(※1)王制
四書五経の礼経のひとつに数えられる『礼記』の第五篇。
(※2)君子の国、不死の国
中国最古の地理書『山海経』に記される東の海の果てに存在するとされる国。
(※3)堯
かつて存在したとされる伝説の帝王。紀元一世紀に成立した辞書『説文解字』には、「『堯』とは『高』である。垚が兀の上にあることから、『高遠』を意味する。(堯、高也。从垚在兀上、高遠也。)」とあり、堯は高いこと、高遠なことを意味する。これは古代シリアに勃興したウガリット神話の最高神バアル・ゼブルの語意が「高い(バアル)王(ゼブル)」であり、高い山の上の館に居し、天候と気象を司る神であったことと軌を一にしている。
(※4)羲仲
堯に仕えて東西南北に派遣された羲仲、羲和、和中、和叔の四人のうち、羲和は東方に派遣された人物。ちなみに、この四人を『四岳』という。四岳が命じられたのは、現地を査察し、暦を授けることであった。
(※5)嵎夷、暘谷
どこか不明。東の果てにあるとされる伝説上の地名であり、※4の堯に東方査察を命じられた※5の羲仲がたどり着いた土地。嵎夷は、嵎が『山』の『隅』、『夷』が『東方』であることから、東方に存在する山の奥、あるいは山の頂上等と解釈される。旸谷の『旸』は日の出を意味する。
(※6)夏后氏の太康
夏王朝の三代王。政務を顧みることなく狩猟に明け暮れたことから、羿によって反乱を起こされた。そのため王都からは追放され、辺境の地である河南の陽夏(現在の中国河南省周口市太康県。この県名は先述の故事に因む)において死亡した。
(※7)少康
夏王朝六代王。※6の太康を羿が追放して以降、夏王朝の王権は定まらず、羿は寒浞という人物に殺されたが、少康の父親の五代王相も同じく寒浞に殺された。その後、政治の実権は寒浞とその息子の澆と豷が握ったが、それを夏の王室に取り戻したのが少康とされている。
(※8)桀
夏王朝最後の王であり、民衆を虐げた暴君とされる。後に湯王によって討伐され、南巣(現在の中国安徽省合肥市巣湖)に追放された。これが初の武力革命とされている。
(※9)殷の湯王
殷王朝の始祖。上記※8の夏桀王を追放した。その後、暴政と旱魃によって荒れ果てた国土を見て、野外で自らの身を架に縛り付けて下から火をくべ、雨を降らせるように天に誓約をすると、大地に緑が甦ったという伝説もあり、仁君としても名高い。
(※10)仲丁
殷の十代王。藍夷に攻め込んだことが紀元280年に発掘された『竹書紀年』に記されている。
(※11)藍夷
殷王朝の東方、山東省滕州市の東南あたりに居住した東夷の支流。
(※12)武乙
殷の二十七代王。暴君として知られる。「天神」と名付けられた人形を用意し、臣下に命じて天神の代行という体で自分と博打 をして、その臣下が負けると天神を罵り、あるいは血がいっぱいに詰まった革袋を木に吊るし、それを弓で射破って「射天」と呼び、最期は天からの雷撃に撃たれて死んだとされる。信仰の対象である天を畏れず、侮辱した報いだということだろう。
(※13)淮と岱
どこかわからない。
(※14)武王
殷王朝を打倒し、周王朝を打ち立てたが、周王に即位した後、わずか3年で死去した。
(※15)紂王
殷王朝最後の王。暴君として知られる。紂王を篭絡した絶世の美女の妲己や贅沢の限りを尽くした酒池肉林の伝説が有名。
(※16)粛慎
現在の中国北東部からロシア極東部に在居したとされる部族。必殺の毒矢を操る。
(※17)石砮と楛矢
粛慎の用いる独特の矢。石のやじりとイバラ状の植物を用いたやがら。やじりには毒を塗り込みやすいようにくぼみがあるという。歴史書の『史記』と『国語』には、孔子が粛慎の石砮と楛矢について語るシーンがある。
