三国史記 儒理王紀

儒理尼師今

現代語訳

 儒理尼師今が擁立された。南解の太子である。母は雲帝夫人、妃は日知葛文王の娘(あるいは、妃の姓は朴氏で、許婁王の娘であるとも云われている。)
 南解が薨去し、儒理が王に擁立されようとしていたが、大輔の脫解に平素より徳望があったことを理由に推挙して王位を讓ろうとしたが、脫解は言った。
「神器大宝とは、凡庸な者に堪えるものではありません。私は聖人や智人には歯が多いと聞いています。餅を噛んで試してみましょう。」
 儒理の歯の筋目が多く、こうして左右はともに儒理を奉立し、尼師今と号した。
 古くからの言い伝えはこのようなものであるが、金大問は次のように言う。「尼師今は方言で、歯の筋目のことである。かつて南解の死の直前、長男の儒理と娘婿の脱解に「私の死後、お前たち朴氏と昔氏の二姓のうち、年長の者が王位を継ぐがよい。」と言い、その後に金姓も興隆したことから、三つの姓で歯と年長であることを理由として互いに王位を継承した。それゆえに尼師今と称するようになったのだ。」


漢文

 儒理尼師今立、南解太子也、母雲帝夫人。妃日知葛文王之女也。〈或云妃姓朴、許婁王之女。〉初、南解薨、儒理當立、以大輔脫解素有德望、推讓其位。脫解曰、神器大寶、非庸人所堪。吾聞聖智人多齒、試以餅噬之。儒理齒理多、乃與左右奉立之、號尼師今。古傳如此、金大問則云、尼師今、方言也、謂齒理。昔南解將死、謂男儒理壻、脫解曰、吾死後、汝朴昔二姓、以年長而嗣位焉。其後金姓亦興、三姓以齒長相嗣、故稱尼師今。

書き下し文

 儒理尼師今立つ。南解の太子 みこ なり。母は雲帝夫人、妃は日知葛文王の むすめ なり。〈 ある いは妃の姓は朴、許婁王の むすめ とも云へり。〉初め、南解薨じ、儒理の當に立たむとするとき、大輔の脫解の もと より德望有るを以て、其の位を推し讓らむとす。脫解曰く、神器大寶 きみのくらひ なみ の人の堪ゆる所に非じ。吾は聖智 さとしき 人に齒の多くあるを聞けり、試しに餅を以て之れを まむ、と。儒理の齒の あと 多く、乃ち左右 すけ とも に奉りて之れを立て、尼師今と號せり。古傳に此の如くあるも、金大問則ち云はふに、尼師今は方言なり。齒の あと を謂ふ。昔南解の將に死なむとするとき、 むすこ の儒理と むこ の脫解に謂ひて曰く、吾の死せる のち 、汝ら朴と昔の ふたつ の姓、年長を以てして位を嗣ぐべし、と。其の後に金姓も亦た興り、三姓の齒と いのちながき を以て相ひ嗣ぎ、故に尼師今を稱せり、と。

二年

現代語訳

 二年(25年)春二月、 みずか ら始祖廟を祀った。大赦した。


漢文

 二年春二月、親祀始祖廟。大赦。

書き下し文

 二年春二月、 みづか ら始祖廟を祀る。大赦す。

五年

現代語訳

 五年(28年)冬十一月、王が国内を巡行していると、飢え凍え死にそうになっている一人の老婆を見つけ、「 わたし はつまらぬ身にありながら高位に いま し、人民を養うこともできていない。老人や幼児がこのような極限の状態にあるのは、私の罪過である。」と言い、 ころも を脱いで彼女に覆せると、食事を薦めて彼女に食べさせ、重ねて有司に命じ、鰥(妻のいない男)寡(夫のいない女)孤(親のいない子供)獨(子のいない老人)老(老いた人)病(病んだ人)のうち自活できない者の住所の調査と慰問をさせ、彼らに配給をして養った。これによって、その噂を聞いて移住する隣国の百姓も数多く現れた。この年、民衆は歓喜し、風俗は安康し、はじめて兜率歌が つく られた。これが歌楽の始まりである。


漢文

 五年冬十一月、王巡行國內、見一老嫗、飢凍將死、曰、予以眇身居上、不能養民、使老幼至於此極、是予之罪也。解衣以覆之、推食以食之、仍命有司在處存問、鰥寡孤獨老病不能自活者、給養之。於是鄰國百姓聞而來者衆矣。是年、民俗歡康、始製兜率歌。此歌樂之始也。

