三国史記 始祖 温祚王紀

始祖 温祚王

現代語訳

 百済の始祖は温祚王、その父は、鄒牟、あるいは朱蒙という。北扶餘から難を逃れ、卒本扶餘までたどり着いた。扶餘王には息子がおらず、三人の娘だけがいたが、朱蒙を見て、非常の人であると気づき、二人目の娘を彼の妻に取らせた。程なくして、扶餘王が薨去すると、朱蒙が王位を継いだ。二人の息子が生まれ、長男を沸流といい、次男を温祚という。〈あるいは次のようにも伝わっている。朱蒙が卒本にたどり着くと、越郡の女を娶り、二人の息子を産んだ、と。〉

 朱蒙が北扶餘にいた頃に生まれた息子が来て、太子となった。太子と相容れなくなることを恐れた沸流と温祚は、そのまま烏干や馬黎等の十人の臣下を伴って南に行くと、百姓にも彼らに従う者が多かった。こうして漢山までたどり着くと、負兒嶽を登り、住居にできそうな場所を望み見ると、沸流は海の浜に住もうとした。十人の臣下は諫めた。

「いえ、この河南の地は、北には漢水を帯び、東は高い岳によって守られ、南には豊潤な水沢に望み、西は大海によって隔てられています。これは天然の要塞にして地の利もあり、なんとも得難き地勢、ここに都を作ることに勝ることがあるでしょうか。」

 沸流は聴き入れず、その民を分かちて弥鄒忽まで行き、そこに住みついた。温祚が河南の慰礼城に都を立て、十人の臣下を輔翼とし、国號を十済としたのは、前漢成帝の鴻嘉三年(紀元前18年)のことである。弥鄒の土壌が湿り、水にも塩が入っていたので、沸流は安居することができず、その場を去ることになってしまい、慰礼城を見てみれば、都邑は安定し、人民は安泰、遂に慙 じと悔いとで死んでしまい、彼の臣下と人民は皆が慰礼城に向かった。その後、 慰礼城に 来た時の百姓が音楽を鳴らしながら喜んで従っていたことから、国號を百済と改めた。

 その世系は高句麗と同じく扶餘を出自としていることから、故に扶餘を氏としている。

〈一説には、始祖は沸流王であり、その父の優台は北扶餘王の解扶婁の庶孫であったという。母の召西奴は、卒本人の延陁勃の娘であり、最初は優台に嫁入りし、二人の息子を生んだ。長男を沸流といい、次男は溫祚という。優台が死去してからも、卒本にて未亡人として暮らしていた。その後、朱蒙は扶餘と相容れず、前漢建昭二年(紀元前37年)の春二月に南へ奔走し、卒本までたどり着くと、都を立て高句麗と よびな し、召西奴を娶って妃とした。その国家の礎を開いて創業するにあたって、たいそうな内助の功があり、故に朱蒙による彼女への寵愛は特に厚く、沸流等も自身の息子のように扱った。朱蒙が扶餘にいた頃に生まれた禮氏の息子の孺留が来たことから、彼を太子に立て、王位を継承するに至った。そこで沸流は弟の温祚に言った。
「元を辿れば、大王は扶餘の難を避け、逃げ去ってここまでたどり着き、我が母は家財を傾けてまで、邦業を助成したのだぞ! その勤労の何と多大なことか! 大王が世を厭い、国家が孺留のものとなれば、我々の なかま はここにいたところで、まるで疣贅 いぼ のように鬱陶しがられることであろう。母を奉り、南に遊んで土地に占卜を立て、別の国都を立てた方がよい。」
 こうして弟と一緒に党類 ともがら を率い、浿水と帯水のふたつの川を渡り、彌鄒忽までたどり着き、そこに住みついた。

 北史と隋書にはどちらにも次のように伝わっている。 「東明の子孫に仇台がおり、仁信に篤かった。最初は国を帯方郡の故地に立て、漢の遼東太守の公孫度が娘を彼の妻に取らせ、遂に東夷の強国となった。」

 どれが正しいのかはわからない。〉


漢文

 百濟始祖溫祚王、其父、鄒牟、或云朱蒙。自北扶餘逃難、至卒本扶餘。扶餘王無子、只有三女子、見朱蒙、知非常人、以第二女妻之。未幾、扶餘王薨、朱蒙嗣位。生二子、長曰沸流、次曰溫祚。〈或云、朱蒙到卒本、娶越郡女、生二子。〉及朱蒙在北扶餘所生子、來為太子。沸流、溫祚、恐為太子所不容、遂與烏干、馬黎等十臣南行、百姓從之者、多。遂至漢山、登負兒嶽、望可居之地、沸流欲居於海濱。十臣諫曰、惟此河南之地、北帶漢水、東據高岳、南望沃澤、西阻大海。其天險地利、難得之勢、作都於斯、不亦宜乎。沸流不聽、分其民、歸彌鄒忽以居之。溫祚都河南慰禮城、以十臣為輔翼、國號十濟、是前漢成帝鴻嘉三年也。沸流以彌鄒、土濕水鹹、不得安居、歸見慰禮、都邑鼎定、人民安泰、遂慙悔而死、其臣民皆歸於慰禮。後以來時百姓樂從、改號百濟。其世系與高句麗、同出扶餘、故以扶餘為氏。〈一云、始祖沸流王、其父優台、北扶餘王解扶婁庶孫。母召西奴、卒本人延陁勃之女、始歸于優台、生子二人、長曰沸流、次曰溫祚。優台死、寡居于卒本。後朱蒙不容於扶餘、以前漢建昭二年、春二月、南奔至卒本、立都號高句麗、娶召西奴為妃。其於開基創業、頗有内助、故朱蒙寵接之特厚、待沸流等如己子。及朱蒙在扶餘所生禮氏子孺留來、立之爲太子、以至嗣位焉。於是、沸流謂弟溫祚曰、始、大王避扶餘之難、逃歸至此、我母氏傾家財、助成邦業、其勤勞多矣。及大王厭世、國家屬於孺留、吾等徒在此、鬱鬱如疣贅、不如奉母氏、南遊卜地、別立國都。遂與第弟率黨類、渡浿、帶二水、至彌鄒忽以居之。北史及隋書皆云、東明之後有仇台、篤於仁信。初立國于帶方故地、漢遼東太守公孫度以女妻之、遂為東夷强國。未知孰是。〉

