へず、家に於いて ぬ。

後漢三賢 王符讃

現代語訳

 王符の字は節信、安定郡の臨涇の出身である。

 学問を好んで知識は豊富であったが、故郷の人には軽く見られていた。

 世間に憤りを覚えて論文を著し、『潛夫』をその名とした。

 述赦篇には、大赦によって賊がつくられ、

 「良民にとっては痛恨である」とあり、その趣旨は非常に明快であろう。

 度遼将軍の皇甫規は、自宅に彼が来たと聞くや否や驚いて、

 着物の帯も巻かずに、つっかけを履いて家を飛び出し、出迎えたという。

 賄賂で官職を得た雁門太守のような連中には、「雁(賄賂)の味はおいしかったか?」と質問し、「お前さん」呼ばわりしていたのに。

 出仕することなく家で最期を迎えると、先生には哀しみの叫びが奉げられた。


漢文

 王符節信 安定臨涇
 好學有誌 為鄉人所輕
 憤世著論 潛夫是名
 述赦之篇 以赦為賊
 良民之甚 其旨甚明
 皇甫度遼 聞至乃驚
 衣不及帶 屣履出迎
 豈若雁門 問雁呼卿
 不仕終家 籲嗟先生

書き下し文

 王符節信、安定臨涇

 學を好みて ること おほ かるも、 くに の人に輕ぜらるる所と為る。

 世に憤り ふみ を著し、潛夫是れ名す。

 述赦之篇、赦すを以ちて あた つく り、

 良き民之甚、其の旨は甚 と明らかなり。

 皇甫度遼は、至るを聞かば乃ち驚き、

 衣は帶に及ば り、屣履 わらじばき にして出迎ゑ、

 豈に雁門の若きは、雁を問ひ卿と呼ぶ。

 仕へ りて家に終ゑ、先生に さけ かな しまむ。

注記

安定の臨涇

 中国北西部の涼州に属する。現在の寧夏回族自治区にある。

馬融、竇章、張衡、崔瑗

 いずれも儒者。馬融は論語集解に註釈が掲載される。張衡は天文と数学を好む発明家であり水時計や水力渾天儀などを発明している。崔瑗も天文と数学を好み、張衡と交友関係にあった。

和帝、安帝

 後漢における和帝は4代皇帝(在位88年~106年)、安帝は6代皇帝(在位106年~125年)。5代皇帝の殤帝は即位後1年を俟たずに死去したため、この二帝の年紀を並べてひとつの時期としてくくられる。

度遼将軍

 漢王朝における官職。遼水(現在の遼河)を渡(度)る将軍を意味する。中郎将の范明友が遼東の烏桓(北方の騎馬民族)を討伐するにあたって初めて任命され、当初は非常設の官であったが後漢6代安帝の代に常設の官となった。

皇甫規

 王符と同じく安定の出自。涼州地域の近くにて活動する西羌(チベット系の部族)の討伐を命じられ、これを果たした。同時期に周辺民族の討伐にて活躍した段熲、張奐と共に涼州三明と称される。

鴈門太守

 鴈門とは現在の中国山西省北部にある句注山を指し、中国北辺部の守備における要衝となっている。太守とは郡の長官。

後漢三賢

 後漢を生きた儒者の王充(27年~97年)、王符(78年~163年)、仲長統(180年~220年)のこと。ちょうど入れ替わるように活躍した人物である。唐の儒者である韓愈(768年~824年)が顕彰した三人の賢者。王符に潜夫論があるように、王充には論衡、仲長統には昌言という著書がある。

底本

潛夫論 - 中國哲學書電子化計劃