子曰道千乗之国章

漢文

 子曰、道千乘之國、


書き下し文

  きみ のりたまは く、 くるま の國を みちび くには、

集解

漢文

 馬曰、道、謂為之政教。司馬法、六尺為步、步百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井、井十為通、通十為成、成出革車一乘。然則千乘之賦、其地千成、居地方三百一十六里有畸、唯公侯之封乃能容之、雖大國之賦亦不是過焉。○包曰、道、治也。千乘之國者、百里之國也。古者井田、方里為井。十井為乘、百里之國、適千乘也。融依周禮、包依王制、孟子、義疑、故兩存焉。


書き下し文

 馬曰く、道は謂ひて之れを政教 まつりごと と為す。司馬法は、六尺は步と為し、步百は畝と為し、畝百は夫と為し、夫三は屋と為し、屋三は井と為し、井十は通と為し、通十は成と為し、成は革車 かはぐるま の一乘を出づ。然らば則ち千乘の みつき は、其の つち の千成、居る地方 ところ は三百一十六里の あまりだ 有り、唯だ公侯の くに のみ乃ち能く之れを かたち なるも、大國の賦と雖も亦た過ぎたるを しとせざり。○包曰く、道は治なり。千乘の國なる者、百里の國なり。古者 いにしへ の井田は、方里を井と為す。十井を乘と為し、百里の國は、千乘に適ふなり。融は周禮に依り、包は王制、孟子に依るも、 ことはり は疑はしき、故に いづ れも存らしめむ。


現代語訳

 馬氏はいう。『道』とは、『政教』のことを意味するのだ。司馬法には、「六尺を步とし、步百を畝とし、畝百を夫とし、夫三を屋とし、屋三を井とし、井十を通とし、通十を成とし、成が革車一乗を出す。」とある。ということは、千乗の租税が発生するのは、その地が千成、居住区には三百一十六里の余剰の田(畸)がある。公侯の封地だけがそのようなありさまではあったが、大国の租税であっても同様の超過は是認されなかった。

○包氏はいう。『道』は『治』である。千乗の国とは、百里の国である。 いにしえ の井田は、一方里を井とし、十井を乗とするので、百里の国は千乗に該当する。  馬融は『周礼』に依拠し、包氏は『王制』『孟子』に依拠しているが、字義には疑いがあるので両論を存す。

漢文

 敬事而信、


書き下し文

 事を つつし み、而らば まこと あり、

集解

漢文

 包曰、為國者、舉事必敬慎、與民必誠信。


書き下し文

 包曰く、國を をさ むる者は、事を舉ぐれば必ず敬ひ慎み、民に くみ して必ず誠信 まこと たらむ。


現代語訳

 包氏はいう。国を統治する者とは、事を挙げるには必ず敬意をもって慎重に進め、民に与するには必ず誠信でなくてはならぬ。

漢文

 節用而愛人、


書き下し文

  つとめ つつし み、而らば人を づらむ、

集解

漢文

 包曰、節用、不奢侈。國以民為本、故愛養之。使民以時。包曰、作使民、必以其時、不妨奪農務。


書き下し文

 包曰く、 つとめ つつし むは、奢侈 おごり なし。國は民を以ちて おほもと と為し、故に之れを愛で養ふ。


現代語訳

 包氏はいう。「 つとめ つつし む」とは、奢侈をしないことだ。国は民をもって根本とする。だからこれを愛し、養うのだ。

漢文

 使民以時。


書き下し文

 民を使ふは時を おも ひてす。

集解

漢文

 包曰、作使民、必以其時、不妨奪農務。


書き下し文

 包曰、民を使ふを をこ すに、必ず其の時を おも ひてすれば、農務 はたけ 妨奪 うば ふことなし。


現代語訳

 包氏はいう。民の使役をするにあたっては、必ずその時節を考えるのであれば、農務を妨げて奪うようなことがない。

 子曰道至以時

漢文

 疏、子曰道至以時。
○正義曰、此章論治大國之法也。馬融以為、道謂為之政教。千乘之國謂公侯之國、方五百里、四百里者也。言為政教以治公侯之國者、舉事必敬慎、與民必誠信、省節財用、不奢侈、而愛養人民、以為國本、作事使民、必以其時、不妨奪農務。此其為政治國之要也。包氏以為、道、治也。千乘之國、百里之國也、夏即公侯、殷、周惟上公也。餘同。