書き下し文

 百濟 くだら 始祖 はじめおや の溫祚の きみ 、其の父は、鄒牟、或いは朱蒙と云ふ。北扶餘 り難きを逃れ、卒本扶餘に至る。扶餘の きみ むすこ 無く、只だ みたり 女子 むすめ 有り、朱蒙を見、常に非ざる人なるを知り、第二 ふたりめ むすめ を以ちて之れに めと らせしむ。未だ幾くあらず、扶餘の きみ みまか り、朱蒙は位を ぎたり。 ふたり むすこ を生み、 をさご は沸流と曰ひ、次は溫祚と曰ふ。〈或いは云はく、朱蒙の卒本に到らば、越郡の をむな を娶り、 ふたり むすこ を生む、と。〉朱蒙の北扶餘に いま せる子を生みたる所に及び、來たりて太子 みこ と為る。沸流と溫祚は、太子 みこ に容られざる所と為ることを恐れ、遂に烏干、馬黎等の とたり をみ とも に南に行かば、 もも かばね の之れに從ふ者も多し。遂に漢山まで至らば、負兒嶽を登り、 まひたる可きの ところ を望まば、沸流は海の ちか くに居せむと欲ひたり。 とたり をみ は諫めて曰く、惟れ此の河南の つち は、北に漢水を帶び、東に高き岳に據り、南に そそ がる澤を望み、西に大海を阻みたり。其れ おのづ よりの けはしき にして地の まふけ 、得ること難きの ありさま 、斯に都を作るは、亦た宜しからずや、と。沸流は したが はず、其の民を分け、彌鄒忽に りて以ちて之れに すま ひたり。溫祚は河南の慰禮城に都し、 とたり をみ を以ちて輔翼 たすけ と為し、國は十濟と よびな するは、是れ前漢成帝の鴻嘉三年なり。沸流は彌鄒の土の しめ り水の しおがち なるを以ちて、安き すまひ なるを得ず、 りて慰禮を見れば、都邑は鼎定 さだまり 人民 たみ 安泰 やすらぎ 、遂に ひて死に、其の をみ と民は皆が慰禮に れり。後に來たる時の もも かばね の樂しみて從ふを以ちて、 よびな 百濟 くだら と改む。其の世系 ちすぢ は高句麗と與に、同じく扶餘より出づ、故に扶餘を以ちて うぢ と為す。〈一に云はく、始祖 はじめおや は沸流の きみ 、其の父の優台は、北扶餘の きみ の解扶婁の庶孫 うまご たり。母の召西奴は、卒本の人の延陁勃の むすめ たり。始め優台に したが ひ、子の二人を生み、 をさご を沸流と曰ひ、次は溫祚と曰ふ。優台の死すれば、卒本に寡居 やもめぐらし したり。後に朱蒙は扶餘に容らず、前漢建昭二年の春二月を以ちて、南に はし りて卒本まで至り、都を立て高句麗と よびな し、召西奴を めと りて妃と為す。其の おほもと を開き みわざ はじ むるに於いて、頗る内なる助け有り、故に朱蒙の之れに れたるは とりはけ に厚く、沸流等を でること己の むすこ の如くしたり。朱蒙の扶餘に いま したるときに生まるる所の禮氏の子の孺留來たるに及び、之れを立て太子 みこ と爲さば、以ちて位を嗣がしむるに至らむ。是に於いて、沸流は弟の溫祚に謂ひて曰く、始めは大王 おほみき も扶餘の難を避け、逃れ りて此に至り、我が母 うぢ は家の たから を傾けて、邦の みわざ を助け成し、其の勤勞 いさをし は多からむ。大王 おほきみ の世を厭ひ、國家 くに の孺留に くに及びたれば、吾等 われら なかま は此に在れども、鬱鬱とすること疣贅 いぼ の如し。母 うぢ を奉り、南に遊びて つち うらな ひ、別に國つ都を立てむことに如かざらむ、と。遂に第弟 をとうと とも 黨類 ともがら を率い、浿帶の ふたつ かは を渡り、彌鄒忽に至りて以ちて之れに居まひたり。北史及び隋書には いづ れも云はく、東明の後に仇台有り、仁信に篤し。初め國を帶方の かつ ての つち に立つれば、漢の遼東太守の公孫度は むすめ を以ちて之れに めと らせしめ、遂に東夷 あづまゑびす の强き國と為る。未だ いず れの ただ しきかは知らず。〉

元年

現代語訳

 元年(前18年)夏五月、東明王の みたまや を立てた。


漢文

 元年、夏五月、立東明王廟。

書き下し文

 元年、夏五月、東明の きみ みたまや を立つる。

二年

現代語訳

 二年(前17年)春正月、王は群臣に言った。靺鞨は我の国の北の国境に連なり、その人は勇ましく、詐術も達者である。武器を修繕しつつ穀物を集め、拒守の計を立てようではないか。」
 三月、王は族父の乙音に知識と膽力があることを理由に、拜して右輔とし、兵馬の事を委任した。


漢文

 二年、春正月、王謂群臣曰、靺鞨連我北境、其人勇而多詐、宜繕兵積穀、為拒守之計。三月、王以族父乙音、有智識膽力、拜為右輔、委以兵馬之事。

書き下し文

 二年、春正月、王は群臣 もろをみ に謂ひて曰く、靺鞨は我の北の くにざかひ に連なり、其の人は勇ましくして あざむき 多し。宜しく いくさ を繕ひて いひ を積み、拒守 まもり はかりごと を為さむ、と。三月、 きみ は族父の乙音の智識 さとしき 膽力 ちから の有るを以ちて、拜みて右輔と為し、委ぬるに兵馬の事を以ちてす。

三年

現代語訳

 三年(前16年)秋九月、靺鞨が北の国境を侵した。王は勁兵を統帥して急擊し、大いにこれを敗った。生きて還ることのできた賊は、十人のうち一人か二人である。
 冬十月、雷があった。桃と李の花が咲いた。


