潜夫論 讃学第一

学問を讃えよ!

現代語訳

 天と地から貴ばれるもの、それは人である。聖人から重んじられるもの、それは義である。徳義によって完成させるもの、それは智である。明智に求められるもの、それは学問である。至高の聖を具有していたとしても、生まれながらにして智があるわけではない。至高の才を具有していたとしても、生まれながらにして能力があるわけでもない。だから「黄帝は風后に、顓頊は老彭に、帝嚳は祝融に、帝堯は務成に、帝舜は紀后に、禹王は墨如に、湯王は伊尹に、文王と武王は姜尚に、周公は庶秀に、孔子は老聃に師事した。」という記録されているのだ。もしここで、この言葉を信じるとすれば、人は師に就かないでいることはできないだろう。もちろん、これら十一君は、すべて上古の聖人であるが、それでも学問を備えることで、その智はようやく博大となり、その徳はようやく碩大になったのだ。凡人については言うまでもないことであろう。

 だから工人が自らの仕事をよいものにしようとすれば、まず必ずその道具を研ぎ澄ますように、王が自らの義を示そうとすれば、まず必ずその智を学び取るのだ。易には、「君子は多くの先人の言葉や行動を知ることで、自らの徳を涵養する。」とある。このように人に学問を備えるというのは、まるで物が治を備えるようなものなのである。つまりこういうことだ。夏后の璜や楚和の璧が玉璞卞和の資質を備えていたとしても、切磋琢磨しないのであれば、風化した河原の石くれと大差はない。たとえば、祭祀を彩る美しい器や朝政の立派な正装も、その始まりが何かといえば、山野に生えた木や蚕の繭の糸でしかなかったのだ。巧匠の倕が縄墨を用いて計測し、斤斧 おの でその形を整えれば、あるいは女工が五色を加え、機織りでその形を整えるようにさせれば、どちらも宗廟の祭器や天子が身につける礼服の布地として完成し、現世に鬼神の姿を顕在させることも王公に御進呈することもできるのだ。してみれば、君子の敦貞の質や察敏の才について、それらを良き朋友から取り入れ、それらを明哲なる師から教わり、それらを礼楽によって文飾し、これらを詩書によって導き出し、これらを周易によって讃え、これらを春秋によって明らかにすれば、自らに完成された美しさが備わることは、言うまでもなかろう。

 詩には次のように云われている。

題彼鶺鴒 彼の鶺鴒を よ、 見よ、あの鶺鴒 セキレイ を。
載飛載鳴 すなは ち飛びて すなは ち鳴かむ。 ある時は飛び、ある時は鳴く。
我日斯邁 我は日に斯く すす み、 私は斯様に日々 すす む。
而月斯征 も月に斯く かむ。 そなたもまた月ごと斯様に くがよい。
夙興夜寐 あさ おき よる ねば、 朝早くに起きて、夜遅くに寝れば、
無忝爾所生 の生まるる所を はづかし むること無からむ。 そなたを生んだご両親を辱めることはないであろう。
    (詩経:小雅 小旻之什 小宛)

 つまり、君子が終日おこたることなく徳に邁進し、すべき仕事を修めようと努めることは、ただ己を博くすることには留まらない。思うに、まず祖先の栄誉について思索して継承し、そして父母を顕彰することにもなるであろう。

 孔子は言った。

 かつて私は終日なにも食べず、夜もすがらに寝ることもせず、思索ばかりをしていたこともあるが、得る物はなかった。学んだほうがよい。(論語:衛霊公第十五)
 畑仕事をしていても、たまには飢えてしまうことがあるように、学んでいても、たまには俸禄がもらえることもあることもあろう。君子は道を憂うことはあっても貧しいことを憂うことはない。(論語:衛霊公第十五)

 箕子は六極のひとつに貧を並べ、国風には北門が歌われ、だからこそ『貧しさを憂うことはない』と謂われているのだ。なぜ貧しさを好み、それを憂うことがないのか。思うに、志に専念するものがあれば、自分の重視することが明らかとなるからである。つまり君子の求める豊かさというのは、おいしいご馳走を食べ、美しい服を着て、音楽に淫蕩し、音楽と女色に耽ることではないのだ。自らの道を徹底し、自らの徳に邁進しようとすることなのである。


漢文

 天地之所貴者人也、聖人之所尚者義也、德義之所成者智也、明智之所求者學問也。雖有至聖、不生而智。雖有至材、不生而能。故志曰、黃帝師風后、顓頊師老彭、帝嚳師祝融、堯師務成、舜師紀后、禹師墨如、湯師伊尹、文、武師姜尚、周公師庶秀、孔子師老聃。若此言之而信、則人不可以不就師矣。夫此十一君者、皆上聖也、猶待學問、其智乃博、其德乃碩、而況於凡人乎。

