三国史記 脱解王紀

脱解尼師今

現代語訳

 脱解尼師今が立った。〈一説には吐解と伝わる。〉この時、年齢は六十二歳、姓は昔で、妃は阿孝夫人である。もともと脱解は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里にある。もともとその国の王は、女国の王女を娶って妻としていたが、妊娠すること七年で大きな卵を生んだ。「人でありながら卵を生むのは不吉の兆しだ。それを棄てよ。」と王は言ったが、その娘は忍びなく思い、 きぬ で卵を覆って宝物と一緒に ひつぎ の中に隠し置き、海に浮かべてその向かうところに任せた。最初は金官国の海辺に辿り着いたが、金官人はこれを怪んで取らず、今度は辰韓の阿珍浦口まで辿り着いた。これは始祖の赫居世の在位三十九年のことである。

 この時、海辺の老母が縄で海岸から ひつぎ を引き繫ぎ、それを開いて中を見てみると、なんと一人の小さな乳飲み子がいるではないか。その母は、これを取って養った。壮年になると身長は九尺、風貌は神々しく秀でて ととの い、知識は人の領域を超越していた。ある人は「この乳飲み子は姓氏がわからないので、最初に ひつぎ が到来した時、これに随伴して鳴きながら飛んで来る かささぎ が一羽いたことから、 かささぎ の字を省略して昔を氏とするがよい。そして韞櫝 はこ を解き開けて出てきたので、脱解と名付けるがよい。」と言った。

 脱解はもともと漁や釣りを生業とし、自らの母に供えて養いながらも、怠け厭う顔をすることさえ一度たりともなかった。母は「お前さんは非常の人、骨相も特異だから学問によって功名を立てるがよいでしょう。」と言った。こうして専ら学問に精を出し、同時に地理を知った。楊山の麓にある瓠公の邸宅を望むと、よい土地だと考えて詭計を設け、その地を取り上げて居住した。この地は後に月城となった。

 南解王の五年になると、彼が賢者であると聞いて自らの娘を彼の妻にし、七年になると、大輔に登用して政事をゆだねた。

 儒理が死ぬ直前に言った。
「先王は『私が死んだ後は、息子と壻とにかかわらず、年長かつ賢明な者に王位を継がせよ。』と顧命し、これによって寡人 わたし が先に立ったのだ。今回もそのようにこの位を伝えるがよい。」


漢文

 脫解尼師今立、〈一云吐解。〉時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脫解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。初、其國王娶女國王女爲妻、有娠七年、乃生大卵。王曰、人而生卵、不祥也、宜棄之。其女不忍、以帛裏卵并寶物置於櫝中、浮於海、任其所往。初至金官國海邊、金官人怪之、不取。又至辰韓阿珍浦口、是始祖赫居世在位三十九年也。時海邊老母以繩引繫海岸、開櫝見之、有一小兒在焉。其母取養之。及壯、身長九尺、風神秀朗、知識過人。或曰、此兒不知姓氏。初、櫝來時、有一鵲飛鳴而隨之。宜省鵲字、以昔爲氏。又解韞櫝而出、宜名脫解。脫解始以漁釣爲業、供養其母、未嘗有懈色。母謂曰、汝非常人、骨相殊異、宜從學以立功名。於是專精學問、兼知地理。望楊山下瓠公宅、以爲吉地、設詭計以取而居之、其地後爲月城。至南解王五年、聞其賢以其女妻之。至七年、登庸爲大輔、委以政事。儒理將死、曰、先王顧命曰、吾死後、無論子壻、以年長且賢者繼位。是以寡人先立。今也宜傳其位焉。

