初 述教起宗致

衆生の心性、融通無礙

現代語訳

 『教旨を述べて宗致を起こすこと(述教起宗致)』とは何か。言葉にすれば、それは「衆生の心性の融通無礙 あるがまま 」、これだけである。虚空の如くゆったりと、巨海の如く豊潤に厚く満ち足りて。

 虚空の如くあるが故に、その本体は平等、本来の性質に差異はなく、だから得法できる。どこに清浄の場と汚穢の場とがあるだろうか。巨海の如くあるが故に、その性は潤滑、縁起に隨い、だから逆法しない。なぜ動乱の時と寂静の時をなくすことができようか。

 つまりこういうことだ。塵風によって五濁に堕ち、いつまでも転び続ける者がいる。苦しみの大浪に沈み、そして長らく流れ続ける。その一方で、善力を受けて四流を断ち切り、不還する者もいる。彼岸にたどり着き、永遠の寂静に至るのだ。

 斯様な動乱と寂静のごときは、いずれも大いなる夢でしかない。 さとり をもってそれを言葉にすれば、「こちら(此岸)」も「あちら(彼岸)」もなく、穢土も浄国も本末一心なのだ。生死も涅槃も、結局は二つの極地点に分かれているわけではない。だから原初に帰り、大いに さと り、功徳を積むことで極致に至るわけである。

 長い夢のままに流されていては、頓開することはできない。だから聖人の垂迹には、遠いものも近いものもあり、設けられた言教にも、衰退するものもあれば、興隆するものもある。此岸の娑婆に現れた牟尼世尊 ゴータマ・ブッダ がごときに至っては、五悪を誡めて善を勧め、彼岸に安養された阿弥陀如来は、九品 くほん を引き連れて、衆生を導くわけであるが、これらの権迹は詳細には述べようとはしなかった。


漢文

 言述教起宗致者。然夫衆生心性。融通無礙。泰若虚空。湛猶巨海。若虚空故。其體平等。無別相而可得。何有淨穢之處。猶巨海故。其性潤滑。能隨縁而不逆。豈無動靜之時。爾乃或因塵風。淪五濁而久轉。沈苦浪而長流。或承善力截四流而不還。至彼岸而永寂。若斯動寂皆是大夢。以覺言之。無此無彼。穢土淨國本末一心。生死涅槃終無二際。然歸原大覺積功乃致。隨流長夢不可頓開。所以聖人垂迹有遠有近。所設言教或衰或興。至如牟尼世尊現此娑。誡五惡而勸善。彌陀如來居彼安養。引九輩而導生。斯等權迹不可具陳。

書き下し文

  おしへ を述べて宗致 きはみ を起こす こと ことば にすれば、然るに夫れ衆生 もろもろ 心性 こころ 融通無礙 あるがまま 、と。 ゆるやか なること虚空 そら ごと し。 ゆたか なること猶ほ巨海 わたつみ のごとし。虚空 そら ごと き故、其の うまれながら 平等 ひとしき 別相 かたち 無く、 しか りて得る可し。何ぞ きよ きと けが れの ところ 有らむ。猶ほ巨海 わたつみ のごとき故、其の こころ 潤滑 なだらか 、能く ゑにし に隨ひ、 しか りて さかしま ならず。豈に ゐご きたると しづ けし時無からむ。 しか るに すなは ち、 あるもの 塵風 ちりかぜ に因り、五つの にごり しづ み、 しか りて久しく まろ びたり。苦しみの おほなみ しづ み、 しか りて長く流るる。 あるもの は善き力を けて四つの ながれ ち、而りて還らず。彼の岸に至り、而りて とこしへ しづ まらむ。斯の ゐご きと しづ むが ごと きは、 いづ れも是れ大いなる夢、 さとり を以ちて之れを ことば にすれば、此れも無く かれ も無く、 けがれ の土 くに きよき くに もと すゑ は心を ひとつ にす。生死 いきしに も涅槃も、 つひ には きは を二つにすること無し。然るに おほもと かへ り大いに さと いさを を積みて すなは ち致る。長き夢に隨ひ流るるは、 にはか に開く可からず。所以 ゆゑ 聖人 ひじり の垂迹したるに、遠きも有りて近きも有り、 まふ かるる所の言教 おしへ も、 あるもの は衰へ あるもの は興る。牟尼世尊の此の娑に現るるが如きに至りては、五つの惡を誡め、而りて善を勸む。彌陀如來は彼に ゐま して安養し、九輩 ここのくらひ を引き、而りて生を導く。斯く等の權迹は つぶさ に陳ぶる可からず。