(※18)管と蔡
上記※14の武王の弟である管叔鮮と蔡叔度によって開かれた国。管は現在の中国河南省鄭州市管城回族区、蔡は中国河南省駐馬店市上蔡県南西にある。周王朝が打ち立てられた後、この二者に同じく武王の弟である霍叔処を加えた三人は、殷の王族の生き残りを監視するための『三監』と呼ばれる存在であったが、殷の王族のひとり武庚が反乱を起こすと、逆にそちらに味方して一緒に周王朝に叛いた。なお、上記は史記や書経等の伝統的な文献資料による歴史であり、2008年に清華大学に寄贈された紀元前2世紀頃に記されたと推測される『清華簡』においては、三監は周を裏切っておらず、殷武庚にあっさりと蹴散らされて敗死したことが記されている。
(※19)周公
周公旦のこと。孔子が尊敬した政治家。管叔鮮等と同じく※14の武王の弟。武王の死後に幼君の成王を輔佐し、実質的に王朝の権力を握っていたという。上記の三監の乱を鎮圧し、その後も成王の輔佐を続けた。その後、成王が成人すると素早く権力を王に返上し、南方の楚に赴任して朝廷から去った。これは成王やその周辺の臣下との権力争いを避けたためだったとされる。
(※20)康王
周王朝の三代王。周公の輔弼した成王とともに王朝の安定期を築いたと評価され、成康の治といわれる。
(※21)徐
地名。現在の中国江蘇省徐州市あたり。
(※22)穆王
周の五代王。西の果てにある崑崙山にいる女神の西王母と面会したとか、神がかりな力を有する八頭の駿馬を飼育していたとか、さまざまな伝説がある。
(※23)徐の偃王
徐偃王誌によれば、徐国の君主に仕える宮人が妊娠して卵を生み、不吉だからと川に捨てた。それを鵠蒼という名前の犬が拾ってきて、飼い主の独孤母という老婆に渡した。老婆が卵を温めてみると、中から幼児が生まれた。これが後の偃王だという。
(※24)驥騄
足の速い馬のこと。ここでは、穆王の使役していた八駿と呼ばれる馬のことを指している。地に足をつけることなく走る『絶地』、ハヤブサよりも速く走る「翻羽」、一万里を一夜で駆ける「奔霄」、自分の影よりも速く走る「越影」、あまりに美しい毛並みが光輝く「逾輝」、あまりの速さに十の影を残す「超光」、雲に乗って走る「騰霧」、翼を持つ「挟翼」がいる。
(※25)造父
伝説の御者。穆王に寵愛され、さまざまな伝説に穆王の臣下として登場する。
(※26)楚
中国南方の国。周二代成王から子爵に封じられ、周四代王から征伐を受けるが、逆に王を敗死させる大戦果を挙げる。その後、周六代王の頃に楚の国君は王を名乗り、周王朝と対等であることを主張した。これ以降も中国南方は、北方に対する一種の独立意識を有し続けた。新王朝滅亡後に楚が覇権を主張し、漢王朝滅亡後に魏晋南北朝時代が訪れる等、南北の緊張関係は継続した。
(※27)楚の文王
上記※26に記される、楚で王を名乗った楚の武王の息子。王としては二代目。なので、周穆王とは年代がまったく合わない。
(※28)彭城の武原縣
現在の中国江蘇省徐州市邳州区域。
(※29)厲王
周の十代王。暴君だったといわれる。ゆえにその治世の中に大規模な民衆暴動が起こり、王宮にまで民衆が押し寄せると、厲王は亡命を余儀なくされ、そのまま死亡した。厲王の亡命期から死後、十一代宣王が立つまでの間、王のいないまま大臣の周公と召公が合議によって政治を執っていたので、この時代を共和と呼ぶ。
(※30)虢仲
上記※14武王の叔父の名。年代がまったく合わないし、なぜここでこの名が用いられているのか不明にして知らない。
(※31)宣王