書き下し文

 脫解尼師今立つ、〈一に吐解と いは ふ。〉時に よはひ 六十二、姓は昔、妃は阿孝夫人。脫解は もともと 多婆那國に生まるる所なり。其の國、倭國の東北一千里に在り。初め、其の くに きみ 、女國の きみ むすめ めと りて妻と爲し、 はら むこと七年有り、乃ち おほ ひなる たまご を生ぜり。 きみ 曰く、人にして卵を生むは不祥 よろしからざる なりや。宜しく之れを棄つるべし、と。其の をんな 、忍びず、 きぬ を以て卵を かく し、寶物 たからもの あは せて ひつぎ の中に置き、海に浮かべて其の往く所に任せり。初めは金官國の海邊 うみべ に至るも、金官の人は之れを怪しみ取らず。又た辰韓の阿珍浦口に至るは、是れ始祖赫居世の くらひ いま せること三十九年なり。時に海邊 うみべ の老いたる母、繩を以て わた きしへ に引き繫ぎ、 ひつぎ を開きて之れを見れば、 ひとり の小さき ちのみご の在る有らむや。其の母、取りて之れを養へり。壯ずるに及び、身長九尺、 いでたち かうがうしく うつくしく ととのひ 、知識は人に過ぐ。 あるひと 曰く、此の ちのみご 、姓氏を知らず。初め、 ひつぎ の來たる時、 ひとあり かささぎ の飛び鳴きて之れに したが ふ有り。宜しく鵲の字を省き、昔を以て氏と すべし、と。又たは韞櫝 はこ を解きて出ずるに、宜しく脫解と名づくべし、と。脫解、始め漁釣 つり を以て なりはひ と爲し、其の母を供へ養ひ、未だ嘗て くる かほいろ 有らず。母謂ひて曰く、汝は非常の人、骨相は こと あだ しき、宜しく學に りて以て功名を立つるべし、と。是に於いて專ら學問に はげ み、兼ねて つち ことはり を知る。楊山の ふもと の瓠公の いえ を望み、以爲 おもへ らく めでた つち ならむとし、 あざむき はかりごと を設けて以て取りて之れに すま ひ、其の つち は後に月城と爲る。南解王五年に至り、其の かしこき なるを聞き、其の むすめ を以て之れに妻せしむ。七年に至り、 もち ひて大輔と爲し、以て まつりごと の事を委ぬ。儒理、將に死なむとするときに曰く、先王の ふりかへりたる みことのり に曰く、吾の死せる後、 むすこ むこ あげつ らふこと かれ。 とし けたりて且つ かしこき なる者を以て位を繼がせしむるべし、と。是れ寡人 われ を以て先に立つる。今や宜しく其の位を傳ふるべし、と。

二年

現代語訳

 二年(58年)春正月、拜して瓠公を大輔とした。
 二月、 みづか ら始祖の みたまや を祀った。


漢文

 二年春正月、拜瓠公爲大輔。二月、親祀始祖廟。

書き下し文

 二年春正月、拜して瓠公を大輔と爲す。
 二月、 みづか ら始祖の みたまや を祀る。

三年

現代語訳

 三年(59年)春三月、王が吐含山を登ると、 くろ き雲が かさ のように王の頭上に浮かび、しばらくして散った。
 夏五月、倭国と よしみ を結ぎ、互いに聘問を交わした。
 六月、孛星が天船に流れた。


漢文

 三年春三月、王登吐含山。有玄雲如蓋、浮王頭上、良久而散。夏五月、與倭國結好交聘。六月、有孛星于天船。

書き下し文

 三年春三月、王、吐含山に登る。 くろ き雲有り、 かさ の如く王の頭上に浮かび、良久 ややひさしく して散れり。
 夏五月、倭國と よしみ を結び こもごも たず ぬ。
 六月、孛星、天船に有り。