書き下し文

 五年冬十一月、王、國內を巡行すれば、 ひとり 老嫗 をうな の飢え凍え將に死なむとするに まみ えて曰く、予は つまらぬ 身を以て上に いま するも、民を養ふこと能はず、老幼をして此の極に至らしむ、是れ予の罪なり、と。 ころも ほど きて以て之れに覆せ、食を推して以て之れに食はせしめ、仍りて有司に命じて、鰥寡孤獨老病の自活するに能はざる者を在處存問せしめ、之れに給ひ養へり。是に於いて鄰國の百姓の聞きて來たる者の かずおほ し。是の年、民俗歡康 よろこび 、始めて兜率歌を つく る。此れ歌樂の始めなり。

九年

現代語訳

 九年(32年)春、六部の名が改められ、そこで姓を賜った。楊山部は梁部、姓は李、高墟部は沙梁部、姓は崔、大樹部は漸梁部(一説には牟梁)、姓は孫、于珍部は本彼部、姓は鄭、加利部は漢祇部、姓は裴、明活部は習比部、姓は薛とした。また十七等の官位を設け、一に伊伐飡、二に伊尺飡、三に迊飡、四に波珍飡、五に大阿飡、六に阿飡、七に一吉飡、八に沙飡、九に級伐飡、十に大奈麻、十一に奈麻、十二に大舍、十三に小舍、十四に吉士、十五に大烏、十六に小烏、十七に造位。
 王は六部を定めた後、中を二つに分け、王女二人にそれぞれ女子を率いさせて、朋を分けて党を造った。秋七月の旣望から、每日早くに大部の庭に集まり麻を紡績し、乙夜になるまでそれをおこなう。八月十五日になると、その出来高の大小を考査し、負けた者は酒や食べものを差し出して勝った者に謝辞を述べる。この時に歌や舞、百戱のすべてが作られた。これを『嘉俳』という。この時、負けた家のひとりの女子が舞い踊りながら嘆き、「會蘇 アイソ 會蘇 アイソ 。」と言った。その音は哀しくも雅であったことから、後世の人はその声に因んで歌を作り、『會蘇曲』と名付けた。


漢文

 九年春、改六部之名。仍賜姓、楊山部爲梁部、姓李、高墟部爲沙梁部、姓崔、大樹部爲漸梁部、〈一云牟梁。〉姓孫、于珍部爲本彼部、姓鄭、加利部爲漢祇部、姓裴、明活部爲習比部、姓薛。又設官有十七等、一曰伊伐飡、二曰伊尺飡、三曰迊飡、四曰波珍飡、五曰大阿飡、六曰阿飡、七曰一吉飡、八曰沙飡、九曰級伐飡、十曰大奈麻、十一曰奈麻、十二曰大舍、十三曰小舍、十四曰吉士、十五曰大烏、十六曰小烏、十七曰造位。王旣定六部、中分爲二、使王女二人各率部內女子、分朋造黨、自秋七月旣望、每日早集大部之庭績麻、乙夜而罷。至八月十五日、考其功之多小、負者置酒食以謝勝者。於是歌舞百戱皆作、謂之嘉俳。是時、負家一女子起舞嘆曰、會蘇、會蘇。其音哀雅、後人因其聲而作歌、名會蘇曲。

書き下し文

 九年春、六部の名を改む。仍りて姓を賜り、楊山部は梁部と爲り、姓は李、高墟部は沙梁部と爲り、姓は崔、大樹部は漸梁部と爲り、〈一に牟梁と云へり。〉姓は孫、于珍部は本彼部と爲り、姓は鄭、加利部は漢祇部と爲り、姓は裴、明活部は習比部と爲り、姓は薛。又た つかさ を設くること十七等有り、一に曰く伊伐飡、二に曰く伊尺飡、三に曰く迊飡、四に曰く波珍飡、五に曰く大阿飡、六に曰く阿飡、七に曰く一吉飡、八に曰く沙飡、九に曰く級伐飡、十に曰く大奈麻、十一に曰く奈麻、十二に曰く大舍、十三に曰く小舍、十四に曰く吉士、十五に曰く大烏、十六に曰く小烏、十七に曰く造位。王旣に六部を定め、中分して二を爲し、王女二人をして おのおの 部內の女子を率いせしめ、朋を分けて黨と造り、秋七月の旣望より、每日早くに大部の庭に集まり麻を績み、乙夜にして む。八月十五日に至らば、其の功の多小を考え、負くる者は酒食を置きて以て勝者に謝す。是に於いて歌舞百戱皆 おこ り、之れを嘉俳と謂ふ。是の時、負くる家の ひとり 女子 をんな は舞を起こして嘆きて曰く、會蘇 アイソ 會蘇 アイソ 、と。其の音は哀しくも雅ならむ、後の人、其の聲に因りて歌を作り、會蘇曲と名づく。

