現代語訳 | |
東沃沮は高句驪の蓋馬大山の東にあり、東は大海に濱し、北は挹婁、夫餘、南は濊貊と接している。その土地は東西に狭くて南北に長く、差し引きしておよそ方千里である。土壌はよく肥えており、山を背にして海に向かい、五穀に適し、田畑に種植えすればよく実り、邑落には
武帝は朝鮮を滅ぼし、沃沮の土地を玄菟郡とした。後に 他にも北沃沮がある。一説には『置溝婁』という名とされ、南沃沮から八百里あまりにある。その国の習俗はすべて南と同じ。国境の南は挹婁と接している。挹婁の人々は船に乗って他国に侵入して掠奪することを喜びとしており、それを畏れる北沃沮は、夏ごとに岩の穴に隠れてしまい、冬になって船の通行ができなくなると、そこで邑落に下って居住する。その国の古老の言によれば、「かつて海の中から布の着物をひとつ見つけた。その形は中国人の着物のようであったが、両方の袖の長さが三丈(約90cm)もあった。また、岸際に一人、難破船に乗った者を見つけたが、頭のてっぺんにもうひとつの顔があり、話をしようとしたが言葉が通じず、物を食べることもなく死んでしまった。」という。また、他にも言う。「海の向こう側には女国があり、男の人がいない。その国には神井があり、それを覗き込むと子供が生まれるとも伝わっている。」 |
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注記 | |
(※1)高句驪の蓋馬大山 長白山脈付近と推測される。現在の朝鮮国北部には蓋馬高原がある。
(※2)高句驪
(※3)挹婁
(※4)夫餘
(※5)濊貊
(※6)五穀
(※7)椁(外柩)
(※8)武帝
(※9)朝鮮
(※10)玄菟郡
(※11)東部都尉
(※12)光武帝
(※13)沃沮侯
(※14)使者
(※15)『置溝婁』
(※16)かつて海の中から布の着物をひとつ見つけた。その形は中国人の着物のようであったが、両方の袖の長さが三丈(約90cm)もあった。
(※17)頭のてっぺんにもうひとつの顔があり、
(※18)「海の向こう側には女国があり、男の人がいない。その国には神井があり、それを覗き込むと子供が生まれるとも伝わっている。」 |
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漢文 | |
東沃沮在高句驪蓋馬大山之東、東濱大海、北與挹婁、夫餘、南與濊貊接。其地東西夹、南北長、可折方千里。土肥美、背山向海、宜五谷、善田種、有邑落長帥。人性質直强勇、便持矛步戰。言語、食飲、居處、衣服、有似句驪。其葬、作大木椁、長十餘丈、开一頭為户、新死者先假埋之、令皮肉尽、乃取骨置椁中。家人皆共一椁、刻木如生、隨死者為數焉。
武帝滅朝鮮、以沃沮地為玄菟郡。後為夷貊所侵、徙郡於高句驪西北、更以沃沮為縣、屬樂浪東部都尉。至光武罢都尉官、後皆以封其渠帥、為沃沮侯。其土迫小、介於大國之間、遂臣屬句驪。句驪復置其中大人為使者、以相监領、責其租税、貂、布、魚、鹽、海中食物、发美女為婢妾焉。 又有北沃沮、一名置沟婁、去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人喜乘船寇抄、北沃沮畏之、每夏輒臧於岩穴、至冬船道不通、乃下居邑落。其耆者言、嘗於海中得一布衣、其形如中人衣、而两袖長三丈。又於岸際見一人乘破船、頂中復有面、與語不通、不食而死。又說海中有女國、無男人。或傳其國有神井、窺之輒生子云。 |
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書き下し文 | |
東沃沮は高句驪の蓋馬大山の東に在り、東は
武帝は朝鮮を滅ぼし、沃沮の
又た北沃沮有り、 |