焚巣館 -後漢書東夷列伝 高句驪-

後漢書東夷列伝 高句驪



現代語訳
 高句驪は遼東の東千里にあり、南は朝鮮、濊貊、東は沃沮、北は夫餘と接している。土地は方二千里、大きな山や深い谷が多く、それに沿って人は住居をつくっている。農耕地は少なく、耕作しても自給するにも十分ではないので、その習俗では飲食を節制し、宫室の修復を好む。東夷が互いに伝え合っていることには、夫餘から別れた種族だと考えられており、故に言語と法則に同じところが多く、しかし跪拝はひとつの脚を後ろに伸ばし、徒歩での移動は皆が走る。総じて五つの部族があり、『消奴部』『絕奴部』『順奴部』『灌奴部』『桂婁部』である。もともとは消奴部が王となっていたが、徐々に微弱となり、後に桂婁部がこれに代わった。その置官には、『相加』『対盧』『沛者』『古鄒大加』『主簿』『優台』『使者』『帛衣先人』がある。武帝が朝鮮を滅ぼし、高句驪を玄菟郡に縣として属させ、太鼓と笛の伎人を賜った。その習俗は淫乱で、皆が清潔であることを自らの喜びとし、夜が暮れると男も女も群がって役者や遊女が音楽を演奏する。鬼神、社稷、零星を好んで祠に祭り、十月に天を祭って大きな会合を開き、名は『東盟』という。その国の東に大きな穴があり、『禭神』と號し、同様に十月に迎えてそれを祭る。その国の公会の衣服は錦の刺繍や金銀を皆が身につけて自ら飾る。大加、主簿は誰もが幘をかぶる。幘を冠のようにするが、後ろ側は露出している。その国の小加は折風をかぶる。形状は弁のようである。牢獄はなく、有罪なら諸加が評議してその者を殺し、妻子を没収して奴婢とする。その婚姻では皆が婦人の家に就き、子が生まれてから大きくなった後に帰ろうとし、その頃から少しずつ送終の道具を作り始める。金銀や財宝、紙幣は厚葬で使い尽くし、石を積み上げて墓標とし、松柏も植える。その国の人々の性格は凶暴かつせっかちで、気力に満ちており、戦闘を慣習とし、外国への侵入や掠奪を好み、沃沮と東濊はどちらも従属している。

 ひとつに高句驪は『貊』を名とする。別れた種族があり、小水 おがわ に依って住居をつくることから、名は『小水貊』という。よい弓を産出し、所謂『貊弓』とは、これのことである。

 王莽の初め、高句驪の兵を徴発することで匈奴を伐とうとしていたが、その国の人々は行軍しようとはせず、無理やり迫って彼らを派遣しようとすると、皆が城塞から逃亡して乱暴や掠奪をするようになった。遼西大尹の田譚が追撃したが戦死してしまった。王莽が自らの将である厳尤にこれらを擊つように言いつけると、高句驪侯の騶を誘いこんで城塞の中に入らせ、それを斬って首を長安に伝えた。王莽は大いによろこび、名を高句驪王から下句驪侯に改めたが、それから貊人による国境付近への侵入と掠奪はいよいよ甚だしくなった。建武の八年、高句驪が使者を遣わせて朝貢すると、光武帝はその国の王號を元に戻した。二十三年冬、高句驪の蠶支落大加の戴升等の一万口余りが楽浪にたどり着いて内属した。二十五年の春、高句驪が右北平、渔陽、上谷、太原を おか し、そこで遼東太守の祭肜は情けをかけて誠意をもって彼らを招き入れたので、皆が元通り善政に懐いて朝貢をするようになった。