極楽の国

現代語訳

 今ここに明かされる極楽の国――思うに、これは願行の奧深を感じ、果徳の長遠なるを表現したものではないだろうか。十八円浄は三界を越え、だからこそ超絶なのだ。五根も相好も六天を併せ、だからこそ後を継ぐものはない。珍しい香や法の旨味とは、遂に身も心も養うものである。誰が朝の飢えと夜の渇きの苦しみを有するだろうか。玉林も芳風も温涼にして常に適当なものとなる。本来は冬の寒冷や夏の暑熱の煩しさは存在しないのだ。

 仙人たちが連れ立って一緒に会い、時おり八徳の蓮の池で水浴びをする。これによって、とかく厭らしいものに思われる”時の皺”から長らく離別し、すぐれた仲間たちと一緒になって、遠く十方の仏土で遊ぶ。以上のようにして、慰め難い憂鬱と労苦から遠くへ送られるのだ。ましてや、繰り返し仏法を聴聞して響音することで、無相 アニミッタ に入り、仏の光を受けて明らかに悟りて無生となれば、尚のことである。無生を悟るが故に不生となることもなく、無形に入るが故に不形となることもない。極浄極楽――それは心意の渡るところではないし、極地もなく限界もない。なぜ言語・説明によって言い尽くすことができようか。

 かくのごとき浄土十方の諸仏から讃嘆して勧められるものや、三乗の聖衆の雑じり住まう所、つまり如来が讃嘆して勧める意図を詳細に調査してみると、中級や下級の根の者を摂取護念したいと思うが為、だから娑婆世界という悪の混雑する場は縁によって多くの退転があっても、宝刹純善の地に安養すれば、ただ精進するばかりで退転することはないということで、起信論には次のように云われている。

 また次のようにも言う――この法の初学者たる衆生は、正しい信仰を求めながら、自らの心怯 こころおく れに弱り果て、この娑婆世界に住まうことから、自らが常に諸仏に会っても、法に親しみ継承することも、供養することもできないのではないのかと畏れるものだ。恐懼のあまり信心の成就を困難だと思い、退転したいと心に浮かんでしまう者どもよ、さあ知るがよい! 如来は信心を摂取護念するための勝方便を有しておられるのだ! ひたすらに仏を念じることの因縁によって、誓願に したが い他方の仏土に生まれることができると! 常に仏を見、永遠 とこしえ に悪道から離れるのだと! そのように謂われたのだ! 修多羅 スートラ のごときには次のように説かれている。「もし人がひたすらに西方の極楽の世界の阿弥陀仏、修めた善根と迴向を念じ、かの世界に生まれたいと願い求めれば、すぐに往生することができる。常に仏を見るのだから、最後まで退転することはあり得ない。もし、かの仏の真如法身を観て、常に修習に勤めれば、最終的には正定聚に生まれ変わることができる。」と。

漢文

 今此所明極樂國者。蓋是感願行之奧深。現果徳之長遠。十八圓淨越三界而超絶。五根相好併六天而不嗣。珍香法味遂養身心。誰有朝飢夜渇之苦。玉林芳風温涼常適。本無冬寒夏熱之煩。群仙共會。時浴八徳蓮池。由是長別偏可厭之時皺。勝侶相從。遠遊十方佛土。於茲遠送以難慰之憂勞。況復聞法響音入無相。見佛光明悟無生。悟無生故無所不生。入無形故無所不形。極淨極樂。非心意之所度。無際無限。豈言説之能盡。如是淨土十方諸佛之所歎勸。三乘聖衆之所遊居。然審察如來歎勸意者。爲欲攝護中下根故。娑婆世界雜惡之處於縁多退。安養寶刹純善之地唯進無退。故起信論云。復次衆生初學是法。欲求正信。其心怯弱。以住於此娑婆世界。自畏不能常値諸佛親承供養。懼謂信心難可成就。意欲退者。當知如來有勝方便攝護信心。謂以專念佛因縁故。隨願得生他方佛土。常見於佛永離惡道。如修多羅説。若人專念西方極樂世界阿彌陀佛。所修善根迴向。願求生彼世界。即得往生。常見佛故。終無有退。若觀彼佛眞如法身。常勤修習。畢竟得生。正定聚故。

