東明王篇 併序

併序

現代語訳

 世間に東明王の神異について説く者は多い。物を知らぬ男女であっても、そのことであれば大いに説くことができる。かつての僕はそれを聞いて笑った。

「先師仲尼は、怪力乱神 オカルト を語らなかった。これ実に荒唐奇詭之事 おかしきこと 、我らのような儒者に説くべきことではあるまいよ。」

 魏書や通典を読んでみれば、同じくその事が掲載されていた。ところが記録は簡略で、詳細ではない。これが「内に詳しく外に やす き」の意味するところであろうか。

 癸丑 みずのとうし の四月を越え、旧三国史を手に入れたので、東明王本紀を読んでみれば、その神異の あと は、世間で説かれるものを遥かに超えていた。それでも、まだ最初はこれを信じることができず、心の中で「鬼か、幻か。」と考えていたが、三度にわたって繰り返し読みふけり、趣を思案することで、やっとのことで淵源までたどり着いた。

 幻ではない。つまり聖だ。鬼ではない。つまり神だ。

 ましてや国史の直筆の書が、そのことを妄伝することがあるだろうか。金公富軾が重撰した国史は、あまりにその事を省略している。もしや公は、国史が世間を正すための書であるからということで、大異のしわざを後世に示してはならないと考え、そのことを省略したのだろうか。

 唐玄宗本紀や楊貴妃伝を紐解いてみても、どちらも方士が天へ昇ったとか、あるいは地に入ったとの事跡は記されていない。それでも詩人の白楽天だけは、その事跡が時とともに埋没して失われてしまうことを恐れ、歌を作ることで、これを記した。これは実に荒淫奇誕之事 おかしきこと ではあったが、それでもこれを詩に詠むことで、後世に示したのだ。

 ましてや東明王の事跡は変化神異 あたしき をもって人々の目を眩惑させたものではない。これは偽りなき創国の神迹である。これに則して述べなければ、後世の人は何をたよりにすればよいのか。

 かくして詩を作ることでこれを記し、かの天下に我が国の根本が聖人の都なることを知らしめんとするのみである。


漢文

 世多說東明王神異之事。雖愚夫騃婦、亦頗能說其事。僕嘗聞之笑曰、先師仲尼、不語怪力亂神。此實荒唐奇詭之事、非吾曹所說。及讀魏書通典、亦載其事。然略而未詳。豈詳內略外之意耶。越癸丑四月、得舊三國史、見東明王本紀、其神異之迹、踰世之所說者。然亦初不能信之、意以爲鬼幻。及三復耽味、漸涉其源。非幻也、乃聖也。非鬼也、乃神也。況國史直筆之書、豈妄傳之哉。金公富軾重撰國史、頗略其事。意者公以爲。國史矯世之書、不可以大異之事爲示於後世、而略之耶。按唐玄宗本紀楊貴妃傳、並無方士升天入地之事。唯詩人白樂天恐其事淪沒、作歌以志之。彼實荒淫奇誕之事、猶且詠之、以示于後。矧東明之事、非以變化神異眩惑衆目、乃實創國之神迹。則此而不述、後將何觀。是用作詩以記之、欲使夫天下知我國本聖人之都耳。

書き下し文

 世に東明の きみ 神異 あたしき の事を說くもの多し。愚かな をのこ おろ かな をみな と雖も、亦た頗る能く其の事を說きたり。僕は嘗て之れを聞きて笑ひて曰く、先つ きみ の仲尼、怪力亂神 あたしき を語らず。此れ實に荒唐奇詭 をかしかりし の事、吾曹 われら に說かるる所に非じ、と。魏書や通典を讀むに及びたれば、亦た其の事を載せたり。然れども やすき にして未詳 くはしからず 。豈に內に詳しく外に やす きの こころ ならむか。癸丑 みずのとうし 四月 うづき を越え、舊三國史を得、東明王本紀を見れば、其の神異 あたしき あしあと は、世の說かるる所の者を踰えたらむ。然れども亦た初めは之れを まこと とするに能はじ、 こころ に、鬼か幻ならむや、と以爲 おも ひたるも、 みたび くりかへ し耽り味はひたるに及び、 やうや く其の みなもと わた りたらむ。幻に非ざるなり。乃ち聖なり。鬼に非ざるなり。乃ち神なり。 してや國史の直筆の ふみ 、豈に妄りに之れを傳へたる かな 。金公富軾の重ねて撰びたる國史は、頗る其の事を略 やすく したり。意者 もしや きみ 以爲 おもへ らくは、國史は世を ただ したるの ふみ 大異 あたしき 事爲 しはざ を以ちて後の世に示す可からず、と、 すなは ち之れを やすく したるか。唐玄宗本紀と楊貴妃傳を按ずれども、並びて方士の天に のぼ りて つち に入りたるの事は無し。唯だ詩人の白樂天のみ、其の事の淪沒 うしなはれたる を恐れ、歌を作りて以ちて之れを しる す。彼は實に荒淫奇誕 をかしかりし の事なれども、猶ほ且つ之れを詠み、以ちて後に示したり。 いはむ や東明の事は、變化神異 あたしき を以ちて ひと の目を眩惑 まどはしたる に非じ、乃ち實に國を創りたるの神なる あしあと たらむ。此れに のりと り、 しかう して述べざれば、後は何を ちて觀たるか。是れ用ちて詩を作りて以ちて之れを記し、 天下 あめのした 使 て我が國の おほもと ひじり なる人の都たることを知らしめむと おも ひたるのみ。