 後に高句驪王の宫は生まれながらにして目が開いて物を見ることができたので、国の人々は彼に懐き、成長すると勇壮となり、何度も国境付近を侵犯した。和帝の元興元年(105年)の春、またも遼東郡に入り、六縣を侵犯して掠奪をしたが、太守の耿夔がこれを擊ち破り、その渠帥 かしら を斬った。安帝の永初五年(111年)には、宫が使者を派遣して朝貢品を献上し、玄菟郡に属したいと求めた。元初五年(118年)には、またしても濊貊と一緒に玄菟を おか し、華麗城を攻めた。建光元年(121年)の春には、幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷等が兵を引き連れて城塞を出で、これを擊って濊貊の渠帥 かしら を捕えて斬り、武器や馬、財物を獲得した。宫はそこで後継ぎの遂成に二千人余りを引き連れさせて派遣し、姚光等に抵抗しつつ、使者を派遣して幸福を いつわ った。それを姚光等は信じてしまい、遂成はそこで峻険な要害の地を拠点に据えて大軍を遮り、こうして潜かに三千人を派遣して玄菟郡と遼東郡を攻め、城郭を焼き払い、殺傷すること二千人あまり。ここで広陽、漁陽、右北平、涿郡の属国の三千あまりの騎兵を起こして各地に同様の救援をしたが、しかし貊人は既にいなくなっていた。夏にもまた遼東郡の鮮卑八千人あまりと共同で遼遂を攻め、吏人を殺して略奪した。蔡諷等は新昌で追撃したが戦没し、功曹の耿耗、兵曹掾の龍端、兵馬掾の公孫酺は身をもって蔡諷を護り、ともに陣没し、死者は百人あまりである。秋、宫が遂に馬韓、濊貊の数千の騎兵を率いて玄菟郡を包囲した。夫餘王は息子の尉仇台に二万人あまりを引き連れさせて派遣し、州郡と力を併せてそれらを討ち破った。斬った首級は五百級あまり。

 この年に宫は死に、息子の遂成が立った。姚光は、「奴の喪によって兵を起こし、これらを擊ちたい」と上言し、議者たちも皆が許可しようとした。尚書の陳忠は言った。「宫は以前から狡猾に立ち回り、姚光は討つことができませんでした。死に乗じてこれを擊つことは、義ではありませぬ。吊問を遣わせて、以前の罪を咎めて強く責めつつ、赦免して誅殺を加えず、その後の善を取りましょう。」これに安帝は従った。明年(122年)に遂成は漢の生口を返還し、玄菟まで来て降伏したので、 みことのり した。「遂成等は狡猾で暴虐の叛逆者であり、無礼な無法者である。斬首して四肢を切り刻み、それを酢漬けや塩漬けにし、百姓への晒し者にすべき罪に当たるが、幸いにして赦令に会し、罪を乞うて降伏を請うた。鮮卑や濊貊は連年にわたって侵入と略奪を繰り返し、小民を駆り出して奪い取り、千人を数えるほどの動員をしていたのに、解き分けて送った者はたったの数十、百人。教化に向かおうとする心胆ではない。今後は、縣官の戦闘には参加せず、自ら喜んで付き随って生口を送致する者は、全員が賠償責任を有する。縑(固織りの絹)を一人につき四十匹、小口についてはその半分を支払うべし。」

 遂成が死ぬと、息子の伯固が立った。その後の濊貊は概ね服従の姿勢を見せたので、東方は少しずつ事件も少なくなろうとしていた。順帝の陽嘉元年(132年)には、玄菟郡に屯田六部を置いた。質帝と桓帝の間には、またしても遼東と西安平を侵犯し、帯方令を殺して掠奪し、楽浪太守の妻子を取り上げた。建寧二年(169年)に、これを玄菟太守の耿臨が討ち、斬った首級は数百級、伯固は降服し、玄菟郡に属したいと乞うた。

注記
(※1)朝鮮
 朝鮮と言えば現在は朝鮮半島を指すことが多いが、当時は朝鮮半島北部から満州地域の南部付近を指す。朝鮮半島の南方は主に韓と呼ばれた。

(※2)濊貊
  わい は朝鮮半島中部の部族。濊という字は水が多いことを意味し、 と音が似ており居住地も近いことから、同系の種族とする説もある。貊は朝鮮半島北部の部族。豸(むじなへん)は古来ヘビを意味していたが、転じて むじな などの足が短く這いまわるような獣を意味する。濊貊は濊と貊を合わせることで、朝鮮に住まう部族を総じて指す。