五年

現代語訳

 五年(61年)秋八月、馬韓の将の孟召が覆巖城をもって降伏した。


漢文

 五年秋八月、馬韓將孟召以覆巖城降。

書き下し文

 五年秋八月、馬韓の將の孟召、覆巖城を以て降りたり。

七年

現代語訳

 七年(63年)冬十月、百済王が領土を開拓して娘子谷城まで辿り着くと、使者を遣わせて会談を要請したが王は行かなかった。


漢文

 七年冬十月、百濟王拓地、至娘子谷城、遣使請會、王不行。

書き下し文

 七年冬十月、百濟王、地を拓き娘子谷城まで至り、遣使して を請はせしむるも王行かず。

八年

現代語訳

 八年(64年)秋八月、百濟が兵を遣わせて蛙山城を攻めさせた。
 冬十月、今度は狗壤城を攻めた。王が騎兵二千を遣わせて迎撃し、これらを敗走させた。
 十二月、地震が起こった。雪が降らなかった。


漢文

 八年秋八月、百濟遣兵攻蛙山城。冬十月、又攻狗壤城。王遣騎二千擊走之。十二月、地震、無雪。

書き下し文

 八年秋八月、百濟、兵を遣りて蛙山城を攻めせしむ。
 冬十月、又た狗壤城を攻む。王、 うまいくさ 二千を遣りて擊たせしめ、之れを のが せしむ。
 十二月、地震 なゐ 、雪無し。

九年

現代語訳

 九年(65年)春三月、王は夜に金城の西の始林の樹の間で、鶏の鳴き声があるとの話を聞き、夜明けに瓠公を遣わせてそちらを視察させると、金色の小さな はこ が樹の枝にぶら下がっており、白い鶏がその下で鳴いていた。瓠公が還って報告すると、王は人を使わせて はこ を取ってこさせ、それを開くと、容姿の奇しきほどに すぐ れた小さな男の乳飲み子がその中にいた。君上は喜び、左右に言った。「これは天が私に せがれ とさせるために遺されたに違いない!」すぐにその子を拾って養い、成長すると聡明で智略にすぐれ、ゆえに閼智と名付けた。彼は金の はこ を出自としたので、姓を金氏とし、始林は鶏林と名を改め、これに因んで国号とした。


漢文

 九年春三月、王夜聞金城西始林樹間有鷄鳴聲。遲明、遣瓠公視之、有金色小櫝掛樹枝、白雞鳴於其下。瓠公還告、王使人取櫝開之、有小男兒在其中、姿容奇偉。上喜、謂左右曰、此豈非天遺我以令胤乎。乃收養之。及長、聰明多智略、乃名閼智。以其出於金櫝、姓金氏。改始林名雞林、因以爲國號。

書き下し文

 九年春三月、王、夜に金城の西の始林の樹の間に鷄の鳴き聲の有るを聞けり。遲明 あけがた 、瓠公を遣りて之れを さぐ らせしむれば、金色 こがね なる小さき はこ の樹の枝に掛かる有り、白雞、其の下に於いて鳴けり。瓠公、還りて告ぐれば、王は人を使 はこ を取らせしめて之れを開くれば、小さき をのこ ちのみご 、其の中に在る有り、姿容 すがた は奇しきほどに すぐ る。 おかみ は喜び、左右に謂ひて曰く、此れ豈に天の我に遺して以て せがれ せし めむとするに非ざるか、と。乃ち收めて之れを養へば、長ずるに及びて聰明にして さと しき はかりごと 多く、乃ち閼智と名づく。其の こがね はこ より出ずるを以て、姓を金氏たらしむ。始林を改めて雞林と名づけ、因りて以て國號と爲せり。

十年

現代語訳

 十年(66年)、百済が蛙山城を攻めて取り、二百人を居守に留め置いたが、ついでこれを取り返した。


漢文

 十年、百濟攻取蛙山城、留二百人居守、尋取之。

書き下し文

 十年、百濟、攻めて蛙山城を取り、二百人を留めて居守 まも らせしむるも、 ぎて之れを取る。

十一年

現代語訳

 十一年(67年)春正月、朴氏の貴戚に国内の州郡を分けて統治させ、 よびな を州主、郡主とした。
 二月、順貞を伊伐飡とし、政事をゆだねた。


漢文

 十一年春正月、以朴氏貴戚分理國內州郡、號爲州主、郡主。二月、以順貞爲伊伐飡、委以政事。

書き下し文

 十一年春正月、朴氏の貴き みうち を以て國內の州郡を分け おさ めせしめ、 よびな を州主、郡主と爲す。
 二月、以て順貞を伊伐飡と爲し、以て まつりごと の事を委ぬ。