書き下し文

 疏子曰道 ないし 以時。
○正しき ことはり に曰く、此の ふみ 大國 おほくに を治むるが のり ふなり。馬融の以為 おもへ らくは、道は之れ政教 まつりごと 謂為 みな し、千乘 ちくるま の國は公侯 きみ の國、 ひろ さ五百里、四百里の者と おも ふなり。政教 まつりごと を為して以ちて公侯 きみ の國を治むる者は、事を舉ぐるに必ず敬ひ慎み、民に與するには必ず誠信 まこと たり、財用 たから 省節 つつし み、奢侈 おご らず、而りて人民 たみ を愛し養ひ、以ちて國の おほもと と為し、事を作して民を使ふは、必ず其の時を おも ひ、農務 はたけ 妨奪 うば はざるを言へり。此れ其の まつりごと を為して國を治むるの要なり。包氏の以為 おもへ らくは、道は治なり。千乘 ちくるま の國は、百里の國なり。夏は即ち公侯 きみ 、殷周は惟れ上公 かみ なり。 ほか は同じ。


現代語訳

○正義(正統な釈義)は以下の通りである。

 この章は大国を統治する方法を論じている。

 馬融は、道とは政教のことだと考え、千乗の国は公侯の国であり、方五百里、四百里のことだと考える。政教を為して公侯の国を治める者は、事を挙げるには必ず大切に思い慎重に進め、民に与するには必ず誠信でなくてはならず、財産と費用を節約し、奢侈であることなく、このようにして人民を愛して養う。これを国の根本とし、事を興して民を使役するには、必ずその時節を考慮すれば、農務を妨げて奪うようなことがないことを言うのだ。これこそが為政治国の要諦である。