十一年

現代語訳

 十一年(34年)、京都の地が裂けて泉が湧いた。
 夏六月、大洪水があった。


漢文

 十一年、京都地裂泉湧。夏六月、大水。

書き下し文

 十一年、京都の地、裂けて泉湧く。夏六月、大いに水あり。

十三年

現代語訳

 十三年(36年)秋八月、楽浪が北の辺境に侵犯し、朶山城を攻め陥した。


漢文

 十三年秋八月、樂浪犯北邊、攻陷朶山城。

書き下し文

 十三年秋八月、樂浪、北の くにへ を犯し、攻めて朶山城を陷せり。

十四年

現代語訳

 十四年(37年)、高句麗王の無恤が楽浪を襲撃して滅亡させ、その国の人五千人が投降しに来、六部に分居した。


漢文

 十四年、高句麗王無恤襲樂浪滅之、其國人五千來投、分居六部。

書き下し文

 十四年、高句麗王の無恤、樂浪を襲ひて之れを滅ぼし、其の國の人五千、 くだり に來、六部に分居す。

十七年

現代語訳

 十七年(40年)秋九月、華麗と不耐の二縣の人が共謀し、騎兵を率いて北の国境を侵犯した。貊国の渠帥 かしら が曲河の西に兵を待ち伏せさせ、これを敗った。喜んだ王は、貊国と よしみ を結んだ。


漢文

 十七年秋九月、華麗、不耐二縣人連謀、率騎兵犯北境。貊國渠帥以兵要曲河西、敗之。王喜、與貊國結好。

書き下し文

 十七年秋九月、華麗、不耐の二縣の人、連なり謀り、騎兵を率いて北の さかひ を犯さむとす。貊國の渠帥 かしら は兵を以て曲河の西に まちぶせ し、之れを敗れり。王喜び、貊國と よしみ を結べり。

十九年

現代語訳

 十九年(42年)秋八月、貊の かしら が猟をして鳥や獣を獲得し、これらを献上した。


漢文

 十九年秋八月、貊帥獵得禽獸、獻之。

書き下し文

 十九年秋八月、貊の かしら りて禽獸を得、之れを獻ず。

三十一年

現代語訳

 三十一年(54年)春二月、星孛が紫宮に現れた。


漢文

 三十一年春二月、星孛于紫宮。

書き下し文

 三十一年春二月、星孛、紫宮にあり。

三十三年

現代語訳

 三十三年夏(56年)四月、龍、金城の井に現れた。しばらくして暴雨が西北から来ると、五月に大風が木を抜いた。


漢文

 三十三年夏四月、龍見金城井。有頃、暴雨自西北來。五月、大風拔木。

書き下し文

 三十三年夏四月、龍、金城の井に あらは る。 しばらく 有りて、 はげ しき雨、西北より來たる。五月、大いなる風、木を拔く。

三十四年

現代語訳

 三十四年(57年)秋九月、王は体調がすぐれず、臣寮に言った。
「脫解の身は国戚に つら なり、位は輔臣で、頻繁に功名を著した。朕の二人の息子の才は、遠く及ばない。 わたし の死後、大位に即させよ。我が遺訓を忘れるでないぞ。」
 冬十月、王が薨去し、虵陵園內に葬られた。


漢文

 三十四年秋九月、王不豫、謂臣寮曰、脫解身聯國戚、位處輔臣、屢著功名。朕之二子、其才不及遠矣。吾死之後、俾卽大位、以無忘我遺訓。冬十月、王薨、葬虵陵園內。

書き下し文

 三十四年秋九月、王不豫 やまひ し、臣寮に謂ひて曰く、脫解の身は國戚に つら なり、位は輔臣に り、 しばしば 功名を著す。朕の ふたり むすこ は、其の才、遠く及ばざり。吾の死の後、大位に卽せしめ、以て我の遺訓を忘るること無れ。冬十月、王薨じ、虵陵園內に葬らる。