周十一代王。滅亡の危機に瀕した周王朝を中興したと評価される。しかし晩年には諫言をした臣下の杜伯を処刑する等、暴君としての顔を見せ始め、最後には死んだ杜伯が鬼神の力を借りて宣王を射殺したと伝わる。
(※32)召分
不明。
(※33)幽王
周の十二代王。出会ってから笑顔を見せたことのない彼の妃の褒姒が、たった一度だけ笑ってくれたことがあった。それは王宮に用意された緊急の警報を告げる烽火を誤って焚いてしまった時のことである。慌てふためきながら中原各地の封国を治める諸侯が自ら軍を率いて王宮に駆け付け、誤報を知って皆があっけに取られていたのを見て、褒姒は笑った。もう一度、褒姒の笑顔を見たいという一心で、なんでもない日に幽王は繰り返し烽火を焚いた。これに付き合い、げんなりする諸侯や彼らの臣下たちには目もくれず、幽王は褒姒の表情だけを伺い続けた。こうして幽王十一年(紀元前771年)のこと、遂に諸侯のひとり申侯が謀反した。西北の周辺民族である犬戎と手を結び、それらとともに周王朝の首都に攻め込むと、幽王は急いで烽火を焚いた。ところが、誰ひとりとして本当の火急の知らせだとは信じず、諸侯は王宮を助けに行かなかった。こうして周の首都は徹底的に掠奪され、民は殺され、財産は奪われ、住宅は火にかけられ、幽王も無残に殺され、宮廷は荒らされ、褒姒は遥か北方に誘拐されて二度と戻ってくることはなかった。翌年に申侯が平王を立て、首都を東方の洛邑に遷したが、もはやかつての周王朝の権威が回復することは二度となかった。
(※34)斉の桓公
斉は周の封国のひとつ。※14の周武王に仕えて軍略を振るった太公望が建国し、16代桓公はその子孫。※33の経緯によって権威の失墜した周王朝は形骸化したが、まだどこの封国も自らが天下の主だとは主張せず、しばらくは各国が互いを牽制し合う状態が続いた。そんな中、頭一つ抜けて発展したのが当時の斉である。桓公は問題ある人物としての逸話が多数残っているが、賢臣に囲まれ、その助言に従っているうちは有能な君主であった。特に宰相の鮑叔の助言に基づき、自身を暗殺しようとした管仲を登用し、彼の助言によって富国強兵の策を取ったことが大きな要因で、斉は国勢を大きく増し、他国を押しのけて封国の筆頭となり、諸国の会盟の盟主となった。しかし、佞臣を登用するようになってからは常軌を逸した悪行が目立ち始め、管仲の死後には佞臣たちに裏切られ、寝室に幽閉されて餓死した。死体が発見された時には、身体中からウジが湧いていたという。
(※35)覇
※34の斉の桓公が初めて得た称号。時に王の対義語として用いられる(例:王道←→覇道)。権威の衰えた周王朝を代わって実権を持った実力ある諸侯の筆頭格格。当初は周王朝の外界に存在する諸民族に対抗するべく結成された封国の会盟を主宰する役職であった。斉の桓公が主宰した会盟を『葵丘の会盟』という。ただし、覇の称号は公認されたものか美称なのかは明確ではなく、公的な会盟の主催者という意味で斉の桓公に次いで覇となったのは、桓公の死後に他国から公認された宋の襄公と言えると思うが、これも明確ではない。
(※36)楚の霊王の会申
楚の霊王が※35で触れた周の封国の会盟に加盟したこと。一応は周王朝の支配下に入っていることを意味する。楚は※26の経緯を見ての通り独立心が旺盛な国であり、周王と並ぶ王の号を名乗っていたし、※35で触れられた宋襄公の主宰した会盟において楚は、臣下の将軍しか寄越さなかった(つまり、楚王が自らの臣下と諸侯を同格だと見なし、自らを周王と同格だと示す挑発行為であった)ことから戦争に発展した過去もある(泓水の戦い)。そのため、楚の王が自ら会盟に参加したことは重要なことであった。
(※37)越
中国東南地域の国家。※7の夏少康が建国したという伝説がある。