(※3)沃沮
 朝鮮半島北部から中部の東方に在居する部族。いくつかに集団が分散しており、北沃沮や東沃沮などがある。詳細は後漢書東沃沮伝を参照。

(※4)夫餘
 朝鮮半島北部から大陸東北部の部族。詳細は後漢書東夫餘伝を参照。

(※5)夫餘から別れた種族
 三国史記東明王紀には、高句麗始祖の朱蒙が幼少期に扶余の王族に養育され、その後に兄弟から暗殺されそうになったことから南方に亡命したとの事跡が記されている。また、この記録は扶余国の建国神話と大略が同一であり、王の名も同じ東明である。

(※6)総じて五つの部族があり、『消奴部』『絕奴部』『順奴部』『灌奴部』『桂婁部』である。
 三国史記にも高句麗の部名は登場するが、中国史書の記録に基づく内容や引用以外では、同名の部名は登場しない。しかし、そこに登場する貫那部は『灌奴部』、桓那部は『順奴部』に比定されることがある。また、梁書東夷諸戎伝の高句麗伝には『消奴部』は『涓奴部』と記され、三国史記における沸流那に比定する説もある。

(※7)『相加』『対盧』『沛者』『古鄒大加』『主簿』『優台』『使者』『帛衣先人』
 これらの官名は三国史記の高句麗本紀には登場しない。但し、同書百済本紀には「優台」の名が扶余王の解扶婁の孫として名が登場し、高句麗始祖の温祚の父親とされている。

(※8)武帝
 前漢7代皇帝。

(※9)玄菟郡
 前漢武帝が朝鮮半島北部に設置した郡。設置経緯について詳しくは、史記朝鮮伝を参照。

(※10)鬼神、社稷
 鬼神は霊魂や神々、社稷は土地神を指す。

(※11)幘、冠幘、折風、弁
 幘は髷を覆い隠すための頭巾。折風と弁は頭の頂上に載せる形の冠。

(※12)王莽
 前漢から帝位を禅譲された新の初代皇帝。周辺民族の当地に失敗して一代にして滅亡した。

(※13)匈奴
 代表的な北方の騎馬民族。

(※14)遼西大尹の田譚
 遼西は中国北東部の地域。大尹は地方の長官を指す官名。

(※15)厳尤
 新の王莽に仕えた賢臣とされる。本来の姓名は荘尤であるが、後漢2代皇帝を劉荘といい、中国では当時の王朝の皇帝の諱の使用を避ける忌諱の思想があることから、荘の字を避けて厳尤と漢書で表記されたため、以後も厳尤という名が定着した。王莽麾下において先見の明を発揮する策を王莽や他の臣下にアドバイスするが受け入れられない、という役回りが漢書や後漢書には記される。後漢の光武帝と知己であると思わせる記述も存在する。

(※16)高句驪侯の騶
 騶は高句麗の始祖である朱蒙の『朱』や、その別称の鄒牟の『鄒』と同音であることから、これが朱蒙のことだとする説もある。ただし、朱蒙の事跡を記した三国史記の東明聖王紀には王莽についての記録はなく、二代王の瑠璃明王紀に登場し、ここで殺されたのは延丕という人物だとされている。

(※17)長安
 王莽が在居した新の首都。現在の中国陝西省西安市に相当する。

(※18)王莽の初め~掠奪はいよいよ甚だしくなった。
 この逸話は漢書王莽伝始建国四年の記事が初出。 (※18)光武帝
 後漢初代皇帝。王莽を打倒するために緑林軍という反乱軍に参加して活躍し、後に緑林軍の総大将として皇帝を称した更新帝や混乱に乗じて同じく皇帝を名乗った赤眉軍等と争い、最後に勝利して後漢王朝を打ち建てた。

