論語注疏 論語序

疏 論語序

現代語訳

 漢書藝文志によれば、「『論語』とは何か。孔子は弟子から質問に応答し、当時の人々や弟子たちは互いに言葉を伝え合った。このようにして夫子から聞いた言葉は受け継がれたのだ。当時の弟子たちは、それぞれが別々に(孔子の言葉を)記録していたが、夫子がこの世を去った後、門人たちが共同で結集し、議論と纂集がおこなわれたのだ。故にこれを『論語』と謂う。」とある。

 つまり、こういうことだ。孔夫子の生涯が幕を閉じた。もはや微少にして意味深い言葉も二度と紡がれることはない。弟子たちが恐れたのは、(孔子の服喪を終えて彼の郷里にある)住居から離れた後、それぞれに異なる見解が生まれ、聖言が永久に滅んでしまうことであった。だから(弟子たちは)寄り集まって議論し、(孔子の言葉を)修撰することにした。それを踏まえつつ、当時の賢人や太古の明王の語も採用し、統合して一つの法を完成させた。これを『論語』と謂う。鄭玄は、「仲弓、子游、子夏等が撰定した。」という。

『論』とは何か。『綸』であり、『輪』であり、『理』であり、『次』であり、『撰』である。本書によってすべきこと、それは正統な規範によって世界における任務を、あたかも糸を紡ぐかのようにあざない、統合させること――故に『綸(つむぐ)』という。終局を迎えることなく、円環の内を永久に巡り続けること――故に『輪(めぐる)』という。森羅万象の理を蘊含すること――故に『理(ことわり)』という。各篇と章句に順序がある――故に『次(ならび)』という。数多くの賢者たちが結集して撰定した――故に『撰(えらぶ)』というのだ。

 鄭玄の周礼の注には、「答えること、述べること。これを『語』という」とある。本書に掲載されているのは、どれも仲尼が弟子や当時の人々に応答したときの言葉であるから、故に『語』といい、(この字が)『論』の字の下に置かれているのは、必ず議論と撰定を経た上で、しかる後にこれを掲載し、妄りな謬説ではないことを示している。彼らの口から口へと伝授されたからこそ、(孔子の言葉は)焚書を経ても独立して保存されたのだ。

 漢が勃興した時、(孔子の言葉を伝えた)『伝』には三つの流派があった。魯論語は、魯人に伝えられたもので、現在に広まっている篇の第次もこれである。常山都尉の龔奮、長信少府の夏侯勝、丞相の韋賢と子の玄成、魯扶卿、太子太傅の夏侯建、前將軍の蕭望之らが共にこれを伝え、それぞれ名声ある人物である。斉論は斉人に伝えられたもので、別に『問王篇』と『知道篇』の二篇が含まれ、総じて二十一篇、その二十篇の中、章句は魯論よりやや多く、昌邑中尉の王吉、少府の朱畸、琅邪王卿、御史大夫の貢禹、尚書令の五鹿充宗、膠東庸生らが共にこれを伝えたが、名高いのは王吉だけである。古論語は、孔氏の壁の中から出土し、総じて二十一篇、子張篇がふたつあり、第次も斉論や魯論とは同じではない。孔安国が伝をつくり、これに後漢の馬融も注を付けた。安昌侯の張禹は魯論を夏侯建から受け、また庸生と王吉から斉論を受け、善いものを択びてこれに従い、『張侯論』と号され、最後には漢の世に広まった。張禹は『論』を成帝に授け、後漢の包咸、周氏らは共同で章句をつくり、学官に列せられた。鄭玄は魯論の張禹、包咸、周氏の篇章に基づき、それと斉論と古論とを比較検討しつつ、それに注を付けた。魏吏部尚書の何晏は孔安国、包咸、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王粛、周生烈の説を集め、その下に自身の見解を併せ、『集解』をつくり、正始の中にこれを上奏し、たちまち世間に広まった。これが現在の主流となっている。

『序』とは何か。何晏は序に次いで訓説を伝授した人である。ということは、(序とは)自身が集解(纂集と解釈)した意図である。序は論語の為に作られたものだから、『論語序』なのだ。


注記

漢書藝文志

 漢書は班固の編纂した史書。藝文志は収録された芸術と文学に関する記録。

夫子

 先生や賢者のこと、または孔子個人を指す。ここでは孔子のこと。

鄭玄

 後漢の儒者。漢儒の大成者。後に本書にて説明が為されるので、また触れる。

周礼

 周王朝(紀元前1050年頃-前256年)の礼について記した典籍。もともとは『周官』という書名であったが、周王朝の礼式を再興しようとした新の王莽(前45年-23年)は、これに儒教の経典の地位を与え、従来からの礼についての経典『儀礼』と並んで『周礼』の呼称が生まれた。その後、前漢に記された礼についての記録書『礼記』も併せて準経典、あるいは経典として尊ばれるようになり、『儀礼』『周礼』『礼記』は『三礼』としてまとめて儒教の礼についての経典『礼経』に数えられるようになった。ただし、経緯を見ての通り古くは『儀礼』だけが礼の経典である。

焚書

 秦の始皇帝が宰相の李斯の献策によって執り行った政策。思想と文字を統一するため、多くの書物が焼かれ、失われた事件。

 周王朝の封建体制における分国のひとつ。孔子の祖国。周王朝を開いた周武王の弟、周公旦が開いた国。礼法・文化を大切にしたが、その分だけ変革の遅れた魯鈍(のろま)な国であったと評価される。伝統と革新を両立した孔子は、斉の侵略から礼の力で魯を護ったが、その改革が旧来の貴族に嫌われ、すぐに追放された。

 周王朝の封建体制における分国のひとつ。魯の隣国。周王朝を開いた周武王の頼った軍師太公望が開いた国。軍事と商業が盛んで政治的な革新に敏く、一時期は周の分国のうちで最も栄えて「覇者」と呼ばれる国でもあったが、その分だけ貨殖と調略が横行して国の安定性に欠けていた。最後は家臣の田氏のクーデターによって国公が殺され、支配者が交代した。


漢文

 疏。正義曰、案漢書藝文志云、論語者、孔子應荅弟子、時人及弟子相與言而接聞於夫子之語也。當時弟子各有所記、夫子既卒、門人相與輯而論纂、故謂之論語。然則夫子既終、微言巳絕、弟子恐離居已後、各生異見、而聖言永滅、故相與論撰、因採時賢及古明王之語合成一法、謂之論語也。鄭玄云、仲弓、子游、子夏等撰定。論者、綸也、輪也、理也、次也、撰也。以此書可以經綸世務、故曰綸也、圓轉無窮、故曰輪也、蘊含萬理、故曰理也、篇章有序、故曰次也、羣賢集定、故曰撰也。鄭玄周禮注云、荅述曰語、以此書所載皆仲尼應荅弟子及時人之辭、故曰語。而在論下者、必經論撰、然後載之、以示非妄謬也。以其口相傳授、故經焚書而獨存也。漢興、傳者則有三家、魯論語者、魯人所傳、即今所行篇次是也。常山都尉龔奮、長信少府夏侯勝、丞相韋賢及子玄成、魯扶卿、太子太傅夏侯建、前將軍蕭望之並傳之、各自名家。齊論者、齊人所傳、別有問王、知道二篇、凡二十一篇、其二十篇中、章句頗多於魯論、昌邑中尉王吉、少府朱畸、琅邪王卿、御史大夫貢禹、尚書令五鹿充宗、膠東庸生並傳之、唯王吉名家。古論語者、出自孔氏壁中、凡二十一篇、有兩子張篇、次不與齊、魯論同、孔安國為傳、後漢馬融亦注之。安昌侯張禹受魯論于夏侯建、又從庸生、王吉受齊論、擇善而從、號曰、張侯論、最後而行於漢世。禹以論授成帝、後漢包咸、周氏並為章句、列於學官。鄭玄就魯論張、包、周之篇章考之齊、古、為之注焉。魏吏部尚書何晏集孔安國、包咸、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王肅、周生烈之說、并下已意、為集解、正始中上之、盛行於世。今以為主焉。序者、何晏次序傳授訓說之人、乃已集解之意。序為論語而作、故曰論語序。


書き下し文

  おぎなひ 。正しき ことはり に曰く、案ずるに漢書藝文志に いは く、論語なる者、孔子は弟子に應荅 こた へ、時の人及び弟子は相ひ とも に言ひ、 しかう して夫子より聞きたるの かたらひ を接ぐなり、と。 の時の弟子は おのおの に記す所有り、夫子の既に にたれば、 かど の人は相ひ とも あつ め、 しかふ して み、故に之れを論語と謂ふ。然るに則ち夫子の既に終え、微かなる ことば も巳に絕え、弟子は すまひ を離るる のち おのおの に異なる おもひ を生み、 しかふ して ひじり なる ことば とこしへ に滅びむとすることを恐れ、故に相ひ とも えら び、因りて時の さかきひと 及び いにしへ の明らなる きみ かたり を採り、合はせて一つの のり を成し、之れを論語と謂ふなり。鄭玄の いは く、仲弓、子游、子夏等の撰び定めたり。論なる者、 つむぐ なり、 わだつ なり、 ことはり なり、 ならび なり、 えらぶ なり。此の ふみ を以ちてす可からくは、以ちて おほもと をして世の つとめ つむ がせしめ、故に綸と曰ふなり、 まは めぐ ること窮み無し、故に わだつ と曰ふなり、 よろづ ことはり 蘊含 ふく む、故に ことはり と曰ふなり、篇章 まきふみ ならび 有り、故に ならび と曰ふなり、羣賢 もろのさかき の集め定む、故に えらぶ と曰ふなり。鄭玄の周禮の注に いは く、荅へ述ぶるは語と曰ひ、此の ふみ の載る所は いず れも仲尼の弟子 おとご 及び時の人に應荅 こた うるの ことば なるを以ちて、故に語と曰ふ。 しか るに論の しも に在る 、必ず えら ぶを經、然る後に之れを載せ、以ちて妄りな あやま りに非ざるを示すなり。其の口を以ちて相ひ傳へ授け、故に焚書 ふみをやく を經、 しか れども ひと つのみ のこ るなり。漢の興り、傳はりたる者は則ち三つの やから 有り、魯論語なる 、魯の人の傳うる所、即ち今の ひろ む所の まき ならび は是れなり。常山都尉の龔奮、長信少府の夏侯勝、丞相の韋賢及び子の玄成、魯扶卿、太子太傅の夏侯建、前將軍の蕭望之は之れを並び傳へ、 おのおの に自ら名家 なだかき たり。齊論なる 、齊の人の傳ふ所、 わけ て問王と知道の二つの まき 有り、凡そ二十一篇 あたあまりひとつまき 、其の二十篇 はたつまき うち 章句 ふみ は頗る魯論より多く、昌邑中尉の王吉、少府の朱畸、琅邪王卿、御史大夫の貢禹、尚書令の五鹿充宗、膠東庸生は之れを並び傳へ、唯だ王吉のみ名家 なだかき たり。古論語なる 、孔氏の壁の中 り出で、凡そ二十一篇 はたあまりひとつまき ふたつ の子張篇有り、 ならび も齊魯論と同じにあらず、孔安國は傳を つく り、後漢の馬融も亦た之れに注す。安昌侯の張禹は魯論を夏侯建より受け、又た庸生、王吉 り齊論を受け、善きを えら び、 しかふ して從ひ、 づけて張侯論と曰ひ、最も後にして すなは ち漢の世に ひろ む。禹は論を以ちて成帝に授け、後漢の包咸、周氏は並びて章句を つく り、學官 まなびのつかさ つら ぬ。鄭玄は魯論の張包周の篇章に もとづ き、之れに齊古を考え、之れに注を為りたり。魏吏部尚書の何晏は孔安國、包咸、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王肅、周生烈の ことば を集め、下に己の こころ あは せ、集解を つく り、正始の うち に之れを ささ げ、 さかん に世に ひろ む。今は以ちて焉れを おも と為す。序なる 、何晏は序に次いで訓說 おしへ を傳へ授くるの人なれば、乃ち己の集解 あつめとく こころ たり。序は論語の為に すなは ち作り、故に論語序と曰ふ。

