焚巣館 -後漢書東夷列伝 濊-

後漢書東夷列伝 濊



現代語訳
 濊は、北は高句驪、沃沮、南は辰韓と接しており、東は大海に濱し、西は楽浪に至る。濊や沃沮、高句驪は、もともとすべて朝鮮の地であった。かつて武王が箕子を朝鮮に封じると、箕子は礼義と農耕、養蚕を教え、次に『八条の教』を制定した。その国の人は最終的に互いに盗みをすることがなくなり、門戸を閉ざすことさえなくなった。既婚の女性は貞淑にして信義に厚くなった。

 飲食には竹や焼き物の深皿を用いる。その後、四十世あまりにして朝鮮侯の准の代になって王を自称した。漢の初めに大乱となり、燕、斉、趙の人々で土地から逃げ出した者は数万にのぼり、そして燕人の衛満が准を擊ち破り、こうして自ら朝鮮の王となって、国を伝えて孫の右渠に至った。元朔の元年(前128年)に濊の君の南閭等が右渠に叛き、二十八万口を率いて遼東までたどり着き、内属した。武帝がその地を蒼海郡としたが、数年にして廃止された。元封三年(前108年)になって朝鮮を滅ぼし、楽浪、臨屯、玄菟、真番に分割して四郡を置いたが、昭帝の始元五年(紀元前82年)になって臨屯郡、真番郡を廃止し、楽浪郡と玄菟郡に併合させた。今度は玄菟郡が高句驪に移動した。単単大領から東にあった沃沮、濊貊はことごとく楽浪郡に属した。後に境土の広遠であることから、今度は東七縣に分領き、楽浪東部都尉を置いた。内属してからというもの、風俗は少しずつ薄まり、法禁も濫りに増えていき、六十条あまりとなるに至った。建武六年、都尉という官位について省みて、遂に東の土地の直領を放棄し、すべてそれらの地域の渠帥 かしら を縣侯に封じると、皆が歲や季節ごとに祝賀のために来朝するようになった。

 大君長はおらず、その国の官には『侯』『邑君』『三老』がある。古老がかつて自ら言っていたことには、高句驪と同じ種族であり、言語や法、習俗は大抵が互いに似通っているとのことである。その国の人の性格は愚かしくも素直であり、欲望は少なく、頼み事や物乞いをしない。男も女もどちらも曲領を着用する。その国の習俗では山と川を重んじ、山川はそれぞれの部ごとの境界にあり、妄りに互いの干涉をしない。同姓は婚姻しない。大多数に忌諱されていることは、疾病と死亡であり、そうなれば旧宅を放棄し、改めて新居を造る。麻の栽培や養蚕、綿布を作ることを知っている。夜明けの星宿を観測し、その歳が豊作となるか、そうではないかを予知する。常に十月に天を祭り、昼も夜も酒を飲んで歌を歌い舞を踊る。この名を『舞天』という。また、虎を祠に祭って神とする。邑落では互いに侵犯した者があれば、そこで互いに罰し合い、生口や牛馬を賠償させる。この名を『責禍』という。人を殺した者は死をもって償う。盗みや外に出ての掠奪は少ない。徒歩での戦いが得意で、長さ三丈(約9m)の矛を作り、ある時には数人が共同でそれを持つ。楽浪の檀弓はその国の地から産出されたものだ。また、文豹が多く、果下馬がいて、海は班魚を産出し、使者が来ると皆がそれを献上する。

