韓非子 外儲説右上 季孫相魯

季孫相魯

現代語訳

 季孫肥が魯の宰相をしていた頃、子路は郈の令(知事)であった。魯では五月に民衆を起こして長溝をつくらせようとしていた。その為に子路は自らの私財から秩粟を持ち出して飯を炊き、溝を作る者を五父の街中で求め、それを食わせようとした。それを聞いた孔子が子貢を使わせてその飯をひっくり返させ、その器を叩き壊して言わせた。 「魯君の所有される人民だ。お前ごときが何のためにそれらに飯を食わせようとするのか!」

 子路は沸々と怒りを滾らせ、大股開きで(孔子の私邸に)入って言った。

「夫子よ、俺が仁義を為すのが気に入らないのか! 仁義は夫子から学んだものだ。仁義とは自らを天下の人民と共にし、その利を同じくすることであろう! 今回、俺が自分の秩粟で人民に飯を食わせたことが、なぜいけないというのだ!」

 孔子は言った。

「それがお前の野蛮さだ。私はお前にそれを教えはしたが、暴走するお前はまだそれができていない。そういうところがあるから、お前を礼知らずだと言っているのだ。お前がその者たちに飯を食わせたのは、それらの者を愛していたからであろう。いいか、よく聞け。礼というものはだな、天子は天下を愛し、諸侯は自らの国領内を愛し、大夫は官職を愛し、士は自分の家を愛することだ。その愛する所を過ぎること、これを『侵』という。今回のように魯君の所有する人民をお前が好き勝手に愛するならば、それはお前の『侵』である。これ以上の詐術があるか!」

 言葉が終わる前に季孫の使者が来て、謙譲しながら言った。

「季孫肥様は領民を起こして使役するつもりでしたが、先生は弟子を使役して労役に向かわせる者どもに飯を食わせたそうですな。季孫肥様の領民を奪い取ろうとでもされましたかな?」

 孔子は馬車に乗って魯を去った。

 孔子の賢明な判断によって、季孫は魯の君主でこそなかったが人臣の資質でもって人主の術をまねることで、なんとか未然に終わらせることができた。こうして子路は自らの私的な報酬を行なうことができず、そのため害は生じなかったのである。人主であれば、なおのことそうせねばなるまい。景公も自らの権勢によって田常の『侵』を禁じていれば、劫弒の患をなくすことができたであろうに。


漢文

 季孫相魯、子路為郈令。魯以五月起眾為長溝、當此之為、子路以其私秩粟為漿飯、要作溝者於五父之衢而餐之。孔子聞之、使子貢往覆其飯、擊毀其器、曰、魯君有民,子奚為乃餐之。子路怫然怒、攘肱而入請曰、夫子疾由之為仁義乎。所學於夫子者仁義也、仁義者、與天下共其所有而同其利者也。今以由之秩粟而餐民、不可何也。孔子曰、由之野也。吾以女知之、女徒未及也、女故如是之不知禮也。女之餐之、為愛之也。夫禮、天子愛天下、諸侯愛境內、大夫愛官職、士愛其家、過其所愛曰侵。今魯君有民而子擅愛之、是子侵也、不亦誣乎。言未卒、而季孫使者至、讓曰、肥也起民而使之、先生使弟子令徒役而餐之、將奪肥之民耶。孔子駕而去魯。以孔子之賢、而季孫非魯君也、以人臣之資、假人主之術、蚤禁於未形、而子路不得行其私惠、而害不得生、況人主乎。以景公之勢而禁田常之侵也、則必無劫弒之患矣。

書き下し文

 季孫は魯に相たり、子路は郈の つかさ と為る。魯は五月を以ちて ひと を起こし、長溝を つく らせしめむとし、當に此の為、子路は其の わたくし 秩粟 ふち を以ちて漿飯 たきいひ つく り、溝を作る者を五父の ちまた もと めて之れを はせむとす。孔子、之れを聞きて子貢をして往かせしめ、其の飯を かへ せしめ、其の器を擊ち毀せしめ、曰く、魯君に民有り、子は なに の為にか乃ち之れを はせるか、と。子路は怫然として怒り、 また はら いて入りて請ひて曰く、夫子よ、 われ の仁義を為すを疾むか。夫子より學ばるる所の者は仁義なり、仁義なる者、天下と共に其の有る所にして其の利を同じくする者なり。今の由は秩粟 ふち を以ちてして民を はす、不可 よろしからじ なるは何ぞや、と。孔子曰く、由の いや しきなり。吾は を以ちて之れを知らしむるも、 いたづら にして未だ及ばざるなり。女は是の如きを故にし、之れ禮を知らざるなり。女の之れに はすは、之れを でむとするが為なり。夫れ禮、天子 みかど は天下を で、諸侯 もろぎみ くに うち で、大夫 まへつきみ 官職 つかさ で、 うし は其の家を で、其の づ所を過ぎるを侵と曰ふ。今の魯君に民有りて そち ほしいまま に之れを づれば、是れ そち の侵なり、亦た あざむき ならずや、と。 ことば の未だ ゆることなし、而れども季孫の使者 つかひ は至り、讓りて曰く、肥や民を起こして之れを使ふ、先生は弟子を使はして徒役 つとめ せしめて之れを らはす、將に肥の民を奪はむとするかや、と。孔子は りて魯を去る。孔子の さかしき を以ちて、而りて季孫は魯君に非ざるも、人臣 をみ ちから を以ちて、人主 きみ の術を假り、 つと に未だ形ならざるに とど めぐみ を行ふを得ず、而るに わざはひ は生まるるを得ず、況や人主 きみ をや。景公の勢いを以ちてして田常の侵を禁ずれば、則ち必ずや劫弒の わざはひ を無からしめたらむ。