集解 魯論語について

現代語訳

 敘して曰く、漢の中壘校尉の劉向の言葉によれば、魯論語の二十篇はすべて孔子と弟子の様々な善言を記したものである。これを大子大傅の夏侯勝、前将軍の蕭望之、丞相の韋賢と息子の玄成等が伝えた。


注記


漢文

 敘曰、漢中壘校尉劉向言魯論語二十篇、皆孔子弟子記諸善言也。大子大傅夏侯勝、前將軍蕭望之、丞相韋賢及子玄成等傳之。


書き下し文

 敘して曰く、漢の中壘校尉の劉向の ことば には、魯論語は二十篇、 いず れも孔子と弟子の もろもろ の善き こと を記したるなり。大子大傅の夏侯勝、前將軍の蕭望之、丞相の韋賢及び子の玄成等は之れを傳へたり。

疏 敘曰……傳之

現代語訳

 疏。敘曰至、傳之。

○正義(正統な釈義)は次の通りである。
 ここで敘せられているのは、魯論を作り、それを伝授した人のことである。『敘』と『序』は語音も字義も同じである。

『曰』とは何か。語を発することの辞である。

『漢書』百官公卿表を考査してみれば、「中壘校尉は北軍の壘門の内を掌握し、外には西域を掌握している。」とあり、顏師古は「北軍壘門の内を掌握し、同時に外には西域を掌握する。」とある。

『劉向』とは誰か。高祖の幼い弟であった楚の元王の後裔、劉辟彊の孫、劉德の息子である。 あざな は子政、本名は更生であったが、成帝が即位すると、名を『向』と改めた。頻繁に上疏して正しいことと誤ったことの判断を進言したので、劉向を中壘校尉とした。劉向は他者のために易をわかりやすく簡略化し、もっぱら経学による統治の術に思いを尽くした。成帝は みことのり をして経、伝、諸子、詩賦を一書ごとに校訂させてみると、劉向はたやすくそれらの篇目を条によりわけ、それらの指す意味をピックアップして記録し、かくしてそれを上奏すると、別録を著述して新たな序をつけた。これによれば、魯論語の二十篇は、すべて孔子の弟子の様々な善言を記していたという。思うに、ここが出典となって、故に何晏はこれを引用したのだ。文について、直接言ったものが『言』であり、答述したものが『語』とである。散文が『言』であり、『語』は通したものである。故にこの夫子の『語』を『論』じ、なので『善言』と謂うのだ。

 表には次のようにも云われている。
「太子太傅とは、 いにしえ の官職であり、秩は二千石である。」

 伝には、次のように云われている。
 夏侯勝の字は長公、東平の人、若くして学を好み、学業にあたって善説と礼服に精熟すると、 されて博士となった。宣帝が立つと、太后が政治を省み、夏侯勝は尚書を太后に教授するために長信少府に遷った。廟や舞楽について異議を唱えたことが罪に当たり、獄に下ることになった。繫獄によって二度の冬を越え、赦にあって出獄すると諫大夫になった。君上は夏侯勝の素直な人柄を理解し、長信少府に復帰させた。太子太傅に遷り、 みことのり を受けて尚書と論語の説を撰び、黃金百斤を賜った。齢九十にして官を めると冡塋を賜り、平陵に葬られた。太后は銭三百万を賜わり、勝の為に五日ほど素服を身につけ、これによって師に伝えられた学恩に報いたのである。儒者はこれをもって栄誉とした。夏侯勝は諸生に講義を授けるごとに、いつも言っていたことがある。「士たるもの、経術に明るくないことを気に病むがよい。もし経術に明るいならば、その者が青紫を取るのは座って地面に落ちたゴミを拾うようなものだ。経典を学んで明るくなれないなら、自分の手で畑を耕した方がよい。」

 表にはこのようにも云われている。
「前後左右将軍は、どれも周末の官であったが、秦はこれに因りつつも上卿の地位とし、金印紫綬を与え、漢では常置せず、ある時には前後、ある時には左右を置き、どれも兵事を掌握する。」

 それと、四夷伝には次のように云われている。
「蕭望之の あざな は長倩、東海の蘭陵の人である。斉詩を好んで学び、同じ縣の后倉に師事し、その後に夏侯勝から論語と禮服を問われ、射策甲科をもって郎となり、重ねて諫大夫に遷り、後に丙吉の代わりに御史大夫となり、左遷によって太子太傅となった。宣帝が疾病に臥したために、大臣の従属するであろう者を選んで禁中まで引き入れ、拜して蕭望之を前将軍とした。元帝は即位したが、弘恭と石顕等からの妨害を受け、毒を飲んで自殺した。これを聞いた天子は、驚いて手を叩き、彼の為に食事を断り、涙を流しながら左右を向き、哀しみに声を上げて泣いた。長男の蕭伋が後を いで關內侯となった。

 表には次のようにも云われている。
「相国、丞相は、どちらも秦の官であり、金印紫綬を与え、天子を『 たすけ 』を掌握し、天子のすべきあらゆる業務の処理を助ける。」
 応劭は次のようにいう。
「『丞』は『承』であり、『相』は『助』である。秦には左右の官が置かれていたが、高帝が即位すると、ひとり丞相が置かれた。十一年に相国と名を改め、綠綬を与えた。孝恵帝と高后は左右に丞相を置き、文帝二年に丞相はひとりとなり、哀帝の元壽二年に大司徒に名を改めた。

 伝には次のように云われている。
「韋賢の あざな は長孺、魯国の鄒の人である。韋賢の人となりは質素で朴訥、欲は少なく、篤学の志があり、礼と尚書のどちらにも通じ、詩を教授していたことから、鄒魯大儒と よびな されていた。生まれの身分が低いのに博士、給事中となり、昭帝に詩を進授し、ようやく光祿大夫に遷った。宣帝が即位するに及び、先帝の師であったことを理由にいたく尊重された。本始の三年には、蔡義に代わって丞相となり、扶陽侯に封ぜられ、齢七十余、相となること五年、地節三に年、老衰と疾病を理由に辞職を乞い、黃金百斤を賜わって罷職して帰り、第一區が加えて賜わられた。丞相が職を辞して隠居するのは、韋賢が初めてのことである。齢八十二にして薨去し、節侯と謚(おくりな)された。若年の息子である玄成の あざな は少翁、これまた経を明らかにしたことから位を歴任して丞相にまでなった。鄒国や魯国の諺には、「子に遺すは、つづらに満つる黄金より、経をひとつ。」という。玄成が相となること七年、建昭三年に薨去し、共侯と おくりな された。

 これらの四人は皆が魯論語を伝承した。


注記

『漢書』百官公卿表

 漢書とは、後漢の前半に史観の班固が編纂した前漢についての史書。百官公卿表は、そこに掲載された文書の表題であり、秦王朝と漢王朝の官吏の名称と、その職務と等級を記録されている。

壘門

 軍営の正門のこと。

西域

 中国から見ての西方の王朝の直接的な統治の及ばない地。

顏師古

 唐代の儒者。漢書に注を付けたことで有名。

高祖

 漢王朝の初代皇帝劉邦のこと。

 周王朝に冊封された南方の大国。当時は蛮地と見なされ、同時に楚も反骨審が旺盛で、かつては周王朝と対等な『王』の号を自称した。この時は、漢の郡国制における一国。

成帝

 漢の12代皇帝。前漢が滅亡するきっかけとなった人物として批判される。

 中国における占術。あるいは、そのことを記した書。中華思想における数理的な宇宙論を展開し、四書五経のうち易経は最も難解とされる。陰陽の二元論によって天下万物を説明し、欧州の哲学者ライプニッツに二進数を着想させた。

 たていと。転じて思想の正中線となる重要な典籍。経典。一般的には、儒教における詩、書、礼、楽、易、春秋の六経を指す。このうち、楽経は秦王朝の時代には既に失われたとされ、五経となった。朱子学によって定められた四書五経の『五経』はこれを指す。儒教の経の認定の内、もっともオーソドックスなものは、これら『五経』と『六経』であるが、他にも、五経に孝経と論語を加えた『七経』や、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋穀梁伝、爾雅、孟子といった『伝』を経に加えた『十三経』もある。本書『論語注疏』は、この十三経に付けられた注と疏の正統を選定した『十三経注疏』のうちの論語にかかるもの。

 原義は言い伝えのこと。儒教においては、特に経を説明するものを伝という。たとえば、『春秋』という経には、その内容を説明した『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』という三種類の伝が存在している。左氏は孔子の弟子とされる左丘明、公羊と穀梁は孔子の孫弟子である公羊高、穀梁赤のこと。これらのタイトルは、彼らによる春秋という経の『伝』という意味である。『伝』として有名なものには、春秋に付された上記の三つ(春秋三伝という)の他に、礼経に対する『礼記』や易経の象伝、彖伝、繋辞伝、文言伝(これらの易伝を纏めて十翼という)がある。また、論語も本来は『伝』である。但し、論語、春秋三伝、礼記は経としても扱われることがあり、上記の易経十翼も易経の一部として扱われる。

諸子

 一般には、春秋戦国時代に活躍した思想家たちのことを指す。孔子、孟子、荀子、老子、荘子、列子、楊子、墨子、孫子、呉子、韓非子など。

詩賦

 詩と賦。ポエムのことであるが、漢語としては、いずれも漢文における韻文のこと。詩は定型的な文体が存在するフォーマルなもの。賦は散文ほどではないものの、詩に比べると文律に自由度が高い。

 官職にある者の等級と俸禄(給与)のこと。穀物がベースとなる。

二千石

 おおよその年間に支給される穀物をベースとした数値化。一石は年間に成人が消費する穀物に等しいとされるため、概ね人を雇える人数を指していると見てよい。但し、年間1200石から2160石程度のものが総称され、リットルに直すと約215000リットル~約390000リットル……らしい。

礼服

 儒教の礼制における服装のしきたりのこと。

博士

 学問に通じた官。

宣帝

 前漢10代皇帝。

太后

 先代皇帝の皇后、あるいは皇帝の母親を指す。ここでの太后は、前漢8代昭帝の皇后である上官皇后のこと。9代廃帝が暗愚であったことから帝位を追放され、6代武帝の孫であった宣帝が迎えられた。ところが宣帝はまだ幼少であったので、太后が代理で政治を執ることになった。ここでの太后は、『先代皇帝の皇后』でも『皇帝の母親』でもなく、『先々代の皇帝の皇后』であるが、太后と号されている。

尚書

 文書を司る官職。尚書令の略称。文書を司る尚書省の長官である。

廟や舞楽について異議を唱えたことが罪に当たり、獄に下ることになった。

 10代宣帝は6代武帝の孫として三世を遡って帝位についた。そのため、自らを正当化するべく6代武帝の権威を高めようとして、彼の霊廟(墓のこと)や定期的な祭祀(慰霊祭)について議論するように詔書を下し、特別な存在に押し上げようとした。ところが夏侯勝は、6代武帝には功績と同時に失策も多くあり、特に戦争の繰り返しによって人民を苦しめたことを重く見て、他の皇帝と比して特別扱いをすべきではないと主張し、議論を放棄した。これが宣帝の怒りに触れて夏侯勝は語句に繋がれてしまった。上記の一文は、そのことを指している。