(※19)蠶支落大加の戴升等
 三国史記閔中王紀にほぼ同様の記事が登場する。三国史記では『大加』がなく、そのことが文注でも触れられる。

(※20)右北平、渔陽、上谷、太原
 慕本王紀に同様の記事が登場する。

(※21)遼東太守の祭肜
 遼東郡は現在の中国遼寧省の東半分から朝鮮国の一部を含む後漢王朝の郡。太守は後漢王朝における郡の長官。祭肜は外交と軍事が巧みで、北方騎馬民族の烏桓、匈奴、鮮卑と駆け引きし、勢力を大きく削り取ったことで名声を得た人物。慕本王紀に同一事件の記事が登場する。

(※22)高句驪王の宫
 三国史記における太祖大王のこと。詳細は三国史記太祖大王紀を参照。

(※23)和帝
 後漢四代皇帝。

(※24)遼東郡
 大陸北東部に存在する郡。後漢末の混乱期には公孫氏が主に支配するようになり、東夷諸国との交易を牛耳った。後漢から魏に王朝が移ってからしばらくすると、当時の遼東太守であった公孫淵が燕王を名乗って独立し、王朝に反旗を翻したが、後に三国統一を果たす司馬氏の祖となる司馬懿によって攻め滅ぼされた。

(※25)太守の耿夔
 三国史記太祖大王紀にも登場する。

(※26)安帝
 後漢の六代皇帝。

(※27)玄菟郡
 前漢武帝が朝鮮半島北部に設置した郡。設置経緯について詳しくは、史記朝鮮伝を参照。

(※28)華麗城
 東沃沮の地域にあたる華麗県の城塞。三国史記でも、三国史記儒理王紀に名が登場する。

(※29)幽州刺史
 幽州は中国北東部を占める州。刺史は前漢(紀元前206年から8年)においては中央から地方に派遣された査察官、その役割は後漢(25年から220年)には州の首長に変化した。

(※30)遂成
 三国史記において太祖大王の次に即位した次大王。ただし、本文では太祖大王の「子」とされているが、三国史記では「弟」である。また、三国史記の遂成は太祖大王から王位を禅譲されており、即位した時点で太祖大王は生きているが、本文では太祖大王の死によって王位が移ったように記されている。詳細は、三国史記次大王紀を参照。

(※31)広陽、涿郡
 いずれも幽州の領郡。

(※32)功曹の耿耗、兵曹掾の龍端、兵馬掾の公孫酺
 功曹は郡内で採用される官吏。兵曹掾は軍内で指揮官を補佐する官職。兵馬掾は地域の軍事の総括者。

(※33)尉仇台
 三国史記温祚王紀には、東明王(ただし、これは扶余王のことではなく高句麗初代王の朱蒙のこと)の息子の名に仇台が登場する。

(※34)尚書の陳忠
 尚書令のこと。皇帝の文書官の総括責任者。大きな権力を有する。

(※35)伯固
 三国史記における新大王。ただし、本文では遂成の「子」とされているが三国史記では太祖大王と遂成の「弟」となっている。詳細は、三国史記新大王紀を参照。