注記
(※1)高句驪
 夫餘国から分化したとされる国家。ここでは詳細は濊とも同族であるとの説が述べられている。この国についての詳細は、後漢書高句麗伝を参照。

(※2)沃沮
 朝鮮半島北部から中部の東方に在居する部族。いくつかに集団が分散しており、北沃沮や東沃沮などがある。詳細は後漢書東沃沮伝を参照。

(※3)辰韓
 三韓のひとつ。三国史記において最初に挙がる国家『新羅』は、この辰韓の属地だったとされる。三韓についての詳細は、後漢書東三韓伝を参照。

(※4)楽浪
 前漢武帝が朝鮮半島北部に設置した郡。設置経緯について詳しくは、史記朝鮮伝を参照。

(※5)朝鮮
 朝鮮と言えば現在は朝鮮半島を指すことが多いが、当時は朝鮮半島北部から満州地域の南部付近を指す。朝鮮半島の南方は主に韓と呼ばれた。ここでの朝鮮は、具体的に箕氏朝鮮を指す。箕氏朝鮮については、漢書地理志燕地条を参照。

(※6)武王
 殷王朝を打倒し、周王朝を打ち立てたが、周王に即位した後、わずか3年で死去した。

(※7)箕子
 殷王朝の最後の王であった紂王の叔父。紂王の暴政を諫めて怒りにふれ、奴隷の身分に落とされたが、狂人のふりをして逃れ、亡命したという逸話がある。後に殷が打倒されてから代わりに立った周王朝から賢者として認められ、朝鮮の地を任されたとされる。論語微子篇にも名が登場し、滅びゆく殷王朝にいた三人の仁者(三仁)のひとりとして孔子が讃えたことが記される。

(※8)『八条の教』
 他に「犯禁八条」「八条の禁」などの表記がある。朝鮮に赴いた際に箕子が定めたとされる法令。民衆にわかりやすいシンプルな法令であることが評価される。

(※9)燕、斉、趙
 いずれも周王朝の時代に存在し、国君が自治権を有した封国。周の滅亡後に天下を治めた秦や漢においても名義は存在したが、かつてより中央集権制が強化され、現地の名を冠した国君に当時のような自治権はなかった。朝鮮に比較的近い地域として名が登場していると思われる。

(※10)衛満
 衛氏朝鮮の初代王。名は衛満とされているが、史記には名を満とのみ記され、衛という姓については後に付けられたものであり、おそらく正しくないと推測されている。建国の経緯については、史記朝鮮伝を参照。

(※11)濊の君の南閭等
 この人物については他にどのようなことをした人物か不明だが、二十八万人の反乱者の代表として名が挙げられている。濊は『夫租薉(濊)君(朝鮮国平壌出土)』『晋卒善穢佰長(韓国迎日郡出土)』等の印璽が広範囲に出土しており、魏志扶余伝には『濊王之印』という印璽を夫余王に授けたという記録がある等、どうにも少なくとも一時期の濊は朝鮮半島原住民における代表的な存在だったのかもしれない。