(※38)琅邪
現在の中国山東省東南から江蘇省東北周辺。
(※39)諸夏
中華、中原のこと。諸夏という場合は、王朝に属する諸侯の封国を想起させるニュアンス。王朝の外にある蛮族の総称としての『夷狄』の対義語として用いられる。
(※40)秦
もともとは周の封国。かつては周八代孝王に仕える馬養の非子が、その功績から秦邑(現在の中国甘粛省張家川回族自治県)という領地を得たことが始まり。この時は一介の村落に過ぎなかった。ところが、※33の幽王が受けた犬戎の侵略において、諸侯が周王朝を救援しない中で当時の秦は果敢に犬戎を打ち払い、その功績で諸侯となった。これ以降、徐々に勢力を増して覇と呼ばれるようになり、最後には周に代わって天下を統一したのである。
(※41)六国
周末期に秦と争った六つの大国。斉、楚、燕、韓、魏、趙のこと。
(※42)泗
泗水のあたりだと思う。
(※43)陳涉
秦末の農民反乱軍の首謀者。陳勝とも。同じく農民だった仲間の呉広とともに秦に反乱を起こした。この反乱は半年で鎮圧されたが、後に劉邦が天下を統一した後にも評価され、劉邦の命で陳涉の墓には墓守が置かれた。
(※44)燕人の衛満
箕氏朝鮮を打破し、衛氏朝鮮を打ち建てた朝鮮王。詳細は史記朝鮮伝と三国志韓伝を参照。
(※45)朝鮮
朝鮮と言えば現在は朝鮮半島を指すことが多いが、当時は朝鮮半島北部から満州地域の南部付近を指す。朝鮮半島の南方は主に韓と呼ばれた。
(※46)武帝
前漢7代皇帝。
(※47)王莽
前漢から帝位を禅譲され、皇帝となって新を打ち建てたが、反乱によって一代で滅亡し、殺された。本文に記された貊人の入寇についての経緯については、漢書王莽伝中始建國四年を参照。
(※48)貊人
朝鮮半島北部の部族。豸(むじなへん)は古来ヘビを意味していたが、転じて貉(むじな)などの足が短く這いまわるような獣を意味する。いずれにせよ、これも蛮族への卑称である。また、高句麗人の別称にも用いられる。濊貊は濊と貊を合わせることで、朝鮮に住まう部族を総じて指す。
(※49)建武の初め
建武は後漢最初の皇帝である光武帝の用いた最初の元号。
(※50)遼東太守の祭肜
遼東郡は現在の中国遼寧省の東半分から朝鮮国の一部を含む後漢王朝の郡。太守は後漢王朝における郡の長官。祭肜は外交と軍事が巧みで、北方騎馬民族の烏桓、匈奴、鮮卑と駆け引きし、勢力を大きく削り取ったことで名声を得た人物。
(※51)濊、貊、倭、韓
濊は朝鮮半島中西部、貊は※48の通り朝鮮半島北部、倭は朝鮮半島から東の日本列島、韓は朝鮮半島南部にそれぞれ主に居住する部族。
(※52)章帝と和帝
いずれも賢君とされる。
(※53)桓帝と霊帝
いずれも暗君とされる。
(※54)中興の後
光武帝の中興を指す。本書は後漢書であるため、主体は後漢である。後漢は前漢が滅亡した後、それを復興されて長らく王朝を保ったので、中興といわれる。
(※55)東夷は皆が土地に定住し
有史以来、中国にとって最も脅威となった周辺民族は、北方の騎馬民族であり、これらは非定住の遊牧民であった。それゆえに、土地に定住する東夷諸国は付き合いやすい相手だと感じさせたはずである。
(※56)弁を冠として被り、錦を身につけ、食器に俎豆を用いる
すべて中国の風習。東夷諸国は中国の文化によくなじんだことを記している。
(※57)「中国が礼を失えば、それを四夷に求めよ!」
慣用的な一節だったらしく、この言葉の引用、あるいは、この言葉を前提としていると考えられる文章が他の漢籍にも複数登場する。
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