その者が青紫を取るのは座って地面に落ちたゴミを拾うようなものだ。

 青紫とは、公卿(上流貴族)の地位である。

周末

 周は紀元前1046年頃から前256年にかけて存在したとされる中国の王朝。ただし、途中の動乱から紀元前770年の遷都以降は王室の権威と実権が地に落ち、それ以降はそれぞれの地方の封建領主が台頭し、覇権を競い合った。周王朝の権威が落ちて以降の時代は春秋戦国時代(紀元前770年から紀元前221年)と呼ばれる。「周末」とは、周王朝の権威が失墜して以降の春秋時代から戦国時代のことを指す。

四夷伝

 晋書の一篇。東西南北(四)の蛮族(夷)についての記録。

弘恭と石顕

 いずれも前漢に仕えた宦官。本文の通り、前漢11代元帝を毒によって暗殺した。中華王朝における宦官は、皇帝の手足として宮中の政務を取り仕切る存在である。前漢10代の宣帝は宰相等の儒者や太后等の外戚の発言力を削ぎ、皇帝の権力を復権させた。その一方で皇帝の手足となる宦官が重用され、その発言力は強まった。弘恭と石顕による元帝の暗殺も、その結果とみるべきであろう。

応劭

 後漢末の儒者。後漢12代霊帝の時代に推挙された。漢王朝の官制と儀礼についてまとめた『漢官儀』を編纂し、後漢最後の皇帝である14代献帝に上奏した。また、その翌年にも同じく漢王朝の官制と儀礼についての資料をまとめた『漢官礼儀故事』を編纂した。また、役所で記録された人物画をまとめた『状人紀』や、当時のことを記録・評論した『中漢輯序』『風俗通』等、多数の編書がある。これらは現存しないが、顏師古が漢書の官制について注釈をするにあたって、数多く彼の著述が引用されており、その一端を垣間見ることができる。

魯国の鄒

 現在の中国山東省済寧市鄒。孟子の故郷でもあり、孔子の故郷である曲阜の近く。


漢文

 疏。敘曰至、傳之。○正義曰、此敘魯論之作及傳授之人也。敘與序音義同。曰者、發語辭也。案漢書百官公卿表云、中壘校尉掌北軍壘門內、外掌西域。顏師古曰、掌北軍壘門之內而又外掌西域。劉向者、高祖少弟楚元王之後、辟彊之孫、德之子。字子政、本名更生、成帝即位、更名向。數上疏言得失、以向為中壘校尉。向為人簡易、專精思於經術。成帝詔校經傳諸子詩賦、每一書已、向輙條其篇目、撮其指意、錄而奏之、著別錄、新序。此言、魯論語二十篇、皆孔子弟子記諸善言也、蓋出於彼、故何晏引之。對文則直言曰言、荅述曰語、散則言、語可通。故此論夫子之語而謂之善言也。表又云、太子太傅、古官、秩二千石。傳云、夏侯勝字長公、東平人、少好學。為學精熟、善說禮服、徵為博士。宣帝立、太后省政、勝以尚書授太后、遷長信少府。坐議廟樂事下獄、繫再更冬、會赦、出為諫大夫。上知勝素直、復為長信少府。遷太子太傅。受詔撰尚書、論語說、賜黃金百斤。年九十卒官、賜冡塋、葬平陵。太后賜錢三百萬、為勝素服五日、以報師傅之恩。儒者以為榮。始、勝每講授、常謂諸生曰、士病不明經術、經術苟明、其取青紫如俛拾地芥耳。學經不明、不如親耕。表又云、前、後、左、右將軍、皆周末官、秦因之、位上卿、金印紫綬、漢不常置。或有前、後、或有左、右、皆掌兵。及四夷傳云、蕭望之字長倩、東海蘭陵人也。好學齊詩、事同縣后倉、又從夏侯勝問論語、禮服、以射策甲科為郎、累遷諫大夫、後代丙吉為御史大夫、左遷為太子太傅。及宣帝寢疾、選大臣可屬者引至禁中、拜望之為前將軍。元帝即位、為弘恭、石顯等所害、飲鴆自殺。天子聞之、驚拊手為之卻食、涕泣哀慟左右。長子伋嗣為關內侯。表又云、相國、丞相皆秦官、金印紫綬、掌丞天子、助理萬機。應劭曰、丞、承也、相、助也。秦有左、右、高帝即位、置一丞相。十一年更名相國、綠綬。孝惠、高后置左、右丞相、文帝二年一丞相、哀帝元壽二年更名大司徒。傳曰、韋賢字長孺、魯國鄒人也。賢為人質朴少欲、篤志於學、兼通禮、尚書、以詩教授、號稱鄒魯大儒、徵為博士、給事中、進授昭帝詩、稍遷光祿大夫。及宣帝即位、以先帝師、甚見尊重。本始三年、代蔡義為丞相、封扶陽侯、年七十餘、為相五歲。地節三年、以老病乞骸骨、賜黃金百斤、罷歸、加賜第一區。丞相致仕、自賢始。年八十二薨、謚曰節侯。少子玄成字少翁、復以明經歷位至丞相、鄒、魯諺曰、遺子黃金滿籝、不如一經。玄成為相七年、建昭三年薨、謚曰共侯。此四人皆傳魯論語。


書き下し文

 疏。敘曰至、傳之。

○正しき ことはり に曰く、此の ぶるは魯論の作りたる及び之れを傳へ授くる人なり。敘と序は音も義も同じ。曰 ことば はな ちたるの ことば なり。案ずるに漢書百官公卿表に いは く、中壘校尉は北軍の壘門の內を つかさど り、外に西域を つかさど る。顏師古曰く、北軍壘門の內を つかさど り、 しか も又た外に西域を つかさど る、と。劉向 、高祖の少弟の楚の元王の後、辟彊の孫、德の子。 あざな は子政、本名は更生なるも、成帝の くらひ かば、名を向と あらた む。 しばしば ふみ ささ げて得失を まを したれば、向を以ちて中壘校尉 らしむ。向は人の為に易を えら び、專ら經術に思ひを くしたり。成帝は みことのり して經傳諸子詩賦を、一書 ひとふみ 每のみに くら べせしむれば、向は すなは ち其の まき の目を くぎ り、其の指したる こころ を撮り、 しる し、而 しかふ して之れを ささ ぐれば、別に しるし を著はし、新たに なら べたり。此れの まを したるには、魯論語の二十篇 はたつまき は、 いず れも孔子の弟子の もろもろ の善き こと を記したるなり。蓋し彼より出で、故に何晏は之れを引きたり。 ふみ むか へば則ち ぢか に言ひて言と曰ひ、荅述 こたへの ぶれば語と曰ひ、散らば則ち言、語は通る可し。故に此れ夫子の語を ひ、 しかふ して之を善き こと と謂ふなり。 ふみ に又た云く、太子太傅、古官、秩二千石、と。 つたゑ に云く、夏侯勝の あざな は長公、東平の人、 をさ なくして學を好み、學を為さば、善き ことば と禮服に精熟 くはしく し、 して博士為らしむ。宣帝立ち、太后 おほきさき まつりごと を省み、勝は尚書を以ちて太后 おほきさき に授け、長信少府に遷りたり。 みたまや あそび の事を いさ めむとするに たりて ひとや に下り、繫がること再びにして冬を あらた にし、赦に會ひ、出でて諫大夫と為る。 うへのかた は勝の素直なるを知り、 ふたた び長信少府 らしむ。太子太傅に遷る。 みことのり を受けて尚書と論語の こと を撰び、黃金百斤を賜ひたり。 よはひ 九十にして官を め、冡塋 はか を賜ひ、平陵に葬らる。太后 おほきさき は錢三百萬を賜ひ、勝の為に素服 もとき すること五日、以ちて師の傅ふるの めぐみ に報ゆ。儒者は以ちて榮と為す。始めに勝の講授 おしへ したる每 ごと 、常に諸生に謂ひて曰く、 ますらを 經術 たていとのすべ の明らかならざるを うれ ふべし。經術 たていとのすべ いやしく も明らかなれば、其の青紫を取るは かが みて つち ごみ を拾ふが如きなるのみ。 たていと を學びて明らかならざれば、 みづか ら耕すに如かず、と。 ふみ して又た いは く、前後左右將軍 いくさのかみ 、皆が周の末官 すゑのつかさ なるも、秦は之れに因り、上卿に位せしめ、金印 こがねのしるし 紫綬 むらさきのくみひも せしめ、漢は常ならざるに置きたり。 あるとき は前後有り、 あるとき は左右有り、 いず れも いくさ つかさど りたり。及び四夷傳に いは く、蕭望之の あざな は長倩、東海の蘭陵の人なり。齊詩を學ぶことを好み、同じ縣の后倉に つか へ、又た夏侯勝 り論語、禮服を問ひ、射策甲科を以ちて郎と為り、 かさ ねて諫大夫に遷り、後に丙吉に代えて御史大夫と為り、左に遷りて太子太傅と為る。宣帝の やまひ したるに及び、大臣の く可き者を選びて引きて禁中に至り、望之を拜みて前將軍 らしむ。元帝は位に即くも、弘恭、石顯等に害 そこな はるる所と為り、 わろし を飲みて自づから あや めたり。天子は之れを聞き、驚き手を たた きて之れの為に いひ しりぞ け、 なみだ なが して左右 すけ に哀しみ きたり。長子 をさご の伋は ぎて關內侯と為る。 ふみ に又た いは く、相國、丞相は いづ れも秦の つかさ 金印 こがねのしるし 紫綬 むらさきのくみひも せしめ、天子を たす くるを つかさど り、 よろづ こと をさ めたるを助く。應劭曰く、丞は承なり、相は助なり、と。秦に左右有り、高帝の位に かば、 ひとり の丞相を置きたり。十一年に名を相國に あらた め、綠綬す。孝惠と高后は左右に丞相を置き、文帝二年に丞相を ひとり にし、哀帝の元壽二年に名を大司徒に あらた む。傳に曰く、韋賢の あざな は長孺、魯國の鄒の人なり。賢の為人 ひととなり 質朴 つつましき にして欲は少なく、篤く學を志し、兼ねて禮と尚書を とほ り、詩を以ちて教授 おしへ よびな に鄒魯大儒と ばひたり、 いや しくして博士、給事中と為り、昭帝に詩を進み授け、 やうや く光祿大夫に遷る。宣帝の位に きたるに及び、先帝の師たるを以ちて、 尊重 ゐやまひ く。本始の三年、蔡義に代はりて丞相と為り、扶陽侯に あた ひ、 よはひ 七十餘り、相と為ること五歲 いつとし 。地節三年、老ひて病みたるを以ちて骸骨 やむ を乞ひ、黃金百斤を賜ひ、罷み歸り、加へて第一區を賜ひたり。丞相の つかへ かへ すは、賢 り始む。 よはひ 八十二にして みまか り、 おくりな に節侯と曰ふ。 わか むすこ の玄成の あざな は少翁、復た經を明らむを以ちて位を て丞相に至り、鄒魯の ことはざ に曰く、 むすこ に黃金の つづら に滿つるを遺すは、 ひとつ の經に如かず、と。玄成は相と為ること七年 ななとし 、建昭三年に みまか り、 おくりな に共侯と曰ひたり。此の四人は いず れも魯論語を傳へたり。

 齊論語は二十二篇 はたあまりふたつまき 、其の二十篇 はたつまき うち 章句 ふみ は頗る魯論より多し。琅邪の王卿及び膠東の庸生、昌邑中尉の王吉は いず れも以ちて教え授く。