漢文

 三年、秋九月、靺鞨侵北境、王帥勁兵、急擊大敗之、賊生還者十一二。冬十月、雷。桃李華。

書き下し文

 三年、秋九月、靺鞨は北の くにざかひ を侵す。 きみ 勁兵 つはもの ひき い、 には かに擊ちて大いに之れを敗り、 あた の生きて還る者は とたり ひとり ふたり ならむ。冬十月、 いかづち あり。桃と すもも はなひらく

四年

現代語訳

 四年(前15年)春夏、旱魃、飢饉が起こり、疫病が蔓延した。秋八月、使者を楽浪に遣わせて修好した。


漢文

 四年、春夏、旱、饑、疫。秋八月、遣使樂浪修好。

書き下し文

 四年、春夏、 ひでり あり、饑え、 をこり あり。秋八月、使 つかひ を樂浪に遣はして よしみ を修む。

五年

現代語訳

 五年(前14年)冬十月、北の国境付近を巡撫し、狩猟をして神鹿を獲た。


漢文

 五年、冬十月、巡撫北邊、獵獲神鹿。

書き下し文

 五年、冬十月、北の くにへ を巡り撫で、 かり して神鹿を獲たり。

六年

現代語訳

 六年(前13年)秋七月の辛未 かのとひつじ みそか 、日食があった。


漢文

 六年、秋七月辛未晦、日有食之。

書き下し文

 六年、秋七月の辛未 かのとひつじ みそか 、日の之れを食む有り。

八年

現代語訳

 八年(前11年)春二月、靺鞨の賊兵三千が来て慰禮城を包囲した。王は城門を閉ざして外に出なかった。一旬を経て賊兵の糧食が尽きて帰り始めた。王は精鋭を選抜し、大斧峴まで追撃し、一たびの戦によってこれらに勝利した。殺害あるいは捕虜とした人数は五百人余りである。
 秋七月、馬首城を築き、甁山柵を立てた。楽浪太守が使者を派遣して告げた。「最近、聘問して好を結ばれたのだから、 こころ は一家と同じではございませんか。今、我が国境に迫って城や柵をお造りになられるのは、もしや蠶食の はかりごと があるのではないですか? もし旧好を変えるつもりがないのなら、城を毀して柵を破れば、すぐに猜疑 うたがい はなくなります。もしあるいはそのようにされないのであれば、一戦つかまつり、これによって勝負を決めたい所存です。」王は返報した。「要塞を設けて国家を守るのは、古今の常道でございます。なぜわざわざそんなことを理由に和好 よしみ を変えることがありましょうか。事を執るにあたっては、疑いを持たないようにされるがよろしい。もし事を執るにあたって強さに恃んで軍旅を出すというのなら、同じく小国 わがくに もそれを受けて立ちましょうぞ。」これによって、楽浪との和を失った。


漢文

 八年、春二月、靺鞨賊兵三千來圍慰禮城、王閉城門不出。經旬、賊糧盡而歸。王簡銳卒、追及大斧峴、一戰克之、殺虜五百餘人。秋七月、築馬首城、竪甁山柵。樂浪太守使告曰、頃者、聘問結好、意同一家、今逼我疆、造立城柵、或者其有蠶食之謀乎。若不渝舊好、隳城破柵、則無所猜疑。苟或不然、請一戰以決勝負。王報曰、設險守國、古今常道、豈敢以此、有渝於和好。宜若執事之所不疑也。若執事恃强出師、則小國亦有以待之耳。由是、與樂浪失和。

書き下し文

 八年、春二月、靺鞨の賊兵 あたいくさ 三千 みちたり は來たりて慰禮城を圍む。 きみ は城の かど を閉して出でず。 とおか を經、 あた の糧は盡き、而りて歸る。王は よりすぐり いくさひと えら び、追ひて大斧峴に及び、 ひとたび いくさ して之れに克ち、殺し とりこ とすること五百餘人 いつももたりあまり 。秋七月、馬首城を築き、甁山柵を つる。樂浪太守は使 つかひ して告げせしむるに曰く、頃者 このごろ 聘問 たずねて よしみ を結びたれば、 こころ は一つの家と同じ、今の我が くにさかひ せま り、城柵 しがらみ を造り立つるは、或者 もしや 其れ蠶食 おかしたる はかりごと 有らむか。若し かつ ての よしみ へざるなら、城を こわ して柵を破らば、則ち猜疑 うたがふ 所無し。苟も或は然らざれば、 ひとたび いくさ を請ひ、以ちて勝ちと負けとを決めたらむ、と。 きみ は報ひて曰く、 かたき を設け國を守るは、古より今まで常の道、豈に敢えて此れを以ちて、和好 よしみ ゆること有らむ。 まさ に事を執るの疑はざる所が ごと し。若し事を執るに强に恃みて いくさ を出ださば、則ち小國 わがくに も亦た以ちて之れを つこと有るのみ、と。是れに由りて、樂浪と よしみ を失ひたり。

十年

現代語訳

 十年(前9年)秋九月、王が流量に出て神鹿を獲たので、馬韓に送った。冬十月、靺鞨が北の国境を おか した。王は兵二百を派遣し、昆弥川の ほとり にて防戦させた。我が軍は過去の勝利を失うほどの大敗を喫し、青木山に依って損失を保とうとした。王は みずか ら精鋭の騎兵一百を統帥し、烽峴まで出撃して彼らを救出した。これを見た賊軍は、すぐに撤退した。


漢文

 十年、秋九月、王出獵、獲神鹿、以送馬韓。冬十月、靺鞨寇北境。王遣兵二百、拒戰於昆彌川上。我軍敗績、依靑木山自保。王親帥精騎一百、出烽峴、救之。賊見之、卽退。

書き下し文

 十年、秋九月、 きみ の獵りに出づれば、神鹿を獲、以ちて馬韓に送りたり。冬十月、靺鞨は北の くにざかひ おか す。 きみ いくさひと 二百 ふたももたり を遣り、昆彌の川の ほとり に於いて拒み いくさ せしむ。我が いくさ 敗績 おほまけ し、靑木山に依りて自ら たも つ。 きみ みづか よりすぐり うまいくさ 一百 ももたり べ、烽峴に出でて之れを救ふ。 あた は之れを見、卽ち退く。