十四年

現代語訳

 十四年(70年)、百済が侵しに来た。


漢文

 十四年、百濟來侵。

書き下し文

 十四年、百濟、侵しに來たり。

十七年

現代語訳

 十七年(73年)、倭人が木出㠀を侵し、王が角干の羽烏を遣わせてこれを防御させたが勝てず、ここで羽烏が死んだ。


漢文

 十七年、倭人侵木出㠀、王遣角干羽烏禦之、不克、羽烏死之。

書き下し文

 十七年、倭人の木出㠀を侵すに、王は角干の羽烏を遣りて之れを まも らせしむるも克たず、羽烏之れに死す。

十八年

現代語訳

 十八年(74年)秋八月、百済が国辺を おか したが、兵を遣わせてこれを防がせた。


漢文

 十八年秋八月、百濟寇邊、遣兵拒之。

書き下し文

 十八年秋八月、百濟、 くにへ おか すも、兵を遣りて之れを ふせ がせしむ。

十九年

現代語訳

 十九年(75年)、大旱魃が起こり民が餓えたので、倉を開放して賑給した。
 冬十月、百済が西の いなか から蛙山城を攻め、これを陥落した。


漢文

 十九年、大旱、民饑、發倉賑給。冬十月、百濟攻西鄙蛙山城、拔之。

書き下し文

 十九年、大いなる ひでり あり、民 ゆれば、倉を ひら きて賑給 ふるま ひたり。
 冬十月、百濟、西の いなか の蛙山城を攻め、之れを拔く。

二十年

現代語訳

 二十年(76年)秋九月、兵を遣わせて百済を伐たせ、蛙山城をふたたび取り返した。百済から来て居留していた二百人余りのことごとくを殺した。


漢文

 二十年秋九月、遣兵伐百濟、復取蛙山城、自百濟來居者二百餘人、盡殺之。

書き下し文

 二十年秋九月、兵を遣りて百濟を伐たせしめ、蛙山城を また しても取り、百濟より來たりて いま する者二百餘人、盡く之れを殺せり。

二十一年

現代語訳

 二十一年(77年)秋八月、阿飡の吉門が加耶兵と黄山津口で戦い、一千級余りを獲った。吉門を波珍飡とすることで賞功した。


漢文

 二十一年秋八月、阿飡吉門與加耶兵戰於黃山津口、獲一千餘級。以吉門爲波珍飡、賞功也。

書き下し文

 二十一年秋八月、阿飡の吉門、加耶兵と黃山津口に於いて戰ひ、一千餘級を獲れり。以て吉門を波珍飡と爲し、功を賞するなり。

二十三年

現代語訳

 二十三年(79年)春二月、慧星が東方に現れ、今度は北方に現れ、二十日で消滅した。


漢文

 二十三年春二月、慧星見東方、又見北方、二十日乃滅。

書き下し文

 二十三年春二月、慧星、東方に あらは れ、又た北方に あらは れ、二十日にして乃ち滅す。

二十四年解

現代語訳

 二十四年(80年)夏四月、京都で大きな風が吹き、金城の東門は自壊した。
 秋八月、王が薨去し、城の北の譲井丘に葬られた。


漢文

 二十四年夏四月、京都大風、金城東門自壞。秋八月、王薨、葬城北壤井丘。

書き下し文

 二十四年夏四月、京都大いに かざぶ き、金城の東の かど は自ら壞る。
 秋八月、王薨じ、城の北の壤井丘に葬らる。

注記

阿孝夫人

 二代南解王と雲帝夫人の娘。兄に三代儒理王がいる。三国遺事では阿尼、阿老といった表記も見られる。
雲梯夫人
雲梯夫人

多婆那国

 三国史記の記述では、倭国の東北一千里。九州から東北一千里程度の距離にあるということで、一般には丹波 たんば 国(奈良時代に分離された但馬 たじま 国と丹後国を兼ねた旧丹波国)に比定される。これは多婆那のみで「タバくに」あるいは多婆那国で「タバのくに」とする解釈。但し、肥後国玉名郡、周防国佐波郡等、諸説ある。また三国遺事では「龍城国」という国名が示されている。
