孟武伯問孝章

漢文

 孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂。


書き下し文

 孟武伯は孝を問ふ。子の のりたまは く、父母 かぞいろ は唯だ其の やまひ のみ之れ憂ふのみ。

集解

漢文

 馬曰、武伯、懿子之子仲孫彘。武、謚也。言孝子不妄為非、唯疾病然後使父母憂。


書き下し文

 馬曰く、武伯は、懿子の むすこ の仲孫彘たり。武は おくりな なり。言へらくは孝子は妄りに非を為すことなし、唯だ疾病 みて然る後に父母 かぞいろ 使 て憂ひせしむるのみ、と。

現代語訳

 馬氏はいう。武伯とは、懿子の息子の仲孫彘である。武は おくりな である。孝子は妄りに非を為さないが、疾病を患うことでのみ、父母を心配させると言っているのだ。

 孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂。

漢文

 疏、孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂。
○正義曰、此章言孝子不妄為非也。武伯、懿子之仲孫彘也、問於夫子為孝之道。夫子荅之曰、子事父母、唯其疾病然後可使父母憂之、疾病之外、不得妄為非法、貽憂於父母也。


書き下し文

  おぎなひ 、孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂。
○正しき ことはり に曰く、此の ふみ の言へらくは、孝子 おやおもひのこ は妄りに非を為すことあらざることなり。武伯は懿子の仲孫彘なり、夫子に孝の道を為すことを問ふ。夫子 うし は之れに荅へて曰く、子の父母 かぞいろ に事ふるは、唯だ其れ疾病 みて然る後に父母 かぞいろ 使 て之れを憂へせしむる可くも、疾病 やまひ ほか は、妄りに法に そむく を為して憂ひを父母 かぞいろ のこ すこと得ざるなり。


現代語訳

○正義(正統な釈義)は次のとおりである。
 この章では、孝子は妄りに非を為すことがないと言っているのだ。武伯は懿子の仲孫彘である。夫子が孝の道を為すことについて質問した。夫子はそれに答えて言った。「子が父母に仕えるにあたって、自らが疾病を患うことで父母にそのことを心配させることはあっても、疾病以外のことでは、妄りに法に背いて父母に心配を残すことはあり得ないことである。

 馬曰至父母憂

漢文

○注、馬曰至父母憂。 ○正義曰、案春秋、懿子以哀十四年卒、而武伯嗣。哀公十七年左傳曰、公會齊侯於蒙、孟武伯相。武伯問於高柴曰、諸侯盟、誰執牛耳。季羔曰、鄫衍之役、吳公子姑曹。發陽之役、衞石魋。武伯曰、然則彘也。是武伯為懿子之子仲孫彘也。謚法、剛強直理曰武。


書き下し文

○注、馬曰 ないし 父母憂。 ○正しき ことはり に曰く、春秋を かむがみ れば、懿子は哀十四年を以ちて に、而りて武伯は げり。哀公十七年の左傳に曰く、公は齊侯に蒙に於いて會ひ、孟武伯は相たり。武伯は高柴に問ひて曰く、諸侯 もろぎみ ちかひ 、誰をか牛耳を執らむ、と。季羔曰く、鄫衍の役、吳の公子の姑曹たり。發陽の役、衞の石魋たり、と。武伯曰く、然らば則ち彘なり、と。是に武伯は懿子の子の仲孫彘 るなり。謚法は、剛強 つはもの にして ことはり に直しきは たける と曰ふ。


現代語訳

○正義(正統な釈義)は次のとおりである。
 春秋を確認してみると、懿子は哀十四年に卒去し、武伯が後を継いでいる。哀公十七年の左伝には次のようにある。公は斉侯と蒙で面会し、孟武伯は相であった。武伯は高柴に質問した。諸侯の会盟では、誰が牛耳を執るのだ?」季羔は言った。「鄫衍の役では、呉の公子の姑曹でした。発陽の役では、衛の石魋でした。」武伯は言った。「それなら わたし がしよう。」このように武伯は懿子の息子の仲孫彘なのだ。謚法では、剛強で ことわり にまっすぐなのが『武』である。

底本

論語注疏- 中國哲學書電子化計劃