十一年

現代語訳

 十一年(前8年)夏四月、楽浪は靺鞨を使わせて甁山柵を襲撃して破壊させ、殺害および誘拐した者は一百人余り。
 秋七月、禿山と狗川の二箇所に柵を設けることで、楽浪の路を塞いだ。


漢文

 十一年、夏四月、樂浪使靺鞨襲破甁山柵、殺掠一百餘人。秋七月、設禿山、狗川兩柵、以塞樂浪之路。

書き下し文

 十一年、夏四月、樂浪は靺鞨を使 つか はして甁山柵を襲ひ破り、殺し かす ること一百餘 ももたりあまり 。秋七月、禿山と狗川の ふたつ の柵を設け、以ちて樂浪の みち ふさ ぐ。

十三年

現代語訳


漢文

 十三年(前6年)春二月、王都の老嫗が化して男となった。五匹の虎が城に入った。王の母が薨去した。齢六十一歲である。
 夏五月、王は臣下言った。「国家の東には楽浪があり、北には靺鞨がある。国境を侵軼し、安寧の日は少ない。況してや現在、妖しい きざし が頻繁に起こり、国母までもが しもべ を棄てられ、形勢は満ち足りたものではない。もはや国を遷すしかないだろう。これまで私は出巡してきて、漢水の南を観たときのこと、土壤は膏腴であった。そちらに都を立てることで、久安の計を図るのがよろしかろう。」
 秋七月、漢山の ふもと につき、柵を立て、慰禮城の民戸を移した。
 八月、使者を馬韓に遣わせ、都を遷したことを報告した。こうして国境を画定し、北は浿河まで、南は熊川を境界とし、西は大海を窮みとし、東は走壌を極とした。
 九月、城闕を立てた。

 十三年、春二月、王都老嫗化爲男。五虎入城。王母薨、年六十一歲。夏五月、王謂臣下曰、國家東有樂浪、北有靺鞨。侵軼疆境、少有寧日。況今妖祥屢見、國母棄養、勢不自安、必將遷國。予昨出巡、觀漢水之南、土壤膏腴。宜都於彼、以圖久安之計。秋七月、就漢山下、立柵、移慰禮城民戶。八月、遣使馬韓、告遷都。遂畵定疆場、北至浿河、南限熊川、西窮大海、東極走壤。九月、立城闕。

書き下し文

 十三年、春二月、 きみ の都の老嫗 をうな は化けて男と爲る。 いつたり の虎は城に入る。 きみ の母は みまか る、 よはひ 六十一歲。夏五月、王は臣下 をみしも に謂ひて曰く、國家 くに の東に樂浪有り、北に靺鞨有り。疆境 くにざかひ 侵軼 おか し、 やすらぎ の日の有るは少し。況や今は妖しき きざし しばしば 見え、國母 くにはは は養を棄て、 ありさま は自ら安ぜず、必ずや將に國を遷さむとす。予は さき に出で巡り、漢水の南を觀れば、土壤 つち 膏腴 こゆ 。宜しく彼に都し、以ちて久しき安らぎの はかりごと はか らむ、と。秋七月、漢山の ふもと に就き、柵を立て、慰禮城の民戶 たみのへ を移したり。八月、使 つかひ を馬韓に遣り、都を遷したるを告ぐ。遂に疆場 くにざかひ 畵定 さだめ 、北は浿河に至り、南は熊川に限り、西は大海に き、東は走壤に く。九月、城闕 しろかど を立つる。

十四年

現代語訳

 十四年(前5年)春正月、漢山の都を遷しに来た。
 二月、王は部落を巡撫し、農事を務勧した。
 秋七月、城を漢江の西北に築き、漢城の民を分けた。


漢文

 十四年、春正月、來遷漢山都。二月、王巡撫部落、務勸農事。秋七月、築城漢江西北、分漢城民。

書き下し文

 十四年、春正月、漢山都を遷しに來たり。二月、 きみ 部落 むら 巡撫 めぐり 農事 はたけしごと 務勸 すす む。秋七月、城を漢江の西北に築き、漢城の民を分く。

十五年

現代語訳

 十五年(前4年)春正月、新たな宮室を作った。険難でありながら醜陋でなく、華美ではあるが奢侈ではなかった。


漢文

 十五年、春正月、作新宮室、儉而不陋、華而不侈。

書き下し文

 十五年、春正月、新たな宮室 みや おこ す。 かた くして いや しからず、 はなばな しくして おご らず。

十七年

現代語訳

 十七年(前2年)春、楽浪が侵しに来て、慰禮城を焼いた。
 夏四月、 みたまや を立て、国母を祀った。


漢文

 十七年、春、樂浪來侵、焚慰禮城。夏四月、立廟以祀國母。

書き下し文

 十七年、春、樂浪は侵しに來、慰禮城を く。夏四月、 みたまや を立て以ちて國母 くにはは まつ る。

十八年

現代語訳

 十八年(前1年)冬十月、突如として靺鞨が至ったので、王は兵を統帥して七重河にて防戦し、酋長の素牟を虜獲 とりこ にして馬韓に送り、その他の賊はことごとく、これらを穴に埋めた。
 十一月、王は楽浪の牛頭山城を襲撃しようとしたが、臼谷までたどり着いたところで、大雪に遇ってそのまま還った。


漢文

 十八年、冬十月、靺鞨掩至、王帥兵、逆戰於七重河、虜獲酋長素牟、送馬韓、其餘賊盡坑之。十一月、王欲襲樂浪牛頭山城、至臼谷、遇大雪、乃還。

書き下し文

 十八年、冬十月、靺鞨は にはか に至り、 きみ いくさ べ、七重河に於いて逆らひ戰ひ、酋長 をさ の素牟を虜獲 とりこ にし、馬韓に送り、其の ほか あた ことごと く之れを あなうめ にす。十一月、 きみ は樂浪の牛頭山城を襲はむと おも ふも、臼谷に至り、大雪に遇ひて乃ち還る。

