褒姒伝

褒之二君

現代語訳

 褒姒は、童妾 はしため の娘にして周幽王の きさき であった。事の始まりは、夏が衰退した時のこと、褒人の神が二頭の龍に化け、王庭に集い、「余は褒国の二君である」と言った。夏の后はこれを殺すべきか逃がすべきかを うらな ってみたが吉とは出なかった。 うらない では、「その よだれ を貰えるようにお願いし、それを保管しておけば吉である」といい、そこでそれを布に包みこんで神前に捧げると、龍は忽然と姿を消し、その後は よだれ を柩の中に保管し、そのままこれを郊野に置いたままにしておいた。周代に至るまで、わざわざ開こうとする者はいなかったが、周の厲王の末期になり、それを開いて見てみると、 よだれ が庭に流れ、取り除くことができなくなってしまった。王は婦人を裸にして、その周囲で騒がせてみると、 くろ いもり に化けて後宮に入り、それに遭遇した宮の童妾 はしため が、処女のまま既笄(十五歳)にして孕み、宣王の当時に出産したが、夫もないのに乳が出て、怖くなってその子を棄ててしまった。それ以前から童謡に「山桑の弓と竹の箙、これこそが周国を滅亡させる」と歌われており、それを宣王は聞いていた。その後、弓と竹の箙を見せ売りする夫婦が現れたので、王が人を使わせて、彼らを捕まえて殺させることにした。夫婦が夜逃げしていると、童妾 はしため から棄てられて夜泣きしているのが耳に入り、その子を哀れんで拾ってそのまま褒国まで逃げ延びた。美しく人に好まれる容姿に成長したが、褒人の姁が獄に入れられると、彼女を献上して贖罪としたので、幽王は彼女を受け取って妻にめとった。こうして褒姁を釈放し、故に褒姒と よびな した。


漢文

 褎姒者、童妾之女、周幽王之后也。初、夏之衰也、褎人之神化為二龍、同於王庭而言曰、余、褒之二君也。夏后卜殺之與去、莫吉。卜請其漦藏之而吉、乃布幣焉。龍忽不見、而藏漦櫝中、乃置之郊、至周、莫之敢發也。及周厲王之末、發而觀之、漦流於庭、不可除也。王使婦人裸而譟之、化為玄蚖、入後宮、宮之童妾未毀而遭之、既笄而孕、當宣王之時產。無夫而乳、懼而棄之。先是有童謠曰、檿弧箕服、寔亡周國。宣王聞之。後有人夫妻賣览弧箕服之器者、王使執而戮之、夫妻夜逃、聞童妾遭棄而夜號、哀而取之、遂竄於褒。長而美好、褎人姁有獄、獻之以贖、幽王受而嬖之、遂釋褒姁、故號曰褎姒。

書き下し文

 褎姒なる者、童妾 はしため むすめ にして周の幽王の きさき なり。初め、夏の衰ゆるや、褎の人の神は化けて ふたつ の龍と為り、 きみ の庭に同じくして言ひて曰く、余は褒の ふたり の君なり、と。夏の きみ は之れを殺さむと去らしめむとを うらな ふも、 よろ しきこと莫し。 うらなひ に其の よだれ を請ひて之れを かく れば すなは よろ しとし、乃ち焉れを布幣 みてぐら す。龍は たちま あらは れず、 しか りて よだれ はこ うち かく り、乃ち之れを まちはずれ に置かば、周に至り、之れ敢て ひら くもの莫きなり。周の厲王の末に及び、 ひら きて之れを觀れば、 よだれ は庭に流れ、除く可からざるなり。 きみ 婦人 をみな 使 て裸せしめ、 すなは ち之れに さは がせしむれば、化けて くろ いもり と為り、後宮に入り、宮の童妾 はしため 未毀 をとめ まま に之れに遭ひ、既に かむざし にして孕み、當に宣王の時に產む。夫無くして ちち し、懼れて之れを棄つ。是れより先づ童謠有りて曰く、檿 やまぐは ゆみ たけ えびら は、寔れ周の國を亡さむ、と。宣王は之れを聞く。後に人有り夫妻 めをと ゆみ たけ えびら もの を賣り みせ たる者、王の使 つかひ は執りて之れを ころ さむとすれば、夫妻 めをと は夜に逃げ、童妾 はしため の棄つるに遭ひて夜に きたるを聞き、哀れみて之れを取り、遂に褒に のが るる。 けて美好 うるは しき、褎の人の姁に ひとや 有り、之れを たてまつ りて以ちて あがな ひ、幽王は受けて之れを めと り、遂に褒姁を はな ち、故に びて褎姒と曰ふ。