 是故、工欲善其事、必先利其器。王欲宣其義、必先讀其智。易曰、君子以多志前言往行以畜其德。是以人之有學也、猶物之有治也。故夏后之璜、楚和之璧、雖有玉璞卞和之資、不琢不錯、不離礫石。夫瑚簋之器、朝祭之服、其始也、乃山野之木、蠶繭之絲耳。使巧倕加繩墨而制之以斤斧、女工加五色而制之以機杼、則皆成宗廟之器、黼黻之章、可著於鬼神、可御於王公。而況君子敦貞之質、察敏之才、攝之以良朋、教之以明師、文之以禮、樂、導之以詩、書、讚之以周易、明之以春秋、其有濟乎。

 詩云、題彼鶺鴒、載飛載鳴。我日斯邁、而月斯征。夙興夜寐、無忝爾所生。是以、君子終日乾乾、進德脩業者、非直為博己而已也、蓋乃思述祖考之令問、而以顯父母也。

 孔子曰、吾嘗終日不食、終夜不寢、以思、無益、不如學也。耕也、餒在其中。學也、祿在其中矣。君子憂道不憂貧。箕子陳六極、國風歌北門、故所謂不憂貧也。豈好貧而弗之憂邪。蓋志有所專、昭其重也。是故君子之求豐厚也、非為嘉饌、美服、淫樂、聲色也、乃將以底其道而邁其德也。

書き下し文

 天地 あめつち たふと ばるる所の者は人なり。 ひじり なる人に たふと ばるる所の者は義なり。 のり の義に成さるる所の者は智なり。明らなる智に求まるる所の者は學問なり。 まこと ひじり つと雖も、生まれながらにして智るにあらじ。 まこと かど つと雖も、生まれながらにして能ふにあらじ。故に ふみ に曰く、黃帝は風后に き、顓頊は老彭に き、帝嚳は祝融に き、堯は務成に き、舜は紀后に き、禹は墨如に き、湯は伊尹に き、文武は姜尚に き、周公は庶秀に き、孔子は老聃に きたり。若し此れ之れを言ひて まこと とすれば、則ち人は以ちて かしら かざる可からざらむ。夫れ此の十一 とあまりひとり きみ たる者、皆が いにしへ ひじり なるも、猶ほ學問を そな へて、其の智は乃ち博まり、其の德は乃ち すぐ れたり。而らば況や なみ の人に於いてをや。

 是れ故に、 てひと は其の事を善くせむと おも はば、必ず先に其の うつは するど くす。 きみ は其の義を あきら めむと おも はば、必ず先ず其の智を まな びたり。易に曰く、君子 きみひと は以ちて多く さき ことば かつ ての おこなひ しる し、以ちて其の德を やしな へり、と。是を以ちて人の學を ちたるや、猶ほ物の治を そな ふるがごときなり。故に夏后の璜、楚和の璧、玉璞卞和の たから そな ふと雖も、 こす らず みが かざれば、礫石 つぶて たが はず。夫れ瑚簋 まつり の器、朝祭 みかど きもの 、其の始めなるや、乃ち山や野の木、 かいこ の繭の絲なるのみ。巧倕を使 繩墨 すみなは を加へせしめ、而りて之れを をさ めたるに斤斧 おの を以ちてせしめ、 をみな てひと をして五色 いついろ を加へせしめ、而りて之れを をさ むるに機杼 はたおり を以ちてせしむれば、則ち いず れも宗廟 みたまや うつは 黼黻 ぬひとり しるし と成り、鬼神 かみ あきら む可し、王公 きみ すす む可し。而るに況や君子 きみひと 敦貞 ただしき こころ 察敏 さとしき かど 、之れを とりい るに良き朋を以ちてし、之れを教ふるに明らなる師を以ちてし、之れを かざ るに禮樂を以ちてし、之れを導びくに詩書を以ちてし、之れを讚ふるに周易を以ちてし、之れを明らむに春秋を以ちてすれば、其れ うるはしき そな へむや。

 詩に いは く、彼の鶺鴒 いしくなぎ よ、 すなは ち飛びて すなは ち鳴かむ。我は日に斯く すす み、 も月に斯く かむ。 あさ おき よる ねば、 の生まるる所を はづかし むること無からむ、と。是を以ちて、君子 きみひと 終日 ひねもす 乾乾 つとめ のり に進みて なりはひ を脩むる者は、 だ己を博く るのみに非ざるなり。蓋し すなは 祖考 おや うるは しき ほまれ を思ひ述べ、 すなは ち以ちて父母 かぞいろ あらは すなり。

 孔子曰く、 は嘗て終日 ひねもす くら はず、終夜 よもすがら ぬることなく、以ちて思ひたるも、 よし 無し。學ぶに如かざるなり。耕すや、 ひだる きも其の うち に在り。學ぶや、祿 ふち も其の うち に在らむ。君子 きみひと は道を憂ひたるも貧しきを憂ふことなし。箕子は六つの きはみ べ、國風は北門を歌ひ、故に謂はるる所は貧しきを憂ひたらざることたり。豈に貧しきを好み、而りて之れを憂ふこと からむか。蓋し こころざ したるに もは らにする所有らば、其の重しを あき らむなり。是れ故に君子 きみひと 豐厚 ゆたか を求むるや、嘉饌 うまし 美服 ころも 淫樂 あそび 聲色 うるはし を為すに非ざるなり。乃ち將に以ちて其の道を さだ め、而して其の德に すす まむとすることなり。