(※36)順帝
 後漢八代皇帝。

(※37)質帝と桓帝
 後漢の十代、十一代皇帝。

(※38)西安平、帯方、楽浪  西安平は現在の中国と朝鮮国の国境となっている鴨緑江下流沿いにあり、帯方と楽浪は朝鮮半島付近の地名。

漢文
 高句驪、在遼東之東千里、南與朝鮮、濊貊、東與沃沮、北與夫餘接。地方二千里、多大山深谷、人隨而為居。少田业、力作不足以自资、故其俗節於飲食、而好修宫室。東夷相傳以為夫餘别種、故言語法則多同、而跪拜曳一脚、行步皆走。凡有五族、有消奴部、絕奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本消奴部為王、稍微弱、後桂婁部代之。其置官、有相加、对卢、沛者、古邹大加、主簿、优台、使者、帛衣先人。武帝滅朝鮮、以高句驪為縣、使屬玄菟、賜鼓吹伎人。其俗淫、皆洁净自熹、暮夜輒男女群聚為倡樂。好祠鬼神、社稷、零星、以十月祭天大會、名曰東盟。其國東有大穴、號禭神、亦以十月迎而祭之。其公會衣服皆錦绣、金银以自飾。大加、主簿皆著帻、如冠帻而無後。其小加著折風、形如弁。無牢獄、有罪、諸加評议便殺之、没入妻子為奴婢。其昏姻皆就婦家、生子長大、然後將還、便稍营送终之具。金银財币尽於厚葬、积石為封、亦種松柏。其人性凶急、有氣力、习戰斗、好寇鈔、沃沮、東濊皆屬焉。

 句驪一名貊、有别種、依小水為居、因名曰小水貊。出好弓、所謂貊弓是也。

 王莽初、发句驪兵以伐匈奴、其人不欲行、强迫遣之、皆亡出塞為寇盗。遼西大尹田谭追擊、戰死。莽令其將严尤擊之、誘句驪侯驺入塞、斬之、傳首長安。莽大說、更名高句驪王為下句驪侯、於是貊人寇邊愈甚。建武八年、高句驪遣使朝貢、光武復其王號。二十三年冬、句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬。二十五年春、句驪寇右北平、渔陽、上谷、太原、而遼東太守祭肜以恩信招之、皆復款塞。

 後句驪王宫生而开目能視、國人懷之、及長勇壮、數犯邊境。和帝元兴元年春、復入遼東、寇略六縣、太守耿夔擊破之、斬其渠帥。安帝永初五年、宫遣使貢獻、求屬玄菟。元初五年、復與濊貊寇玄菟、攻華丽城。建光元年春、幽州刺史冯焕、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等、將兵出塞擊之、捕斬濊貊渠帥、获兵馬財物。宫乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等、遣使詐降。光等信之、遂成因据险厄以遮大军、而潜遣三千人攻玄菟、遼東、焚城郭、殺傷二千餘人。於是发广陽、渔陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之、而貊人已去。夏、復與遼東鮮卑八千餘人攻遼队、殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌、戰殁、功曹耿耗、兵曹掾龙端、兵馬掾公孫酺以身扞諷、俱殁於陣、死者百餘人。秋、宫遂率馬韓、濊貊數千騎围玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人、與州郡并力討破之。斬首五百餘級。

 是歲宫死、子遂成立。姚光上言欲因其丧发兵擊之、议者皆以為可許。尚书陳忠曰、宫前桀黠、光不能討、死而擊之、非義也。宜遣吊问、因責讓前罪、赦不加誅、取其後善。安帝从之。明年、遂成還漢生口、詣玄菟降。詔曰、遂成等桀逆無状、当斬断菹醢、以示百姓、幸會赦令、乞罪請降。鮮卑、 濊貊連年寇鈔、驅略小民、動以千數、而裁送數十百人、非向化之心也。自今已後、不與縣官戰斗而自以亲附送生口者、皆與贖直、缣人四十匹、小口半之。

 遂成死、子伯固立。其後濊貊率服、東垂少事。順帝陽嘉元年、置玄菟郡屯田六部。質、桓之間、復犯遼東西安平、殺帶方令、掠得樂浪太守妻子。建宁二年、玄菟太守耿臨討之、斬首數百級、伯固降服、乞屬玄菟云。