注記

尼師今

 新羅における王の称号として説明されている。読み方は、現代の日本語では「ニシキン」で、韓国語で「イサグム」であるが、伝統的には「ニスクム」「ニトクム」等とも読まれる。三國史記においては、他に尼斯今という表記が登場し、それ以外の新羅に関して触れられた文献や石碑等には、尼叱今、歯叱今、爾叱今、寐錦といった表記も存在する。
 また、これに類似する古代朝鮮の語として、中国の史書である周書では「鞬吉支」等と表記される「コニキシ」という語がある。これは百済において王を意味する語で、「ニシキン」と音が似ていることから何らかの共通性があるのかもしれない。

雲帝夫人

 他に雲梯夫人とも表記され、あるいは阿婁夫人とも表記される。雲帝と雲梯は同音の異表記であろう。本書ではここ以外での記録がまったくないが三国遺事においては、「迎日縣の西にある雲帝山には聖母がいて、旱魃に祈りをささげると天が応じた」と伝えられており、この聖母が雲帝夫人と推測されている。伝説的な雰囲気である。
雲梯夫人
雲梯夫人

日知葛文王

 儒理尼師今の王妃の父親である。「日知」が本人の名で、葛文王は役職名である。太陽の観測者というイメージをもたらす名であるが、よくわからない。

葛文王

 新羅における何らかの官位か職位の名であるが、三国史記雑志浿江鎭典では、新羅に存在していたが詳細の不明な官名の筆頭に挙げられている。ただ、三国史記を読めば、新羅王の父親や祖父等で本人が王位に就いていない者や、王妃の親等であることが多い。また、発掘された石碑等の記録によれば、「寐錦王」と「葛文王」の名がよく併記されており、同時代に並存した存在であることがわかる。寐錦王は※1の寐錦であり、尼師今である。ここから、かつての新羅における権威と権力の発動は一人の王に収斂されず、副王ともいうべき存在があったことが推測される。  ゆえに、かつての新羅では王の号を有する存在が並存していたが、王を唯一の存在とするのは中国文明の大義名分であり、新羅は徐々にそちらに基づく社会制度や記録が為され、寐錦王だけが王となり、三国史記の著された高麗の頃には、葛文王の意味も忘れられたのだと推察できる。

許婁王

 異説として挙げられている儒理尼師今の王妃の父親。許婁「王」とされているが、なんの王かわからない。新羅では儒理尼師今はまだ3代目であり、初代も2代目も許婁王ではないし、以後も許婁王は登場しない。高句麗や百済にも許婁王はいない。新羅5代王の婆娑尼師今の王妃の父親も「許婁」とされており、このあたりの記録がはっきりしないのだと思われる。また、そちらでは「許婁葛文王」と記録され、姓は金氏となっている。

大輔

 軍事、内政、外交を統括する家臣の最高位。宰相に相当する。

神器大宝

 隋書に登場し、帝位を指す。ここでは新羅の王位のこと。

鰥(妻のいない男)寡(夫のいない女)孤(親のいない子)獨(子のいない老人)老(老いた人)病(病んだ人)

 鰥寡孤独の出典は孟子であるが、これは律令制(唐以降の中国で採用された法律法令に基づいた中央集権的な統治制度)において法的に救済対象となる社会的弱者の総称。但し、この時点では中国でも律令制は成立していない。通常、古儒教において夫婦と親子は人の最低限の単位であり、個人という単位はこれに譲るものであった。逆に言えば、これを有さぬことは、個人において手足がないのと同様の障害者であり、ゆえに法的に重大な救済の対象となったわけである。ここでは、これに老いと疾病が加えられている。

旣望

 望は満月のこと。望月。よって、旣望は満月を過ぎた後のことをいう。

乙夜

 夜を五等分した五夜の第一。およそ午後9時から10時頃を起点として2時間程度。

嘉俳

 中秋の祝い事。秋夕。七夕と対になる。韓国では現在でも祝日で、大いに祝う。ハンガウィ。

朶山城

 現在の韓国京畿道安城市二竹面にあったという。

無恤

 高句麗3代王。大武神王。詳細は『高句麗大武神王紀』を参照。

華麗と不耐

 濊が治めていた県。楽浪郡に属す。この二県と魏志東沃沮伝に名が登場する。

貊国

 古代中国北東部から朝鮮半島北辺部にかけて居住していた民族。隣接していた濊とよく一からげに扱われ、濊貊とも称される。

渠帥

 かしら。集団の頭目。特に盗賊などの悪党の首魁を指す。

紫宮

 紫宮垣のこと。天を3つに分割した三垣の中垣。

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