集解 斉論語について

現代語訳

 斉論語は二十二篇。その二十篇の中の章句も、いささか魯論より多い。琅邪の王卿と膠東の庸生、昌邑中尉の王吉の皆によって教授された。


注記


漢文

 齊論語二十二篇、其二十篇中、章句頗多於魯論。琅邪王卿及膠東庸生、昌邑中尉王吉皆以教授。


書き下し文

齊論語は二十二篇 はたあまりふたつまき 、其の二十篇 はたつまき うち 章句 ふみ は頗る魯論より多し。琅邪の王卿及び膠東の庸生、昌邑中尉の王吉は いず れも以ちて教え授く。

疏 論語序

現代語訳

○正義(正統な釈義)は次の通りである。

 ここで敘せられているのは、斉論語の起源及びそれを伝授してきた人物である。斉論語は、総じて二十二篇、そのうちの二十篇の篇名は魯論とまったく同じであるが、その篇の中の章句は、いささか魯論より多い。

『篇』とは何か。『章』を積み重ねて『篇』が形成される。『徧(あまねし)』のことである。『言』は『情』を抽出して事実を『鋪(あまね)』くし、『明(あきらか)』にして『徧(あまね)』くする存在である。『句』を積み重ねることで『章』が形成される。『章』とは何か。『明(あきらか)』である。義を取りまとめて包接すること、『情』を『明(あきらか)』にすることが由来である。『句』は必ず『字』を連ねて言う。『句』とは何か。『局(くぎり)』である。『字』を連ねて境界を分けること、『言』を『局(くぎる)』ことが由来である。

『琅邪』『膠東』は郡と国の名である。王卿は、天漢元年に済南太守を由して御史大夫となった。庸生の名は譚生。思うに、古に德を有する者の謂であろう。

『昌邑中尉』とは何か。表には次のように云われている。 「諸侯王は、高帝によって初めて置かれ、金璽盭綬を与えられ、その国の統治を掌握する。太傅があって王を輔弼し、内史は国民を治め、中尉は武の職を掌握し、丞相は衆官を統べる。景帝中の五年、丞相を相と改めた。成帝の綏和元年、内史を省みて相と名を改め、郡の太守のように民を統治させた。中尉は郡の都尉のようなものである。

 伝には次のように云われている。 「王吉の あざな は子陽、琅邪の皐虞の人である。若くして学を好み、経を明らかにしたことから、郡吏が孝廉に推挙して郎とした。若盧右丞を輔佐し、熒陽令に遷り、賢良を推挙して昌邑中尉となった。」

 この三人は皆が斉論語を人に教授した。


注記

琅邪の皐虞

 琅邪は秦の始皇帝が設定した中国の郡。現在の中国山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる。皐虞はその中の県のひとつ。

孝廉

 儒教思想に基づいて前漢の武帝が制定した官吏登用システムの呼称。民間からすぐれた人物を抜擢するために用いられた。父母や先祖に孝行を尽くした者を推薦する科目が『孝』、清廉潔白で道徳的な人物を推薦する科目が『廉』である。


漢文

 疏。齊論至、教授。○正義曰、此敘齊論語之興及傳授之人也。齊論語凡二十二篇、其二十篇篇名與魯論正同、其篇中章句則頗多於魯論。篇者、積章而成篇、徧也。言出情鋪事、明而徧者也。積句以成章、章者、明也、揔義包體所以明情者也。句必聯字而言、句者、局也、聯字分疆、所以局言者也。琅邪、膠東、郡國名。王卿、天漢元年由濟南太守為御史大夫。庸生名譚生、蓋古謂有德者也。昌邑中尉者、表云、諸侯王、高帝初置、金璽盭綬、掌治其國。有太傅輔王、內史治國民、中尉掌武職、丞相統眾官。景帝中五年、改丞相曰相。成帝綏和元年、省內史、更名相治民、如郡太守。中尉如郡都尉。傳云、王吉字子陽、琅邪皐虞人也。少好學明經、以郡吏舉孝廉為郎、補若盧右丞、遷熒陽令、舉賢良為昌邑中尉。此三人皆以齊論語教授於人也。


書き下し文

 疏。齊論至、教授。 ○正しき ことはり に曰く、此の ぶるは齊論語の おこり 及び之れを傳へ授くる人なり。齊論語は凡そ二十二篇 はたあまりふたつまき 、其の二十篇 はたつまき の篇の名は魯論と正しく同じ、其の篇の中の章句 ふみ なれば則ち頗る魯論より多し。篇者 ふみ を積み、 しかう して まき と成り、 あまねし なり。 ことば こころ を出だして事を あまね くし、明らかにして あまね くする者なり。句を積みて以ちて章と成さしむ、章なる あきらむ なり。 わけ かたち を包むは、 こころ を明らむ者たる所以なり。句は必ず字を つら ね、 しかう して言ひ、句 くぎり なり、字を つら かぎり を分くるは、 ことば くぎ る者たる所以 ゆえん なり。琅邪、膠東は こほり くに の名。王卿は、天漢元年に濟南太守を由して御史大夫と為る。庸生の名は譚生、蓋し古に德を ちたる者を謂ふなり。昌邑中尉 ふみ いは く、諸侯王 もろきみ 、高帝の初め置き、金の しるし 盭綬 くくりひも をし、其の國を をさ むるを つかさど らせしむ。太傅有り きみ たす け、內史は國の民を をさ め、中尉は たけし こと つかさど り、丞相は眾官 もろのつかさ を統ぶ。景帝中の五年、丞相を改め相と曰ふ。成帝の綏和元年、內史を省み、 あらた に相と名づけて民を さめせしめ、 こほり の太守の如し。中尉は こほり の都尉の如し。 つたゑ いは く、王吉の あざな は子陽、琅邪の皐虞の人なり。 わか くして學を好み經を明らめ、以ちて郡吏は孝廉に舉げ郎 らしめ、若盧右丞を たす け、熒陽令に遷り、賢良 かしこき を舉げて昌の むら の中尉と為る。此の三人 みたり いず れも齊論語を以ちて人に教授 おし へたるなり。

集解 二つの論語

現代語訳

 故に魯論があり、斉論があるのだ。


注記


漢文

 故有魯論、有齊論。


書き下し文

 故に魯論有り、齊論有り。

疏 故有魯論有齊論

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 これまでに魯論と斉論の作った人物と伝述した人物を敘したことから、この言をもってこれらの結びとしたのだ。


注記


漢文

 疏。故有魯論有齊論。○正義曰、既敘魯論、齊論之作及傳述之人、乃以此言結之也。


書き下し文

 疏。故有魯論有齊論。 ○正しき ことはり に曰く、既に魯論、齊論の作る及び傳へ述ぶるの人を ぶれば、乃ち此の言を以ちて之れを結ぶなり。

集解 古論語について

現代語訳

 魯の共王の時、かつての孔子の邸宅を宮にするために壊そうとし、そこで古文論語を見つけた。


注記


漢文

 魯共王時、嘗欲以孔子宅為宮、壞、得古文論語。


書き下し文

 魯の共王の時、嘗て孔子の いへ を以ちて みや と為さむと おも ひて壞さば、古文論語を得たり。

疏 魯共……論語

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 ここで敘されているのは、古論を見つけたきっかけである。『嘗』は『曾』である。『壞』は『毀』である。魯の共王の時、 かつ ての孔子の邸宅を宮室にしようとしたことから、それを こわ そうとすると、壁の中の古い部分から、その古文論語を見つけたのだ。伝には次のようにある。
「魯の共王の劉余は、景帝の息子で、程姫が生んだ。孝景前二年に淮陽王として立ち、前三年に魯に移住して王となった。二十八年に薨去し、共王と おくりな された。当初は宮室を飾り立てることを好み、孔子の旧宅を取り壊すことで、自らの宮室を広くしようとしたが、鍾と磬、琴と瑟による雅楽の音が鳴り響くのを聞き、そのまま二度と取り壊そうとはしなかった。その壁の中から古文の経と伝が見つかり、そこでこれらの論語と孝経を『伝』と謂うようになった。だから漢武帝は東方朔に「伝には、『適切な時が来てから言葉を口にすれば、人はその言葉をうるさく感じない』とある。」と言い、また成帝も翟方に進策の書を賜わって「伝には、『高位にあって危うくないことが、長く貴きを守る秘訣なのだ。』とある。」と云ったのだ。このように漢の世を通して、論語と孝経を『伝』と謂う。論語と孝經は先王の書ではなく、これが孔子から伝えられた説であることから、故にこれを『伝』と謂ったのであり、先王の書とは異なる所以である。

『古文』と言われているものは、『科斗 オタマジャクシ 』という竹簡に記された書である。世に言われていることに基づけば、倉頡を起源とし、それが周に用いられ、現在には識られていないもの――つまり古人によって記されたもの、故に『古文』と名付けられている。(竹簡の)形の多くは頭の部分が大きくて尻尾の部分が細く、形状も丸っこくなっていることから、水蟲の科斗 オタマジャクシ に似ている。故に『科斗』というのだ。


注記

孝経

 儒教の中心的な教義である孝(親に対する畏敬、親を大切にすること、先祖を顕彰すること)について説明した書籍。伝統的には、孔子の弟子の曾参の著とされる。漢代には五経や論語と並び称され、七経に数えられた。それ以後も十二経や十三経などの儒教の経典をまとめたものには、論語や孟子とともに名を連ね続けたが、朱子学を大成した朱熹が曾参の著述であることを否定し、その権威についてやや懐疑的に論じるとともに、四書五経にも数えられなかったことから、徐々に権威は亡失した。しかし、近代以前は初学者向けの文献として愛読され続けたのも事実である。

「伝には、『適切な時が来てから言葉を口にすれば、人はその言葉をうるさく感じない』とある。」

 論語憲問第十四の言葉。衛国の家老であった公叔文子について孔子が公明賈に質問した際の回答の一節。祖国の魯を追われた孔子は、親類を頼って隣の衛国に亡命した。公叔文子は孔子がまだ7歳の頃に大臣として衛国にいたことが記されているので、孔子よりかなりの先輩格であったことが推測される。公叔文子は「言葉を口にせず、笑うこともなく、受け取ることもなかった。」と評判だったので、この意味について孔子は衛人の公明賈に質問した。その際に公明賈は、「それは言い過ぎです。あのお方は、適切な時が来てから言葉を口にしたので、人はその言葉をうるさく感じませんでした。楽しい時になってから笑ったので、嫌味に感じる人がいませんでした。義理に適っている時にだけ贈り物を受け取ったので、人は不正だと感じませんでした。」と答えた。

「伝には、『高位にあって危うくないことが、長く貴きを守る秘訣なのだ。』とある。」

 「高位にあって危うくないことが、長く貴きを守る秘訣なのだ。」は孝経諸侯篇の一節。我が拙訳の引用となるが、全文は「上位にいながら驕らなければ、高位にあっても危うくない。節制して節度を謹しめば、満ちても溢れない。高位にあっても危うくないことが、高貴な位に長く留まる秘訣なのだ。満ちて溢れないことが、富を長く守る秘訣なのだ。富貴が自らの身を離れないことで、自らの社稷を保つことができる。こうして自らの領有する民や人が調和するのだ。まさしく諸侯の『孝』である。」とある。孝経は孔子と曾参の対話形式で話が進む。この一節は、天子(王朝の主催者。中華王朝における王や皇帝。)から諸侯(封建領主)、卿大夫(貴族や大臣)、士(士族。官吏や戦士など。)、庶人(庶民、民衆、平民)といった各身分における孝の心得を述べた部分の諸侯の孝にまつわる解説から。