 包氏は、『道』は『治』だと考える。千乗の国とは、百里の国である。夏であれば公侯、殷周であれば上公のことであろう。その余は同じ。

 馬曰道至存焉

漢文

○注、馬曰道至存焉。
○正義曰、以下篇子曰、道之以政、故云道、謂為之政教。史記齊景公時有司馬田穰苴善用兵。周禮司馬掌征伐。六國時、齊威王使大夫追論古者兵法、附穰苴於其中、凡一百五十篇、號曰司馬法。此六尺曰步、至成出革車一乘、皆彼文也。引之者以證千乘之國為公侯之大國也。云然則千乘之賦、其地千成者、以成出一乘、千乘故千成。云居地方三百一十六里有畸者、以方百里者一、為方十里者百。方三百里者、三三而九、則為方百里者九、合成方十里者九百、得九百乘也。計千乘猶少百乘方百里者一也。又以此方百里者一、六分破之、每分得廣十六里、長百里、引而接之、則長六百里、廣十六里也。半折之、各長三百里、將埤前三百里南西兩邊、是方三百一十六里也。然西南角猶缺方十六里者一也。方十六里者一、為方一里者二百五十六、然曏割方百里者為六分、餘方一里者四百、今以方一里者二百五十六埤西南角、猶餘方一里者一百四十四、又復破而埤三百一十六里兩邊、則每邊不復得半里、故云三百一十六里有畸也。云唯公侯之封、乃能容之者、案周禮大司徒云、諸公之地、封疆方五百里。諸侯之地、封疆方四百里。諸伯之地、封疆方三百里。諸子之地、封疆方二百里。諸男之地、封疆方百里。此千乘之國居地方三百一十六里有畸、伯、子、男自方三百而下則莫能容之、故云、唯公侯之封、乃能容之。云雖大國之賦亦不是過焉者、坊記云、制國不過千乘。然則地雖廣大、以千乘為限、故云、雖大國之賦亦不是過焉。司馬法、兵車一乘、甲士三人、步卒七十二人、計千乘有七萬五千人、則是六軍矣。周禮大司馬序官、凡制軍、萬有二千五百人為軍。王六軍、大國三軍、次國二軍、小國一軍。魯頌·閟宮云、公車千乘、明堂位云、封周公於曲阜、地方七百里、革車千乘及坊記與此文、皆與周禮不合者、禮、天子六軍、出自六鄉。萬二千五百家為鄉、萬二千五百人為軍。地官小司徒云、凡起徒役、無過家一人。是家出一人、鄉為一軍、此則出軍之常也。天子六軍、既出六鄉、則諸侯三軍、出自三鄉。閟宮云、公徒三萬者、謂鄉之所出、非千乘之眾也。千乘者、自謂計地出兵、非彼三軍之車也。二者不同、故數不相合。所以必有二法者、聖王治國、安不忘危、故今所在皆有出軍之制。若從王伯之命、則依國之大小、出三軍、二軍、一軍也。若其前敵不服、用兵未已、則盡其境內皆使從軍、故復有此計地出軍之法。但鄉之出軍是正、故家出一人;計地所出則非常、故成出一車。以其非常、故優之也。包曰、道、治也者、以治國之法、不惟政教而已。下云道之以德、謂道德、故易之、但云道、治也。云千乘之國、百里之國也者、謂夏之公侯、殷、周上公之國也。云古者井田、方里為井者、孟子云方里而井、井九百畝是也。云十井為乘、百里之國適千乘也者、此包以古之大國不過百里、以百里賦千乘、故計之每十井為一乘、是方一里者十為一乘、則方一里者百為十乘、開方之法、方百里者一為方十里者百。每方十里者一為方一里者百、其賦十乘。方十里者百、則其賦千乘。地與乘數適相當、故曰、適千乘也。云、融依周禮、包依王制、孟子者、馬融依周禮大司徒文、以為諸公之地方五百里、侯四百里以下也。包氏依王制云、凡四海之內九州、州方千里、州建百里之國三十、七十里之國六十、五十里國百有二十、凡二百一十國也。又孟子云、天子之制地方千里、公侯之制皆方百里、伯七十里、子、男五十里。包氏據此以為大國不過百里、不信周禮有方五百里、四百里之封也。馬氏言名、包氏不言名者、包氏避其父名也。云義疑、故兩存焉者、以周禮者、周公致太平之書、為一代大典;王制者、漢文帝令博士所作、孟子者、鄒人也、名軻、師孔子之孫子思、治儒術之道、著書七篇、亦命世亞聖之大才也。今馬氏、包氏各以為據、難以質其是非、莫敢去取、於義有疑、故兩存其說也。