余説

 これは歴史以前の伝説。そして怪力乱神の物語である。エロであり、またグロである。

 おそらく、この龍の"よだれ"というのは精液のメタファーだろう。既笄とは十五歳でかんざしのような髪飾りをつける儀式を終えた後の女性のことで、当時における成人の証である。

 この伝説がどういった歴史的事実を意味するのかは判然としない。母親が童女の頃のエピソードなど、これらの背景にいろいろと想像を巡らせることはできるが、蓋然性の高い仮説を立てるのは困難だと感じる。女の裸踊りは、なんらかの呪術だろうか。

 それはさておき、この伝説をそのまま読むと、褎姒は龍を父として、処女懐胎から生まれた孤児ということになる。まるで神話の神や物語の主人公のように思われるが、この伝は悪女の伝であるから、当然ながら褒姒も悪女として批難される存在である。

 さて、ここまで褒姒の生涯は受難ばかりである。親に棄てられ、育ちの国は周に滅ぼされ、王に人質として妻にされてしまった。では、褒姒はいかなる悪女となるのだろうか。それを次節で確認しよう。

一笑傾国

現代語訳

 息子の伯服を生むと、幽王はすぐに きさき の申侯の娘を廃し、そして褒姒を きさき に立て、太子の宜咎を廃して伯服を太子に立てた。幽王は褒姒に惑溺し、出入りも彼女と一緒で、車にも一緒に乗り、国政を気にかけることなく、季節もなくいつも車で駆けまわって弋を振り回して狩りをした。褒姒の こころ に適おうとしたからである。酒を飲んではいつまでも耽溺し、芸人を御前に置き、夜から始めて昼まで続けた。褒姒は笑わなかった。幽王はそこで彼女を笑わせたいと思い、あらゆる手段を講じてみたが、まったく笑わなかった。幽王は烽燧と太鼓をつくり、寇賊が来襲すれば掲げるようにしていたが、すべての諸侯が来たが寇賊が現れず、褒姒はそこで大いに笑った。それを悦ばせようと思った幽王は、頻繁に烽火を掲げるようになり、それからというもの信用されなくなって、諸侯は来なくなった。忠心とともに諌言する者は誅殺されていたので、褒姒の言葉だけしかなく、それに従うしかなくなった。上位の者も下位の者も互いに相手の機嫌を取れるようなことを言い合うだけになり、百姓は乖離した。申侯はそこで繒、西夷、犬戎と共に幽王を攻め、幽王は烽燧を掲げて兵を召喚したが、来る者はいなかった。こうして幽王を驪山の下にて殺し、褒姒を捕虜にし、あらゆる周の貨賂を取り上げて立ち去った。そこで諸侯はすぐに申侯につき、そのまま共同でかつての太子の宜咎を立てた。これが平王である。これ以後の周は諸侯と差異がない。詩に、「太陽のように真っ赤に輝く宗主国たる周、これを褒姒が滅ぼしたのだ」というのは、このことを謂うのだ。


漢文

 既生子伯服、幽王乃廢后申侯之女、而立褎姒為后、廢太子宜咎而立伯服為太子。幽王惑於褎姒、出入與之同乘、不卹國事、驅馳弋獵不時、以適褎姒之意。飲酒流湎、倡優在前、以夜續晝。褎姒不笑、幽王乃欲其笑、萬端、故不笑、幽王為烽燧大鼓、有寇至、則舉、諸侯悉至而無寇、褎姒乃大笑。幽王欲悅之、數為舉烽火、其後不信、諸侯不至。忠諫者誅、唯褒姒言是從。上下相諛、百姓乖離、申侯乃與繒西夷犬戎共攻幽王、幽王舉烽燧徵兵、莫至、遂殺幽王於驪山之下、虜褒姒、盡取周賂而去。於是諸侯乃即申侯、而共立故太子宜咎、是為平王。自是之後、周與諸侯無異。詩曰、赫赫宗周、褎姒滅之。此之謂也。