先王の書

 先王とは、儒教における太古の偉大な王のこと。主には、唐堯(紀元前2324年から前2255年)、虞舜(紀元前2277年から前2178年)、禹(???から前2025年)、湯王(???から前1646年)、文王(紀元前1125年から前1051年)、武王(???から前1043年)、周公旦(???から前1037年)の7名が挙げられる。六経は彼らの立てたものであり、それゆえに『先王の書』であり、ゆえに『経』である。孔子やその弟子たちは先王に当たらないため、論語や孝経は『経』ではなく、それを補完する説明文の『伝』であるというのが、本文の主張である。

倉頡

 文字を発明したとされる伝説上の人物。紀元前4667年から前4596年。

水蟲の科斗(オタマジャクシ)

 虫はそもそも哺乳類、鳥類、魚類、貝類以外の生物の総称であり、爬虫類は虫に分類される。虫の原字はヘビ。蟲は虫のうち、小さく蠢く群体のこと。オタマジャクシとしての科斗は、『蝌蚪』と書く。


漢文

 疏。魯共至、論語。○正義曰、此敘得古論之所由也。嘗、曾也。壞、毀也。言魯共王時、曾欲以孔子宅為宮、乃毀之、於壁中故得此古文論語也。傳曰、魯共王餘、景帝子、程姬所生、以孝景前二年立為淮陽王、前三年徙王魯、二十八年薨、謚曰共王。初好治宮室、壞孔子舊宅以廣其宮、聞鍾磬琴瑟之音、遂不敢復壞。於其壁中得古文經傳、即謂此論語及孝經為傳也。故漢武帝謂東方朔云、傳曰、時然後言、人不厭其言。又成帝賜翟方進策書云、傳曰、高而不危、所以長守貴也。是漢世通謂論語、孝經為傳。以論語、孝經非先王之書、是孔子所傳說、故謂之傳、所以異於先王之書也。言古文者、科斗書也、所謂倉頡本體、周所用之。以今所不識、是古人所為、故名古文。形多頭麤尾細、狀復團圓、似水蟲之科斗、故曰科斗也。


書き下し文

 疏。魯共至、論語。

○正しき ことはり に曰く、  此の ぶるは古論を得たるの所由 ゆえ なり。嘗は曾なり。壞は毀なり。 まを したるは、魯の共王の時、 かつ て孔子の いへ を以ちて みや と為さむと おも ひ、乃ち之れを毀さむとすれば、壁の中の ふるき より此の古文論語を得たるなり。 つたゑ に曰く、魯の共王の餘は、景帝の むすこ 、程姬の生む所、孝景前二年を以ちて立て淮陽王と為し、前三年に うつ りて魯に きみ たり、二十八年に みまか り、 おくりな に共王と曰ふ。初め宮室 みや をさ むるを好み、孔子の ふる いへ を壞して以ちて其の宮を廣めたらむとすれば、鍾磬琴瑟 みやびのしらべ の音を聞き、遂に敢へて復た壞さむとすることあらじ。其の壁の中に於いて古文の經傳を得、 すなは ち此の論語及び孝經を謂ひて傳と為すなり。 これ に漢武帝は東方朔に謂ひて いは く、 つたゑ に曰く、時にして然る後に言はば、人は其の ことば を厭はず。又た成帝も翟方に策を進むるの ふみ を賜ひて いは く、 つたゑ に曰く、高くして危うからざりは、長く貴きを守る所以なり、と。是れ漢の世を とほ して論語、孝經を謂ひて つたゑ ひたり。論語、孝經の先つ きみ ふみ に非ず、是れ孔子の傳ふる所の ことば なるを以ちて、故に之れを つたゑ と謂ひたるは、先つ きみ ふみ より異なる所以 ゆえ なり。

 古文と言ふ 科斗 おたま ふみ なり。所謂 いはゆる 倉頡の本體 はぢめ し、周の之れを用ゐらる所、今を以ちて識られざる所、是れ古の人に つく らるる所、故に古文と名づく。形の多くは頭は おほ きく尾は ほそ く、 かたち も復た團圓 まるまる とせられば、水蟲の科斗 おたま に似たり、故に科斗 おたま と曰ふなり。

集解 三論語の差異

現代語訳

 斉論には、問王篇と知道篇があり、魯論より二篇ほど多い。古論も同様にこれらの二篇はないが、堯曰篇の下の章の『子張問』が分かれて一篇となり、ふたつの『子張篇』があり、総じて二十一篇。篇の並び方も斉論や魯論と同じではない。


注記

問王篇と知道篇

 現伝の論語には存在しておらず、散逸している。しかし、2016年に江西省南昌市にある遺跡海昏侯墓から『知道篇』のみ初めて発掘された。ちなみに、海昏侯とは前漢9代廃帝のことである。


漢文

 齊論有問王、知道、多於魯論二篇。古論亦無此二篇、分堯曰下章、子張問以為一篇、有兩子張、凡二十一篇。篇次不與齊、魯論同。


書き下し文

 齊論に問王、知道有り、魯論より二篇 ふたつまき 多し。古論も亦た此の二篇 ふたつまき 無く、堯曰の しも ふみ の子張問を分け、以ちて一篇 ひとつまき らしめ、 ふたつ の子張有り、凡そ二十一篇。 まき の次 ならび は齊魯論と同じにあらず。

疏 齊論……魯論同

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 これら三つの論の篇と章の差異を弁別している。斉論には問王篇と知道篇があり、魯論より二篇ほど多く、所謂、斉論語は二十二篇である。古論も同じくこの問王篇と知道篇の二篇が無い。魯論だけにこれらが無いわけではなく、古論も同じく無いのである。古論も同じくこれらの二篇は無いが、堯曰篇より下の章の『子張問』を分けて一篇とし、ふたつの子張篇がある。総じて二十一篇。

 如淳は、「堯曰篇の後の子張問を分け、『何如可以従政以下為篇名(何如ニシテ以チテ政ニ従フ可キカ)』以下を篇名とし、『従政篇』とする。」という。その篇の順序も斉論や魯論と同じではない。新論には、「文の差異は四百字余りである。」とある。


注記

如淳

 中国三国時代の魏王朝に仕えた儒者。史記の注釈書である『史記集解』を編纂した。

何如可以從政以下為篇名(何如ニシテ以チテ政ニ從フ可キカ)

 孔子の弟子である子張が孔子に質問した内容。これを受けて孔子は、政治における五つの美徳(五美)と四つの悪徳(四悪)を説いた。

新論

 南朝梁の文人であった劉勰の著書。名僧僧祐に師事し、仏法を学んだ。

漢文

 疏。齊論至、魯論同。○正義曰、此辨三論篇章之異也。齊論有問王、知道、多於魯論二篇、所謂齊論語二十二篇也。古論亦無此問王、知道二篇、非但魯論無之、古論亦無也。古論亦無此二篇、而分堯曰下章、子張問以為一篇、有兩子張、凡二十一篇。如淳曰、分堯曰篇後、子張問、何如可以從政以下為篇名、曰從政。其篇次又不與齊、魯論同。新論云、文異者四百餘字。


書き下し文

  おぎなひ 。齊論至、魯論同。
○正義曰く、此れ三つの論の篇章 まきとふみ の異なるを くるなり。齊論に問王と知道有り、魯論より二篇 ふたつまき 多く、所謂 いわゆる 齊論語は二十二篇 はたあまりふたつまき なり。古論も亦た此の問王と知道の二篇 ふたつまき は無く、但だ魯論の之れ無きのみに非ず、古論も亦た無きなり。古論も亦た此の二篇 ふたつまき 無く、 しかう して堯曰より しも ふみ の子張問を分け、以ちて一篇 ひとつまき らしめ、 ふたつ の子張有り、凡そ二十一篇 はたあまりひとつまき 。如淳曰く、堯曰篇の後の子張問を分くるは、何如 いか にして以ちて まつりごと に從ふ可きか、 しも まき の名と為し、從政と はむ、と。其の まき ならび も又た齊魯論と同じにあらじ。新論に いは く、文の異なる者は四百餘字 よおことあまり たり、と。

集解 張禹の二論語統一

現代語訳

 安昌侯の張禹はもともと魯論を受けていたが、同時に斉の説も講義し、善いものがあれば、これに従い、張侯論と よびな され、世に貴ばれ、包氏と周氏の章句が出現した。


注記


漢文

 安昌侯張禹本受魯論、兼講齊說、善者從之、號曰、張侯論、為世所貴。包氏、周氏章句出焉。


書き下し文

 安昌侯の張禹は もともと 魯論を受け、兼ねて齊の こと べ、善き こと には之れに從ひたれば、 づけて張侯論と曰ひ、世に貴ばるる所と為る。包氏と周氏の章句 ふみ 出でたり。

 安昌侯……出焉

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 これは張禹の斉と魯の論の善いものを択びてこれに従い、世に重んじられ、この『張侯論語』に包氏と周氏の両氏が章句の訓説を立てたことを言っているのだ。

 伝には次のように云われている。 「張禹の あざな は子文、河內の軹の人である。沛郡の施讐から易を伝授され、王陽、庸生から論語を問われ、既にどれも習得していることが明らかとなったので、郡の文学に推挙された。それからしばらくして試験に及第して博士となった。まず、漢元帝の年中に皇太子が立てられると、太子に論語を授けるように張禹に言いつけ、これによって光祿大夫に遷り、数年で出て東平内史となった。成帝が即位し、師として張禹を徵(め)すと、爵位に關內侯、給事中領尚書事を賜わった。河平四年、王商に代わって丞相となり、安昌侯に封じられた。相となって六年で辞職を乞い、実家に帰って隠居した。建平の二年に薨去すると、節侯と謚(おくりな)された。もともと張禹は夏侯建から魯論を受けていたが、次に庸生と王吉から斉論を受け、故に斉論の説も一緒に講義した。

 伝には次のようにも云われている。 「魯扶卿から始まり、夏侯勝、王陽、蕭望之、韋玄成に及ぶまでの皆が論語を説いたが、篇第の異なるものもあった。張禹は先に王陽に師事し、後に庸生に従い、定められたものを採択し、最後に出たことで尊貴となり、そのため諸儒は「論語を修めたいのであれば、張禹の文を口ずさむがよい。」と語った。こういうわけで、学ぶ者の多くが張氏に従い、残りの学派は次第に薄れ、消えていった。これぞまさしく孔子の言う「善きものを択びて、これに従う」であるからこそ、『張侯論』と號(よびな)され、世に貴ばれることになったのである。

 後漢の儒林傳には次のように云われている。 「包咸の あざな は子良、會稽の曲阿の人である。若くして諸生となり、魯詩と論語に明るく、孝廉に推挙され、郎中に除位された。建武中に入り、皇太子に論語を授け、またその章句を付け、諫議大夫に拜された。永平の五年、大鴻臚に遷った。

 周氏がどこの人であるか、詳細はわからない。

『章句』とは何か。区切りをつけて書き並べたものの段落の名を解釈したものである。包氏と周氏は張侯論を基にして、これに章句を付け、解釈することによってその義理を抽出した。

 名を言明せずに氏だけを言うのはなぜか。思うに、章句を付けた時のこと、大義は謙退にあることから、題に自らの名を顕在させようとはせず、そこに自身の氏族だけを伝えたいとして、故に氏だけを伝えることにしたのだろう。たとえば杜元凱が集解した春秋であれば、これを『杜氏集解』と謂う。ある説によれば、何氏の諱が咸であることから、その名を避け、包氏とだけ言い、引き続き周氏と言っただけではないか、とも云われる。