二十年

現代語訳

 二十年(2年)春二月、王が大壇を設け、 みずか ら天地を祠祀すると、異なる五種の鳥が飛来した。


漢文

 二十年、春二月、王設大壇、親祠祀天地、異鳥五來翔。

書き下し文

 二十年、春二月、 きみ は大壇を設け、 みづか 天地 あめつち 祠祀 まつ らば、異なる鳥の いつたり は來たり翔ぶ。

二十二年

現代語訳

 二十二年(4年)秋八月、石頭と高木のふたつの城を築いた。
 九月、王は騎兵一千を統帥し、斧峴の東にて狩猟をしていると、靺鞨の賊と遭遇したので、一戦してこれらを破り、生口を虜獲して将士に分けて賜った。


漢文

 二十二年、秋八月、築石頭、高木二城。九月、王帥騎兵一千、獵斧峴東、遇靺鞨賊、一戰破之、虜獲生口、分賜將士。

書き下し文

 二十二年、秋八月、石頭と高木の ふたつ の城を築く。九月、 きみ 騎兵 うまいくさ 一千 ちたり べ、斧峴の東に り、靺鞨の あた と遇ひ、 ひとたび 戰ひ之れを破り、生口 しもべ 虜獲 とら へ、分けて將士 いくさひと に賜ふ。

二十四年

現代語訳

 二十四年(6年)秋七月、王は熊川柵を作った。馬韓王が使者を遣わせて責譲した。「王は初めに河を渡った時のこと、受け入れられる場所がなかったので、私は東北一百里の土地を割いて、これを安寧した。それから王への待遇が厚くないことはなかったであろう。今後このことに報いようとする意思があるなら、今は国をもって民衆を完うすべきである。我が国と敵対したくないと思いながら、大きな城や池を設置して我が国の国境を侵犯するのは、その義は如何なるものであろうか。」王は慙じ、遂にその柵を壊した。


漢文

 二十四年、秋七月、王作熊川柵。馬韓王遣使責讓曰、王初渡河、無所容足、吾割東北一百里之地、安之、其待王不為不厚。宜思有以報之、今以國完民聚、謂莫與我敵、大設城池、侵犯我封疆、其如義何。王慙、遂壞其柵。

書き下し文

 二十四年、秋七月、 きみ は熊川柵を作す。馬韓の きみ 使 つかひ を遣りて責讓 とが めて曰く、王は初めて河を渡り、容り足る所無かりけるも、吾は東北の一百里の つち を割き、之れを安じ、其れ きみ づるに厚からざるを為さず。 まさ に以ちて之れに報いむとする有るを思ひたれば、今は國を以ちて民聚 たみ まちたう し、我と敵すること莫しと おも ひたれば、大いに城と池を設け、我が封疆 なはばり 侵犯 おか したるは、其の よろ しきは如何 いか に、と。 きみ ぢ、遂に其の柵を壞したり。

二十五年

現代語訳

 二十五年(7年)春二月、王宮の井戸の水がいきなり溢れ出した。漢城の人家の馬がひとつの頭にふたつの身体を持つ牛を生んだ。日者は言った。「井戸の水がいきなり溢れ出したのは、大王が勃興する兆しです。ひとつの頭にふたつの身体を持つ牛は、大王による鄰国の併合がこれから起ころうとしているということです。」それを聞いた王は喜び、遂に辰韓と馬韓を併呑しようと心にした。


漢文

 二十五年、春二月、王宮井水暴溢。漢城人家馬生牛、一首二身。日者曰、井水暴溢者、大王勃興之兆也、牛一首二身者、大王并鄰國之應也。王聞之喜、遂有幷吞辰、馬之心。

書き下し文

 二十五年、春二月、 きみ の宮の井の水は にはか に溢る。漢城の人の家の馬は牛の ひとつ かしら ふたつ からだ なるを生む。日者 みこ 曰く、井の水の にはか に溢るる こと は、大王 おほきみ 勃興 おきたつ きざし なり。牛の ひとつ かしら ふたつ からだ なる こと は、大王 おほきみ の鄰の國を并せたるの おこり なり、と。 きみ は之れを聞きて喜び、遂に辰馬を幷吞 のみこむ の心を つ。

二十六年

現代語訳

 二十六年(8年)秋七月、王は言った。「馬韓は徐々に弱体化しており、上下の心は離れ、その勢いは長くは続くまい。もし他の国に併合されたら、「唇亡びて歯寒し」というもので、後悔しても取り戻せない。これを人より先に奪取した方がよい。これによって後の患いを断とうではないか!」
 冬十月、王は軍隊を出し、公には狩猟をすると言いながらも、ひそかに馬韓を襲撃し、遂にその国邑を併呑した。ただ、圓山と錦峴のふたつの城だけは守りを固めて下らなかった。


漢文

 二十六年、秋七月、王曰、馬韓漸弱、上下離心、其勢不能久。儻爲他所并、則脣亡齒寒、悔不可及。不如先人而取之、以免後艱。冬十月、王出師、陽言田獵、潛襲馬韓、遂幷其國邑、唯圓山、錦峴二城固守不下。

書き下し文

 二十六年、秋七月、 きみ 曰く、馬韓は漸し弱く、上下 かみしも は心を離し、其の勢ひは久しくすること能はず。 他所 よそ あはさる と爲らば、則ち くちびる 亡びて齒寒し、悔いは及ぶ可からず。人に先じて之れを取るに如かず、以ちて後の うれい のが るべし、と。冬十月、 きみ いくさ を出だし、 ひなた には田獵 かり すると言ふも、 ひそ かに馬韓を襲ひ、遂に其の國邑 くに あは せ、唯だ圓山と錦峴の ふたつ の城は守りを固めて下らず。

