妲己伝
酒池肉林
現代語訳
妲己とは、殷紂王の
漢文
妲己者、殷紂之妃也。嬖幸於紂。紂材力過人、手格猛獸、智足以距諫、辯足以飾非、矜人臣以能、高天下以聲、以為人皆出己之下、好酒淫樂、不離妲己、妲己之所譽貴之、妲己之所憎誅之。作新淫之聲、北鄙之舞、靡靡之樂、收珍物、積之於後宮、諛臣群女咸獲所欲、積糟為邱、流酒為池、懸肉為林、使人裸形相逐其閒、為長夜之飲、妲己好之。
書き下し文
妲己なる者、殷紂の
余説
妲己は末喜、褎姒ら他の「傾国の美女」と比べても特に有名で、悪女の象徴とされる人物であり、日本でも玉藻の前伝説など民話や伝説において、九尾の狐が化けたものとしてその名が登場する。
配偶者の紂王は殷朝最後の王。
ここで描写される紂王の能力を一言で表現するなら、過剰である。そして、ここに儒教の中庸の思想が表れている。素手で猛獣を殺すような腕力は王に必要ない。そして、頭が回り過ぎる者は往々にして言い訳や反論が上手くなり、謙虚に自らの誤りを認められなくなる。王は人々との繋ぎ役であり、人に頼るのが仕事と言っていいが、過ぎたる能力は人の有り難みを忘れさせ、傲慢にさせる。
孔子の弟子においても、腕っぷしはあるが蛮勇を好む子路、知恵は回るが知に逸り過ぎる子貢のような弟子より、ともすれば愚とも評価されながらも、仁心を離さない顔回が一番弟子であった。また論語には「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という有名な語も登場し、四書五経のひとつ、中庸には「知者の之れに過ぎ、愚者は及ばざるなり。」という孔子の言葉も登場する。
それにしても、「智は以ちて諫むるを距むに足り、
先ほど挙げた孔子の弟子の子貢もそういった傾向があったが、それを自ら戒めたがゆえに顔回、子路に次ぐ高弟となった。私も及ばずともそれに近づきたいものである。ちなみに子貢と同じく弁舌と知に優れるも、それに恃むばかりで知を超えた徳を疎かにしたとされる宰我は悪弟の代表として歴史に名を残した。
力と知は、いずれも能でしかなく、徳ではない。徳が伴わなければ、知も力も害毒でしかなく、徳があれば知も力もなくとも尊い。それが儒の思想である。
贅沢の描写は末喜と似ているが、こちらの方が具体的である。末喜の記事に書いたが、おそらくは妲己の贅沢描写を引き写したのが末喜伝の描写だと思われる。ゆえに、こちらが本来であろう。
この章句に「酒を流して池と為し、肉を懸けては林と為す」とあるが、これが酒池肉林の語源である。改めて見てみれば、なんともスケールの大きい贅沢ではないか。これが妲己と紂王を貶めるための虚構であるとの説もあるが、ならばこのイマジネーションが素晴らしい。妲己伝には、このようなイメージを想起させる描写が多く、文章が豊かである。
禍至無日
現代語訳
百姓は怨望し、諸侯にも反乱を起こすものが現れると、紂王はそこで炮烙の法を定めた。銅の柱に
漢文
百姓怨望、諸侯有畔者、紂乃為炮烙之法、膏銅柱、加之炭、令有罪者行其上、輒墮炭中、妲己乃笑。比干諫曰、不脩先王之典法、而用婦言、禍至無日。紂怒、以為妖言。妲己曰、吾聞聖人之心有七竅。於是剖心而觀之。囚箕子、微子去之。
書き下し文
余説
前章は紂王を中心とした暴政の描写であったが、ここでは妲己の残虐性に焦点を当てた描写がされる。
前半は有名な炮烙。全身が火だるまになり、やがて消し炭となる人間を指さして笑う美女というシチュエーション。
後半は有名な比干の諫言。男の胸を切り裂き、返り血を浴びる美女。自らの手を血に染めながら心臓を掴み取り、それを取り出す。鮮血の吹き出す心臓と血の伝う手。それを眺める美女。このイメージは、背徳的かつ官能的である。
致天之罰
現代語訳
武王は遂に天命を受け、軍隊を起こして紂王を討伐し、牧野での戦争では、紂王の軍隊は戈を逆に向けた。紂王はこうして廩台に登り、宝玉の衣服を身につけたまま自殺した。そこで武王は遂に天罰を致し、妲己の頭を斬り、小さな白旗に懸け、紂王を滅ぼしたのは、まさしくこの女であると考えた。書経には「牝鶏は夜明けに鳴くことがない。牝鶏が夜明けに鳴くとき、それは家の滅亡である。」とあり、詩経に「君子が盗を信じること、乱世はこれによって暴起するのだ! そこで供養をやめないこと、これこそ王の病理である。」と云うが、それはこのことを謂うのだ。
漢文
武王遂受命、興師伐紂、戰于牧野、紂師倒戈、紂乃登廩臺、衣寶玉衣而自殺。於是武王遂致天之罰、斬妲己頭、懸於小白旗、以為亡紂者是女也。書曰、牝雞無晨、牝雞之晨、惟家之索。詩云、君子信盜、亂是用暴、匪其止共、維王之邛。此之謂也。
書き下し文
武王は遂に
余説
殷王朝の次の王朝、周王朝を開いた武王が紂王を倒すまで。戦闘描写は前回の末喜伝と構文がほぼ同じである。