火明としての学問

現代語訳

 さて、道とは学により完成し、そして書により蓄積される。学は懸命に努めることで進展するが、行き詰まれば終わってしまう。だから董仲舒は生涯かけて家事を問うことはなく、景帝は経を明らかにするまで年中家の庭から出ることさえなく、自身の学を鋭く研ぎ澄ますことができた。このように自身の学業を公に知らしめることができたのは、家が裕福だったからである。彼らのように佚に富んでいることによって、このように精を出してよく勤めることができる者は、『材子』である。倪寬が労働力を街場に売り、匡衡が日雇いに我が身をやつしていたのは、自身が貧しかったからである。彼らのように貧しさに行き詰まり、それでもこのように学に邁進することができる者は、『秀士』である。今の世も学士は変わらず一万人を数えることができるほどいるのに、 みち を究める者は数十人もいない。その理由は何か? そのうち裕福な者は賄賂を配ることに腐心して精神を穢し、貧しい者は生活が苦しいからと家計の好転を目的にするようになってしまった。あるいは世の秩序が乱れる中に身を置いたまま歳月をめぐり、このような事情が現代にあって当初の積み重ねを見失い、彼らは幼稚な蒙昧に陥ってしまっているのだ。だから董仲舒や景帝のような才も、倪寬や匡衡のような志もないのに、諦めることなく家を捨て、おのれを空っぽにして日常を師の門に奉げようとする者は、幾らかもいないのは当然のことである。では、これらの四子は、耳目は聡明、忠信があり清廉で勇敢ではあるが、これまでそうした人がいなかったことはない。だからその名を成し功績を立てることができたし、徳音令問がやむことはないが、とはいえ、そのようになる原因はある。その要因は何なのか。ひたすら自らの能力を積極的に先聖の経典に託し、心を夫子の遺訓に結んだこと。それだけである。

 だから、造父が急いで走ったとしても、百歩も進めばやめてしまうが、馬車の輿に乗って身を委ねれば、座りながらに千里先まで運ばれてゆく。水軍が馬車を水に浮かべて河を渡ろうとしても、バラバラになってそのまま溺れてしまうが、自らを水運の舟に委ねれば、座ったままで江河を渡ることができる。つまり君子とは、生まれながらの性質が世にまたとないほど優れているわけではなく、上手く自らを物に委ねる存在なのだ。人の性惰は、百に匹敵することもできないが、その明智は一万に匹敵するのだ。このように彼らの生まれながらの性の才ではなく、必ず りるところがあるからこそ、それを成し遂げることができるのだ! 君子の性は、必ずしも輝きを尽くさずとも、学ぶようになれば、聡明は覆い隠されず、心智に滞りはなくなる。これまでの歴史上の帝王たちが百世の過去を振り返って定めたこと、これはつまり『道の あかり 』なのだ! だから君子は上手くそれを りることで自らを美しく飾りながら世に示すのだ!

 というわけで、つまり心における道とは、まるで人の目における火のようなものなのだ。穴の中に潜り、あるいは倉庫の奥深くに行くと、視界は暗闇に溶け落ちて何も見えなくなるが、火をともした燭台を用意すれば、あらゆる物がはっきりと見えるようになる。これはつまり火の燿きであって目の光ではない。だが目がそれを りることで、明らかとなるのだ。天地の道や神明の為は、目に見えるわけではない。聖典について学問し、道術について心を砕けば、誰もが目に留めに来るのだ。これはつまり道の材であって心の明ではない。だが人がそれを りれば、自分自身の知となるのだ。

 つまり物を夜の倉庫で さぐ るには、火よりもよいものがないように、道を当世で さぐ るには、『典』よりよいものはない。『典』とは『経』である。古の聖人が制作したものである。古の聖人の道の精神を獲得した者は、そこから自らの身をもって行い、賢人は自ら勉めることで道に入ろうとする。よって聖人が経典を制作し、そして後の賢人に遺したのは、譬えるならば古の名工倕がコンパスや差金、水準器や墨縄を作って後世の職工に遺したようなものなのだ。

 かつて倕の見事な技芸は、目は円形と方形をはっきりと見定めることができたし、心はまっすぐに定まっていた。そしてコンパスや差金、水準器や墨縄を創造することで後輩の者たちを教え導いた。試しに名匠と名高い後世の奚仲や公班といった連中に、これら四つの計測器を捨てさせて、倕を真似して自分の手で制作させてみればよい。間違いなく無理であろう。平凡な職工や凡庸な工匠であっても、倕の定めたコンパスを手に取り、差金を用い、水準器を当て、墨縄を引けば、倕と同じような技芸を得られる。つまり倕は心をもって先にコンパスと差金を製作したので、後世の人々は倕の心とひとつにすることができたのだ。だから計測器を用いる職工は、倕に近づけるのである。