丹波鐘坂
六十余州名所図会「丹波鐘坂」
 ちなみに、旧丹波国の こも 神社には、丹波から新羅にわたって王となった者がいたとの伝承が残されている。また、旧丹波のうち但馬国に位置する出石神社には新羅の王子天日槍 あめのひぼこ が渡来し、鍛冶技術を伝えて当地の支配者となり、子孫が多遅麻 たじま (=但馬)氏になったとされる。このように、この地域には新羅との関係の深さを思わせる伝承が多い。

女国

 女国という名であれば、後漢書東沃沮伝には、北沃沮の古老の伝承に「海の向こうには女国があり、男がいない。」とあったことが記されている。また、同じく後漢書の倭伝には「女王国」という国が日本列島内に存在することが記載されている。

金官国

 韓半島南部の伽耶諸国のうち、もっとも興隆した国家。狗邪韓国、駕洛国とも。初代国王の首露王は、金の卵から生まれたという新羅と同様の卵生伝説を有し、姓は金氏。王妃の許黄玉は阿踰陀国の王女と伝わり、この阿踰陀国とはインド北部のアヨーディヤー朝と言われている。よって、古来より交流が盛んであると言われる。
許黄玉
初代王妃の許黄玉

阿珍浦

 韓国の慶州市にある迎日湾に比定される。三国遺事にも『迎日県』という地名が登場し、その海岸で延烏郎という男が海苔を取っていると、足元の岩が飛び立って日本までたどり着き、その地で王となったという伝説が記されていることから、日本列島とのつながりを感じさせられる。また、高麗史には迎日県の別名は『延日県』とされており、延烏郎の名に通じる。
迎日湾
迎日湾
 かつての加羅諸国には伊珍阿鼓 いざなぎ という名の王がおり、延烏郎や延日県の『延』は「いざなう」という意味を持つ。日本書紀に登場し、日本列島を創造したとされる神の名は伊邪那岐 いざなぎ である。伊邪那岐 いざなぎ が海に天沼矛 あめのぬぼこ を挿してコオロコオロとかき混ぜると陸地が徐々に出来上がり、これが日本最初の島の淡路島である。さて、この矛とよく名が似ているのが先に触れた新羅王子天日槍 あめのひぼこ にも同様に新羅から日本に渡来した際、当地の支配者であった伊和大神に海中での待機を命じられたため、剣を海に挿してかき混ぜ、その場に島を創造したという逸話が存在しており、非常に話がよく似ている。
伊邪那岐
天沼矛 あめのぬぼこ を構える伊邪那岐 いざなぎ

海辺の老母

 三国遺事には名を阿珍義先といい、初代朴赫居世の「海尺の母」とされている。「海尺の母」は漁業にかかる職業だと推定されているがよくわからない。

かささぎ

 鳥綱スズメ目カラス科。日本語名はカラスらしくないが、魏志倭人伝には倭に鵲(カササギ)がいない(其地無牛馬虎豹羊鵲)と記録されている通り、そもそも日本にはあまり生息しておらず、おそらく鷦鷯(ササギ)の一種と混同されたのだろう。現在は佐賀県と福岡県の一部にのみ生息し、天然記念物として扱われている。それらの地域では、カササギは「カチガラス」と呼ばれ、カラスの一種として扱われている。また、韓国ではカササギを「カチ」と呼んでいることから、これが伝統的に韓国との関係において認識されていたとも推測される。同地域では、カササギを「コーライガラス」とも呼び、これは「高麗ガラス」である。
カササギ
カササギ

