武五子伝
現代語訳
太子に史皇孫子という遺孫が一人いた。王夫人の長男で、年齢十八歳にして尊位に即した。彼こそが孝宣帝である。帝に即位して最初、帝は詔した。
「故皇太子は湖県にいるが、まだ諡号がないまま、年季に祠 っている。そういうわけで諡 について議論し、園邑を置こうではないか。」
有司が奏請した。
「礼。他人の後裔となる者は、その息子になるものです。だから自らの父母を降し、祭ることができないのが、尊祖の義でございます。陛下は孝昭帝の後裔となり、祖宗の祭祀を継承するのですから、礼を制定して逸脱をしないものです。行為を謹み、孝昭帝のされたことを注視し、だから皇太子は位を起こして湖県にあり、史良娣の墓は博望苑の北にあり、親の史皇孫の位置は広明郭の北にあるのです。諡法には、「諡 とは、行の跡である」とあります。愚 の思うに、親の諡 は悼皇とし、母は悼后とし、諸侯王の園と並べつつ、奉邑三百家を置くのがよいでしょう。ですので皇太子の諡 を戻として奉邑二百家を置き、史良娣を戾夫人といい、墓守三十家を置き、園は長丞を置き、守衛に巡回させて法の通りに墓守を奉るのがよいでしょう。なので湖県の閿郷と邪里聚を戻園とし、長安の白亭東を戻后園とし、広明成郷を悼園とすべきです。どれも改めて葬りましょう。」
漢文
太子有遺孫一人、史皇孫子、王夫人男、年十八即尊位、是為孝宣帝。帝初即位、帝詔曰、故皇太子在湖、未有號諡、歲時祠、其議諡、置園邑。有司奏請、禮、為人後者、為之子也、故降其父母不得祭、尊祖之義也。陛下為孝昭帝後、承祖宗之祀、制禮不踰閑。謹行視孝昭帝所為故皇太子起位在湖、史良娣冢在博望苑北、親史皇孫位在廣明郭北。諡法曰、諡者、行之跡也。愚以為親諡宜曰悼皇、母曰悼后、比諸侯王園、置奉邑三百家。故皇太子諡曰戾、置奉邑二百家。史良娣曰戾夫人、置守冢三十家。園置長丞、周衛奉守如法。以湖閿鄉邪里聚為戾園、長安白亭東為戾后園、廣明成鄉為悼園。皆改葬焉。
書き下し文
太子 に遺したる孫の一人有り、史皇の孫子にして王夫人の男 、年 は十八 にして尊き位 に即 き、是れ孝宣帝と為る。帝 の初めて位 に即 かば、帝 は詔 して曰く、故皇太子は湖に在り、未だ號諡 有らず、歲時 に祠 り、其れ諡 を議 り、園邑 を置かむとす、と。有司 の奏 り請へり。禮、人の後 と為る者は、之の子と為るなり。故に其の父母 を降し、祭るを得ざるは、祖 を尊びたるが義 なり。陛下は孝昭帝の後と為り、祖宗 の祀り承け、禮を制 めて閑 を踰へず。行ひを謹み、孝昭帝の為す所を視、故に皇太子 は位を起こして湖に在り、史良娣の冢 は博望苑の北に在り、親の史皇孫の位は廣明郭の北に在り。諡 の法 に曰く、諡 なる者、行の跡なり。愚の以為 らく、親の諡 は宜しく悼皇と曰ひ、母は悼后と曰ひ、諸侯王 の園と比 べ、奉邑三百家を置くべし。故に皇太子の諡 は戾と曰ひ、奉邑二百家を置くべし。史良娣は戾夫人と曰ひ、守冢 三十家を置くべし。園は長丞を置き、衛 を周 らせしめて守 を奉ること法 の如くすべし。以ちて湖の閿鄉と邪里聚を戾園と為し、長安の白亭東を戾后園と為し、廣明成鄉を悼園と為すべし。皆 れに改めて焉れ葬るべし、と。