書き下し文

○注、馬曰道 ないし 存焉。
○正しき ことはり に曰く、以下の ふみ に子は之れを道(みちび)くに まつりごと を以ちてすると曰ひ、故に道を云ひ、之れを政教 まつりごと 謂為 みな せり。史記の齊景公の時、司馬の田穰苴有りて善く いくさ を用ゆ。周禮に司馬は征伐 うちとり つかさど れり。六國 むつくに の時、齊の威王は大夫 まへつきみ を使はし、追ひて古者 いにしへ 兵法 いくさののり はせしめ、穰苴を其の中に附け、凡そ一百五十篇、 びて司馬法と曰ふ。此れ六尺は步と曰ひ、 ないし 成に革車 かはぐるま 一乘 ひとつ を出すは、皆彼の ふみ なり。之れを引く者は千乘の國を あか すを以ちて公侯 きみ 大國 おほくに と為すなり。然らば則ち千乘の みつき は、其の つち の千成なると云ふ者は、成を以ちて ひとつ くるま を出だし、 くるま は故に千成たり。居地 つち の方三百一十六里に畸有りと云ふ者、方百里の者の一なるを以ち、方十里の者の百と為す。方三百里の者は、三三にして九、則ち方百里者の九と為し、合はせて成は方十里の者の九百、九百乘を得るなり。計りて千乘の猶ほ少きは百乘 もものくるま の方百里の者の一なり。又た此の方百里の者の一を以ちて、六分けして之れを破らば、分くる每に廣さ十六里、長さ百里を得、引きて之れを接がば、則ち長さ六百里、廣さ十六里なり。半ばに之れを折らば、 おのおの 長さ三百里、將に前の三百里を南西の ふたつ さば、是れ方三百一十六里なり。然らば西南の角は猶ほ方十六里の者の一を くるなり。方十六里の者の一、方一里の者の二百五十六と為り、然らば さき に方百里の者を割りて六分を つく り、餘りは方一里の者の四百、今の方一里の者の二百五十六を以ちて西南の角に さば、猶ほ餘りは方一里の者の一百四十四、又た ふたた び破りて三百一十六里を ふたつ し、則ち ごと に半里を得ること ふたた びあらず、故に三百一十六里に畸有りと云ふなり。唯だ公侯の くに のみ乃ち能く之れを かたち すると云ふは、 おもへ らく周禮大司徒に いは く、諸公 もろぎみ つち は、 くに さかひ は方五百里。諸侯 もろぎみ つち は、 くに さかひ は方四百里。諸伯 もろがしら つち は、 くに さかひ は方三百里。諸子 もろをみ つち は、 くに さかひ は方二百里。諸男 もろをみ つち は、 くに さかひ は方百里。此れ千乘の國の居地 ところ の方三百一十六里に畸有り、伯、子、男は方三百 り、而りて下らば則ち能く之れに かたち するもの莫く、故に、唯だ公侯 きみ つち のみ乃ち能く之れを かたち すると云へり。大國 おほくに の賦と雖も亦た過ぐるを よし とせざりと云ふ者、坊記に いは く、國を さだ むるは くるま を過ぎず、と。然るに則ち つち 廣大 ひろき と雖も、 くるま を以ちて かぎり と為し、故に いは く、大國 おほくに みつき と雖も亦た過ぐるを よし とせざり、と。司馬法は、兵車 いくさぐるま 一乘 ひとつ は、甲士 よろひのもの 三人 みたり 步卒 あしがる 七十二人 ななそあまりふたり 千乘 ちのくるま はか らば七萬五千人 ななよろづあまりいつちたり 有り、則ち是れ六軍 むついくさ ならむ。周禮の大司馬の つかさ なら ぶは、凡そ いくさ さだ むること、 よろづ あまり 二千五百人 ふたちあまりいをたり にして ひといくさ と為す。 きみ 六軍 むついくさ 大國 おほくに 三軍 みついくさ 次國 つぐくに は二軍 ふたいくさ 小國 をぐに 一軍 ひといくさ 。魯頌閟宮に いは く、公車 きみぐるま は千乘、明堂位に いは く、周公を曲阜に さづ け、 ところ ひろさ は七百里、革車 かはぐるま の千乘及び坊記と此の ふみ いづ れも周禮と合はざる者、禮は天子 みかど 六軍 むついくさ は、六鄉 むつのむら り出づ。萬二千五百家 よろづあまりふたちあまりいをいへ は鄉と為し、萬二千五百人 よろづあまりふたちあまりいをたり いくさ と為る。