 韓国においてはカササギは国鳥とされ、日本とは逆にたいへんポピュラーで、現在でも全土に生息している。先述した通り「カチ」と呼ばれ、客人を呼び込む鳥であるとして愛されているが、これが脱解王という客人を呼び込んだことに起因するのかはわからない。

楊山

 三国史記新羅本紀の始祖朴赫居世紀に登場。辰韓六部のひとつで始祖とされる朴赫居世の生まれた卵の落ちていたのも、この山の麓。

脱解はもともと漁や釣りを生業とし、自らの母に供えて養いながらも、怠け厭う顔をすることさえ一度たりともなかった。(中略)この地は後に月城となった。

 漁師をしながら老母を献身的に養うというと浦島太郎を想起させられる。また、御伽草子の浦島太郎のモデルとなった浦嶋子を祀る宇良神社には、彼が日本神話において月を司る神『月読命』の子孫だという伝説が残っており、月城という城名にも関連性を想起させられる。また『三国遺事』には、この地の峰が三日月状であったと明記されている。浦島子は旧丹波国のうち丹後国地域の出身とされている。
浦嶋明神縁起
宇良神社に室町時代から伝わる『浦嶋明神縁起』から。

瓠公

 三国史記新羅本紀の始祖朴赫居世紀に登場。初代新羅王とされる朴赫居世の部下。

脱解は(中略)楊山の麓にある瓠公の邸宅を望むと、よい土地だと考えて詭計を設け、その地を取り上げて居住した。

 この伝説については、三国遺事に詳細が載せられている。昔脱解は、瓠公の邸宅にあらかじめ砥石と炭を埋めておき、その家を訪ねて、ここが先祖伝来の自分の家だと主張した。こうして瓠公と言い争いになり役所に訴え出ることにした。昔脱解は役人に「私はもともと鍛冶屋でしたが外出中に人が住み着いてしまった。地面を掘って調べてみてほしい。」と述べ、その通りにすると、果たして庭から砥石と炭が出てきたので昔脱解の主張は認められた。
高樹神社
高樹神社
 この逸話によく似た伝承が日本の神社に遺されている。高良玉垂命を祭る福岡県久留米市『高良大社』のある高良山の麓には、高皇産霊神を祭る『高樹神社』がある。この社前案内板に記された伝承を以下に引用しよう。
 祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。
 古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
 この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶2年(878)11月13日の条に「筑後国高樹神ニ従五位ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。
 ちなみに高良大社のある久留米は日本において珍しいカササギの生息地。また高良玉垂命は別名「月神様」と呼ばれ、十三夜(旧暦九月十三日、秋の収穫を月に感謝する祭日)を司る。ここでも月にかかる神として月城という地名との共通性が見いだせる。
雲梯夫人
高良大社
 この話には、他にも興味深いモチーフがいくつも登場する。昔脱解は自らを鍛冶屋の子孫としているが、先に触れた天日槍 あめのひぼこ について、兵庫県姫路市の新羅神社には、彼がこの地に鍛冶師として製鉄技術をもたらしたとの伝承がある。炭は風水における結界でもある。

南解王

 三国史記新羅本紀の南海次次雄紀に登場。新羅の2代王とされる。

吐含山

 韓国の慶州市普徳洞・仏国洞・陽北面の境界にある山で、高さ745m。脱解の名の異説に「吐解」という名が紹介され、ここで脱解がこの山に登ったことが書かれているが、この吐含山という名も吐解に由来するものであるという説がある。三国遺事には、幼少期の脱解が自ら杖をついて、この山に登ったという伝承がある。のちに新羅五嶽の東嶽と認定される。
雲梯夫人
吐含山