 古の聖人たちの智は、心は神明に達し、性は道徳にまっすぐであった。そして経典を創造して後世の人に遺した。試しに賢人君子に、学問から抜け出して、ありのままの飾りのない自分だけを心にして行なわせてみればよい。間違いなくでたらめに終わるだろう。師に従って就学し、経典について思案させながら行なわせれば、聡達の明、徳義の理、これらのいずれにも近づくことになるはずである。つまり聖人が自らの心をもって先に経典を創造したので、後世の人々は聖人と心をひとつにすることができたのだ。だから経典の尊い教えを修めれば、徳は聖人に近づけるのである。

 詩は次のようにある。

高山仰止 高き山を仰ぐべし、 丈高き山を仰ぐがよい!
景行行止 おほ いなる みち を行くべし。 大いなる道を行くがよい!
    (詩経:小雅車舝)
     
日就月將 日に り月に すす み、 日々新たなことを身につけ月ごとに進歩すれば、
學有緝熙于光明 學びて光明 かがやき 緝熙 らさるること有らむ。 学業は瞬い栄光の輝きによって世に照らし出されるのだ!
    (詩経:周頌 敬之)

 このように、功績を人々に知らしめ、栄誉を世に掲げようとするあらゆる者にとって、学ぶよりよいものは他にないのだ!


漢文

 夫道成於學而藏於書、學進於振而廢於窮。是故董仲舒終身不問家事、景君明經年不出戶庭、得銳精其學而顯昭其業者、家富也。富佚若彼、而能勤精若此者、材子也。倪寬賣力於都巷、匡衡自鬻於保徒者、身貧也。貧阨若彼、而能進學若此者、秀士也。當世學士恆以萬計、而究塗者無數十焉、其故何也。其富者則以賄玷精、貧者則以乏易計、或以喪亂朞其年歲、此其所以逮初喪功而及其童蒙者也。是故無董、景之才、倪、匡之志、而欲強捐家出身曠日師門者、必無幾矣。夫此四子者、耳目聰明、忠信廉勇、未必無儔也、而及其成名立績、德音令問不已、而有所以然、夫何故哉。徒以其能自託於先聖之典經、結心於夫子之遺訓也。

 是故造父疾趨、百步而廢、而託乘輿、坐致千里。水師泛軸、解維則溺、自託舟楫、坐濟江河。是故君子者、性非絕世、善自託於物也。人之情性、未能相百、而其明智有相萬也。此非其真性之材也、必有假以致之也。君子之性、未必盡照、及學也、聰明無蔽、心智無滯、前紀帝王、顧定百世、此則道之明也、而君子能假之以自彰爾。

 夫是故道之於心也、猶火之於人目也。中穽深室、幽黑無見、及設盛燭、則百物彰矣。此則火之燿也、非目之光也、而目假之、則為明矣。天地之道、神明之為、不可見也。學問聖典、心思道術、則皆來覩矣。此則道之材也、非心之明也、而人假之、則為己知矣。

 是故索物於夜室者、莫良於火。索道於當世者、莫良於典。典者、經也。先聖之所制。先聖得道之精者以行其身、欲賢人自勉以入於道。故聖人之制經以遺後賢也、譬猶巧倕之為規矩准繩以遺後工也。

 昔倕之巧、目茂圓方、心定平直、又造規繩矩墨以誨後人。試使奚仲、公班之徒、釋此四度、而傚倕自制、必不能也。凡工妄匠、執規秉矩、錯准引繩、則巧同於倕也。是倕以心來制規矩、往合倕心也、故度之工、幾於倕矣。

 先聖之智、心達神明、性直道德、又造經典以遺後人、試使賢人君子、釋於學問、抱質而行、必弗具也、及使從師就學、按經而行、聰達之明、德義之理、亦庶矣。是故聖人以其心來造經典、往合聖心、故脩經之賢、德近於聖矣。

 詩云、高山仰止、景行行止。日就月將、學有緝熙于光明。是故凡欲顯勳績揚光烈者、莫良於學矣。

書き下し文

 夫れ是の故に道の心に於けるや、猶ほ火の人目に於けるがごときなり。中穽 あな と深き へや やみ かく れて見ゆるもの無く、 さか ともしび を設くに及びたれば、則ち もも の物は あき らかならむ。此れ則ち火の かがやき なり、目の光に非ざるなり、 すなは ち目は之れを らば、則ち明らむと らむ。天地 あめつち の道、神の あかり おこなひ 、見る可からざるなり。 ひじり なる ふみ に學び問ひ、道の すべ 心思 おも ひたれば、則ち皆が覩に來たらむ。此れ則ち道の かど なり、心の明らなるに非なるなり。 すなは ち人は之れを らば、則ち己の知ると さむ。

 是れ故に物を夜の へや に於いて さぐ らむとする こと 、火より良きもの莫し。道を當世 このよ に於いて さぐ らむとする こと ふみ より良きものは莫し。 ふみ なる者は、 たていと なり。先の ひじり をさ めらるる所なり。先の ひじり の道の たま を得たる者は以ちて其の身を行ひ、賢人 さかしひと は自ら勉めて以ちて道に入らむことを欲す。故に ひじり なる人の經を つく りて以ちて後の賢に遺したるや、譬ふれば猶ほ巧なる倕の規矩 のり もり すみなは つく りて以ちて後の たくみ に遺すがごときなり。