二十七年

現代語訳

 二十七年(9年)夏四月、二つの城も降り、その民を漢山の北に移し、馬韓は遂に滅んだ。
 秋七月、大豆山城を築いた。


漢文

 二十七年、夏四月、二城降、移其民於漢山之北、馬韓遂滅。秋七月、築大豆山城。

書き下し文

 二十七年、夏四月、二つの城も降り、其の民を漢山の北に移し、馬韓は遂に滅ぶ。秋七月、大豆山城を築く。

二十八年

現代語訳

 二十八年(10年)春二月、元子の多婁を太子に立て、内政と外交、兵事を委任した。
 夏四月、霜を隕らせて麦を害した。


漢文

 二十八年、春二月、立元子多婁為太子、委以內外兵事。夏四月、隕霜害麥。

書き下し文

 二十八年、春二月、元子 はじめご の多婁を立て太子 みこ と為し、委ぬるに內と外と いくさ の事を以ちてす。夏四月、霜を らせ むぎ そこな ふ。

三十一年

現代語訳

 三十一年(13年)春正月、国内の民戸を南部と北部に分けた。
 夏四月、雹が降った。
 五月、地震が起こった。
 六月、またしても地震が起こった。


漢文

 三十一年、春正月、分國內民戶、為南北部。夏四月、雹。五月、地震。六月、又震。

書き下し文

 三十一年、春正月、國の內の民戶 たみのへ を分け、南北の こほり つく る。夏四月、 ひさめ あり。五月、地震 なゐ あり。六月、又たしても なゐ あり。

三十三年

現代語訳

 三十三年(15年)春夏に大旱魃があった。民は餓えて互いの肉を食い合い、盗賊も大いに起こった。王はこれを撫安した。
 秋八月、東西の二部を加えて置いた。


漢文

 三十三年、春夏大旱。民饑相食、盜賊大起、王撫安之。秋八月、加置東西二部。

書き下し文

 三十三年、春夏に大いに ひでり あり。民は饑えて相ひ食み、盜賊 あた も大いに起こり、王は之れを撫安 なぐさ む。秋八月、東西の二つの こほり を加え置く。

三十四年

現代語訳

 三十四年(16年)冬十月、馬韓の旧将の周勤が牛谷城を拠点にして叛いた。王は みずか ら兵五千を統帥してこれを討つと、周勤は自らの首を切った。その屍を腰斬し、併せてその妻子を誅殺した。


漢文

 三十四年、冬十月、馬韓舊將周勤、據牛谷城叛。王躬帥兵五千、討之、周勤自經。腰斬其尸、幷誅其妻子。

書き下し文

 三十四年、冬十月、馬韓の かつ ての すけ の周勤は、牛谷城に據りて叛きたり。 きみ みづか いくさひと 五千 いつちたり を帥べ、之れを討たば、周勤は自ら りたり。其の しかばね を腰斬り、幷せて其の妻と子を ころ す。

三十六年

現代語訳

 三十六年(18年)秋七月、湯井城を築き、大豆城の民戸を分け、そのに居住させた。
 八月、圓山と錦峴のふたつの城を修葺し、古沙夫里城を築いた。


漢文

 三十六年、秋七月、築湯井城、分大豆城民戶、居之。八月、修葺圓山、錦峴二城、築古沙夫里城。

書き下し文

 三十六年、秋七月、湯井城を築き、大豆城の民戶 たみのへ を分け、之れに すま はしむ。八月、圓山と錦峴の ふたつ の城を修葺 おさ め、古沙夫里城を築く。

三十七年

現代語訳

 三十七年(19年)春三月、雞子 たまご のような大きさの雹が降り、当たった鳥や雀が死んだ。
 夏四月、旱魃が起こり、六月になってようやく雨が降った。漢水の東北の部落は飢えて荒廃し、高句麗に亡入した者は一千戸余り、浿水と帯水の間には住む人がまったくいなくなってしまった。


漢文

 三十七年、春三月、雹大如雞子、鳥雀遇者死。夏四月、旱、至六月乃雨。漢水東北部落饑荒、亡入高句麗者一千餘戶、浿、帶之間、空無居人。

書き下し文

 三十七年、春三月、 ひさめ の大いなること雞子 たまご の如し、鳥雀の たる者は死す。夏四月、 ひでり あり、六月に至らば乃ち あめふ る。漢水の東北の部落 むら は饑え荒み、 のが れて高句麗に入る者は一千餘戶 ちたりのへあまり 、浿帶の あいだ すま ふ人を空無 から にす。

三十八年

現代語訳

 三十八年(20年)春二月、王が巡撫し、東は走壤、北は浿河まで至り、五旬して帰った。
 三月、使者を放って農耕と養蚕を勧め、そこで不急の事で民を撹乱した者は、すべてこれを除いた。
 冬十月、王が大壇を築き、天地を祀った。


漢文

 三十八年、春二月、王巡撫、東至走壤、北至浿河、五旬而返。三月、發使勸農桑、其以不急之事擾民者、皆除之。冬十月、王築大壇、祀天地。

書き下し文

 三十八年、春二月、 きみ 巡撫 めぐりやす んじ、東は走壤に至り、北は浿河に至り、五旬 いそにち にして返る。三月、使 つかひ はな ちて はたけしごと ごがひ を勸め、其れ急がざるの事を以ちて民を みだ す者は、皆之れを除く。冬十月、 きみ は大壇を築き、天地 あめつち を祀る。

四十年

現代語訳

 四十年(22年)秋九月、靺鞨は述川城を攻めに来た。
 冬十一月、またしても斧峴城を襲撃し、殺害と誘拐した者は百人余り、王は勁騎二百に命じ、防御させてこれを擊たせた。


漢文

 四十年、秋九月、靺鞨來攻述川城。冬十一月、又襲斧峴城、殺掠百餘人、王命勁騎二百、拒擊之。

書き下し文

 四十年、秋九月、靺鞨は述川城を攻めに來たり。冬十一月、又た斧峴城を襲ひ、殺し掠ること百餘人 ももたりあまり 、王は つよ うまいくさ 二百 ふたももたり みことのり し、拒ませしめて之れを擊ちたらしむ。

四十一年

現代語訳

 四十一年(23年)春正月、右輔の乙音が に、拜して北部の解婁を右輔とした。もともと解婁は扶餘人である。神識は深淵であり、年齢が七十を過ぎていても膂力に間違いがなく、故に彼を登用したのだ。
 二月、漢水の東北の諸部落の十五歲以上の人員を徴発し、慰禮城を修営させた。


漢文

 四十一年、春正月、右輔乙音卒、拜北部解婁為右輔。解婁、本扶餘人也。神識淵奧、年過七十、膂力不愆、故用之。二月、發漢水東北諸部落人年十五歲以上、修營慰禮城。

書き下し文

 四十一年、春正月、右輔の乙音は に、拜みて北部の解婁を右輔 らしむ。解婁は もともと 扶餘の人なり。神なる さとり 淵奧 おくふかく よはひ 七十 ななそ を過ぐるも、膂力 ちから あやま たず、故に之れを用ゆ。二月、漢水の東北の もろもろ 部落 むら の人の よはひ 十五歲 とあまりいつつ り上を はな ち、慰禮城を修營 おさ めたり。

