現代語訳 | |
夫餘国は、玄菟郡の北千里にある。南は高句驪と、東は挹婁と、西は鮮卑と接し、北には弱水がある。土地は方二千里、もともと濊の土地である。
かつて、北夷の索離国の王が外出すると、その側仕えの若者がその後に妊娠した。帰ってきた王は、その者を殺そうとしたが、側仕えの若者は言った。「先ほど、天上を見ていたら、ニワトリの卵くらいの大きさの気があって、私に向かって降りてきたのです。こうして、私は身ごもってしまいました。」その者を王は収監すると、その後ついに男を生んだ。王は豚小屋に置かせたが、豚が息を彼に吹きかけたので死ななかった。今度は馬小屋に移してみたが、馬も同じくそのようにした。こうして王は神だと考えるようになり、そこで母に言いつけて保護し養育させるようにして、東明と名付けた。成長した東明は射撃が上手く、王は彼の猛威を忌み嫌い、またも彼を殺そうとした。東明は南に逃れて出奔し、掩淲水までたどり着き、弓で水を擊つと、魚や
東夷の領域において、最も平野の開けた場所であり、土壌は五穀に適している。名馬、赤玉、貂豽、 道行く人々には昼も夜もなく歌を歌ったり詩を吟ずることを好み、音声は絶えることがない。その国の習俗では、厳格かつ早急に刑罰を用い、誅殺された者はすべてその家人を没収されて奴婢にされる。盗みは一につき、十二の賠償を負う。男女の姦淫については、皆でその者たちを殺し、憎悪や嫉妬をする既婚女性を咎めて治めるために、殺した後で今後は山の上に死体を晒すようにしている。兄が死ぬと妻が弟に嫁ぐ。死については、椁はあるが棺がない。人を殺して殉葬し、多い者は百人を数える。その国の王は葬儀に玉匣を用い、あらかじめ漢王朝は玉匣を玄菟郡に常備させ、王の死に際して迎え取り、こうして葬儀が行なわれるのだ。
建武の中、東夷諸国のすべてが奉献の朝見をしに来た。二十五年(紀元50年)には、夫餘王が使者を派遣して朝貢に奉り、光武帝は厚く答えて彼らに報いた。こうして毎年の通勤を使命とさせたのだ。安帝の永初五年(111年)になってから、夫餘王が歩兵と騎兵の合わせて七、八千人を引き連れて楽浪郡に侵入して掠奪をするようになり、官吏も人民も殺し、傷つけたが、後に元通り帰順して従うようになった。永寧元年(120年)には、後継ぎとなる息子の尉仇台を派遣し、宮廷の門に来訪して朝貢を献上すると、天子は尉仇台に印綬金彩を賜った。順帝の永和元年(136年)に、その国の王が来朝しようと |
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注記 | |
(※1)玄菟郡 前漢武帝が朝鮮半島北部に設置した郡。設置経緯について詳しくは、史記朝鮮伝を参照。
(※2)高句驪
(※3)挹婁
(※4)鮮卑
(※5)弱水
(※6)濊
(※7)北夷の索離国
(※8)東明
(※9)掩淲水
(※10)
(※11)五穀
(※12)赤玉
(※13)貂豽
(※14)
(※15)大珠
(※16)俎豆
(※17)拝爵(献杯)、洗爵(返杯)
(※18)揖讓升降
(※19)椁、棺
(※20)玉匣
(※21)奉献の朝見をしに来た。
(※22)光武帝
(※23)安帝
(※24)楽浪
(※25)尉仇台
(※26)天子
(※27)印綬金彩
(※28)順帝
(※29)黄門鼓吹
(※30)角抵戯(相撲)
(※31)桓帝
(※32)玄菟太守の公孫域
(※33)霊帝
(※34)献帝
(※35)遼東郡 |
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漢文 | |
夫餘國、在玄菟北千里。南與高句驪、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水。地方二千里、本濊地也。
初、北夷索離國王出行、其待兒於後妊身、王還、欲殺之。侍兒曰、前見天上有氣、大如雞子、來降我、因以有身。王囚之、後遂生男。王令置於豕牢、豕以口氣嘘之、不死。復徙於馬兰、馬亦如之。王以為神、乃听母收養、名曰東明。東明長而善射、王忌其猛、復欲殺之。東明奔走、南至掩淲水、以弓擊水、魚鳖皆聚浮水上、東明乘之得度、因至夫餘而王之焉。於東夷之域、最為平敞、土宜五穀。出名馬、赤玉、貂豽、大珠如酸枣。以员栅為城、有宫室、仓库、牢獄。其人粗大强勇而謹厚、不為寇鈔。以弓矢刀矛為兵。以六畜名官、有馬加、牛加、狗加、其邑落皆主屬諸加、食飲用俎豆、會同拜爵洗爵、揖讓升降。以腊月祭天、大會連日、飲食歌舞、名曰迎鼓。是時断刑獄、解囚徒。有军事亦祭天、殺牛、以蹄占其吉凶。行人無昼夜、好歌吟、音声不絕。其俗用刑严急、被誅者皆没其家人為奴婢。盗一責十二。男女淫、皆殺之、尤治恶妒婦、既殺、復尸於山上。兄死妻嫂。死則有椁無棺。殺人殉葬、多者以百數。其王葬用玉匣、漢朝常豫以玉匣付玄菟郡、王死則迎取以葬焉。 建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光武厚答报之、於是使命歲通。至安帝永初五年、夫餘王始將步騎七八千人寇抄樂浪、殺傷吏民、後復归附。永宁元年、乃遣嗣子尉仇台詣阙貢獻、天子賜尉仇台印綬金彩。順帝永和元年、其王來朝京师、帝作黄門鼓吹、角抵戏以遣之。桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人寇玄菟、玄菟太守公孫域擊破之、斬首千餘級。至靈帝熹平三年、復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟、獻帝時、其王求屬遼東云。 |
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書き下し文 | |
夫餘の國は、玄菟の北千里に在り。南は高句驪と、東は挹婁と、西は鮮卑と
初め、北の
建武の中、
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