注記

これぞまさしく孔子の言う「善きものを択びて、これに従う」である

 論語述而篇からの引用。原文は、三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之。「三人行なえば必ず我が師あり」は慣用句として知られる。

杜元凱が集解した春秋であれば、これを『杜氏集解』と謂う。

 杜元凱は杜預の名で有名。中国三国時代に魏から晋に仕えた儒者。春秋左氏伝の注釈書を編纂した。これが『春秋経伝集解』であり、あるいは上記の通り『杜氏集解』という。また、杜預三国時代に終止符を打つ呉の討伐戦を指揮した人物としても知られ、困難を乗り切れば勝手に上手くいく行軍を竹に刀を入れて節を割ることに譬え、そこから『破竹の勢い』という言葉が生まれた。

何氏の諱が咸であることから、その名を避け、包氏とだけ言い、引き続き周氏と言っただけではないか

 中国には忌諱という信仰があり、目上の人の本名(諱)を呼ぶことは失礼だとされる。これは文筆においても徹底され、たとえば現在の王朝における皇帝の諱を文中に用いることは不敬とされた。こうした風習の延長として、論語集解の編者である何晏の父親の姓名が『何咸』であることから、父親と同じ諱の包咸の諱を記述することは自らの父への不孝であるから、諱を避けてを包氏と記したのだという説。


漢文

 疏。安昌侯至、出焉。○正義曰、此言張禹擇齊、魯論之善者從之、為世所重、包、周二氏為章句訓說此張侯論語也。傳曰、張禹字子文、河內軹人也。從沛郡施讐受易、王陽、庸生問論語、既皆明習、舉為郡文學。久之試為博士。初、元中立皇太子、令禹授太子論語、由是遷光祿大夫、數歲出為東平內史。成帝即位、徵禹以師、賜爵關內侯、給事中領尚書事。河平四年、代王商為丞相、封安昌侯。為相六歲、乞骸就第。建平二年薨、謚曰節侯。禹本受魯論於夏侯建、又從庸生、王吉受齊論、故兼講齊說也。傳又云、始魯扶卿及夏侯勝、王陽、蕭望之、韋玄成皆說論語、篇第或異、禹先事王陽、後從庸生、采獲所安、最後出而尊貴、諸儒為之語曰欲為論、念張文。由是學者多從張氏、餘家浸微。是、其善者從之、號曰張侯論、為世所貴之事。後漢儒林傳云、包咸字子良、會稽曲阿人也。少為諸生、昌魯詩、論語、舉孝廉、除郎中。建武中入授皇太子論語、又為其章句、拜諫議大夫。永平五年、遷大鴻臚。周氏不詳何人。章句者、訓解科段之名、包氏、周氏就張侯論為之章句、訓解以出其義理焉。不言名而言氏者、蓋為章句之時、義在謙退、不欲顯題其名、但欲傳之私族、故直云氏而已。若杜元凱集解春秋謂之杜氏也。或曰、以何氏諱咸、故沒其名、但言包氏、連言周氏耳。


書き下し文

○正しき ことはり に曰く、  此れは張禹の齊と魯の論の善き こと えら びて之れに り、世に重じらるる所と為り、包周の ふたり うぢ 章句 ふみ 訓說 よみ を此の張侯論語に つく りたるを言ふなり。 つたゑ に曰く、張禹の あざな は子文、河內の軹の人なり。沛郡の施讐 り易を受け、王陽、庸生は論語を問ひ、既に皆の習ひたるが明らかなれば、舉ぐりて郡の文學と為る。之れを久しくして試し博士と為る。初め、元の中に皇太子を立て、禹に いひつけ して太子に論語を授け、是れに由りて光祿大夫に遷り、數歲 いくとし にして出で東平內史と為る。成帝は位に き、禹を すに師を以ちてし、 くらひ に關內侯、給事中領尚書事を賜ひたり。河平四年、王商に代はりて丞相と為り、安昌侯を さづ けたり。 すけ に為ること六歲 むつとし やむ を乞ひて やしき に就きたり。建平の二年に みまか り、 おくりな に節侯と曰ひたり。禹は もともと 魯論を夏侯建より受け、又た庸生、王吉 り齊論を受け、故に兼ねて齊の說を くなり。 つたゑ に又た いは く、魯の扶卿より始まり、夏侯勝、王陽、蕭望之、韋玄成に及ぶまで、 いず れも論語を說くも、篇第も或るものは異なり、禹は先ず王陽に事へ、後に庸生に從ひ、安ずる所を采獲 とりいれ 、最も後に出で、 しかう して尊貴 たふと び、 もろもろ の儒は之れの為に語りて曰く、論を をさ めむと おも はば、張の ふみ おも ふべし、と。是れに由りて學ぶ者は多く張氏に從ひ、餘家 のこりのいえ やうや かすか たり。是れぞ、其れ善き者なれば之れに從ふことなれば、 づけて張侯論と曰ひ、世に貴ばるる所の事と為りたらむ。後漢の儒林傳に いは く、包咸の あざな は子良、會稽の曲阿の人なり。 わか くして諸生と為り、魯詩と論語に あか るく、孝廉に舉がり、郎中に くらひ したり。建武中に入りて皇太子に論語を授け、又た其の章句 ふみ つく り、諫議大夫に つ。永平の五年、大鴻臚に遷る。周氏は何人なるかは詳ならず。章句 ふみ なる者、 ふみ はじ の名を訓解 ときあかし したり、包氏と周氏は張侯論に就きて之れに章句 ふみ つく り、訓解 ときあかし して以ちて其の義理 ことはり を出だしたらむ。名を言はず しかう して うぢ を言ひたる 、蓋し章句を つく りたるの時、 ことはり 謙退 ゆずる に在り、題に其の名を あきら むを おも はず、但だ之れを私の やから に傳ふるを欲するわのみ、故に だ氏を云ひたるのみならむ。杜元凱の集解したる春秋の ごと きは、之れを杜氏と謂ふなり。或は曰く、何氏の諱の咸なるを以ちて、故に其の名を し、但だ包氏と まを し、連ねて周氏と言ひたるのみ、と。

集解 古論語の解釈者

現代語訳

 古論は博士の孔安国だけが、これに訓解を付けたが、その後は世に伝わることなく、順帝の時になってから南郡大守の馬融が同じくこれに訓説を立てた。


注記


漢文

 古論唯博士孔安國為之訓解、而世不傳、至順帝時、南郡大守馬融亦為之訓說。


書き下し文

 古論は唯だ博士の孔安國のみ之れに訓解 ときあかし つく り、 しかふ して つた ふることなく、順帝の時に至り、南郡大守の馬融も亦た之れに訓說 ときあかし つく りたり。

 古論……訓說

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 ここに敘せられているのは、古文論語に訓説を立てた人物である。史記の孔子世家によれば、孔安国は孔子十一世の孫であり、武帝の博士となったという。当時、魯の共王が孔子の旧宅を壊していると、壁の中から古文の虞夏商周の書、伝論語、孝経が見つかり、すべてを孔氏の家に返還した。故に孔安国は詔(みことのり)を承けて書伝を作り、また古文孝経の傳を作り、同じく論語の訓解を作った。

 釋詁によれば、「『訓』とは『道』である。」と云われている。つまり、こういうことだ。その義を道びき、その理を釋(と)くこと、これを『訓解』と謂い、言い伝えによってそれを述べて言葉にすることは『伝』といい、理(ことわり)を釋(と)くことによってそれを言葉にすることは『訓解』といい、その実はひとつである。武帝の末年に巫蠱の事に遭ったことで、経籍の道は途絶えてしまい、故に世に伝わらなくなってしまった。それから弘安国の後、後漢の順帝の時になって、南郡太守の馬融が現れ、同じく古文論語の訓説を立てた。後漢紀を考査するに、孝順皇帝の諱(いみな)は保、安帝の息子である。地理志には、「南郡は秦が置き、高帝の元年に臨江郡と改め、五年に元に戻した。景帝の二年にまたしても臨江郡とし、中二年に元に戻し、荊州に属している。表によれば、郡守は秦の官であり、その郡の統治を掌管し、秩は二千石である。景帝中二年に名を太守と改めた。伝には、「馬融の あざな は季長、扶風の茂陵の人である。為人(ひととなり)は論述も容貌も美しく、俊才があり、博く経籍に通じており、永初中に校書郎となった。陽嘉二年に議郎を拜し、梁商が表して従事中郎となり、武都太守に移り、三度ほど遷任されて南郡太守となり、孝経、論語、詩経、易経、尚書、三礼に注を付けた。齢八十八歳にして、延壽九年に家で卒去した。


注記

 疏。古論至、訓說。○正義曰、此敘訓說古文論語之人也。史記世家、安國、孔子十一世孫、為武帝博士。時魯共王壞孔子舊宅、壁中得古文虞夏商周之書及傳論語、孝經、悉還孔氏、故安國承詔作書傳、又作古文孝經傳、亦作論語訓解。釋詁云、訓、道也。然則道其義、釋其理、謂之訓解、以傳述言之曰傳、以釋理言之曰訓解、其實一也。以武帝末年遭巫蠱事、經籍道息、故世不傳。自此安國之後、至後漢順帝時、有南郡太守馬融亦為古文論語訓說。案後漢紀、孝順皇帝諱保、安帝之子也。地理志云、南郡、秦置、高帝元年更為臨江郡、五年復故。景帝二年復為臨江郡、中二年復故、屬荊州。表云、郡守、秦官、掌治其郡、秩二千石。景帝中二年更名太守。傳云、馬融字季長、扶風茂陵人也。為人美辭貌、有俊才、博通經籍、永初中為校書郎。陽嘉二年、拜議郎、梁商表為從事中郎、轉武都太守、三遷為南郡太守、注孝經、論語、詩、易、尚書、三禮。年八十八、延壽九年卒於家。


漢文

  おぎなひ 。古論至、訓說。 ○正しき ことはり に曰く、此に敘ぶるは、古文論語を訓說 ときあか したるの人なり。史記の世家、安國は孔子の十一世の孫、武帝の博士と為る。時に魯の共王は孔子の ふる いへ を壞さば、壁の中に古文虞夏商周の書及び傳論語、孝經を得、悉く孔氏に還し、故に安國は みことのり を承けて書傳を作り、又た古文孝經の傳を作り、亦た論語の訓解 ときあかし を作りたり。釋詁に いは く、訓は道なり。然るに則ち其の ことはり ひ、其の ことはり きて之れを訓解 ときあかし と謂ひ、傳を以ちて之れを述べ言ひたるは傳と曰ひ、 ことはり くを以ちて之れを言ひたるは訓解と曰ひ、其の實は ひとつ なり。武帝の末年に巫蠱の事に遭ふを以ちて、經籍の道は み、故に世に傳ふることなし。此れ り安國の後、後漢の順帝の時に至り、南郡太守の馬融有り、亦た古文論語の訓說 ときあかし つく りたり。後漢紀を しら ぶれば、孝順皇帝の いみな は保、安帝の子なり。地理志に いは く、南郡、秦置き、高帝の元年 はじめどし あらた めて臨江郡と為し、五年に もと もど したり。景帝の二年に たしても臨江郡と為し、中二年に もと もど し、荊州に きたり。 ふみ いは く、郡守は秦の つかさ 、其の郡を治むるを つかさど り、秩は二千石たり、と。景帝中二年に名を太守に あらた む。傳に いは く、馬融の あざな は季長、扶風の茂陵の人なり。為人 ひととなり ことば かほ も美しく、俊き かど 有り、博く經籍に とほ り、永初中に校書郎と為る。陽嘉二年に議郎を け、梁商は表 ふみ して從事中郎と為す、武都太守に うつ り、 みたび 遷りて南郡太守と為り、孝經、論語、詩、易、尚書、三禮に注したり。 よはひ 八十八、延壽九年に家に於いて ぬ。