書き下し文

 今此に明かさるる所の極樂の國なる者は、蓋し是れ願行の奧深を感じ、果徳の長遠なるを現すことならむ。十八圓淨は三界を越へ、而るに超絶たり。五つの根も相好 かほつき むつ あめ を併せ、而りて がず。 めづら しき かほり のり うまし は遂に身も心も養ふ。 そ朝の飢へ夜の渇きの苦しみを有たむ。玉の林も芳しき風も温涼にして常に適ふ。 もと より冬の寒さと夏の熱さの煩しき無からむ。 もろもろ やまひと は共に會ひ、時に八徳の蓮の池に浴びゆ。是れに由りて長らく ひとへ いと ふ可きが時の皺より別れ、 すぐ れたる とも も相ひ從ひ、遠く十方 とも 佛土 ほとけのくに に遊び、 ここ に於いて遠く送るに慰め難きが憂勞 うれひつかれ を以ちてす。 いはむ くりかへ のり を聞き音を響かせしめて無相 そら に入り、佛の光を けて悟りを明らめ無生なればなり。無生を悟りたるが故に生まざる所も無く、無形に入るが故に形せざる所も無し。淨きを極めて樂しみを極むるは、心意の わた る所に非ず、 きは 無く限り無し。豈に言説 ことば の能く盡くしたらむ。是の如き淨土 きよつち 十方 とも もろもろ の佛に歎び勸めらるる所、三乘の聖衆 ひじりども の遊び ゐま す所、然るに如來の歎び勸むの こころ 審察 る者、 なかほど おと りたる かどのもの をさ まも らせしめむと おも はむと るが故、娑婆の世界の惡の ぢりたるが ところ ゑにし に於いて多く退くも、寶刹 きよきくに まこと きが つち に安らぎ養ひ、唯だ進むのみにして退くこと無し。故に起信論に いは く、復次 またつぎ 衆生 もろもろ の初めに是の のり を學び、正しき まこと 欲求 もと むるも、其の心怯 こころおく れ弱り、此の娑婆世界に於いて住まふを以ちて、自ら常に諸佛に ひて親承、供養するに能はざるを畏る。懼れて まこと する心の成就 なしと ぐ可きこと難しと おも ひ、 こころ に退かむとすることを おも ふ者よ、當に知るべし、如來に勝方便有り、 まこと する心を攝護 まも りたることを。專ら佛を念ふ因縁を以ちて故、願に したが ひ他の ところ ほとけ くに に生まるるを得、常に佛を見、 とこしへ に惡しき道を離れたると謂はむ。修多羅の如きは説けり。若し人は專らに西の ところ の極樂の世界の阿彌陀佛、修むる所の善き こころ と迴向を おも ひ、彼の世界に生まれむことを願ひ求むれば、即ち往生を得、常に佛を見るが故、 つひ に退有ること無し。若し彼の佛の眞如法身を觀、常に修め習ふに勤めたれば、畢竟 おはり にして正定聚に生まるるを得るが故なり、と。

四縁について

現代語訳

 つまり一切の凡夫は仏を念じたとしても、まだ十解には至らず、本体は位階から退転してしまうわけだ。穢土にいて四退の縁に逢ってしまえば、そのまま退転させられてしまう。もし西方に生まれ、四縁故を具有すれば、最後まで退還することはない。

 四縁とは何か、言語化してみよう。

 一の由は、長命と無病によって退転しない。穢土は短命にして多病、故に退転する。

 二の由は、諸仏菩薩の善智識が完全であるが故に退転しない。経の言葉の通りの、かくの如き上善の諸人と一緒にひとつの場所に会同できるが故である。穢土には悪知識が多いことから退転してしまうのだ。

 三の由は、女人の存在がないことだ。六根の境界並びにこの道縁に精進する。だから退転しない。経に「眼に色を受ければ、すぐさま菩提の心を発する……」とある通りだ。穢土は女人が存在することによって退転する。

 四の由は、ただ善き心だけが存在するから退転しない。経に「毛先ほどの計度分別も造悪もない地」とある通りだ。穢土には悪心があり記心はない。だから退転するのだ。

 また、かの二つの経のいずれにも説かれていることであるが、その往生する者は誰もが退転せずにいられる。不言は不退の人だけであり、つまり往生できるのだ。なお、このごとき間に三受を具有した人が、もし、かの土に生まれることになれば、手放すことに苦しむことなく、ただ楽受あるのみである。


漢文

 一切凡夫雖念佛。未至十解。體是退位。若在穢土。逢四退縁即使退轉。若生西方。有四縁故終不退還。言四縁者。一由長命無病故不退。穢土由短命多病故退。二由諸佛菩薩圓善智識故不退。如經言。得與如是諸上善人會一處故。穢土由多惡知識故退也。三由無有女人。六根境界並是進道縁。故不退。如經曰。眼見色即發菩提心等。穢土由有女人故退。四由唯有善心故不退。經云。無毛端計造惡之地。穢土由有惡心無記心故退也。又彼二經皆説。其往生者皆得不退。不言但不退人乃得往生也。猶如此間具三受人。若生彼土。則無苦捨唯有樂受也。