  かつて の倕の たくみ は、目は圓方に茂り、心は平直に定め、又た のり すみなは のり すみ を造りて以ちて後の人を誨ゆ。試しに奚仲、公班の うから 使 て、此れらの四度を て、而りて倕に なら ひて自ら つく らせしむれば、必ず能はざるなり。 なみ てひと まぬけ たくみ も、 のり のり り、 もり すみなは を引かば、則ち巧みなること倕に同じなり。是れ倕は心を以ちて さき 規矩 のり さだ め、 のち は倕の心に合ふなり。故に度の てひと は倕に ちか からむ。

 先の ひじり さとしき は、心は神の かがやき とど き、性は道德に たり、又た經典を造りて以ちて後の人に遺す。試しに賢人君子を使 て、學問より け、質を抱へて行はば、必ずや そな はる弗きなり。師に從ひて學に就き、經を おも ひて行はせ使 むるに及びたれば、聰達 さとり の明、德義の ことはり も亦た ちか からむ。是れ故に ひじり なる人は其の心を以ちて さき に經典を つく り、 のち ひじり なる心に合ふ。故に經の賢を脩むれば、德は聖に近からむ。

 詩に いは く、高き山を仰ぐべし、 おほ いなる みち を行くべし。日に り月に すす み、學びて光明 かがやき 緝熙 らさるること有らむ。是れ故に凡そ勳績 いさお あき らめ光烈 かがやき を揚ぐるを欲する者、學より良きものは莫からむ。

注記

黄帝、風后

 黄帝はかつて中華全土を治めたとされる伝説上の帝王。風后は黄帝の臣下にして師とされる。

顓頊、老彭

 顓頊は上記の黄帝の孫であり、彼から帝位を譲り受けた伝説上の帝王。老彭は論語にもその名が見え、彭祖という人物だとされる。八百年の長寿であったとされ、唐・虞・夏・殷・周の五代の王朝に仕えたといわれる伝説の語り部。しかし、『史記』楚世家等の記述に従えば、彼は顓頊の来孫(五世孫)とされ、その師とする本文の記述とはどうにも一致しない。

帝嚳、祝融

 帝嚳は上記の黄帝の曾孫であり、上記の顓頊から帝位を譲り受けた伝説上の帝王。祝融は帝嚳に仕えた火の神で、四季のうち夏を司る。黄帝以前の帝王である神農の子孫とされ、『周礼』には顓頊の息子とされ、『山海経』には顓頊の孫とされる。私の知る限り、祝融が帝嚳の師としてふるまっている記録はない。

帝堯、務成

 帝堯は儒教において尊ばれる伝説上の帝王。史記においては帝嚳の後を継いで帝王になったとされる。四書五経のひとつ『書経』においては最初の帝王として君臨する。務成は荀子にその名が見えるものの、そこでは帝堯の師は尹寿という人物とされており、その後継者の帝舜の師として務成の名が記されている。よくわからない。

帝舜、紀后

 帝舜は儒教において尊ばれる伝説上の帝王であり、もともと一介の農夫であったが帝堯から帝位を譲り受けた。父親の瞽叟は粗暴な男で、事あるごとに舜に暴力を振るう等の虐待をおこなったが、舜はそれを物ともせずに孝行を尽くしたことから、帝堯にその徳行を見いだされて帝王となった。紀后は私の知る限り他にその名が見えない。荀子には帝舜の師は上記の通り務成とされている。

禹王、墨如

 禹王は儒教と墨家において尊ばれる王であり、夏王朝の祖。帝舜の後を継いで王となった。もともとは舜の臣下の大司空(公共工事を担当する大臣)として黄河の治水工事を担当し、その功績が認められて王となった。墨如は『書経』『史記』等の史書には名が見えないが、孤竹国の始祖とされる墨胎の祖先とする伝説があるとのこと。墨子の祖先とも疑われる。

湯王、伊尹

 湯王は革命によって夏王朝の世襲君主を放伐し、殷王朝を開いた王。歴史上、初めて武力革命を成し遂げた王で、彼も儒教において尊ばれる。伊尹は湯王の宰相を務めた賢者であり、様々な書物においてたびたび湯王が質問をして伊尹が答える形式の対話篇が展開される。

文王、武王、姜尚

 武王は革命によって夏王朝の世襲君主である紂王を放伐し、周王朝を開いた王であり、文王はその父親。武王は父親の文王の遺徳によって放伐を成し遂げたとされ、文王の方が尊ばれる。姜尚は文王と武王を輔弼した賢者。太公望という呼称が有名。文王から才覚を見いだされて文王と武王の両方に仕えた。姜尚も各典籍において文王や武王の質問に回答する対話篇が展開される。