(※12)武帝
 前漢7代皇帝。

(※13)蒼海郡
 正確な位置は不明であるが、日本海側だと推測される。公孫弘によって廃止された。

(※14)楽浪、臨屯、玄菟、真番に分割して四郡を置いた
 経緯については、史記朝鮮伝を参照。

(※15)単単大領
 現在は太白山脈という。韓国と朝鮮国を縦断し、朝鮮半島の背骨ともいうべき大山脈。

(※16)東七縣
 東暆県、不耐県、蚕台県、華麗県、耶頭味県、前莫県、夫租県のこと。夫租は沃沮の異字呼称。

(※17)楽浪東部都尉
 都尉は郡の軍事を掌握する秦から前漢、新にかけて存在した官職。東部都尉は光武帝によって廃止された。経緯は後漢書東沃沮伝を参照。

(※18)大君長
 おそらく国家の統一の君主のことであろう。

(19※)星宿
 天球上の恒星、あるいはその星団を指す。

(※20)虎を祠に祭って神とする。
 虎は古代から現在に至るまで朝鮮半島において神聖視される。三国遺事に記される太古の朝鮮における神話『檀君神話』にも虎が登場する。その逸話によれば、天帝桓因の子である桓雄が訪れた洞窟の中で、虎と熊が人間になりたいと祈っていたが、そこで桓雄が二者の獣に対して、蓬とにんにくを食べて忌籠 いみごも るよう告げると、熊だけが女となり、桓雄と結婚して檀君を生んだという。ちなみに、熊は高句麗と百済の地名や人名において頻繁に登場する。高句麗始祖の朱蒙の養父である扶余王の名は金蛙(くま)であるし、百済最後の首都も熊津であり、この名を日本の万葉集では『久麻那利(くまなり)』と表記していることから、三国時代の当時は百済本国において熊津の『熊』を「くま」と読んでいたことが伺われる。また、高句麗の後裔となる高麗も日本では「こま」と読む。また、三国遺事には朱蒙を檀君の子とする異伝もある。こうした点を鑑みて想像力を逞しくしてみると、熊は貊系の民族、虎は濊系の民族を象徴し、檀君神話における熊と虎のエピソードは、朝鮮半島でのヘゲモニー争いにおいて、前者が後者に優越したことを示す逸話のようにも思える。その後も朝鮮半島では虎への信仰が盛んであり、李氏朝鮮の時代には、民間でも虎の絵を描くことが流行していた。ちなみに、かつては朝鮮半島の全土に無数の虎が生息していたが、帝国日本の統治時代に虎狩りが流行したことで激減し、現在は公的に朝鮮国(北朝鮮)の一部にしか存在していないとされている。一応、20世紀後半にもわずかながら韓国での捕獲例が存在しているものの、これも21世紀に入ってからは鳴りを潜め、現在は足跡や動物の捕食跡等の目撃例のみとなっている。

(※21)檀弓
 まゆみの木の弓。

(※22)文豹、果下馬、班魚
 文豹は模様のある豹。果下馬はカカバといい、体躯の小さい馬。ポニーの一種。果物の木の下を乗ったままで通れるから果下馬というそうである。班魚は不明。ハタだろうか? ハタは中国語で現在も『石班魚』と表記しているし、今も朝鮮半島南部ではマハタやアオハタが捕れる。日本の文章ではハモ(鱧)を班魚と漢字表記する場合があるけど、中国語では用例を見たことがない……。用例があったらご一報いただければと思います。

漢文
 濊北與高句驪、沃沮、南與辰韓接、東穷大海、西至樂浪。濊及沃沮、句驪、本皆朝鮮之地也。昔武王封箕子於朝鮮、箕子教以礼義田蠶、又制八条之教。其人终不相盗、無門户之閉。婦人貞信。飲食以籩豆。其後四十餘世、至朝鮮侯准自稱王。漢初大亂、燕、齊、趙人往避地者數萬口、而燕人衛滿擊破准、而自王朝鮮、傳國至孫右渠。元朔元年、濊君南閭等畔右渠、率二十八萬口詣遼東内屬、武帝以其地為蒼海郡、數年乃罢。至元封三年、滅朝鮮、分置樂浪、臨屯、玄菟、真番四郡。至昭帝始元五年、罢臨屯、真番、以并樂浪、玄菟。玄菟復徙居句驪。自单单大領已東、沃沮、濊貊悉屬樂浪。後以境土广遠、復分領東七縣、置樂浪東部都尉。自内屬已後、風俗稍薄、法禁亦浸多、至有六十餘条。建武六年、省都尉官、遂棄領東地、悉封其渠帥為縣侯、皆歲時朝賀。

 無大君長、其官有侯、邑君、三老。耆舊自謂與句驪同種、言語法俗大抵相类。其人性愚悫、少嗜欲、不請丐。男女皆衣曲領。其俗重山川、山川各有部界、不得妄相干涉。同姓不昏。多所忌諱、疾病死亡、輒捐棄舊宅、更造新居。知種麻、養蠶、作綿布。晓候星宿、豫知年歲丰約。常用十月祭天、昼夜飲酒歌舞、名之為舞天。又祠虎以為神。邑落有相侵犯者、輒相罰、責生口牛馬、名之為責祸。殺人者偿死。少寇盗。能步戰、作矛長三丈、或數人共持之。樂浪檀弓出其地。又多文豹、有果下馬、海出班魚、使來皆獻之。