書き下し文
 高句驪は遼東の東千里に在り、南は朝鮮、濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と ぎたり。 くに ひろさ 二千里、大山深谷 おほやまふかたに 多く、人は隨ひて すまひ つく らむ。田の なりはひ は少なく、力作 たがやす は以ちて自ら あづ かるに足らず、故に其の ならひ 飲食 をし をさ へ、而りて宫室 みや を修むるを好む。東夷 あづまゑびす は相ひ傳ふるに、以為 おもへ らくは夫餘の别つ うから 、故に言語 ことば 法則 のり に同じこと多く、而れども跪きの拜みは ひとつ の脚を き、行步 あゆみ は皆が走る。凡そ五つの やから 有り、消奴部、絕奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部有り。 もともと は消奴部は きみ を為すも、 やうや 微弱 よはまり 、後に桂婁部は之れに代ゆ。其の置きたる つかさ 、相加、对卢、沛者、古邹大加、主簿、优台、使者、帛衣先人有り。武帝は朝鮮を滅ぼし、高句驪 こま を以ちて縣 あがた と為し、使ひて玄菟に かせしめ、鼓吹 つつみふゑ 伎人 わざひと を賜ふ。其の ならひ は淫ら、皆が洁净 きよむ を自ら よろこ び、暮れの夜なれば すなは ち男女 をめ 群聚 むら がり倡樂を為す。鬼神 かみ 社稷 おほもとを 零星 ほし を祠るを好み、十月を以ちて あめ を祭りて大いに つど ひ、名は東盟と曰ふ。其の國の東に大穴 おほあな 有り、禭神と なづ け、亦た十月を以ちて迎へて之れを祭る。其の公會の衣服は皆が錦绣、金银以ちて自ら飾る。大加、主簿は皆が帻を かうむ り、帻を かうむ るが如くし、而れども後無し。其の小加は折風を かうむ り、形は弁の如し。牢獄 ひとや 無く、罪有らば、諸加は評议 はか りて便りて之れを殺し、妻子 つまご 没入 とりあ げて奴婢 しもべ と為す。其の昏姻 くがなひ は皆が をみな の家に就き、子を生みて長大 いこよか なれば、然る後に將に還らむとし、便りて やうや しまひ を送らむとするが もの つく る。金银財币は厚き とむらひ に尽くし、石を积 みて はか と為し、亦た松柏を ゆ。其の人の さが 凶急 わろし 氣力 いきおひ 有り、戰斗 いくさ なら ひ、寇鈔 あた を好み、沃沮と東濊は皆が焉れ きたり。

 句驪 こま は一 ある いは貊を名とし、别つ うから 有り、小水 をがは に依りて すみか つく り、因りて名は小水貊と曰ふ。好き弓を出し、所謂 いはゆる 貊弓とは是れなり。

 王莽の初め、句驪 こま いくさ はな ちて以ちて匈奴を伐たむとするも、其の人は行かむと おも はず、强いて迫りて之れを遣らむとすれば、皆が とりで を亡れ出でて寇盗 あた と為る。遼西の大尹の田谭は追ひ擊つも、 いくさ に死す。莽は其の いくさかしら の严尤に いひつけ して之れを擊たしめむとし、句驪の きみ の驺を誘ひて とりで に入らしめ、之れを斬り、首を長安に傳ふ。莽は大いに よろこ び、名を あらた めて高句驪の きみ を下句驪の きみ と為し、是に於いて貊の人は くにへ あた すること いよいよ はなは だし。建武の八年、高句驪 こま 使 つかひ を遣はして朝貢 みつき せしめ、光武は其の きみ よびな もど す。二十三年冬、句驪 こま の蠶支落大加戴升等の萬餘口 よろづたりあまり は樂浪に いた りて内に きたり。二十五年の春、句驪 こま は右北平、渔陽、上谷、太原に あた し、而りて遼東太守の祭肜は恩信 めぐみ を以ちて之れを招き、皆が款塞 たてまつ るに もど りたり。