書き下し文

 一切の なみ ひと ほとけ おも ふと雖も、未だ十解に至らず、 おほもと は是れ くらひ を退き、若し穢れの土に在るも、四つの退 しりぞき ゑにし に逢ひて即ち退き まろ ばせ使 む。若し西方 にしかた に生まれ、四つの縁故 ゑにし 有らば つひ に退き還らず。四つの ゑにし の者を ことば にすれば、 ひとつ よし は、長き命と病無きに由りて故に退かず。穢れの くに は短き命と多き病あり、故に退く。 ふたつ よし は、 もろもろ ほとけ と菩薩の善き智識 さとしき また きが故に退かざること、經の ことば の如し。是くの如き もろもろ すぐ れたる善き人と とも に一つの ところ ふを得るが故に、穢れの くに は惡しき知識 さとしき 多いに由りて故に退くなり。 みつ よし は、女人 をみな の有る無し。六根の境界 さかひ 並びに是の道縁に進み、故に退かず。經に曰ふ、眼は色を見れば即ち菩提の心を發す等の如し。穢土は女人 をみな の有るに由りて故に退きたり。四つの由 よし は、唯だ善き心のみを有つに故に退かず。經に いは く、毛端 わづか の計 はからひ を無く惡しきを したるが つち 、と。穢れの くに は惡しき心有りて記す心無きに由り、故に退くなり。又た彼の二つの經は皆説けり。其の往生する者は皆が不退を得。不言は但だ不退の人のみにして、 すなは ち往生を得るなり。猶ほ此の如き間に三受を そな ふ人、若し彼土に生まるれば、則ち捨に苦しむこと無く、唯だ樂受有るのみなり。

総論

現代語訳

 これらについてまとめてみよう。

 初地である歓喜地以上の悲願は自ずと存在するので不生はない。これ以上に何か勧化を用いることがあろうか。十解は人種や氏姓といった出自による決定を消し去り、また慈悲も退転もなく、また正為にもない。十信以前や凡夫たちは、発心してもまだ固まっていないので、昇降して縁に隨い、汚穢を厭うて清浄をよろこぶ。だから仏は勧化と摂取を致すのだ。西方では長寿にして一生の修行の成熟の地であり、娑婆は短命にして多劫に劬労しても退転してしまう。だから華厳経には次のようにある。

 この娑婆世界の一劫のごときは、西方の安楽世界の一日一夜でしかない。こうしたもの、乃至 ないし は百万阿僧祇の世界の、最後の世界の一劫は、勝蓮華世界での賢首如来の セトラ における一日一夜でしかない。

 教旨が起こり、 こころ の致ることの大略を述べれば、このようになろう。


漢文

 總而言之。初地以上。悲願自在無所不生。更何須勸。十解以去種姓決定。復無悲退。亦非正爲。十信以前及諸凡夫。發心未固。昇降隨縁。厭穢欣淨。故佛勸攝。西方長壽一生修行登地。娑婆短命。多劫劬勞猶退。故華嚴曰。如此娑婆世界一劫。於西方安樂世界。爲一日一夜。如是乃至百萬阿僧祇世界。最後世界一劫。於勝蓮華世界賢首如來刹爲一日一夜。教起意致略述如此。

書き下し文

 總べて之れを言はむ。初地 うへ は、悲願は おの づと在りて生まれざる所無し。更に何ぞ勸めを もち ひむ。十解は以ちて種姓 うまれ 決定 さだめ を去り、復 た悲も退も無く、亦た正しき おこなひ に非ずも、十信 さき 及び もろもろ なみ ひと 、心を はな ちて未だ固めず、昇り降りして ゑにし に隨ひ、穢れを厭ひて淨きを よろこ び、故に佛は勸め攝る。西の ところ 長壽 いのちなが きにして一生の修行の みの りたる地、娑婆は短命 いのちみぢか くして かずおほ とき 劬勞 つと めて猶ほ退く。故に華嚴に曰く、此の娑婆世界の一劫の如きは、西の ところ の安樂世界に於ける一日一夜と爲る。 くの如き乃至 ないし は百萬阿僧祇世界の最後の世界の一劫、勝蓮華世界の賢首如來の刹に於ける一日一夜と爲る。 おしへ 起こして こころ 致すの おほむ ねの述ぶること此の如し。

底本

SAT大正新脩大藏經テキストデータベース 遊心安樂道 (No. 1965_ 元曉撰 ) in Vol. 47