周公、庶秀

 周公は武王の弟。武王の息子の成王を輔弼した人物で、孔子に尊敬された政治家。庶秀は不明。庶和とする説もあるらしい。

孔子、老聃

 孔子は注するまでもなかろう。老聃は老子のこと。史記孔子世家では孔子の師として登場し、荘子等の典籍でも老子が孔子に教える形式の対話篇がよく展開される。

 中国の伝統的な占術。ここでは、易について記された儒教の経典『周易』のこと。

「君子は多くの先人の言葉や行動を知ることで、自らの徳を涵養する。」

 周易『山天大畜』からの引用。

夏后の璜、楚和の璧、玉璞卞和

 夏后とは夏王朝、璜とは宝玉のこと。夏王朝伝国の宝玉であり、春秋左氏伝にその名が見える。楚和の璧は和氏の璧、あるいは連城の璧ともいわれ、韓非子にその名が見える。夏后の璜と楚和の璧はいずれも高名な美しい宝玉の代名詞として用いられる。玉璞卞和は楚和の璧に同じ。美しい宝玉となる資質を備えていながら磨かれていないもの。

巧匠の倕

 倕は黄帝に仕えたとされる伝説上の巧匠。

箕子、六極

 箕子は殷王朝末期の王族。最後の王である紂王の叔父であるが彼と反目、発狂したふりをして牢獄に捕らえられて生きながらえた。殷王朝が滅ぼされた後に武王から救出され、その徳行を見いだされて朝鮮に冊封された。六極は夏王朝の開祖である禹王が天から齎されたとされる法典『洪範九疇』の最終章『五福六極』の後半部。政治における六つの避けるべき災厄。なぜ「箕子は六極のひとつに貧を並べ」と本文で述べられているかといえば、儒教の経典『尚書』洪範篇においては、箕子が武王に語る形で六極を含む『洪範九疇』が述べられるためであろう。ちなみに六極は順に、一は「凶」「短」「折」、二は「疾」、三は「憂」、四は「貧」、五は「悪」、六は「弱」である。第一がなぜ三つあるのかはよくわからない。

国風、北門

 漢詩における「風」とは民謡のスタイル。儒教の経典である『詩経』には諸国の「風」が掲載されており、これらを纏めて国風という。そのうち邶風(邶という国の風)には北門という詩が掲載されている。内容は不遇な役人の愚痴で、貧に喘ぐことを述べる一節がある。

董仲舒、景帝

 董仲舒は前漢の著名な儒者。漢武帝に仕え、司馬遷の師でもある。いわゆる儒教の国教化に尽力し、儒教の体系を改めて纏めた。景帝は前漢六代皇帝。呉楚七国の乱を治めて中央集権制を強化し、うまく漢をまとめた。儒教に関する事跡はよくわからない。

倪寬、匡衡

 倪寬は前漢の儒者。孔安国に師事した。貧乏で弟子を取ってからも自ら小作人として働き、休憩中はいつも儒学の経書を読んでいたと言われる。匡衡は農民の出自で先祖に有名なものがまったくいなかったが、彼も小作人をしながら学者として名を挙げた。

造父

 周穆王に仕えた伝説的な御者。趙国に冊封され、後に戦国七雄の一角となる趙氏の始祖。

『典』『経』

 かつて書籍が紙ではなかった時代、竹や木の札に字を書き連ね、それらをひもで纏めて書籍とした。これを象形する文字が『冊』である。そして、この『冊』を台に載せた象形文字が『典』である。つまり『典』とは固定された場に置かれた書物、あるいは高い台に置かれて貴ばれる書物のことで、法律や言語の規範や基準となる書籍(法典、辞典、大典)、拠所となる書籍(出典、典拠)、文化的宗教的に重大な地位を占める書籍(古典、仏典)を指す。『経』の原義はたて糸のことで、転じて正中線となるような物事の基準、そのような書物をいい、儒教における最も重要な典籍およびその本文を『経』という。これが転じて仏教においてもゴータマ・ブッダ直接の教えに基づく文書を『経』『お経』『経典』とする。

奚仲、公輸班

 奚仲は車輪を発明したとされる伝説上の人物。公輸班は公輸盤ともいわれ、春秋時代の発明家で、鉋(かんな)や錐(きり)を発明したとされる。孔子の孫弟子の端木起の弟子であり、つまり曽孫弟子。

付記

 なぜ学問をするのか? この問いに、王符は人には生まれながらに智があるわけではないからだと回答する。そして、人は先人の打ち立てた業績を仮借することによって、すぐれた存在になることができると王符は述べる。確かに説得的な議論ではあるが先賢明儒と比較すると、どうにも歯切れの悪さを感じてしまう。

 というのも、本篇の内容は『荀子』に大きな影響を受けている……というより、内容のほとんどが転写と言っていいほど酷似している。また、本篇の表題となっている『讃学篇』とは、荀子の冒頭に配置された『勧学篇』を意識した名であることは間違いない。