書き下し文

集解 鄭玄の三論語統一

現代語訳

 漢の末には、大司農の鄭玄が魯論の篇章を基にしてそれに斉論と古論を考慮し、これに註を付けた。


注記


漢文

 漢末、大司農鄭玄就魯論篇章考之齊、古、為之註。


書き下し文

 漢の末、大司農の鄭玄は魯論の篇章 まき に就き之れに齊古を かむが み、之れに註を つく りたり。

 漢末……之註

現代語訳

 鄭玄も同様に論語の注を付けたことを言っているのだ。鄭玄の あざな は康成、北海の高密縣の人で、馬融に師事した。大司農として取り立てられたが立ち上がらず、家に留まって(儒学を)教授したのが後漢の桓帝と霊帝の時に当たり、故に漢末と云うのだ。易、尚書、三禮、論語、尚書大伝、五経の緯候に注を付け、毛詩に箋を付け、毛詩譜を作った。許慎の五経異義を破り、何休の左氏膏肓には『針膏肓」、公羊墨守には『発墨守』、穀梁廃疾には『起廃疾』で批判したのだから、大儒と評価せねばなるまい。注を作った時には、魯論の篇章に基づいて二十篇としたが、それを今度は斉論、古論と比較して考査し、その善いものを選び、そしてそれらに註を付けた。『註』と『注』は音も字義も同じである。


注記


漢文

 疏。漢末至、之註。○正義曰、言鄭玄亦為論語之注也。鄭玄字康成、北海高密縣人、師事馬融。大司農徵不起、居家教授、當後漢桓、靈時、故云漢末。注易、尚書、三禮、論語、尚書大傳、五經緯候、箋毛詩、作毛詩譜。破許慎五經異義、針何休左氏膏肓、發公羊墨守、起穀梁廢疾、可謂大儒。作注之時、就魯論篇章、謂二十篇也、復考校之以齊論、古論、擇其善者而為之註。註與注音義同。


書き下し文

  おぎなひ 。漢末至、之註。 ○正しき ことはり に曰く、鄭玄も亦た論語の注を つく りたるを言ふなり。鄭玄の あざな は康成、北海の高密縣の人、馬融に師事 つか へたり。大司農に したるも起こらず、家に いま して教授 おし へたるは、後漢の桓靈の時に當たり、故に漢末と云ひたり。易、尚書、三禮、論語、尚書大傳、五經の緯候に注し、毛詩に かきふだ し、毛詩譜を作りたり。許慎の五經異義を破り、何休の左氏膏肓を針し、公羊墨守を やぶ り、穀梁廢疾を起こしたるは、大儒と謂ふ可し。注を作りたるの時、魯論の篇章に就き、二十篇 はたつまき と謂ふや、 ふたた び之れを おも くら ぶるに齊論、古論を以ちてし、其の善き者を えら び、 しかう して之れに註を つく りたり。註と注は音も わけ も同じ。

集解 近古の儒者たち

現代語訳

 近古には、司空の陳羣、太常の王粛、博士の周生烈の皆が語義の説明を付した。


注記


漢文

 近故司空陳羣、太常王肅、博士周生烈皆為義說。


書き下し文

 近くの ふる きには、司空の陳羣、太常の王肅、博士の周生烈も皆が ことはり ときあかし つく る。

 近故……義說

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 ここで敘せられているのは、魏の時代に論語に注説した人である。年代はまだ遠くない人ではあるが、既に死没された故人――これが近古である。司空は、古(いにしえ)の官職における三公である。表には次のように云われている。

「奉常は秦の官職であり、宗廟の礼儀を掌管している。景帝中の六年に名を太常と改めた。博士は秦の官職であり、古今に通じることを掌管している。」

 魏志には次のように云われている。

「陳羣の あざな は長文、潁川の許昌の人である。太祖は陳羣を招聘して司空西曹属とし、文帝が即位してから尚書僕射に遷った。明帝が即位してから、進級して潁陰侯に封じられ、しばらくして司空となった。青龍四年に薨去した。王粛の あざな は子邕、東海の蘭陵の人であり、魏の衛将軍太常蘭陵景侯、甘露元年に薨去した。」

 尚書、儀礼の喪服篇、論語、孔子家語に注をつけ、毛詩の注を述べた。聖証論を作って鄭玄を論難した。周生烈は、燉煌の人、七録には次のように云われている。

あざな は文逸、もともとの姓は唐、魏の博士、侍中である。」

 この二人はいずれも論語の語義の説明を付し、注を作ってその釈義を説いたことを言い、故に『語義の説』と云うのだ。


注記


漢文

 疏。近故至、義說。○正義曰、此敘魏時注說論語之人也。年世未遠人巳歿故、是近故也。司空、古官三公也。表云、奉常、秦官、掌宗廟禮儀。景帝中六年更名太常。博士、秦官、掌通古今。魏志云、陳羣字長文、潁川許昌人也。太祖辟羣為司空西曹屬、文帝即位、遷尚書僕射。明帝即位、進封潁陰侯、頃之為司空。青龍四年薨。王肅字子邕、東海蘭陵人、魏衞將軍太常蘭陵景侯、甘露元年薨。注尚書、禮喪服、論語、孔子家語、述毛詩注。作聖證論難鄭玄。周生烈、燉煌人、七錄云、字文逸、本姓唐、魏博士、侍中。此二人皆為論語義說、謂作注而說其義、故云義說。


書き下し文

  おぎなひ 。近故至、義說。 ○正しき ことはり に曰く、此の敘ぶるは、魏の時に論語に注說したるの人なり。年の世は未だ遠からざる人なるも巳に歿故 ぬ、是れ近くの ふる きなり。司空は、 いにしへ つかさ の三公なり。 ふみ いは く、奉常は秦の つかさ 、宗廟の禮儀を つかさど る。景帝中の六年に名を太常と あらた む。博士は秦の つかさ 、古今に とほ りたるを つかさど る。魏志に いは く、陳羣の あざな は長文、潁川の許昌の人なり。太祖は羣を まね きて司空西曹屬と為し、文帝の位に かば、尚書僕射に遷る。明帝の位に かば、進みて潁陰侯に あた ひ、頃之 しばらくして 司空と為る。青龍四年に みまか る。王肅の あざな は子邕、東海の蘭陵の人、魏の衞將軍太常蘭陵景侯、甘露元年に みまか る。尚書、禮の喪服、論語、孔子家語に注し、毛詩注を述ぶ。聖證を おこ して鄭玄を論難 あげつら ふ。周生烈は、燉煌の人、七錄に いは く、 あざな は文逸、 もともと かばね は唐、魏の博士、侍中。此の二人は いず れも論語の ことはり ときあかし つく り、注を作りて其の ことはり を說くを謂ひ、故に ことはり ときあかし と云ひたり。

集解 訓解の発展

現代語訳

 前代での師の説明を伝授するにあたっては、見解の食い違いがあっても訓解を付けなかったが、それまでの中間にはそれらに訓解が付けられるようになり、今となってはなんと数の多いことか。見たところ同じものはなく、互いに長所と短所がある


注記


漢文

 前世傳授師說、雖有異同、不為訓解。中間為之訓解、至于今多矣。所見不同、互有得失。


書き下し文

  さき の世の師の說きたるを傳へ授くるは、異なると同じたるを つと雖も、訓解 ときあかし つく らざりき。中間 あひだ に之れに訓解 ときあかし つく り、今に至るまで かずおほ きかな。見る所に同じからず、互ひに得たるも あやま つも有り。

 前世……得失

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 これから論語の集解を作るにあたって、先儒に長所と短所や見解の食い違いがあることに言及する必要があった。現在を起点にして過ぎ去った古(いにしえ)への道程、これを『前代』という。上から下に教えることを『伝』といい、下が上から継承することを『受』という。張禹より古い時代、夏侯勝より新しい時代においては、師はただ説明を口頭で加えるだけで、学説に食い違うものがあったとしても、どれも編纂された木簡に明記するようなことなく、伝注や訓解としていたことを言っているのだ。「それまでの中間にはそれらに訓解が付けられるようにな」ったというのは、古から今に至るまでの中間で包氏や周氏等がその頃に論語の訓解を付けるようになり、二十家余りが存在したことを言い、だから「今となってはなんと数の多いことか」と云っているのだ。それらの取捨選択がそれぞれ異なっていることから、『互いに長所と短所がある』としている。


注記


漢文

 疏。前世至、得失。○正義曰、將作論語集解、故須言先儒有得失不同之說也。據今而道往古、謂之前世。上教下曰傳、下承上曰受。謂張禹以上至夏侯勝以來、但師資誦說而已、雖說有異者、同者、皆不著篇簡以為傳注、訓解。中閒為之訓解、謂自古至今中間、包氏、周氏等為此論語訓解、有二十餘家、故云至于今多矣。以其趣舍各異、故得失互有也。


書き下し文

  おぎなひ 。前世至、得失。 ○正しき ことはり に曰く、  將に論語の集解を さむとし、故に すべから く先の儒に得たるも あやま つも同じからざるが ときあかし 有るを言ふべきなり。今に據り、 しかう して かつ ての いにしへ ふは、之れを さき の世と謂ふ。上の下に教ゆるは傳と曰ひ、下の上に承くるは受と曰ふ。張禹 り上、夏侯勝 さき に至るまでは、但だ師は ときあかし とな ふるを さづ けたるのみ、 ときあかし に異なる者も同じ者も有ると雖も、皆が みたる ふだ に著さず、以ちて傳注、訓解 ときあかし つく りたるを謂ふ。中閒 あひは に之れに訓解 ときあかし つく るは、古 り今に至るまでの中間 あひま に、包氏、周氏等は此の論語の訓解を つく り、二十餘家 はたちあまりのいへ 有るを謂ひ、故に今に至るまで多きかなと云ひたるかな。其の すす むと とど むるの おのもおの も異なるを以ちて、故に得たるも あやま つも互ひに有るとするなり。

集解 どのように解釈と向き合うか?