書き下し文

 既に子の伯服を生み、幽王は乃ち きさき の申侯の むすめ め、而して褎姒を立て きさき と為し、太子 みこ の宜咎を めて伯服を立て太子 みこ と為す。幽王は褎姒に惑ひ、出入 でいり は之れと とも にして くるま も同じくし、國の事に こころ せず、驅馳 せて弋獵 るに時なし、以ちて褎姒の こころ に適はむとす。酒を飲みて流れ こぼ し、倡優 わざおぎ は前に在り、夜を以ちて晝に續く。褎姒は笑はず、幽王は すなは ち其の笑ひを もと め、 みち よろづ するも、故に笑はず、幽王は烽燧 ほあかり 大鼓 おほづつみ つく り、 あた の至る有らば、則ち舉げ、諸侯 もろきみ の悉く至りて あた 無からば、褎姒は乃ち大いに笑ふ。幽王は之れを よろこ ばせしめむと おも ひ、 しばしば 烽火 ほあかり を舉ぐるを為し、其の後に まこと とせず、諸侯 もろぎみ は至らじ。 まこと に諫むる者は に、唯だ褒姒のみ ことば して是れ從ふ。 かみ しも も相ひ へつら ひ、百姓 たみ 乖離 はな れ、申侯は乃ち繒、西夷、犬戎と共に幽王を攻め、幽王は烽燧 ほあかり を舉げて いくさ すも至るもの莫く、遂に幽王を驪山の下に殺し、褒姒を虜にし、 ことごと く周の たから を取りて去りぬ。是に於いて諸侯 もろぎみ は乃ち申侯に き、而りて共に かつ ての太子 みこ の宜咎を立て、是れ平王と為す。是れ りが後、周と諸侯 もろぎみ に異なること無し。詩に曰く、赫赫たる宗周、褎姒は之れを滅ぼしたらむ、と。此れ之の謂ひなり。


余説

 幽王は紂王や桀王と同様、褒姒と共に贅沢の限りを尽くし、そのご機嫌を伺っているが、末喜や妲己との大きな違いは、褒姒がまったく贅沢など望んでおらず、それを楽しんでいないことであろう。褒姒は狼煙と太鼓にあわてふためく諸侯を見たときのみ笑った。これは王の作為でなく、偶発的な事象である。

 これまでの褒姒の受難、その波乱の生涯を見れば、幽王にまったく心を開くことができなかったのは当然のように思われるし、そもそも人など信用できなかったのではないだろうか。本文の記述では、「忠心とともに諌言する者は誅殺されていたので、褒姒の言葉だけしかなく、それに従うしかなくなった。」の部分が唯一、褒姒が積極的に政治に口を出して悪を為したようにも読み取ることができるものの、これまでの彼女の態度を見るに、どうにも唐突の感が否めない。また、この記述は列女伝より前に編纂された褒姒に関する史料、たとえば国語や史記等の史書には一切見られないものである。恐らくは末喜や妲己の記述と平仄を合わせるために附託された部分であろう。

 親に不気味がられて棄てられ、養父母を得て他国に育つも、その故郷は祖国に攻め滅ぼされ、故郷の人には人質として差し出され、故郷を焼いた王の元に嫁がされた。その後、王のつまらない遊びに付き合わされ、ついに侵略者に誘拐されて姿を消した。褒姒の人生とはなんだったのか。ここまでの悲運に見舞われ、その上どうして悪女の汚名まで着せられねばならないのか。

現代語訳

 頌には次のようにある。褒国の神の龍は変化し、そこで褒姒が生まれた。引き合わされて幽王に配偶し、 きさき と太子が廃された。烽火を掲げて兵を呼びつけ、寇賊が来なかったことを笑うと、申侯が周を討伐し、果たしてその祭祀は滅ぼされた。