 荀子の勧学篇は以下のような内容である。

 君子は次のように語っている――学ぶことをやめてはならない、と。

 青は藍から採取するものであるが藍より青い。氷は水から精製するものであるが水よりも冷たい。まっすぐで墨縄に当たるような木も、歪曲して車輪にすれば、その曲線はコンパスに当たり、どれほど乾燥させてもまっすぐには戻らない。これは歪曲指せる力がそうさせているのだ。だから木は墨縄を受ければまっすぐになるし、金は砥石で磨けば鋭くなるのだ。君子が広汎に学んで日々自らを幾度となく反省すれば、知性は明哲となり行ないから過ちはなくなる。つまり高山を登らなければ、天の高さを知ることができないように、深い渓谷に臨まなければ、地の厚さが理解できないように、先王の遺言を聞かなければ、学問の偉大さを知ることはできないのだ。干人・越人・夷人・貉人といった諸民族の子供たちも、生まれながらにして同じ声で泣くが、成長してから習俗を異にする。これは教育が彼らをそのようにしているのだ。

 詩には次のようにある。

 さあ、なんじ君子よ! いつまでも安息に甘んじることなかれ!
 謹んでなんじの職位をまっとうするには、正直を愛するがよい。
 超越する存在を畏怖して聴き従えば、なんじに大いなる幸福を呼び込むことになろう。

 超越する存在には道の教化より偉大なものはなく、幸福には災禍を消し去るよりも長じたものはない。かつて私は終日おもいをめぐらせてみたが、須臾の間にでも学んだ方がよかった。かつて私はつま先立ちをして遠くを見ようとしたが、高いところに登って辺りを見渡した方がよかった。高いところに登って手をふれば、腕が長くなったわけでもないのに遠くからも見ることができる。風の通りに叫び声をあげれば、声に疾さが加わったわけでもないのにはっきりと聞くことができる。馬車を りる者は足に力を加えたわけでもないのに千里先まで進むことができる。舟の楫を りる者は、水を泳ぐ力がつくわけでもないのに江河を渡ることができるのだ。君子の生まれながらに差異があるわけではない。上手く物から りているだけなのだ。

(中略)

 学ぶことはどこから始まって、どこで終わるのだろうか。それは経を口に唱えることから始まって、礼について熟読することに終わる。その意義とは、つまり士となることから始まって最終的には聖人となることだ。本当に長らく努力を積み重ねれば、間違いなく(聖人の領域に)入ることになろう。

 この通り、物を仮借する(仮)という思想は荀子がすでに論じたことである。荀子の説に従えば、あくまで我々は素材であり、そこに差別はない。その素材を善き物に仕立て上げるための営為こそが学問だというわけだ。そして、過去の聖人が打ち立てた業績を仮借することによって、自らの聖人になることができる――ここで示されているのは、人種や民族、氏姓といった出自によって人は同定されず、後天的な努力によって人の性質が決定されるという人類の本質的平等の洞察であり、あるいはその信念である。

 翻って本書を見てみよう。確かに内容はよく似ているが、僅かに、しかしながら根底には大きな思想的な差異が横たわっている。たとえば冒頭の「十一君は、すべて上古の聖人であるが、それでも学問を備えることで、その智はようやく博大となり、その徳はようやく碩大になったのだ。」といいつつも「凡人については言うまでもないことであろう。」と述べる。この言葉には、荀子の論理と極めて近似しながらも、どこか人間の生得性に差別を前提とする風が見て取れないだろうか。これは世界中のあらゆる民族の赤子を比較し、あまねく人類が生まれながらに平等であることを高らかに歌い上げ、「君子の生まれながらに差異があるわけではない。上手く物から りているだけなのだ。」と述べて聖人と凡人との生得的な差別を明確に否定する荀子の言葉と比して、あまりにも弱弱しい。

 ちなみに、性悪説を唱えた荀子のライバルとされる性善説の孟子も「人はだれしも堯舜(儒教における太古の聖人)になれる」と力説しており、荀子が「学問の意義とは、士となることから始まり、最後には聖人になれる。本当の努力を長らく積み重ねれば、(聖人の領域に)間違いなく入ることになる(終乎為聖人、真積力久則入)」と説示していることに軌を一にしている。実のところ性善説と性悪説は対立する思想ではあるが人間に共通する同様の性が存在していることを前提とする両者は人類の本質的平等という観点において一致しているのだ。同一の土壌の上に存在する思想の対立なのだ。彼らの言葉と比すると、王符の述べる本文の内容は人々を学問に誘う訴求力において劣っていると判断せざるを得ない。

 なぜ、このような差異が生じるのか。ひとつには、王符の支持する思想が孟子の性善説でも荀子の性悪説でもなく、漢代に流行した性三品説であったことに由来するものだと思われる。性三品説とは、生まれながらにして人には善人、中人、悪人の三種がいるとする思想である。つまり人類の本質的平等を始原とする性善説や性悪説と異なり、それに真っ向から反する差別思想なのだ。だから冒頭の十一聖人と一般の人々には、隔絶した存在として峻厳たる差別が設けられる。そして生まれながらに人の等級の差異があるからには、後天的な努力としての学問の価値が薄れてしまうのは必然である。