馬韓

 三国史記新羅本紀の始祖朴赫居世紀に登場。三国史記の記述においては、この時点で既に滅んでいるとされる。百済本紀の始祖温祚紀を参照。但し、そもそも後漢書東夷伝、三国志東夷伝、晋書東夷伝には馬韓の名が記され、滅亡したとは記されておらず、逆に百済の名は後漢書に一度だけ小国家群のひとつの国としてのみ記されるに留まる。三国史記の初期の記録の時系列には乱れがあり、どこまでどのような形で事実として扱うかは難しい。

孟召

 馬韓の将となっているが、先で述べた通り三国史記では同国は既に滅んだことになっている。おそらく本著では残存勢力として描かれているのだろう。これが事実としてどう解釈すべきかは不明である。

覆巖城

 場所は不明。

百済王

 ここでの百済王は二代目の多婁王。

娘子谷城

 韓国の忠清北道清原郡とされる。

蛙山城

 韓国の忠清北道報恩郡とされる。

狗壤城

 韓国の忠清北道沃川郡とされる。

始林、雞林

現在は慶州国立公園内にある。

金閼智

 後に新羅王の系統となる金氏の祖。三国遺事では、閼智という名は「小さな子」を意味するとされる。新羅に関する各碑文では、前漢に武帝から氏姓を授かった匈奴の王子である金日磾の子孫とされている。
金閼智
金閼智

州主、郡主

 行政区画として秦の始皇帝が中国全土を48の郡に分け、それぞれの下に県を置いた。これを郡県制という。秦の制度を踏襲した漢王朝は、6代武帝の時代に郡の上に州を置いた。つまり行政区画として州>郡>県という序列が設定されている。但し、州は後発であることから統括者の立場も名称も一定ではない。最初に設置された刺史は当時、郡を統括する郡守よりも地位が低く、のちに前漢12代成帝が州牧と改名して郡守と同格となった。その後、後漢王朝では州牧が刺史に改名され、更に後漢末期には州牧が刺史と併存する形で設置された。この際の州牧は独自に軍隊の所持と立法を行なう強大な権利を有し、これが後漢末から三国時代にかけての群雄割拠の大分裂を為す下地となっている。
 これは世界各国の行政区画を分類する際の訳語にも用いられ、たとえばアメリカというnation(国家)の下にあるstateは「州」と訳され、その下にある行政区画のcountyは「郡」と訳される。アメリカの州も州兵と州法を有する強大な自治権がある。

伊伐飡

 骨品制における官職の第一等。新羅の王族の中でも父母ともに王族でなくてはなれぬ『聖骨』の第一位であり、ここで記される順貞は、それに基づいて解釈するなら朴順貞となるはずであるが、骨品制という制度がどの時代にどのように運用されて来たかは怪しい部分があり、よくわからない。

木出㠀

 木出島。慶尚南道蔚山広域市の目島のことだとされる。

角干

 角干は伊伐飡の別名ともされているが、この7年前に伊伐飡が別に任命されていることから、違うように見える。三国史記において角干の称号を有する者に比定される人物の名に日本書紀では「叱智干」という語が用いられていることから、おそらくこれらは同じものである。

賑給

 病人や困窮者、身寄りのない者などへの配給。特に中国の唐王朝以後は律令制における同名の制度を指すが、それ以前にも東観漢記や後漢書において、後漢王朝の皇帝や官吏が困窮する民に賑給をしている記事が見られる。

阿飡

 骨品制における官職の第六等。六頭品の第一であり、王族ではない貴族が就ける最上位の官職とされる。

加耶

 金官国を中心とした朝鮮半島南東部の小国群。

黄山津

 現在の洛東江とされるが異説あり。洛東は駕洛国の東を意味し、駕洛国とは伽耶諸国あるいは金官国のこと。

波珍飡

 骨品制における官職の第四等。王族しかつけない『真骨』の第二位とされる。

壤井丘

 韓国の慶州市にある。

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