漢文

 頌曰、褎神龍變,寔生褎姒,興配幽王,廢后太子,舉烽致兵,笑寇不至,申侯伐周,果滅其祀。

書き下し文

 頌に曰く、褎の神の龍は變はり、寔に褎姒を生み、興きて幽王に めあ ひ、 きさき 太子 みこ め、 ほあかり を舉げて いくさ を致し、 あた の至らざるを笑ひ、申侯は周を伐ち、果たして其の まつり を滅ぼす。


余説

 先ほど述べた通り、前半生の褒姒の記述は極めて迷信的であり、その実態はよくわからない。しかしながら、本書の記述から察するに、幽王が暗君と評せられる所以は、寵愛した女のために長子や后の序列を無視し、諸侯のパワーバランスを顧みなかったことで外戚の不満を暴発させ、亡国を招いたことであり、そのために褒姒も批判されることになったのではないかと思われる。

 さて、それとは別に本文における褒姒の事跡についての記述を確認してみよう。これまで孽嬖伝では、女でありながら政治に口を出したとして批難された末喜、女の美貌で王をたぶらかし贅と虐の限りを尽くしたとして筆誅を加えられた妲己を紹介したが、今回の褒姒のしたことといえば、ただ笑っただけである。

 末喜や妲己ら、これまで悪女の名を着せられた人々と比較しても、褒姒は明らかに理不尽な理由で悪女の名を着せられているではないか。彼女の自発的な行為は何もない。ただ笑っただけである。もちろん、「何もしなかったことが悪」という意味でもないだろう。列女伝 孽嬖第七 末喜の通り、本書の価値観からすれば、むしろ下手に幽王へ諫言でもした方が「女の分際で政治に口を出した」とでも批難を浴びせられるかもしれないのだ。

 これまでも女性差別は甚だしい内容であったが、悪女とされる所以は当人の行為に対する責任であった。しかし、今回ばかりは好きな女を笑顔にするためなら真夜中に大砲をぶっ放して国中を慌てふかめしてでも好き放題するという幽王の問題であって、なぜ褒姒が周王朝を滅ぼした悪女ということになるのか。

 これは女の魅力が男と暴力と同質な強制力であると、少なくともそのような認識が存在することに思いが至れば理解できるものである。

 イスラーム世界におけるブルカやヒジャブは、「女が(望む望まないに関わらず)男を惹き付ける力がある」という認識から生じたものであるし、仏教において女人を穢れとして斥ける思想も、こうした認識に起因する。それは男の有する身体的な暴力性が、行使されずとも女に恐怖を与えるのと同じである。

 さて、バッハオーフェンが論じ、エンゲルスが支持したことで、マルクス主義の世界的な流行とともに歴史観として正当性を得た原始母権社会論には多くの批判もあるが、家父長制の確立以前は女性の地位が高かったとする説は未だ根強い支持がある。実際、世界史を見渡せば、旧くは女性の権力が決して低くなかった文明が、その進歩とともに家父長制に基づく普遍主義を確立させ、男権主義に収斂するケースは珍しくない。中華圏の歴史も、その一類型であり、今回紹介した列女伝の記述も、その流れにあるものではないかと考えられる。

 ここまで孽嬖伝において女性は、まず女性が男性のような態度や地位に上ることが悪とされ、次に女性が女性として行動することが悪とされ、ついに女性が女性であること自体が悪とされることになった。この裏にあるのは、男性理性への信奉であり、それを乱す女性という存在への嫌悪であるに違いない。

 男性が恐れる女性の魅力とは、言質や実質的な行為に依らず男性に忖度させ、責任の自らに及ばぬように行為主体を男性に委ねる、理性の外にある一種の魔術である。主体的な理性に基づく行為を絶対視し、責任に由来して物事の是非を判断することこそが、女性を排斥することで構築された男性社会の原理であることは、これまでの三章で段階的に述べてきた。それに反する女性の性質が魔術である。

 さて、こうした男性中心主義、理性主義に基づいた認識が存在することを前提とした上で、敢えて逆に考えてみよう。さにあればこそ、むしろ「褒姒はなにもしていない」という擁護は、実は男性原理に基づいた理性主義的な思考で、女性を周縁化させる認識ではないか。これは男性原理の批判が男性原理の上書きによって為されているだけだとも言える。