 そして、もうひとつの理由は、思うに儒教の発展とともに聖人の概念が価値高騰 インフレーション を起こしていることに由来しているのではないだろうか。というのも、たとえば孟子において、聖人と規定される存在は、堯や舜といった古の聖人王に留まらず、たとえば武王の革命戦争を止めようと抗議した伯夷や、真面目な士大夫と噂された柳下恵のような一介の人士、あるいは殷の宰相であった伊尹も同時に聖人として列挙される。また、春秋左氏伝や史記等の史書を見ても、聖人と称される人物はそれほど珍しいわけではない。しかし本書における聖人は、本文において示されるように上古の聖人(上聖)を始めとしたごく一部の制度設計者(作者)に限定され、後に触れることになるが、聖人の創造したものを学ぶ者は聖人に一段劣る「賢者」とされ、あるいは中古の優れた為政者はせいぜい基本的に聖人に次ぐ存在としての「次聖」の地位に留まるものとされる。このような変化があったことから、本文においても「徳は聖人に近づけるのである。(徳近於聖)」とは言えても、荀子のように「最後には聖人になれる(終乎為聖人)」だとか「本当の努力を長らく積み重ねれば、(聖人の領域に)間違いなく入ることになる(真積力久則入)」とは言わないし、言えないのだ。

 なぜこのようになってしまったのだろうか。それは各書の時代背景に起因するように思われる。孟子や荀子の時代、それは春秋戦国時代と呼ばれる戦乱の世であった。この時、中原に様々な諸民族が入り乱れ、異なる文明や信仰が衝突を繰り返した時代のはずである。まったく異なる文化文明において育った人々の衝突、それは単に文化文明の差異を確認する作業であるのみならず、まったく異なる言語や文化にある人々が相互に交流することによって、実は彼らがお互いを同じ人間であるのだと自覚させられる時代でもあったはずだ。こうした混沌の時代にあって普遍的な『人間』という存在を発見し、探求した人々――それが孔子であり、その後継者たる孟子と荀子であった。性善説も性悪説も、このような人類自覚の時代におけるダイナミズムが生み出した人類平等の普遍思想であった。

 しかしながら、戦乱の時代は秦の大統一をもって終わりを告げ、その後に幾年かの混乱期を経て中国は大漢帝国に統一された。戦乱の間に成熟した思想群、すなわち孟子や荀子の人性論のような、人間が本質的に平等であり同質性を有することを前提としたイデオロギーが育まれたからこそ、中華帝国の統一は果たされたわけである。ところが、統一から百年が過ぎた頃には、かつての諸国の民族的差異が確実に埋められていき、その帰結として、諸民族の生得的な同質性を発見する歓びに奮えたであろう孟子や荀子の時代的な実感は確実に忘れ去られていったであろう。こうして彼らの平等的人性論は巨大な帝国の中に内包されつつ、同一文化圏における人々から新たな差異を見出す営為が始まってしまった。性三品説の流行は、この帰結ではないだろうか。こうして孟子と荀子の性善説と性悪説が統合され、性三品説が流行したのである。

 それにしても、なんと粗雑な統合なのだろうか。孟子の性善説は、人の心には生まれながらに善が備わっていると述べているだけで、生まれながらの悪心も内包していないとは述べられていないし、後天的に悪を心に生じることも否定していない。荀子の性悪説にしても、善が外在する人為であると述べているだけで、これも後天的に善を習得することが推奨されているのだから、単に人が絶対的に悪であると述べたものではない。だから人に善悪が混交することは何ら矛盾ではない。それなのにいかなる故あって性三品説を成立させたのか。これは人に生まれながらの差別の存在を見出すのみならず、生まれながらの完全なる善人や完全なる悪人の永続性を想定することになる。そこに生じるのは、人に生まれながらの差別を想定した上で個人に絶対善や絶対悪を植え付ける残酷な思考である。しかも、その上に後天的な努力を推奨する荀子の学説と接続するから本文の内容にはどこか消化不良だ。

 ところで、王符の潜夫論は、後漢において先行する王充の『論衡』を継承したものとして知られているが、本文の内容は既に述べた通り、『荀子』の内容に酷似しているし、他にも内容や詩の引用の形式などは、孔子の弟子の曾参の著とされる『孝経』や前漢の儒者である陸賈の『新語』の影響があると訳者は考える。孝経は朱子学以降に省みられることが減ったものの、前漢から後漢にかけては儒教の基礎を教える典籍として論語以上に重視され、新語は天下統一後の劉邦を為政者として教育するために著されたものである。つまりは漢王朝における儒学の基礎にして象徴的な典籍に基づいた経典の読解がここには詰まっている。春秋戦国時代の古典は現代の我々も読むことはできるが、それは漢王朝の頃の人々がどのようにそれらを読んでいたのかを知ることとは異なる。彼らがどのように儒学を参照していたのか、その一端を知るためにも本書は重要な典籍であると思う。

 はじまりから批判ばかりになってしまったが、今回の訳を通じて本書および当時の儒学にひそむ問題と智慧の両面を探っていきたいと思う。

底本

潛夫論 - 中國哲學書電子化計劃