 後に句驪 こま きみ の宫は生まれながらにして目を开きて能く視、國の ひとびと は之れに懷き、 けたるに及びたれば勇しく たけだけ しき、 いくたび 邊境 くにへのさかひ を犯す。和帝の元兴元年の春、 たも遼東に入り、六縣を寇略 あた すも、太守の耿夔は之れを擊ち破り、其の渠帥 かしら を斬る。安帝の永初五年、宫は使 つかひ を遣はして貢獻 みつき し、玄菟に かむと求む。元初五年、 たも濊貊と とも に玄菟を あた し、華丽城を攻む。建光元年の春、幽州刺史の冯焕、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷等は、兵を ひき ゐて とりで を出でて之れを擊ち、濊貊の渠帥 かしら を捕へ斬り、兵馬 いくさ 財物 たから る。宫は乃ち嗣子 あとつぎ の遂成を遣はして二千餘人 ふたちたりあまり ひき ゐせしめて光等に かへ し、使 つかひ を遣はして降るを いつは る。光等は之れを まこと とし、遂成は因りて险厄 けはしき りて以ちて大军 おほいくさ を遮り、而りて潜かに三千人 みちたり を遣はして玄菟、遼東を攻め、城郭 しろ を焚き、殺き傷けたること二千餘人 ふたちたりあまり 。是に於いて广陽、渔陽、右北平、涿郡の屬國の三千餘 みちたりあまり うまいくさ はな ちて同じく之れを救ひ、而れども貊の人は已に去る。夏、 たも遼東の鮮卑八千餘人 やちたりあまり と與に遼队を攻め、吏人を殺し をか す。蔡諷等は新昌に於いて追ひ擊ちするも、 いくさ に、功曹の耿耗、兵曹掾の龙端、兵馬掾の公孫酺は身を以ちて諷を まも り、俱に いくさ に於いて殁 に、死ぬ者は百餘人 ももたりあまり 。秋、宫は遂に馬韓、濊貊の數千 いくちたり うまいくさ を率ゐて玄菟を围む。夫餘の きみ むすこ の尉仇台を遣はして二萬餘人 ふたよろづたりあまり ひき ゐせしめ、州郡と力を并せて之れを討ち破りたり。首を斬ること五百餘級 いつをたりあまり

 是歲 ことし に宫は死に、 むすこ の遂成は立つ。姚光は ことば を上 たてまつ り、其の丧に因りて いくさ はな ち、之れを擊たむと おも ひ、 はか る者は皆が以ちて可許 よろしき と為す。尚书の陳忠曰く、宫は さき 桀黠 さかしき 、光は討つこと能はず、死にて之れを擊つは、義に非ざるなり。宜しく吊问 とむらひ を遣はして、因りて さき の罪を責讓 とが め、赦して つみ を加へず、其の後の よろしき を取るべし、と。安帝は之れに从ふ。明くる年、遂成は漢の生口 しもべ を還し、玄菟に いた りて降る。 みことのり に曰く、遂成等は桀逆 さかしま にして無状 のりなし 斬断 たちきり して すづけ ひしびしを にし、以ちて百姓 たみ に示すに当たるも、 さいはひ にして赦令 ゆるし に會ひ、罪を乞ひて降るを請ふ。鮮卑、 濊貊は年を連ねて寇鈔 あた し、小民 たみ を驅り うば ひ、動かすに千數を以ちてし、而りて裁き送ること數十百人、 おしへ に向かはむとするが心に非ざるなり。今 已後 のち あがた つかさ 戰斗 いくさ あづか らずして自ら亲しみ附くきて以ちて生口 しもべ を送る者は、皆が贖ひ直しに あづか り、 うすぎぬ ひとり 四十匹、小口は之れを半ばにすべし、と。

 遂成は死に、 むすこ の伯固は立つ。其の後に濊貊は おほむ ね服し、東は少なき事に なりなむ とす。順帝の陽嘉元年、玄菟郡に屯田六部を置く。質桓の間に たも遼東と西安平を犯し、帶方令を殺し、掠りて樂浪太守の妻子 つまご を得。建宁二年、玄菟太守の耿臨は之れを討ち、首を斬ること數百級、伯固は降り したが ひ、玄菟に かむと乞ふと云へり。



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