付記

 過去にnoteに掲載した訳文を少し手直しして転載。規則の遵守についての韓非子らしい説話であるが、それ以上に政争の緊迫感が強い。僅かなことから危険を予知し、差し迫った状況に焦る孔子、あまりに手回しの早い政敵の季孫肥、すぐに亡命を選択する孔子と子路の大胆さとその背景にひそむ不穏な政情。ここでの孔子はなんだか言い方も内容もとげとげしすぎて嫌な印象も受けるけど、これは状況がそうさせているのか? ……と想像が膨らむ。そして、こうした点に気付けば、それを顧みず教訓話としてのみ捉えて季孫肥と孔子の両者を讃える韓非子の解説は情感が抜け落ちているいうべきか、どこか気の抜けた印象を受ける。季孫氏は君権を僭越しないないか? とか、逸脱のあった子路だけでなく賢臣と評される孔子が亡命しているのはそれでいいの? とか、疑問も尽きない。

 この内容が事実であったかは不明。ただし本文に孔子の時代に存在しないと考えられる「仁義」の語が登場するあたり、少なくともテキストは孔子の時代から隔絶しており、完全な創作か、あるいは少なくとも後世の強い翻案が加わっていると考えられる。

 どういうことかというと、孟子や荀子には「仁義」という語が頻繁に用いられるが、論語には一度たりとも登場しない。ゆえに「仁義」という語は孔子の死後に儒教が体系化される中で形成された熟語だと考えられている。これは私のような浅学の徒が漢文翻訳に手を付ける以前から知っているほどには、現代の漢籍を好む者の間で有名な話である。

 ただし、この逸話は韓非子から400年後の孔子家語にテキストを異にして掲載されているので、何らかの口伝があったのかもしれない。ちなみに、孔子家語では子路の役職が「郈令(郈の知事)」ではなく「蒲宰(蒲の代官)」となっている。郈は孔子の祖国である魯の街の名で、だから本文は季孫氏との政争に関する内容となっているわけであるが、「蒲」とは魯ではなく隣国の衛の街である。子路が衛の蒲宰となったことは史記にも記される。よって季孫氏との政争の話も孔子家語にはない。

 孔子家語との相違点をいくつか挙げる。

・子路の供給した食事の内容が具体的。
・子路が民と一緒に現場仕事をしている。
・子貢は炊き出しをひっくり返したりはせず子路にやめるよう注意しただけ。
・孔子に季孫氏との差し迫った政争の風がなく、比較的おだやかな内容。
・韓非子では民の所有権について論じるが、家語での論点は国公の恥となるか否かと手続き論。
・本文では民への炊き出し自体が悪事であるのような論調だが、家語では先に国公の許可を得てから行なうべきだと忠告するという穏当なもの。

 上記の内容を鑑みるに、差異は社会情勢の変化に起因すると思われる。まだ韓非子の時代に諸国分裂の乱世、軍閥に等しい封建領主の群が自らの勢力を率いて割拠し、それら一種の僭主たちにとって民は己の糧であり戦争の具であった。ゆえに民の所有を明確化することが重視される。対する家語の時代は、既に漢という中央集権的な統一帝国が成立して数百年が経ち、これを平常とする認識が実感を伴って強化されていたはずである。その社会の貴族は封建領主の権を有さず、もはや皇帝を中心とする朝廷を構成する一吏員に近いものとなり、領主権への関心や実感が薄れ、「民の所有」という観念は希薄となった。ゆえに良心に基づく民生の向上と官僚としての手続き論という平和的なテーマに関心が移行したのだろう。つまり孔子がどう考え、事実として同発言したか、というより、時代を反映した差異のように思われる。

 さて、当然ながらテキスト自体が後世に綴られたものであっても本文全体が完全な創作であることを意味しない。たとえば孔子と子路の対話は創作であっても、子路の炊き出しをきっかけとした孔子の亡命という事件そのものまで創作であることにはならない。また、対話というものは虚構を広めることが容易であるが、そこで起こった事件について虚構を広めるのは比較的困難なものだ。史記では孔子の魯国亡命は魯公が祭祀を怠ったことだとされている。論語では斉のハニートラップに引っかかった魯公に失望して孔子が亡命したと記録される。虚構と断じるつもりはないが、亡命のきっかけにしては、あまり差し迫った状況が想定されていないように思う。

 ちなみに孟子には、孔子の魯から衛に亡命した当初、子路の伴侶の実家を頼ったことが記されている。当時の魯では、孔子が異例の出世を遂げ、弟子たちも魯の各方面に欠くべからざる存在として頭角を現し始めていた。その結果、徐々に旧来の貴族と軋轢が生じる。そこで既存の貴族の大物であった季孫氏が子路に言いがかり的な罪状を叩きつけ、これによって孔子と子路はともに亡命し、事件の原因となった子路が積極的に孔子を助ける形となった……という記録自体は、なかなかリアリティのある話だと思えるし、韓非子の解説と本文に間に感じられる温度差は、少なくともこの逸話そのものは韓非子の創作ではなく、本著以前から存在すればこそ生じるもののように思われる。

底本

韓非子: 外儲說右上- 中國哲學書電子化計劃