其人终不相益→其人终不相盗

書き下し文
 濊は北は高句驪、沃沮と、南は辰韓と ぎ、東は大海に となり し、西は樂浪に至る。濊及び沃沮、句驪は、 もともと 皆が朝鮮の つち なり。 かつ て武王は箕子に朝鮮を さづ け、箕子は教ゆるに礼義と はたけ こがひ を以ちてし、又た八条 やつ とりきめ さだ む。其の人は终に相ひ盗まず、門户 の閉ざること無し。婦人 をみな 貞信 さだしき 飲食 をし 籩豆 たかつき を以ちてす。其の後の四十餘世、朝鮮侯の准に至りて自ら きみ なの りたり。漢の初めに大いに亂れ、燕、齊、趙の人の往きて つち を避くる者は數萬口 いくよろづたり 、而りて燕の人の衛滿は准を擊ち破り、而りて自ら朝鮮に きみ し、國を傳へて孫の右渠に至る。元朔の元年、濊の君の南閭等は右渠に そむ き、二十八萬口 ふたそあまりむつよろづたり を率ゐて遼東に いた りて内屬 うちつ き、武帝は其の つち を以ちて蒼海郡と為すも、數年 いくとし にして乃ち む。元封三年に至り、朝鮮を滅ぼし、分けて樂浪、臨屯、玄菟、真番の四郡 よつのこほり を置きたり。昭帝の始元五年に至り、臨屯、真番を め、以ちて樂浪、玄菟に并はす。玄菟は たも うつ りて句驪に ゐま す。单单大領 已東 ひがし 、沃沮、濊貊は悉く樂浪に きたり。後に境土 くに 广遠 ひろ きを以ちて、復たも東七縣を分け をさ め、樂浪東部都尉を置く。内屬 きて 已後 のち 風俗 ならひ やうや く薄まり、法禁 おきて も亦た みだ りに多し、六十餘条 むそあまり 有るに至る。建武六年、都尉の つかさ を省みて、遂に東の つち をさ むるを棄て、悉く其の渠帥 かしら さづ けて縣侯 あがたのきみ と為し、皆が歲時 としどき いは はむと みかど す。

 大君長 おほをさ 無く、其の つかさ きみ 邑君 むらぎみ 三老 みたりのとしより 有り。 としより かつ て自ら いは く、句驪と同じ うから にして、言語 ことば と法 のり ならひ 大抵 おほむ ね相ひ たり、と。其の人の さが は愚かしくも すなお にして嗜欲 ほしがる 少なし、請ひ ものご ふにあらず。男女 をめ いづ れも曲領を ゆ。其の ならひ は山川を重じ、山川は おのおの こほり さかひ に有り、妄りに相ひ干涉 たちいり を得ず。同じ かばね くがなひ せず。多く忌諱 まるる所は、疾病 やまひ 死亡 すなは ふる いへ 捐棄 て、 あらた に新居を造る。種麻 あさうゑ 養蠶 こがひ 綿布 ぬの を作るを知る。 あかつき 星宿 ほし うかが ひ、豫め年歲 とし の丰 ゆたか まづしき を知る。常に十月を用ちて あめ を祭り、昼も夜も酒を飲み歌ひ舞ひ、之れを名づけて舞天と為す。又た虎を まつ りて以ちて神と為す。邑落 むら は相ひ侵犯 をか す者有らば、輒ち相ひ とが め、生口や牛馬を もと め、之れを名づけて責祸と為す。人を殺す者は死に つぐな ふ。寇盗 ぬすみ は少なし。能く步き戰ひ、矛を作ること長さ三丈 みたけ あるもの 數人 いくたり にして共に之れを持つ。樂浪の檀弓は其の つち より出づ。又た文豹多く、果下馬有り、海は班魚 まだらうを を出し、使 つかひ は來たらば皆が之れを たてまつ る。



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