注記

東明王

 高句麗を建国した伝説の王とされる朱蒙のこと。東明聖王。高句麗の宗主国であった扶余の建国者も東明王という名を称される。

先師仲尼

 孔子のこと。先師は前時代の賢人を敬った呼び方。仲尼は孔子の あざな 。中国では、本名である いみな とは別に、普段の通称となる仮名として あざな がある。

怪力乱神 オカルト

 論語からの引用。論語には「子、不語怪力乱神(子、怪力乱神を語らず)」とあり、つまり孔子が語らなかったものを指す。怪力乱神の解釈については諸説あるが、人智を超えた事柄を指していることは一致している。孔子は「鬼神敬してこれを遠ざく(鬼や神といった超常的な存在には、敬意を払いながらも距離を置く)」「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや(生きていながら生きるということがわからないのだ。死んでもいないのに死について知っているわけがなかろう。)」といった言葉を遺しており、未知のものに慎重な態度を取った。

魏書

 南北朝時代における最初の北朝である魏(北魏)について記された史書。高句麗の列伝において、東明王こと朱蒙の伝説も記録されている。北斉の魏収が編纂。

通典

 伝説における最初の人間の統治者である黄帝から唐までの歴代中華王朝の制度の変遷を主に記録した書。ここにも東明王の伝説が記録されている。

「内に詳しく外に やす き」

 「国内のことは詳細だけど、国外のことは粗略である」という意味。三国史記を編纂した金富軾がそれを高麗王に奉るにあたって添えられた上表文からの引用。詳細は『進三国史記表』を参照。ここで金富軾は、中国の史書は、中国の「国内のことは詳細だけど、国外のことは粗略である」と述べ、朝鮮半島の記録は十分に尽くされていないことを、三国史記の編纂目的のひとつに挙げている。

癸丑 みずのとうし の四月

 西暦1193年5月頃。当時の高麗王朝は武人が発言力を強め、1170年に武臣の鄭仲夫がクーデターによって国王を殺害し、以後100年にかけて、王を傀儡として武人が実権を握る武臣政権が続いた。ちょうど日本において、1185年に武家政権の鎌倉幕府が立てられたことにやや先んじてのことである。西暦1259年に高麗が元に降伏し、1270年に当時の武臣政権を司る林衍が粛清され、この体制は終結した。この約100年は、武臣政権時代と呼ばれ、1193年4月とは、この真っ只中のことであった。当時の李奎報は24歳。

旧三国史

 高麗初期に記された歴史書。現存しない。現存する最古の史書である三国史記より先行して存在していた。なぜ重複して三国史記が編纂されたのかは議論がある。本来の書名は三国史であり、三国史記が登場したことから旧三国史と呼ばれるようになっている。

東明王本紀

 中国の正史は紀伝体と呼ばれる形式で記される。これは「本紀」と「列伝」によって構成されたもので、王朝の主催者である王者の歴史を記した史書の中心となる記録が本紀、その他の人物や周辺民族などの歴史を記したものが列伝である。東明王本紀という記述から、三国史記が紀伝体の史書であることが窺える。

金公富軾

 三国史記を編纂した金富軾のこと。

重撰

 重複して撰集すること。金富軾の三国史記は、当時すでに『三国史』という先行する史書が勅撰されていたのに、重ねて撰集されている。

もしや公は、国史が世間を正すための書であるとして、大異のしわざを後世に示してはならないと考えたから、そのことを省略したのだろうか。

 三国史記には、新羅王の祖となる金閼智の出生について、金の柩から生まれたことが記されているが、同書二十八巻にはそのことについて、それが古くからの言い伝えであるから、その部分を削除しなかった旨が記され、逆に言えば、三国史記の編纂態度は、できるだけ超常的な現象については記すことを避けたのだと考えられる。事実、本詩の内容には三国史記に掲載されていない朱蒙にまつわる超常現象や神話的な要素が非常に多く含まれており、注として引用される旧三国史の内容からも、それが史料を踏まえたものだと察することができる。

唐玄宗本紀、楊貴妃伝

 旧唐書の唐玄宗本紀も楊貴妃伝だと思われる。

方士が天へ昇り、あるいは地に入ったとの事跡

 楊貴妃に先立たれた唐玄宗は、彼女の魂を求めて方士にに依頼し、道術によって天上や地下を捜索させたという伝説がある。もちろん歴史書には記録されていない。ちなみに、この伝説においては、彼女の魂は仙界で見つかる。彼女は方士に幻想への伝言として、「天にあらば鳥のふたつの翼になれますように、地にあらば連理の枝になれますように。」と、生前に語り合った言葉を伝える。

詩人の白楽天

 唐代の儒者。非常に多作の詩人で、詩による政情の批判をよく行ない、若き日の著書『新楽府』では詩に関する持論を展開した。当時の彼は「諷諭詩(政治における風刺や人を諌めるための詩)」「閑適詩(日常で沸き起こるよろこびを表現した詩)」「感傷詩(感傷的な詩)」「雑詩(ちょっとした小歌)」の順に重視し、士人の詠む詩は民衆の代弁、政治家の参照すべき内容であるべきだと主張したが、後年になるほど後者の作風が増え、現代ではそちらの作風に人気が寄せられている。

詩に詠むことで、後世に示した

 長恨歌のこと。白楽天は、友人の陳鴻、王質夫と集まって歓談していた際、上記の唐玄宗と楊貴妃の伝説について語った。すると王質夫が感激し、「不思議な出来事があろうとも、その時代の傑出した才能による脚色に巡り会わなければ、時とともに埋没して世に伝わらなくなってしまう。君は詩才があり、情感も深いのだから、試しに詩を作ってはどうか。」と提案された。これによって長恨歌は誕生したのである。

底本

다빈치!지식지도 원문/전문 보기 - 東明王篇(동명왕편)