現代語訳

 今ここに諸家の善いものを集め、その姓名を記し、よくわからない部分については、いっそのこと改変してしまい、『論語集解』と名付けた。


注記


漢文

 今集諸家之善、記其姓名、有不安者頗為改易、名曰論語集解。


書き下し文

 今、諸家の善を集め、其の姓名を記し、安ぜざる者有らば いつ 改易 あらたむる を為し、名づけて論語集解と曰ひたり。

 今集……集解

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 ここで敘せられているのは、集解の編纂様式 スタイル についてである。『今』というのは何晏の時代を意味し、『諸家』とは孔安国、包咸、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王粛、周生烈をいう。ここに諸家の学説から善いものを集め、そしてこれらを保存し、諸説を剽窃しないことを示した。だからそれぞれの人物の姓名を記すのだ。注に『包曰く』『馬曰く』と言及する類がこれである。注にその人物の姓だけを記し、そこに名を連ねて言う場合は、その姓を明示することでその人物を表現しているのであり、正式な名前としての名前を意味するわけではない。『よくわからない部分』とは、諸家の説の釈義について、よくわからない部分があることを意味するのだ。『いっそのこと改変してしまい』というのは、諸家の善いものであれば残して改変することはなかったが、その善くないものについては、思い切ってそれらの多くを改変したことを言っているのだ。注の首にある『包曰く』『馬曰く』といった言辞や諸家による解説の下に付け足されるものは、『一曰』と言う場合も言わない場合も、どちらもすべて何氏自ら自己の言葉を下に付け足したものであり、先儒の言葉の改変である。「論語集解と名付けた」というのは、何氏の注解が終わった後、そこでこれに自ら題をつけた。杜氏が注を付けた春秋左氏伝はこれを意味し、『集解』とは、経典の伝を寄せ集め、それについての解釈を新たに作って付け足したことを意味するのだ。これはつまり「諸家の義理を寄せ集めることで論語を解釈した」とは、言辞の上では同じでも意味は異なる。


注記


漢文

 疏。今集至、集解。○正義曰、此敘集解之體例也。今謂何晏時、諸家謂孔安國、包咸、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王肅、周生烈也。集此諸家所說善者而存之、示無勦說、故各記其姓名。注言包曰、馬曰之類是也。注但記其姓、而此連言名者、以著其姓所以名其人、非謂名字之名也。有不安者、謂諸家之說於義有不安者也。頗為改易者、言諸家之善則存而不改、其不善者頗多為改易之。注首不言包曰、馬曰、及諸家說下言一曰者、皆是何氏自下己言、改易先儒者也。名曰論語集解者、何氏注解既畢、乃自題之也。杜氏注春秋左氏傳謂之、集解者、謂聚集經傳為之作解也。此乃聚集諸家義理以解論語、言同而意異也。


書き下し文

 疏。今集至、集解。 ○正しき ことはり に曰く、此の敘ぶるは、集解の體例 かたち なり。今は何晏の時を謂ひ、諸家 もろもろのうから は孔安國、包咸、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王肅、周生烈を謂ふなり。此に諸家 もろもろのうから の說く所の善き者を集め、 しかう して之れを のこ し、說を ぬす むこと無きを示し、故に おのおの の其の姓名を記す。注の包曰く、馬曰くを言ひたるが たぐひ は是れなり。注の但だ其の かばね のみを記し、而りて此れに連ねて名を言ふ こと は、其の かばね しる すを以ちて其の人に名する所以 ゆえ にして、名字 あざな の名を謂ふに非ざるなり。安ぜざる者有らば、諸家 もろもろのうから ときあかし ことはり に於いて安ぜざる者有るを謂ふなり。 いつ 改易 あらたむる を為す 諸家 もろもろのうから よき なれば則ち のこ し、 しか も改めず、其の不善 よからぬ 者は いつ そ多く之れを改易 あらたむる を為したるを言ふ。注の かしら に包曰く、馬曰く、及び諸家 もろもろのうから の說の下に一曰 あるひといはく と言ふを言はざる者、皆が是れ何氏の自ら己の ことば を下にし、先つ儒の者を改易 あらたむる なり。名づけて論語集解と曰ふ 、何氏の注と ときあかし したるは既に はり、乃ち自ら之れを かきつけ するなり。杜氏の注したる春秋左氏傳は之れを謂ひ、集解なる 、經の傳を聚集 あつ めて之れに作解 ときあかし つく りたるを謂ふなり。此れ すなは 諸家 もろもろのうから 義理 ことはり 聚集 よせあつ めて以ちて論語を ときあか したるは、 ことば は同じにして こころ は異なるなり。

集解 編纂スタッフ

現代語訳

 光祿大夫関内侯臣の孫邕、光禄大夫臣の鄭沖、散騎常侍中領軍安郷亭侯臣の曹羲、侍中臣の荀顗、尚書駙馬都尉関内侯臣の何晏等が上奏する。


注記

 光祿大夫關內侯臣孫邕、光祿大夫臣鄭沖、散騎常侍中領軍安鄉亭侯臣曹羲、侍中臣荀顗、尚書駙馬都尉關內侯臣何晏等上。


漢文

 光祿大夫關內侯臣の孫邕、光祿大夫臣の鄭沖、散騎常侍中領軍安鄉亭侯臣の曹羲、侍中臣の荀顗、尚書駙馬都尉關內侯臣の何晏等の すす む。


書き下し文

 光祿……等上

現代語訳

○正義(正当な釈義)は次の通りである。

 ここで敘せられているのは、共同で集解した人物である。表に、「大夫は論議を掌管し、太中大夫、中大夫、諫大夫がある。どれも定員はないが、多ければ数十人に至る。太初元年に中大夫を光祿大夫と改名し、秩はおよそ二千石。」と云われている。印綬はない。爵級の十九は関内侯といい、顏師古は「侯という號(よびな)があり、京畿(みやこ)に居住して国邑のない者のことだ。」という。

 孫邕の あざな は宗儒、楽安の青州の人である。

 晋書によれば、鄭沖の あざな は文和、熒陽の開封の人であり、寒貧の平民から身を起こし、傑出して節義を守り通した。魏文帝が太子となってから、文学に命じられ、重ねて尚書郎に遷り、出仕して陳留大守を補佐し、曹爽が引き入れて従事中郎とし、散騎常侍光俸勲に転じた。表には「侍中は、散騎中常侍のすべてに加えられた官である。」とも云う。應劭は「宮中では天子に侍り、だから侍中という」という。晋灼は「魏文帝は散騎、中常侍を合はせて散騎常侍とした」と言う。また、「加えられたものには『列侯』『将軍』『卿大夫』『将都尉尚書』『太医』『太宮令至郎中』があり、定員はなくなったが、多ければ数十人に至る。」ともいう。如淳は「将は、都郎将以下を言い、列侯の下から郎中までは、どれも『散騎』及び『中常侍』を有することができる」という。また、「侍中、中常侍は禁中に入ることができるし、散騎は輿車に並んで乗ることができる」という。顏師古は、「並の音は『步浪反』である。馬に乗りながら定員外の従者ということは、常職ではない。」という。この中領軍と言うものは、表に文章がない。安故亭侯というものは、「爵級二十の数に入っていない。思うに、漢末から魏に置かれた亭侯や列侯の倫類であろう。

 曹羲は、沛国の譙の人で、魏宗室の曹爽の弟である。

 荀顗の あざな は景倩、荀彧の息子であり、荀詵の弟である。咸熙中に司空となった。表には、「少府は、秦の官職であり、属官に尚書がある。」とも云われている。成帝は建始四年に初めて尚書を置いた。定員は五人。駙馬都尉は駙馬を掌管し、武帝が初めて置いた。秩はおよそ二千石。顏師古は、「『駙』とは『副』である、正駕車でなければ、どれも副馬である。」という。一説には、「『駙』は『近』であり『疾』である。」という。

 何晏の あざな は平叔、南陽の宛の人である。何進の孫にして何咸の息子。曹爽が政務を執ってから、何晏を尚書とし、次に公主を娶った。

 著述は総じて数十篇。正始中、この五人は共同でこの論語集解を上奏した。


注記


漢文

 疏。光祿至、等上。○正義曰、此敘同集解之人也。表云、大夫、掌論議、有太中大夫、中大夫、諫大夫、皆無員、多至數十人。太初元年更名中大夫為光祿大夫、秩比二千石。無印綬、爵級十九曰關內侯、顏師古曰、言有侯號而居京畿、無國邑。孫邕字宗儒、樂安青州人也。晉書、鄭沖字文和、熒陽開封人也、起自寒微、卓爾立操。魏文帝為太子、命為文學、累遷尚書郎、出補陳留大守、曹爽引為從事中郎、轉散騎常侍光祿勳。表又云、侍中、散騎中常侍皆加官。應劭曰、入侍天子、故曰侍中。晉灼曰、魏文帝合散騎、中常侍為散騎常侍也。又曰、所加或列侯、將軍、卿大夫、將都尉尚書、太醫、太宮令至郎中、亡員、多至數十人。如淳曰、將、謂都郎將以下也、自列侯下至郎中、皆得有散騎及中常侍也。又曰、侍中、中常侍得入禁中、散騎並乘輿車。顏師古曰、並音步浪反。騎而散從、無常職也。此言中領軍者、表無文。安鄉亭侯者、不在爵級二十之數、蓋漢末及魏置亭侯、列侯之倫也。曹羲、沛國譙人、魏宗室曹爽之弟。荀顗字景倩、荀彧之子、詵之弟也、咸熙中為司空。表又云、少府、秦官、屬官有尚書。成帝建始四年初置尚書、員五人。駙馬都尉掌駙馬、武帝初置、秩比二千石。顏師古曰、駙、副也、非正駕車、皆為副馬。一曰駙、近也、疾也。何晏字平叔、南陽宛人也、何進之孫、咸之子。曹爽秉政、以晏為尚書、又尚公主。著述凡數十篇。正始中、此五人共上此論語集解也。


書き下し文

  おひなひ 。光祿至、等上。 ○正しき ことはり に曰く、此れの敘ぶるは、同じく集解したるの人なり。 ふみ いは く、大夫は論議 はかり つかさど り、太中大夫、中大夫、諫大夫有り、皆が さだめ 無し、多かれば數十人に至らむ。太初元年に名を あらた めて中大夫を光祿大夫と為し、秩は およそ 二千石。印綬 しるし 無し、 くらひ はし の十九は關內侯と曰ひ、顏師古の曰く、 きみ よびな 有り、 しかう して京畿 みやこ いま して、國邑 くに 無しを言ふ、と。孫邕の あざな は宗儒、樂安の青州の人なり。晉書に、鄭沖の あざな は文和、熒陽の開封の人なり、寒微 いやしき り起き、卓爾 すぐれて 操を立つる。魏文帝の太子 みこ と為らば、 みことのり して文學と為り、 かさ ねて尚書郎に遷り、出でて陳留大守を補ひ、曹爽は引きて從事中郎と為し、散騎常侍光祿勳に うつ る。 ふみ に又た いは く、侍中は、散騎中常侍の皆が つかさ に加ゆ。應劭の曰く、入りて天子に侍り、故に侍中と曰ふ、と。晉灼の曰く、魏文帝は散騎、中常侍を合はせ、散騎常侍と為すなり、と。又た曰く、加ゆる所に或は列侯、將軍、卿大夫、將都尉尚書、太醫、太宮令至郎中、 さだめ 亡し、多かれば數十人に至る。如淳の曰く、將は、都郎將 しも を謂ふなり、列侯の しも り郎中に至るまで、皆が散騎及び中常侍を ちたるを得るなり。又た曰く、侍中、中常侍は禁中に入り、散騎は並びて輿車 みこし に乘るを得、と。顏師古の曰く、並の音は步浪反。 またが りて さだまらざる おとも は、常の つとめ あら ざるなり。此の中領軍と言ふ ふみ に文 ふみ 無し。安鄉亭侯なる くらひ はし の二十の數に在らじ、蓋し漢の末及び魏の置きたる亭侯、列侯の のり なり。曹羲は、沛國の譙の人、魏宗室の曹爽の弟たり。荀顗の あざな は景倩、荀彧の むすこ 、詵の弟なり、咸熙中に司空と為る。 ふみ に又た いは く、少府は、秦の つかさ きたる官に尚書有り。成帝の建始四年に初めて尚書を置き、 さだめ 五人 いつたり 。駙馬都尉は駙馬を つかさど り、武帝の初めて置き、秩は およそ 二千石。顏師古の曰く、駙は、副なり、正しき駕車に非ざれば、皆が副馬と為る。 あるふみ いは く、駙は近なり、疾なり。何晏の あざな は平叔、南陽の宛の人なり、何進の孫、咸の むすこ 。曹爽の まつりごと らば、晏を以ちて尚書 らしめ、又た公主 ひめ めと りたり。著述 あらはしのぶる すること凡そ數十篇 いくとまき 。正始中、此の五人 いつたり は共に此の論語集解を ささ ぐるなり。

底本

論語注疏- 中國哲學書電子化計劃