地官小司徒に いは く、凡そ徒役 つとめ を起こさば、家に一人を過ぐること無し、と。是れ家は一人を出だし、鄉は一軍を為し、此れ則ち いくさ を出づるが つね なり。天子 あまつご 六軍 むついくさ は、既に六鄉 むつくに を出づれば、則ち諸侯 もろぎみ 三軍 みいくさ 三鄉 みつくに り出だす。閟宮の、 きみ しもべ 三萬 みよろづ なると云ふ者は、鄉の出づる所を謂ひ、千乘 ちのくるま ひとびと に非ざるなり。千乘 ちのくるま なる者、地の いくさ を出づるを計るを謂ふに り、彼の三軍 みいくさ の車に非ざるなり。二つの者は同じからず、故に數は相ひ合ふことなし。必ず二つの のり 有る所以 ゆゑ の者、聖王 ひじり の國を治むるは、安じて危を忘れず、故に今の在る所の皆が いくさ を出づるが きまり 有り。若し王伯 きみ みことのり に從はば、則ち國の大小に依り、三軍、二軍、一軍を出づるなり。若し其の前の敵の したが ふことなからば、 いくさ を用ひて未だ已まず、則ち其の境內 くにうち を盡くして皆が いくさ を從はせ使 め、故に た此の つち を計りて いくさ を出だすが のり 有り。但だ くに いくさ を出づるのみ是正 ただ し、故に家の一人を出だし、 つち に出ださるる所を計らば、則ち常に非ず、故に成は一車を出づ。其の常に非ざるを以ちて、故に之れを優るなり。包曰く、道は治なる者、 おも ふに國を治むるが のり 、惟れ政教のなるみにあらず。下に之れを みちび くに のり を以ちてすると云ひ、道德を謂ひ、故に之れに易へ、但だ道は治なるのみを云ふなり。 くるま の國は、百里の國なりと云ふ者、夏の公侯 きみ と殷周の上公 かみ の國を謂ふなり。古者 いにしへ の井田の方里を井と為すと云ふ者、孟子に いは く、方里にして井、井の九は百畝是れなり。十井は乘と為し、百里の國は千乘に適ふなりと云ふ者、此れ包は古の大國 おほくに の百里を過ぎざるを以ちて、百里を以ちて千乘を り、故に之れを計りて十井每に一乘と為し、是れ ひろさ 一里の者の十は一乘と為り、則ち ひろさ 一里の者の百は十乘と為るは、 ひろさ を開かむが のり ひろさ 百里の者の一は ひろさ 十里の者は百と為る。 ひろさ 十里每の者は一なれば ひろさ 一里の者は百と為り、其の みつき 十乘 とくるま たり。方 ひろさ 十里の者の百は、則ち其の賦は千乘。 つち くるま の數は相ひ當たるに適ひ、故に曰く、千乘に適ふなり。融は周禮に依り、包は王制、孟子に依り、と云ふ者、馬融は周禮の大司徒の ふみ に依り、以ちて諸公 もろぎみ つち ひろさ は五百里と為し、 きみ は四百里以 しも なり。包氏は王制に依りて いは く、凡そ四海 よものみ の內の ここのつ くに くに ひろさ は千里、 くに は百里の國を三十 みそ 、七十里の國は六十 むそ 、五十里の國は百有二十 ももあまりはたち も建て、凡そ二百一十國なり、と。又た孟子に いは く、天子 みかど つち さだ むるは ひろさ 千里、公侯の さだ むるは皆が ひろさ 百里、伯は七十里、子と男は五十里。包氏は此れに據りて以ちて大國 おほくに も百里を過ぎざるを為し、周禮に方五百里、四百里の くに 有るを まこと とせざるなり。馬氏は名を言ひ、包氏の名を言はざる者、包氏は其の父の名を避くるなり。 ことはり は疑はし、故に ふたつ らしむと云ふ者、 おも ふに周禮なる者、周公の致せる太平 おほだら ふみ 一代 ひとよ 大典 おほのり と為す。王制なる者、漢文帝の博士に いひつけ して作らるる所、孟子なる者、鄒の人なり。名は軻、孔子の孫の子思に まな び、儒術の道を治め、 ふみ 七篇 ななつ を著し、亦た世に亞聖の大才 おほかど しら しむるなり。今の馬氏、包氏の おのお の以ちて あかし と為すも、以ちて其の是非 よしあし ただ し難く、敢へて去り取ること莫く、 ことはり に於いて疑しき有るも、故に いづ れも其の ことば を存らしむるなり。