 たとえば紂王を誑かして贅の限りを尽くした妲己などもそうであるが、もしかしたら凡庸な幽王よりも褒姒こそ強力な魔術師だったとも捉えられるのではないか。ここで敢えて、褒姒の願望が幽王の行為に投影され、その後の動向はそれが世界に現出した結果であるとしてこの物語を解釈してみよう。

 褒姒の生涯は理不尽な苦難の連続である。人ならぬものとの間に生まれ、赤子の頃に母親から捨てられた。育った故郷の君主を捕らえたのは夫の幽王であり、生活を奪われた褒姒が王を怨むのは道理である。同時に自らの安寧のため、褒姒を幽王に売り渡したのは故郷褒国の君主である。故郷と侵略者の何れをも怨む心情が褒姒には芽生える

 もはや褒姒は、世界のすべてに失望していたのではないか。人間世界において最も神聖な王の傍にいながら、むしろ王の傍にいるからこそ、この世界には希望も存在しない。最悪の形で、女性としてこれ以上ない地位に在することができたのだ。この上なき地位に失意と共に上ることになったのが褒姒である。

 こうなれば、希望はただひとつ。世界の破滅である。褒姒は世界の破壊を望んだ。自らが亡ぼうとも、世界のすべてを亡ぼそうとした。まさに桀王の暴政に苛まれる民衆の歌にある「あの燦然と輝く太陽はいつ亡びるのだ! 私もお前も、皆すべてが亡んでしまえばいい!(この日いつか喪びぬ。予と汝、皆亡びむ。時日曷喪、予及汝皆亡。)」という心境である。

 中華世界においては、人間の世界を統べるのが王である。ゆえに、その治外にある異民族は現世ならぬ人外魔境の住人であり、この論理に基づけば一種の「魔界の住人」である。中華世界の人々もまた、王を失えば人ならぬ魔族と化すとも考えられ得る。ゆえに褒姒は人間世界を混乱に陥れ、魔界から『魔族』を呼び出し、王を殺し、以後、秦の天下統一まで550年、中華世界に戦乱の災禍を齎した。たとえ自らが魔族の手によって魔界に連れ去られようとも。

 これは褒姒が主体的に遂行した行為ではない。すべては周囲の人々が勝手にしたことである。そのはずである。これは論理にしてみれば妄想であり、魔術の存在を認めないのであれば、この主体を褒姒として書くのはおかしい。しかし、これらの騒動は中心に褒姒が確実に存在しており、その動機もある。これだけは事実である。

 そして、褒姒を悪女とする「一笑傾国」という評価は、このような「妄想」に基づいた思考を根拠としなくては成立しない。この仮説を妄想であると断じることは、褒姒を悪女とする根拠を妄想であると断じることである。褒姒を悪女と評することこそが、褒姒に対する世界の仕打ちを認めるものになるのだ。

 このように考えてみれば、文明において男性中心主義が発展するに従い、却って男性が女性への不信と恐怖を一層強めていった所以が鮮明となる。男は女を抑えることで女への恐怖を強め、ますます女を抑えることになった。しかしながら、そのようにして抑え込み、棺に納められた呪いは、時を経て外に流れ出す。

 末喜より更に以前、夏王朝の中期に現れた龍が名乗ったのは「褒の二君」である。二君とは王と后の二者を併せた呼び名であり、古の時代、男女はともに君主として並び立っていた。

 本文において夏王朝の時代の王には「后」の字が充てられている。もともと『后』の字は、祭祀と軍事を司っていた太古の女性を字源とし、その後は男女の別なく君主の意として用いられるようになった。ところが男権優位の社会に移行するとともに王に仕える后(きさき)の意味に変化した。夏王朝の王室を指して『夏后氏』と呼ぶのは論語等にも見られる通例であるから、ここで后の字が用いられたことは一種の偶然である。しかし、これは意味深長な偶然と言わねばなるまい。

 褒姒を生み出した二龍とは、男女が位を同じくしていた時代、その忘れられた記憶ではなかっただろうか。

底本

列女傳- 中國哲學書電子化計劃