前項での比干の諫言は女性差別的で受け入れがたいものがあったし、ここでも武王は紂王の暴虐の原因を妲己に押し付けており、末喜伝に続いて、いよいよ女性差別も極まった感がある。ここで引用される「牝雞に
この過程の裏には、夏から殷、殷から周への王朝交代により、男性的社会が徐々に確立し、強化される過程が象徴されているようにも見える。殷王朝は元来、太陽神を祭る農耕民の祭祀王であったが、甲骨文の記録によれば、徐々に生け贄の儀式が衰退しており、一説によれば、紂王は生け贄の儀式を禁止し、明確な法を定めた王であったとも言われている。炮烙の法もその一種である、とも。
日本で言えば卑弥呼などを見ての通り、古の呪術社会では女性が王となることが珍しくない。呪術社会から理性主義的社会へと変化していった時代であったからこそ、このような女性を政治から排除する風潮が出来上がっていったのではないだろうか。
周王朝では遊牧民の頭領である戦士が王となった。そこでは祭祀国家の色彩は廃れ、更に周末期に孔子が大成した儒教は「怪力乱神を語らず」の男性的理性思想、軍事国家として完成し、1000年後の朱子学では更に理性主義的傾向が甚だしくなる。
頌
現代語訳
頌には次のように歌われている。
妲己配紂 | 妲己は紂に | 妲己が紂王と結婚すると、 | ||
惑亂是脩 | 惑乱はいよいよ長きに至った。 | |||
紂既無道 | 紂は既に道無くも、 | とっくに無道であった紂王も、 | ||
又重相謬 | 又た相ひ | 更なる過ちを互いに重ね合う。 | ||
指笑炮炙 | 指さして | 炮烙によって火あぶりにされた者を指さして笑い、 | ||
諫士刳囚 | 諫むる | 諫める人士も心臓を割き出されるか収容されるか…… | ||
遂敗牧野 | 遂に牧野に敗れ、 | こうして牧野の戦いに敗れ、 | ||
反商為周 | 商を | 商を転じて周となった。 |
漢文
頌曰、妲己配紂、惑亂是脩、紂既無道、又重相謬、指笑炮炙、諫士刳囚、遂敗牧野、反商為周。
書き下し文
頌に曰く、妲己は紂に
余説
前回の末喜伝とよく似た頌。妲己と紂王の運命の出会いから最期までを描いている。酷い顛末であるが。
総論
さて、この伝で妲己は徹底的に悪女として描かれている。「徹底的に悪として描かれている」のであれば、末喜も同様であるが、妲己は「徹底的に悪"女"」として描かれているのだ。
末喜は「女性としての女性らしさを踏み外した」と評価されており、そのように描かれているが、妲己伝の描写は「女性が女性として為す悪」として描かれており、それが一貫している。この伝の教訓と意図するものは、「女は妲己のようであるな。男は妲己のような女を斥けよ」であろう。
しかし、本文に描かれているものは男性が暗に女性へ求めている性質ではないだろうか? 無意識のうちに男性には紂王のようになることを望んでいるところがあるのではないか。求めているからこそ、男は妲己に惹かれ、ゆえに妲己を斥けよと警告するのではないか。初めからこのような女に男が惹かれないなら、警告する必要がないはずだからだ。
恋愛を絶対化する文句として俗に「世界のすべてを敵に回してでも、君を愛し続ける」といった言い回しが用いられることがある。紂王はまさに世界のすべてを敵に回して女に尽くした。これは間違いなく、一途で純粋な恋愛であると言えよう。
紂王は有り余る才能すべてを一人の女に注ぎ、他のなにも顧みることはなく、すべてを失えば高台から炎の中に身を投げて自ら命を絶った。妲己は首を切られて旗の頭に掲げられた。類い稀なる知と力を有した祭祀王が煌びやかな衣装を身に纏ったまま高台から炎に身を投げる姿、血に塗れた絶世の美女が首を斬られて旗に掲げられ晒し者にされる姿、それはマゾヒズムとサディズムの入り混じる淫猥な破滅の美がある。焼け焦げる人を指差して笑う姿や比干の心臓を抉り取る姿が表現するものは、ただ残虐と暴虐の記録のみではなく、退廃を伴った女性のエロティシズムであろう。
冒頭で述べた通り、妲己は後世において悪女の代名詞であるとともに、美女の代名詞でもあり、背徳の感情とともに讃辞として比喩的に用いられる人物となった。妲己の容姿は後世に伝わっておらず、言語による伝説だけが伝わっているのだ。つまり妲己と紂王の物語そのものに惹かれていないと、このような認識は生まれないはずである。ここに描かれているのは男性が女性に持つ恐怖と背徳の欲望であり、世の男性が妲己と紂王の関係に知らず知らずに惹かれるが故に妲己は美女の象徴として人気を博しているのではないだろうか。
女性の象徴として執拗に紂王の悪事を妲己の責任に転嫁する本伝であるが、これは男性による女性恐怖の裏返しであろう。こうした悪女の描写は、男性がいかなる女性を求めているが故に女性を恐れているか、その自らの欲望を反映しているのだ。