現代語訳

○正当な釈義(正義)は次の通りである。

 以下の篇に「子曰く、之れを みちび くに まつりごと を以ちてすれば」とあり、だから『道』といい、それが『政教 まつりごと 』だと見なしたのだ。史記の斉の景公の時に、司馬の田穰苴という用兵の上手な者がいた。周礼に「司馬は征伐を掌握する」とある。六国の時、斉の威王が大夫を使わせて、古の兵法を追論させると、その内容を田穰苴に託け、総じて一百五十篇を司馬法と よびな した。ここの「六尺を步とし~成が革車一乗を出す。」は、どれもこの文である。これを引用したのは、千乗の国が公侯の大国のことだと立証するためである。ということは、つまり「千乗の租税が発生するのは、その地が千成」というのは、成をもって戦車一乗を用意させ、千乗だから千成なのである。「居住区には三百一十六里の余剰の田(畸)がある」というのは、方百里がひとつあれば、方十里の百となる。方三百里とは、三かける三が九、つまり方百里者の九となり、合わせて成の方十里が九百、九百乗を得ることになる。計算してみると千乗からは、まだ百乗つまり方百里が一ほど少ないことになる。そこでこの方百里の一を六つに分割し、これらを分解してみると、一分ごとに広さ十六里、長さ百里を得られ、それらを引いて接いでみると、長さ六百里、広さ十六里となる。これらを半分に折れば、それぞれの長さは三百里、ここで先ほどの三百里を南西の両辺に継ぎ足してみると、これが方三百十六里となる。ということは、西南の角はまだ方十六里一つの欠部がある。方十六里の一つは、方一里の二百五十六となり、よって先ほどの方百里を分割して六つにすれば、余りは方一里の四百、今回の方一里の二百五十六を西南の角に継ぎ足せば、まだ余りは方一里の一百四十四、そこからもう一度、三百一十六里を分解して両辺に継ぎ足せば、そこで辺ごとに半里を得ることは二度とない。だから「三百一十六里の余剰の田(畸)がある」というのだ。「公侯の封地だけがそのようなありさまではあった」とはどういうことか。周礼大司徒を考査してみると、「諸公の地の封疆は方五百里。諸侯の地の封疆は方四百里。諸伯の地の封疆は方三百里。諸子の地の封疆は方二百里。諸男の地の封疆は方百里」とある。これは千乗の国の居住区に三百一十六里の余剰の田(畸)があり、伯子男は方三百以下であるから、つまりそのようなありさまではあり得ない。だから「公侯の封地だけがそのようなありさまではあった」というのだ。

「大国の租税であっても同様の超過は是認されなかった。」とはどういうことか。坊記には「国を制定するにあたっては千乗を超過しない」とある。ということは、つまり領地が広大であったとしても千乗を限界としており、だから「国を制定するにあたっては千乗を超過しない」というのだ。司馬法には「兵車一乗は、甲士三人、步卒七十二人」とあり、千乗とは合計七万五千人、つまりこれは六軍である。周礼大司馬の序官には、「あらゆる制軍は一万二千五百人をもって軍とする。王は六軍、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍。」とあり、魯頌閟宮には「公車は千乗」といい、明堂位は「周公を曲阜に封じ、領地は方七百里」という。革車の千乗および坊記とこれらの文は、どれも周礼と合致するものであり、礼には「天子の六軍は、六郷から出る。一万二千五百家を郷とし、一万二千五百人が軍である」とあり、地官小司徒には、「あらゆる徒役を起こすにあたって、一家から一人を超過してはならぬ」とある。このように一家が一人を出し、一郷が一軍となり、このようにして一軍を出すのが常道である。天子の六軍がすべて六郷からでたものであれば、つまり諸侯の三軍とは三郷から出る。閟宮における「公の徒は三万である」というのは、郷から出されることを意味し、千乗の人数のことではない。千乗とは、領地の出兵を数えることから出たもので、かの三軍の車のことではない。このふたつは同じではないから数が互いに合致しないのだ。二つの法が必然的に存在する理由とは、聖王が国を治めるにあたっては、安んじながらも危を忘れず、だから現在に至るまでいつであろうとも出軍の制度が存在するのだ。もし王や伯の命に従うならば、国の大小によって三軍、二軍、一軍を出すことになる。もしそれ以前に敵が降服しないならば、兵を用いて終わることはなく、つまりその国境の内を尽くして皆が従軍させる。だからもう一度その領地を計算する出軍の法があるのだ。とはいえ郷が出軍することだけが本来は正しく、だから一家が一人を出し、領地から出されるものを計算することは、常道ではないから「成が一車を出す」とあるのだ。そういった常道にないことだから、そちらを優先したのだ。