四十三年

現代語訳

 四十三年(25年)秋八月、王は牙山の原にて五日にわたって狩猟をした。
 九月、百羽あまりの おおとり かり が王宮に集った。日者は言った。「 おおとり かり は民の象徴です。民の象徴ということは、これから遠方より投降しに来る者があることでしょう。」
 冬十月、南沃沮の仇頗解等の二十家余りが斧壤までたどり着き、款を納めた。これを王は納め、漢山の西に安置した。


漢文

 四十三年、秋八月、王田牙山之原五日。九月、鴻鴈百餘集王宮。日者曰、鴻鴈民之象也、民之象也、將有遠人來投者乎。冬十月、南沃沮仇頗解等二十餘家、至斧壤納款。王納之、安置漢山之西。

書き下し文

 四十三年、秋八月、 きみ は牙山の原に かり をすること五日。九月、 おほとり かり 百餘 ももあまり きみ みや たか りたり。日者 みこ は曰く、 おほとり かり は民の かたち なり。民の かたち なるや、將に遠く人の來たりて くだ らむとする者有らむや、と。冬十月、南沃沮の仇頗解等の二十餘家 ふたそあまりのいえ は、斧壤に至りて ちかひ を納めたり。 きみ は之れを納め、安んじて漢山の西に置く。

四十五年

現代語訳

 四十五年(27年)春夏に大旱魃があり、草木は渇き枯れた。
 冬十月、地震が人の家屋を傾け、あるいは倒壊させた。


漢文

 四十五年、春夏大旱、草木焦枯。冬十月、地震、傾倒人屋。

書き下し文

 四十五年、春夏に大いに ひでり あり、草木は かは き枯る。冬十月、地震 なゐ は人の いえ を傾き倒す。

四十六年

現代語訳

 四十六年(28年)春二月、王が薨去した。


漢文

 四十六年、春二月、王薨。

書き下し文

 四十六年、春二月、 きみ みまか れり。

注記

鄒牟、朱蒙

 高句麗始祖の東明聖王のこと。詳細は始祖東明聖王紀を参照。

北扶餘

 扶餘は大陸北東に居住する民族。北扶餘は、その中でも最も古い時代のものと推察される。始祖東明聖王紀によれば、最初にあった北扶餘の王の解夫婁が天帝の命によって東扶餘に移住する。そして、東扶餘から朱蒙が南方に亡命して高句麗を建国している。

卒本扶餘

 始祖東明聖王紀には、東扶餘から亡命した朱蒙が卒本川の上流にある沸流国にたどり着き、そこで王の松譲と対決して勝利し、国を譲られたという伝承が記されている。沸流国という国名が温祚王の兄と同名である等、同一国である可能性も示唆されているが、事実は不明である。

扶餘王

 ここでの扶餘王が三国史記の他の節に登場するのかは不明だが、卒本扶餘に該当する国の王だろう。

越郡

 中国浙江省紹興地方とする説がある。

漢山

 現在の北漢山。大韓民国ソウル特別市の江北区、道峰区、恩平区、城北区、鐘路区と京畿道高陽市徳陽区に跨る。

負兒嶽

 現代韓国語では부아악 プアク 。北漢山の一部。

河南の地

 ここでの河は漢江を指す。漢江の南。

彌鄒忽

 現在の韓国仁川広域市の弥鄒忽区。  

慰禮城

 忠清南道天安市東南区北面の慰禮山城に比定されていたが、三国史記の記録では、河南と河北(漢江以南と以北)に二つの慰禮城が存在していたと推測でき、河南慰禮城として韓国ソウル特別市松坡区付近等、河北慰禮城としては大韓民国ソウル特別市芦原区等が候補地として挙がっている。下載の地図では、とりあえず慰禮山城を慰禮城としている。

前漢成帝

 前漢の第12代皇帝。前漢凋落の最大のきっかけと評価され、酒色におぼれた皇帝として史書に記される。『飛燕外伝』という稗史には、皇后の趙飛燕の妹である趙合徳の房中術によって腹上死したという伝説が残り、事実性はないが、好色であることの評判が物語に乗って世に広められたことが伺える。  

解扶婁

 高句麗本紀に登場する解夫婁と思われる。そちらでは朱蒙の父とされている。この名が登場する別伝での温祚の父親は、解扶婁の孫の優台ということになっており、温祚は解扶婁の曾孫ということになる。本伝における朱蒙の子という記述に基づけば、温祚は解夫婁の孫ということになり、一世代の開きがある。温祚王の出自には別伝が多く、そもそも内容については新羅や高句麗の初期の王や日本における古事記や日本書紀の初期の天皇と同様に事実性、少なくとも時系列に怪しいところがあり、記録に大きな混乱が見られる。 

北史、隋書

 北史は中国南北朝時代の北朝について記した歴史書。隋書は南北朝を統一した隋王朝について記した歴史書。いずれも中国の正史に数えられる。

東明

 高句麗の始祖朱蒙の別名と扶余の始祖東明。いずれも東明王であり、逸話も似ている。このことから、おそらくは高句麗の朱蒙の事跡は、扶余始祖の東明王の逸話から影響を受けて形成されたものだと思われ、同一の存在として習合されたのだと推測できる。(個人的には年代的に厳しい解釈と思うが、高句麗の朱蒙の逸話を扶余が真似たという説もある。)ここからは訳者の想像であるが、たとえば古事記や日本書紀などの神話においめ同一のエピソードを共有する別個の神が多数存在するのと同様に、東明や朱蒙といった存在は、歴史的な人物であると同時に神話的な信仰の対象であり、ゆえに神としての信仰が集合することは多くあったのだと想像する。ここで指される東明が、扶余の始祖王のことなのか、高句麗の始祖王朱蒙のことなのかは、よくわからない。

仇台

 中国の史書においては、本文にある隋書の記述以外にも、周書に仇台の名が登場し、年に四回、始祖王の仇台を祀るとの記述がある。日本において百済は伝統的に「くだら」と読むが、これは仇台(クダイ、クド)に由来するという説もある。

