涇陽王

涇陽王

現代語訳

 涇陽王。諱は祿續、神農氏の子孫である。

 壬戌元年初、炎帝神農氏の三世孫にあたる帝明は、帝宜を生んだ。その後、南巡して五嶺までたどり着き、もてなしを受けて仙女を婺ることになり、王を生んだ。王は聡明で聖たる智慧を持ち、これを奇特と感じた帝明は、帝位を継がせようとした。王は固辞して自らの兄に譲り、奉命しようとはしなかった。こうして帝明は帝宜を後継ぎに擁立し、帆峰を統治させ、王を封じて涇陽王とし、南方を統治させ、その国を赤鬼国と號した。王は神龍という名の洞庭君の娘を娶り、貉龍君を生んだ。

(唐紀を紐解くと、涇陽の時、自ら洞庭君の若き娘だと名乗る羊飼いの婦人がいたという。涇川の次男に嫁いだが家を追い出され、柳毅と一緒に手紙を渡して洞庭君に上奏したそうである。つまり、涇川と洞庭は代々婚姻を重ね、現在に至るのだ。)


漢文

 涇陽王。諱祿續、神農氏之後也。
 壬戌元年初、炎帝神農氏三世孫帝明、生帝宜。既而南巡至五嶺、接得婺僊女、生王。王聖智聰明、帝明奇之、欲使嗣位。王固讓其兄、不敢奉命。帝明於是立帝宜為嗣、治北北、封王為涇陽王、治南方、號赤鬼國。王娶洞庭君女、曰神龍、生貉龍君。 (按唐紀、涇陽時有牧羊婦、自謂洞庭君少女。嫁涇川次子、被黜。寄書與柳毅、奏洞庭君。則涇川、洞庭世為婚姻、有自來矣。)

書き下し文

 涇陽王。諱は祿續、神農氏の後なり。
 壬戌元年初、炎帝神農氏の三世孫の帝明、帝宜を生ず。既にして南巡して五嶺に至り、接して僊女を婺るを得、王を生ず。王は聖智聰明、帝明は之れを奇し、位を嗣がせしめむと欲す。王は固より其の兄に讓り、敢へて奉命せず。帝明は是に於いて帝宜を立て嗣と為し、北北を治め、王を封じて涇陽王と為し、南方を治め、赤鬼國と號す。王は洞庭君の むすめ を娶り、神龍と曰ひ、貉龍君を生ず。
(唐紀を按ずれば、涇陽の時に牧羊婦有り、自ら洞庭君の少女と謂ふ。涇川の次子に嫁ぎ、 とさるる。書を寄こし柳毅と與に洞庭君に奏ず。則ち涇川、洞庭は よよ 婚姻を為し、來より有らむ。)

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