 「包氏はいう『道』は『治』である。」とは、思うに国を治める方法は政教だけではないであろうが、以下(の篇)に「これを みちび くに のり を以ちてす」といわれ、道徳を謂い、だからそれに易えて、ただ『道』が『治』であることだけをいったのだ。「千乗の国とは、百里の国である」というのは、夏の公侯と殷周の上公の国のことを意味している。「 いにしえ の井田は、一方里を井とし」というのは、孟子は、「方里のものが井、井が九つで百畝となる。」といっている。「十井を乗とするので、百里の国は千乗に該当する」というのは、これは包氏は古の大国が百里を超過しないことをもって百里ごとに千乗を賦課し、だからそれを計算して十井ごとに一乗とし、ここで方一里の十は一乗となる。つまり方一里の百が十乗となるのが開方法であり、方百里の一は方十里の百となる。方十里ごとに一となれば、方一里の百となり、その賦課は十乗である。方十里の百は、つまりその賦課は千乗である。土地と乗数は互いに適当し、だから「千乗に該当する」わけだ。「 馬融は周礼に依拠し、包氏は王制、孟子に依拠している」というのは、馬融は周礼の大司徒の文に依拠し、つまり「諸公の地は方五百里とであり、侯は四百里以下」である。包氏の依拠する王制には「あらゆる四海の内の九州は、州には方千里、州は百里の国が三十、七十里の国が六十、五十里の国が百二十を建て、総じて二百一十国である」とある。また孟子には「天子の地を制すれば方千里、公侯の制すればどれも方百里、伯は七十里、子と男は五十里」とある。包氏はこれらに依拠することで大国も百里を超過しないとし、周礼に方五百里、四百里の封土があることを信じなかった。

 馬氏については名を言い、包氏の名を言わないのはなぜか。包氏については、自らの父の名を避けてのことだ。

 「字義には疑いがあるので両論を存す」とはどういうことか。『周礼』とは、周公により伝えられた太平の書であり、一代の大典である。『王制』とは、漢文帝によって博士に作成を言いつけられたものである。『孟子』とは、鄒の人であり、名は軻、孔子の孫の子思に師事して儒教の学術の道を治め、七篇の書籍を著し、世には『亜聖』の大才として名を知らしめた者である。ここで馬氏と包氏がそれぞれ根拠としたわけであるが、それらの是非を秋かにすることが困難であることから、敢えて取り去ることをせず、字義に疑わしいところがあるとしつつ、故に両論を存置したのだ。

 包曰作使至農務

漢文

○包曰作使至農務。
○正義曰、云、作使民、必以其時者、謂築都邑城郭也。以都邑者、人之聚也、國家之藩衞、百姓之保障、不固則敗、不脩則壞、故雖不臨寇、必於農隙備其守禦、無妨農務。春秋莊二十九年左氏傳曰、凡土功、龍見而畢務、戒事也。注云、謂今九月、周十一月。龍星角亢、晨見東方、三務始畢、戒民以土功事。火見而致用、注云、大火、心星、次角、亢、見者致築作之物。水昏正而栽、注云、謂今十月、定星昏而中、於是樹板幹而興作。日至而畢、注云、日南至、微陽始動、故土功息。若其門戶道橋城郭牆壍有所損壞、則特隨壞時脩之、故僖二十年左傳曰、凡啟塞從時是也。王制云、用民之力、歲不過三日。周禮均人職云、凡均力政、以歲上下。豐年則公旬用三日焉、中年則公旬用二日焉、無年則公旬用一日焉。是皆重民之力而不妨奪農務也。