帯方郡

 後漢末期から三国時代の初頭における遼東太守の公孫康が、朝鮮に置かれた楽浪郡の南半分を割いて設置した郡。遼東郡は中国北東部に存在し、朝鮮と隣接している。そこから更に東方に伸長しようとしていた公孫氏は、帯方郡を設置することで東夷諸民族と中国の外交を一手に担っていた。

遼東太守の公孫度

 後漢末の群雄。後漢皇帝を傀儡とした相国の董卓に命じられ、中平六年(189年)に遼東太守となり、中国の混乱に乗じて半独立勢力となった。建安九年(204年)に息子の公孫康に遼東太守の地位を世襲した。ということは、彼の娘を娶ったという仇台は、2世紀から3世紀にかけての人物ということになり、周書には仇台こそが百済の始祖として祀られていると記されている。ところが本書温祚王紀は紀元前1世紀から西暦1世紀の事柄とされており、仇台以前の存在ということになる。こうした時系列の乱れをどのようにとらえるべきかはわからない。

靺鞨

 中国北東部に住む民族。粛慎や挹婁の後裔とされ、この名が中国史において登場するのは5世紀頃である。本書の当該の記録は1世紀頃の記録とされているため、粛慎のことを言っているとも考えられるが、三国史記百済紀の近肖古王以前の記録は事実性、少なくとも時系列が怪しいところがあるため、後世の事件が記されているとも考えられ、どのように解釈すべきかはわからない。

神鹿

 古代中国において鹿は神の乗り物とされており、その信仰に由来して神の使いとされる神獣。鹿(ロク)は「禄(ロク)」と発音が似ていることから、神鹿は財貨に恵まれる吉兆とされる。

大斧峴

 現在の朝鮮国江原道平康郡平康面に比定される。

馬首城、甁山柵

 馬首城は韓国京畿道浦川郡の郡内面に比定され、甁山柵はその近辺とされているが、こちらは比定地に諸説ある。

蠶食の はかりごと

 蠶は蚕(繭が絹糸の原料となるカイコガの幼虫)のこと。蠶食の謀とは、蚕が葉を食べるように隣接する領地をじわじわと侵略して自分のものにしてゆくこと。

馬韓

 三韓地域において最大の連合国家。三国志の韓伝によれば、馬韓の実態は五十四国の集合による連合国家であり、辰韓と弁韓は各十二国の連合国家として馬韓に服属している。百済の前身となる伯済国は馬韓諸国の一国、新羅の前身となる斯蘆国は辰韓諸国の一国。三国史記においては、当初の新羅と百済の共通の宗主国として描かれ、新羅本紀にも第一巻から登場する。本文では馬韓が温祚王によって滅亡させられ、百済に併合されたとされている。中国の史書においても、馬韓が百済に吸収されたことは記されているが、馬韓の滅亡は4世紀中頃とされており、1世紀に滅んだとする本文の内容とは一致しない。

昆弥川

 朝鮮国の臨津江の上流とみる説と朝鮮国の臨津江とする説があるものが、正確な位置は不明。

青木山

 京畿道抱川市永中面永平里と見る説がある。

烽峴

 京畿道漣川郡とする説がある。

禿山、狗川

 いずれも諸説があるが正確な位置は不明。

浿河、熊川、走壌

 浿河は朝鮮国の大東川や韓国の臨津江とする説もあるが、朝鮮国の礼成江とする見解が通説。熊川は韓国京畿道安城市の安城川に比定される。走壤は韓国江原道春川市近辺の地域。

七重河

 韓国京畿道坡州市適城面付近の壬辰江に比定される。

牛頭山城

 韓国江原道春川市近辺に比定する説があるものの、百済の領土と被る可能性から批判があり、朝鮮国の黄海道金川郡とする見解もある。下載の地図では後者の説で仮置きする。

臼谷

 諸説あり、市は不明。

辰韓

 三韓地域における連合国家のひとつ。三国志の韓伝によれば、辰韓は弁韓とともに各十二国の連合国家として馬韓に服属している。百済の前身となる伯済国は馬韓諸国の一国、新羅の前身となる斯蘆国は辰韓諸国の一国。三国史記においては、新羅の当初の国名のひとつのような形で紹介される。

唇亡びて歯寒し

 相互に依存した存在の一方が失われることのたとえ。儒教の経典である四書五経のひとつ『春秋』左氏伝の僖公五年からの引用。中国の春秋時代、大国の晋が、小国の虢を攻めようとして、同じく小国の虞に、軍の通行を許可するように求めた。虞の君主は受け入れようとしたが、臣下がこの言葉を引用し、虢がなくなれば虞が次のターゲットになると述べて反対した。虞の君主はそれに従わず、晋軍は虞を通過して虢を滅亡させ、その後に虞も晋に滅ぼされた。

斧峴、斧峴城

 大斧峴と同じと比定されるが、よくわからない。

圓山、錦峴

 圓山城は韓国慶尚北道龍醴泉郡龍宮面に比定されることもあるが、馬韓=百済の地域には含まれていない。他にも諸説があるが定説はない。錦峴は韓国全羅南道羅州市、韓国全羅北道鎮安郡富貴面、大韓民国忠清南道世宗特別自治市燕岐面などに比定される。

大豆山城

 忠清南道牙山市陰峰面水の漢山城とされる。

牛谷城

 京畿道北東部だと比定されるが、実際の位置は不明。靺鞨と馬韓の衝突地帯となっていた。

湯井城

 韓国忠清南道牙山市内の東山城に比定される。

古沙夫里城

 全羅北道鄭邑市古武面に比定される。日本書紀にも古沙山として登場する。

述川城

 京畿道驪州市興川面に比定される。

おおとり かり

 鴻はオオハクチョウ、鴈はガン。いずれも大型の水鳥。

南沃沮

 朝鮮半島東部に在居する部族。中国史に名が登場する。ただし、中国の書籍においては北沃沮と東沃沮の存在は確認できるものの、南沃沮との表記は存在していない。本書の南沃沮は、おそらく東沃沮を指しているのだと推定される。

斧壤

 現在の江原道平康郡。斧峴と同一とされる。

 盟約を記した文書のこと。

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