書き下し文

○包曰作使 ないし 農務。 ○正しき ことはり に曰く、民を使ふを をこ すに、必ず其の時を おも ひてすと云ふ者、都邑城郭を築くを謂ふなり。 おも ふに都邑なる者、人の聚まりなり。國家の藩衞 まもり にして、百姓 おほみたから 保障 まもり 、固くせざれば則ち敗れ、脩めざれば則ち壞れ、故に寇に臨まざると雖も、必ず はたけ の隙に於いて其の守禦 まもり を備ふるも、農務 つとめ を妨ぐること無し。春秋莊二十九年の左氏の傳に曰く、凡そ土功 てのつとめ 、龍の あらはれ にして つとめ へ、事を戒むるなり、と。注に云 いは く、今の九月、周の十一月を謂ふ、と。龍星の角亢、 あした は東方に あらは れ、三つの つとめ はじまり おはり 、民を戒むるに土功の事を以ちてす。火の あらはれ にして つとめ を致す。注に云く、大火、心星の角、亢に次ぐの あらは るる者は築作の物を致せり。水の昏正にして栽つ。注に云く、今の十月を謂ひ、定星は昏にして中、是に於いて板幹を てて興作 をこ す。日の いたり にして ゆ。注に云く、日の南に至るは、微陽の始動 はぢまり 、故に土功は む。若し其の門戶の道橋城郭牆壍の損壞 こは れたる所有らば、則ち とりは けに壞るるが時に隨ひて之れを脩め、故に僖二十年の左傳の曰ふ、凡そ啟塞は時に從ふとは、是れなり。王制に云く、民を用ゆるが つとめ 、歲は三日を過ぎず、と。周禮の均人職に いは く、凡そ力政を均しくするは、歲の上下を以ちてす、と。 ゆた かな みのり なれば則ち公旬は三日を焉れ用ひ、中つ みのり は則ち公旬は二日を焉れ用ひ、無き みのり なれば則ち公旬は一日を焉れ用ゆ。是れ いづ れも民の つとめ を重ねて農務 つとめ を妨げ奪ふことなきなり。


現代語訳

○正義(正統な釈義)は次の通りである。

 「民の使役をするにあたっては、必ずその時節を考える」とは、都邑や城郭の建築を謂うのだ。つまり都邑とは、人の集まりである。国や家を外境から護り、百姓の安全を保障するためのものであり、堅固でなければ敗北し、修復しなければ壊れるのだから、侵略に臨まずとも必ず農事の隙間の時間にてその防御を備えるものであるが、農務を妨げるものではない。春秋荘公二十九年の左氏伝には「一般に土功とは、龍見の時に務めを終え、事を戒めるものだ。(注:現在の九月であり、周の十一月のことだ。龍星が角亢に入り、夜明けの東方に現れる。三つの務めの始まりと終わりでは、土功の事業によって民を戒める。)火星が現れて徴用を始める。(注:大火心星が角亢に次いで現れる頃に築造を開始する。)水星が昏正となってから建て始める。(注:現在の十月を謂い、定星は夕暮れになると中間に位置する。この時に板幹を立て、事業を開始する。)日至となってから終える。(注:日が南極に至るのは、微陽の始動である。だから土功は止まる。)もしその門戸の道や橋、城郭や門や垣根に損壊したところがあれば、特例として壊れた時によりこれを修復する。だから僖公二十年の左伝に「一般に啓塞は時に従う」とはこのことである。『王制』には、「民を徴用する力仕事は、一年のうち三日を超過しない。」とある。周礼『均人職』には、次のようにある。「一般に力仕事にかかる政治を公正にするには、一年の収穫高の上下に依拠する。豊作の年には、公旬(一年ごとに配当される労役)として三日ほど徴用する。中程度の年には、公旬として二日ほど徴用する。収穫のない年には、公旬として一日ほど徴用する。」これらはどれも民の労役を重ねて農務を妨げて奪うことのないようにするものである。

底本

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